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受難週礼拝「父よ、彼らを赦したまえ」ルカ23章33~38節

受難週礼拝「父よ、彼らを赦したまえ」ルカ23章33~38節 

                         仁井田義政 牧師 

 今日は、受難週の始まりの日です。今日からクリスチャン達は、御受難のイエス様と共に一週間を歩むのです。今日はイエス様が十字架で話された7つの言葉の中から、「父よ。彼らを赦したまえ」という祈りの言葉を中心にお話し致しましょう。

★十字架の前に集まった人々の中には、イスラエルの指導者や一般民衆、犯罪者、ローマの兵隊もいました。日曜日にイエス様が城門を入られた時には「ホサナ!主よ、いま救って下さい」と叫んだ人々も、「イエスを殺せ」と言う人に変っていました。イエス様と同じ民族の指導者達は、イエス殺害が確定したことを喜んでいました。またローマの兵隊は、植民地さえ平和になれば、イエスの生き死になどどうでも良い!と思っていました。

★十字架の前にいた人々は「イエスなど必要ない」「私達に百害あって一利なし」と思って、十字架の前でイエス様に罵声を浴びせていました。人々にはイエス様がなんと不甲斐ない人のように見えたことでしょう。ローマの兵隊には十字架刑など日常のことなので、イエス様の死を待つ時間に飽きて、くじ遊びをしていたくらいなのです。

そこには神様からも捨てられたイエス様の姿がありました。

★ここであなたが十字架に付けられているとします。そのあなたに、群衆の容赦ない嘲りが続いているとします。私達はその群衆を呪わないでしょうか。イエス様は「父よ。彼らを赦したまえ」と祈られたのです。自分の為ではなく、自分を殺そうとしている人々の為に祈られたのです。ここに、イエス様の偉大な愛があります。

★かつてイエス様は、弟子達に「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえと祈りなさい」と教えられました。イエス様は私達に教えられた祈りを、十字架の上で祈っておられるのです。この祈りを聞いた群衆は、自分には関係のないことだと思って去って行きました。あなたも、去っていくその一人になりますか。あなたはこのイエス様の祈りに、イエス様の十字架の愛を知って、イエス様を信じる人になりましょう。

3月22日礼拝「真実を話す日常生活」5章33~37節 

マタイ講解NO17「真実を話す日常生活」5章33~37節 

                         仁井田義政 牧師 

 今日のイエス様の御言は、禅問答のようで、何を言われているのか、わかったようでわからない所です。わかったように思うのは、「誓ってはいけません。」との言葉です。しかし誓わないで約束が成立するのでしょうか。読み直してみると、約束が必要ないと言っているのではなさそうです。

★ここでの「誓」とは、そのあとの文の続きによって、神様の名にかけて誓うことであることがわかります。「私は潔白です。天地神明にかけて私はやっておりません」という人がいます。日常会話で「天地神明にかけて」という言葉が出る時には、相手に疑われている状況があるわけです。

★その薄い信用度を神の名を使って補強し誓ってはならないという教えなのです。「天を指して誓ってはならない。そこは神の御座だから。地を指して誓ってはならない。そこは神の足台だから。エルサレムを指して誓ってはならない。そこは偉大な王の都だから。頭を指して誓ってはならない。髪の毛一本すら自分の思うままには出来ないのだから」とイエス様は言われました。それは軽々しく神の名を出して誓ってはならないということなのです。

★この教えは、マタイ5章20節の「あなたがたは、律法学者、パリサイ人の教えに優るものとならなければなりません」の教えの続きなのです。律法学者やパリサイ人は、神の名でよく誓うが、あなたがたはそうであってはいけませんということです。それは、モーセの十戒の「神の名をみだりに唱えてはならない」との言葉につながる注意でもあるのです。

★来週から受難週が始まります。イエス様は、ローマ総督ピラトの前で尋問を受けられました。ピラトは、イエス様の答え如何によっては、イエス様の十字架刑を許そうと考えたのです。そしてイエス様に「あなたはユダヤ人の王なのか」と尋ねました。イエス様は「あなたの言うとおりです」(マタイ27:11)と応えられました。言葉を濁されれば良かったのです。しかしイエス様は、はっきりと「はい、そうです」と言われました。その為に十字架刑が決定しました。私達もイエス様に倣って、日常生活の中で真実を話す人になりましょう。

3月15日礼拝「罪は心の中から始まる」

マタイ講解NO16罪は心の中から始まる」5章27~32節 

                         仁井田義政 牧師 

 今日の御言は、読む人をギョッとさせます。「あなたの右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。あなたの右の手があなたをつまずかせるなら切って捨ててしまいなさい」と記されています。その言葉の真意は、何なのでしょうか。

★イエス様は「姦淫してはならない」と異性問題について教えられました。姦淫とは結婚以外の性のことです。「情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」とは、欲望を満たすために凝視し続けることのことです。

★そのようなことは、相手の人に対して罪である以前に、神様の前に罪なのです。「つまずかせる」という言葉がそれを表わしています。あなたが信仰の道に石ころを置いたとします。その石ころにあなたが躓いて転び、真っ直ぐに歩けなくなってしまうという意味なのです。

★「ゲヘナに投げ込まれる」は、ヘブル語の「ガイ・ヒノム=ガイは谷」を訳した言葉です。その谷は、むかし異教の神モレクに子供を焼き殺して捧げた凄惨な儀式が行われていた所です。紀元前666年頃に、ユダ王国の第16代ヨシヤ王によって「汚れた場所」とされました。それからは病死した動物や身内のない死体、エルサレムの生ごみが捨てられる場所となったのです。そこから地獄のイメージとなりました。

★31~32節は、弱い立場にあった女性達を離婚から守るための教えでした。男性が女性を気に入らなければ、離婚状を書けばすぐに離婚ができた時代です。しかし女性からは離婚の申し立ては出来ませんでした。日本も「三行(みくだり)半」が廃止されたのは、153年前の明治6年なのです。法律に「協議離婚」と「裁判離婚」の制度が取り入れられました。明治の西洋化の波に乗ってのことでした。西洋化とは、聖書の教え化でした。

★イエス様は「罪は心の中にある」と言われました。パワハラ・セクハラは相手に対しては勿論のこと、神様に対しての罪なのです。私達は、イエス様が山上で教えて下さった男女平等の優れた教えを大切にしましょう。

3月8日礼拝「言葉と思いの殺人」

マタイ講解NO15「言葉と思いの殺人」5章21~26節 

                         仁井田義政 牧師 

 今日のイエス様の教えは、特に現代に生きる私達への大切な教えとなっています。この教えは、先週話しました「律法学者やパリサイ人への教えに優る教え」となっています。

★「殺してはならない」という律法を、パリサイ派の人々は「私は人を殺していないからセーフ」と考えます。しかしイエス様は「兄弟に腹を立てる者」「能なし」「馬鹿者」と言う人は「殺してはならない」という律法に対して違反になると言われています。それは、そのように言う人は、神の作品である人間に対して言っているので、神への反逆となるのです。

★他の人や兄弟や家族と衝突があった場合は、即座に和解に努めることが大切ですということです。イエス様は、礼拝の前に緊急に和解しなさいと教えておられます。

★なぜ、迅速に和解しないといけないのでしょうか。それは、現代的に言うならば「アンガー・マネージメント」です。怒りを自分で支配しなければ、怒りに自分が支配されることになります。まずイエス様は「神と人への愛が律法全体にかかっている」と言われました。それなのに愛と反対の「怒り」に満たされてしまっているならば、相手より自分の心を破壊してしまっているのです。怒りは心だけでなく、心臓や内臓、血圧に悪い影響を与えます。エペソ4章26~27節には「怒ることがあっても罪を犯してはならない。悪魔に機会を与えてはならない」と記されています。

★「殺してはならない」という言葉で始まった今日の御言は、私達人間の言葉の暴力が、直接殺人に手を下さなくても、殺人の罪であると言っています。SNSによって誹謗中傷されて自殺してしまった人が、警察庁発表では過去3年間に101人もいました。イエス様は「怒りや、悪口は人殺しの罪である」と教えて下さっています。悪魔に機会を与えないために、怒りを感じたら、怒りを支配し沈めましょう。何か争いごとになっていたら、急いで和解する人になりましょう。

3月1日礼拝「律法の完成は愛と喜び」5章17~20節 

                         仁井田義政 牧師 

イエス様が宣教を開始されると、直ぐにユダヤ教の指導者達に危険人物とみられるようになりました。律法を守っていない漁師や取税人や病人までを受け入れていたからです。

★今日の聖書の箇所は、5章16節の「良い行い」と繋がっています。当時「良い行い」とは「律法を守ること」だと誰もが直感することでした。その律法は、613箇条もありました。「その律法を守れない罪人達や、律法を全く知らない外国人までを集めるとは何事か!」と批判されたのです。

★その批判に対して、イエス様は「私が来たのは律法を廃棄するためではなく、成就(完成)するために来たのです」と言われました。さらに「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画も決してすたれることはありません」と言われました。また「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に入れません」と言われました。これは律法学者、パリサイ人への強烈な皮肉であり、批判でした。

★それでは「律法の成就(完成)」とは何でしょうか。それをイエス様はマタイ22章34~40節で「神を愛すること。隣人を愛すること」の2つの愛にまとめられました。そして「律法全体はこの2つの戒めにかかっている」と言われました。ギリシャ語では「ぶら下げられている」という意味なのです。つまり「愛」というフックが外れると、バラバラに落ちてしまうのです。

★それではどのようにしたなら「愛による戒め」に変えられるのでしょうか。それは、ヨハネ第一の手紙4章10節の中に「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」と書かれています。つまり神様の愛を知ることです。そこには、恐怖ではなく愛と喜びがあります。

私達は、律法学者やパリサイ人のように恐怖に生きるのではなく、愛と喜びによって生きましょう。