9月28日「我が魂よ、主をほめよ」

詩篇講解NO146 「我が魂よ、主をほめよ」146篇1~10節                       

                                               仁井田義政 牧師

 ダビデの詩篇が終わり、146篇から150篇の5篇は、ハレルヤ詩篇と言われる所です。この最後の5篇の特徴は、最初と最後に「ハレルヤ!」という言葉が記されていることです。「ハレルヤ!」とはヘブル語の「主をほめたたえよ」という言葉です。この言葉は、世界のクリスチャンの共通語です。

★この詩人は、1節で「ハレルヤ!」「主をたたえよ」と言っています。そして「我が魂よ」と自分自身に魂からの賛美を命じています。口先のハレルヤではなく、2節にあるように「生きている限り」「命ある限り」主を賛美するのです。

★3節には「君主たちに頼ってはならない」と記されています。君主たちとは、王様や当時の政治家たちのことです。昨年選ばれた日本の最高権力者も今年まもなくその権力を失います。

しかし5節に「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は」と記されています。神様は、弱いヤコブを神の子「イスラエル」としてくださいました。

★主は、弱い立場にある人「しいたげられる人」を守り助けられる御方であることが7-8節に記されています。そこに記されている聖書の神は、弱い立場にある人を守られる神様です。

9節の終わりには「しかし主は悪者の道を曲げられる」とあります。それは犯罪者のことではありません。自分は正しく力があると思っている人のことなのです。そして10節で「その神様はとこしえまでも統べ治められる」と記されています。

★そして146篇の最後の言葉として「シオンよ」と呼び掛けています。シオンは文字的には地名であり、土地が神様をほめたたえることは出来ません。それは「シオン=エルサレム」に集まる礼拝者達への呼びかけなのです。そして最後にも「ハレルヤ!」と信仰に満ちた賛美を薦めています。

私達も主なる神を「たましい」の底から、ほめたたえて礼拝しましょう。

9月14日礼拝「人とは何者なのでしょう」

詩篇講解NO144 「人とは何者なのでしょう」144篇1節~8節                       

                                                    仁井田義政牧師

 この144篇も「ダビデによる」という表題がついています。その内容は、ダビデが人生の様々な戦いの中を生きて行くものです。70人訳聖書には「ゴリアテと戦う」という表題が付け加えられています。巨人ゴリアテとの戦いの時のことです。私達にも人生の戦いは数多くあります。今日は、そのダビデの信仰の真髄を見て行きましょう。

★1節に「主は、戦いの為に私の手と指を鍛えられる。」と記されています。ダビデがこの詩を書いた時、既に王様となっていたと思われます。ダビデがここに至るまでには、幾度もの戦いがありました。そしてこの詩を書いている時にも、外国人と戦っています。ダビデはそのような中で、少年の頃のゴリアテとの戦いを思い出しています。その時に用いたのは、小さな武器の石投げ器でした。それによって勝利したのです。

★その時の事を思い出しつつ、ダビデは「こんな息に等しい自分を、なぜ愛し守って下さるのだろう」と記しています。自分の弱さ、はかなさを自覚する者にとって、「神様の愛の不思議」なのです。それはどう考えてもわからない愛なのです。神様の愛の深いミステリーなのです。

★1~11節までは、「私」という言葉だけが13回出てきます。ダビデ自身が神様を信頼している証拠です。その信頼があればこそ、12節からの「私達」という祈りに移っていけるのです。「私の」そして「私達の」と祈れる者が「幸いなことよ、主をおのれの神とする民」と祈れるのです。

★ダビデは幾度も襲い掛かる人生の戦いの中で「ほむべきかな、我が岩である主。主は戦いの為に私の手を、いくさの為に私の指を鍛えられる」と祈り出しています。「手」「指」は、明らかに巨人ゴリアテとの戦いの思い出であると思われます。神様は、少年ダビデの小さな手と細い指を用いて、3メートル近くのゴリアテに勝利を与えられたのです。「人はなに者なのでしょうそして「私は何者なのでしょう。私を主が顧みられるとは」と、ただ驚くばかりなのです。それが信仰です。

私達も、息のような存在でも人生の戦いに勝利しましょう。

8月31日「絶望の中での希望」

詩篇講解NO143「絶望の中での希望」143篇1~6節

                        仁井田義政牧師

 この詩篇には「ダビデの賛歌」という表題がついていますが、70人訳ギリシャ語聖書には「息子が彼を追跡したとき」という副題がついています。それに従えば、自分の息子アブシャロムに王位を狙われ、命を狙われた時に書かれた詩であることがわかります。この詩は、彼が「絶望の中で希望」を見出したことを記しています。それは、どのような希望なのでしょうか。

★ダビデの生涯の中で最大の罪は、家来のウリヤの妻バテシェバを奪ったことでした。しかも自分では直接手を下さず、ウリヤを激戦地に遣わして戦死させたのです。バデシェバは夫のいない寡婦となり、ダビデ王の妻にしたのです。それは、神様の前でダビデの最大の罪でした。神様はその罪を預言者ナタンによって指摘させました。その時、ダビデは悔い改めました。

★やがてダビデ家の子供達に、王位継承をめぐっていざこざが始まりました。長男のアムノンはアブシャロムに殺害され、アブシャロムは次の王は自分だと思っていました。しかし父親のダビデは、彼はふさわしくないと思っていたのです。その為にダビデは三男のアプシャロムに命を狙われました。この詩は、その時の詩だろうと言われています。

★ダビデは、この事を自分の罪の結果であると思っていました。それは自業自得で神様に助けを求めて祈る資格がないと思っていたようです。それがダビデの絶望でした。しかし、ダビデは神様に「しもべを裁きにかけないでください。生ける者に義人はひとりもいません」と神様に詰め寄りました。この言葉は、使徒パウロがローマ書3章10節で引用しています。

★私達も、自分の至らなさのゆえに落ち込むことや、悩み苦しむことがあるでしょう。自業自得ゆえの悩みです。しかしダビデは自分の正しさにではなく、神様の正しさに「神の義」に希望をつないだのです。神様が「私が許すと言って下されは、どんな罪人でも許されます」という祈りです。またそれは「あなたの名のゆえに」(11節)という言葉でも表わされる祈りです。それは、絶望の中からの希望を引き寄せる祈りです。

私達もたとえ絶望的な中にあっても、神の義と神の名によって、希望と救いを得ましょう。

8月24日礼拝「八方ふさがりの時の祈り」

詩篇講解NO142「八方ふさがりの時の祈り」142篇1~7節

                        仁井田義政牧師

この詩は、表題には「ダビデのマスキール。彼が洞穴にいた時に。祈り」とあります。ダビデはサウル王に追われて洞穴に身を隠しました。そこでは、漆黒の闇に身を隠す以外に一本のろうそくさえも灯すことが出来ないのです。光を灯すならば直ぐに敵に見つかってしまうでしょう。まさにどん詰まりの暗い体験でした。どこにも抜け道の見出せない暗黒の体験でした。

★そのような洞窟でダビデがしたことは、洞窟の岩をも通過する神様への祈りでした。ダビデの命を取ろうとして、追ってきたサウル王とその最強軍に対して、ダビデは暗闇に身を隠しているしかないのです。しかしダビデは洞窟で震えているだけの人ではありませんでした。ダビデの心は、厚い岩山を通過して、天におられる神様に向いていたのです。

★ダビデは、しっかりと「主に向かって」(1節)祈り始めました。その祈りは「神様に、声をあげて叫ぶ祈り」でした。その祈りは「神様に嘆きを注ぎ出す」祈りでした。その祈りは「自分の苦しみを言い現す」祈りでした。

★ダビデは、神様を信じていることが、この地上での最高の財産であると祈っています。ダビデは「自分が苦しみから逃れられればそれで良い」との祈りをしませんでした。ダビデは「私があなたの御名に感謝するようにしてください」と祈ったのです。私の救われた体験で「人々が私の回りに集まるでしょう」と、神様への礼拝が始まることを予想して、祈っているのです。

★私達もダビデと同じように「抜け道も見つけられず、真っ暗な洞窟に閉じ込められてしまったような体験をするかもしれません。孤独と絶望に震えうずくまって、一歩も動けないような体験をするかもしれません。たとえそのような八方ふさがりの暗闇の中にあっても、ダビデのように神様に信仰の目を向けましょう。神様は、その祈る人に目を注いで助け出されるのです。助け出された後はどうするのでしょうか。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」人になってはなりません。神様を礼拝し賛美する人になりましょう。誰が何と言おうと、神様を信じる人になりましょう。

8月10日礼拝「悪の世にあっても」

詩篇講解NO140「悪の世にあっても」140篇1~13節

                         仁井田義政牧師

 この世は、なんと悪に満ちていることでしょうか。私のところにも、毎日何十通もの詐欺メールが届きます。詐欺の電話もかかってきます。マタイ24章3~13節には、イエス様は「世の終わりには悪がはびこる」と言っておられます。このイエス様の言葉は、マルコ・ルカの福音書にも出てきます。私達は悪が増大している現代において、どのように生きるべきかを今日の詩篇140篇から学びましょう。

★ダビデの周りには、悪い人達が沢山いました。私達の周りにいる悪い人達とは、比べられない程です。ダビデは、7~8年もサウル王に命を狙われ続けました。またダビデには、ペリシテ人をはじめ多くの敵がいました。さらには、自分の息子アブシャロムにまで、王位と命を狙われたのです。

★私達の生活の場にも、悪意に満ちた人々はいます。ダビデの周りにも、蝮(まむし)の毒のような舌をもっている人々がいました。蝮の毒は死をもたらすのです。ダビデはそのような時神様に祈り、守って頂くことを選択しました。そして悪者が地上に栄えないように祈りました。

★ダビデは、神様が悩む者や貧しい者の為に、正しい裁きを行われる方と知っていました。悩む者や貧しい者とは、自分で仕返しのできない人達のことです。神様は、そのような弱い立場の人の祈りこそ、フォーカスして聞いてくださるのです。ですから、悪人に立ち向かう最高の方法は、神様に祈ることだと知りましょう。

★世界では、リバイバル(キリスト教の驚異的拡大)が起こっています。そのリバイバルが著しい所は、アフリカです。アルジェリアは、イスラム教の強い所です。しかしそこでキリスト教が爆発的に成長していると報告されています。アジアのイスラム圏のインドネシアでも、リバイバルが起こっています。リバイバルが起こった町や地域では、犯罪の低下も見られています。

あなたも、世の悪を感じたら、祈りを聞いて下さる主に祈り、主の正しい裁きを待ちましょう。

8月3日礼拝「闇さえも暗くはなく」

詩篇講解NO139「闇さえも暗くはなく139 篇1~12節2025年8月3日

                         仁井田義政牧師

 今日の139篇は、神様の御業の壮大さを記している詩です。その壮大さは宇宙というマクロの世界からミクロの世界まで、神様は知っておられるということです。神様の全知、全能、遍在、救済のことについてまで記されています。12節に「あなたにとっては闇も暗くはなく」という言葉があります。

★神様の全知性とは、全ての事を知っておられるということです。私達は、自分のことすら一部分しか知りません。しかしダビデは「神様は私の全てを知っておられ、言葉が口から出てくる前の、脳で考え言語に作り始めた時から知っておられる」というのです。

★神様の遍在性とは、神様は何処にでもおられるということです。私達は悩みの時に「神様は一体どこにおられるのか」と言ったりします。しかし神様は、どこにでもおられるのです。神様にとっては「闇も暗くはない」と記されています。私達が悩みの暗闇に捕えられ、人生の先が見えず悩む時にも、神様はあなたと共におられます。それゆえに希望があるのです。

★神様は宇宙を無から生じさせ、人間は、母の胎の中の一個の細胞から60兆個の細胞になり、その細胞ひとつには30数億の遺伝子情報が組み込まれています。それが私達のゲノムで、私達の設計図なのです。そのような神様の全能性によって、私達は造られ存在しているのです。

★神様の奇跡的な御業によって、私達は存在しているのに、神様を信じないで悪く言う人もいます。彼らは「みだりに御名を口にします」とは、神様を馬鹿にして、あざ笑うことです。ダビデも、そのような言葉に心が傷つくことがありました。そのような傷が私の内にあるならば、癒して真っ直ぐな道に戻してくださいと祈っています。

★神様は「全知・全能・遍在」です。その御方が、私達の信じる聖書の神様です。神様は、私達のことを私達が知らない領域まで知っておられ、私達を助け、守り、救って下さるのです。私達を愛し、私達を思いやり、私達の知らない領域の問題の原因まで知っておられます。その主を心から信じましょう。

7月20日礼拝「あなたは私に力を与えられた」

詩篇講解NO138「あなたは私に力を与えられた」詩篇138篇1~8節    

                         仁井田義政牧師

 ダビデの名がついた詩篇が73篇あります。その多くは、ダビデの作であろうと思われます。それゆえに、ダビデの名がついた詩篇には、個人的な内容が多く出てきます。

★ダビデは「私は心を尽くしてあなたを賛美します」と、主に賛美と感謝を捧げています。私達は、私達の口からどれほど神様への賛美と感謝の言葉が出ているでしょうか。気をつけないと、不平不満や嘆きの言葉が多くなってしまうのです。またダビデは「聖なる宮に向かってひれ伏す」と言っています。それは神様への絶対信頼を表わしています。

★ダビデは「私が呼んだその日に、あなたは答え、私の魂に力を与えてくださった」と記しています。その個人的な体験は、4節で「地のすべての王達はあなたに感謝しましょう」と続いています。つまり、世界の支配者にまで広がって行くと言うのです。それは5節で「あなたの御言を聞いたからです」と言及しています。御言を信じた者は、自分の体験となるのです。

★6節で「まことに、主は・・・低い者を顧みてくださいます」「私が苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かして下さいます」と体験的に記しています。私達も、このように神様を信頼したいものです。

★この世は天国ではありません。ですから人生には、苦しみがつきものなのです。しかしたとえそうであっても、神様は「右の手で私を守って下さる」のです。右の手とは「全力で」という意味です。なんと力強く、地に足の着いた詩でしょうか。聖書は、神様を信じたら何一つ苦難に遭うことがないとは約束していません。箴言24章16節に「正しい者は七度倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる」とあります。第16代アメリカ大統領エイブラハム・リンカーンは、いつもこの御言を告白し、難しい使命を成し遂げたと言われています。

私達も困難や苦しみの中でも、神様に感謝と賛美のできる強い人にして頂きましょう。

7月13日礼拝「バビロンでの嘆きの詩」    

                         仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、非常に感情的な詩です。現実の戦争は、残虐であり、激しい感情がぶつかり合い、憎しみの火花が散る地獄です。イスラエルの南王国ユダは、紀元前587年、新バビロニア王国のネブカドネツァルによって滅ぼされました。その時、ゼデキヤ王の子供達は目の前で殺され、王の両目はつぶされ、鎖につながれて、バビロンに連れて行かれました。その時の捕囚人数は約1万人です。この詩は、そのような時代背景の中で作られたものであることを踏まえて、読まなければなりません。

★ハビロンの地に捕らえ移されたイスラエルの民達は、二つに分かれました。奴隷の地で、その地の豊かさに心惹かれ、支配者におもねる人々と、頑として信仰を貫く人々です。ペルシャがバビロンを倒し、イスラエルの人々が解放された時、10部族が自らバビロンに残ることを選んだのです。

★この嘆きの詩は、信仰を守り通した人の歌です。彼がハビロンで苦しんだのは、神の名が汚されていることでした。ハビロン人達は「戦争に負けたお前の神は何処にいるのだ」「お前たちの神を讃える歌を歌え」と言ってあざ笑ったのです。イスラエル人の多くはその屈辱に屈して、ハビロン人と同化していきました。そのような中で、この詩人は「私は忘れない」と信仰を告白しているのです。

★7~9節は、憎しみの詩です。エドム人は、バビロン軍と一緒にエルサレムを攻撃しました。このエドム人の子孫が、イエス様時代のヘロデ大王なのです。彼は、ユダヤ人から王が出ることを恐れていました。その時、東方の博士達が「ユダヤ人の王は何処に生まれましたか」と言って訪ねて来ました。(マタイ2:1~3)今日の詩篇から587年も経ったイエス様の時代になっても、ヘロデ大王はイスラエル国民の仕返しを恐れたのです。そうして2歳以下の男の子を皆殺しにしました。

★戦争は両国に大きな傷を残します。平和な時に「戦争は絶対に良くない」と言うのは簡単です。しかし戦争になりそうな時「戦争は良くない」というのは非常に難しいのです。私達は、戦争がないこの時代に「戦争は絶対悪である」と主張し、戦争に反対し、平和を祈りましょう。

詩篇講解NO137詩篇講解NO137「バビロンでの嘆きの詩」詩篇137篇1~9節    

                         仁井田義政牧師

7月6日礼拝「主の恵みはとこしえまで」

詩篇講解NO136「主の恵みはとこしえまで」詩篇136篇23~26節    

                         仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、繰り返しの多い詩です。文学的な見地からすれば、美しさの枠から外れてしまうかもしれません。それは、ひたすら同じ文の繰り返しだからです。しかしこの詩は別名を「大ハレル」と呼ばれています。この詩は、礼拝を通して苦しみの中にある人に希望と勇気を与えます。

★まず1~9節までは、天地万物の創造者であられる神様に感謝する内容です。1節では感謝の理由を「主はまことにいつくしみ深い」方と言っています。いつくしみとは、神様の愛のことです。第二の理由は、神様が天地万物の創造者だからです。水も太陽も星も、神様の恵みによって造られたのです。決して偶然ではありません。この創造に、神様の英知と恵みが溢れています。

★1~22節までは、エジプトからの救出を神様に感謝する内容です。詩人は、出エジプトからバビロン捕囚期後までの歴史に言及しています。11節には「イスラエルをエジプトの真ん中から連れ出された」と記されています。約束のカナンの地に入ってからも、先住民とのいざこざが長い間続きました。しかし「主の恵みはとこしえまで」と繰り返すのです。

★23~26節までは、詩人の苦しみの体験です。詩人は自分の現在のことを「卑しめられた」「敵から」「食物を」と、経済的なことまで記しています。しかし神様は、天地創造から今まで、恵み深いお方であったと感謝しているのです。それゆえに、自分が今どのような状況にあろうとも、主の恵みが私の上にとこしえにあると言っているのです。

★詩人には、聖書の神による天地創造から現在までの歴史観がありました。その歴史には、人間が存在していなかった天地創造の時から現在に至るまで、神様がどのようなことをして下さったかの歴史観があったのです。ですから「卑しめられた体験」と「つぶしてしまおう」とする体験と、「食べ物の不足」を体験しても、その現実の苦しみにさえも希望があると告白し「主の恵みはとこしえまで」と、この詩を締めくくるのです。私達もどんな苦境にあったとしても、「主の恵みはとこしえまで」と感謝し、力強く生きていきましょう。

6月29日礼拝「ハレルヤ!主をほめたたえよ」

詩篇講解NO135「ハレルヤ!主をほめたたえよ」詩篇135篇1~8節    

                         仁井田義政牧師

今日の詩篇は「ハレルヤ!」で始まり、終わりの方には、何ヶ所にも「主をほめたたえよ」との薦めが記されています。真の信仰とは「主をほめたたえることである」と言わんばかりです。神殿での礼拝のための「都上りの歌」は、134篇で終わっています。しかしなお詩篇は「主をほめたたえよ」と繰り返し薦めています。それほどまでに、信仰には「主をほめたたえる」ことが大切なのです。

★ハレルとは「ほめたたえよ」という意味で、「ヤー」はヤーウェの短縮形です。聖書時代の信仰者は、神の御名をみだりに口に出すことを恐れたのです。それは出エジプト記20章7節に「主の名をみだりに唱えてはならない」と記されているからです。また聖書を読んだり祈ったりする時も、神の御名の所に来ると、人々は「アドナイ=主」と発音したのです。              

★詩篇135篇の作者は、「主の家で仕える」人にも賛美を薦めています。それは、牧師に「聖書を読みなさい」「祈りをしなさい」というのと同じです。そして礼拝に来られた一般の礼拝者にも、全ての信仰者に神様への賛美が薦められているのです。

★賛美の理由は、神様の救いにあります。1~4節には「主はまことにいつくしみ深いからである」と、5~7節には「神様が自然を支配されているからである」と、そして8~14節には「神様は救出の神だからです」と、さらには15~18節には「神は人間の作った偶像などではないからです」と記されています。それゆえに、神様は賛美を受けるに最もふさわしい御方であるのです。

★続いての19~21節までは、賛美への誘いのオンパレードです。この所では全聖職者集団と、全礼拝者に呼びかけています。礼拝においては聖職者も信徒もないのです。私達は、礼拝において主をほめたたえる時を最も大切な時としましょう。聖霊に満たされて、主をほめたたえるのです。その時、救いが起こり、癒しが起こり、奇跡が起こるのです。主は「賛美を住まいとしておられるからです。」私達は心から主を賛美しましょう。