Monthly Archives: 3月 2023

3月26日礼拝「雪よりも白く」

詩篇NO51「雪よりも白く」51篇5~13節       

仁井田義政 牧師                              

 この詩は、ダビデ王の生涯中で最も他人には知られたくない事が記されています。それは表題に記されているように、ウリヤの妻バテシェバとのことです。ダビデ王は、サウル王に命が狙われる苦労の時代が終わり、富も地位も手にした時、傲慢になって大きな罪を犯してしまったのです。51篇はその罪の悔い改めの詩篇です。

★ダビデが51歳頃のことです。バテシェバとのことは、第二サムエル記11章に記されています。ある日の夕暮れ、ダビデが王宮の屋上を歩いていると、一人の美しい女性が水浴しているのが見えました。その人は、家来の妻バテシェバでしたが、王宮に招き身ごもらせてしまったのです。ダビデはその罪を隠すために、バテシェバの夫ウリヤを激戦地に送って戦死させ、彼女を妻として迎えるのです。それは完全犯罪のはずでした。

★しかしダビデの所に預言者ナタンが来て、ダビデが隠していた罪を指摘したのです。そのことは第二サムエル12章に記されています。罪を隠しているダビデは、人々には良い人に見えました。夫を失って経済的基盤を失った女性を妻としたからです。しかし、人には隠せても神様の目には隠すことはできませんでした。預言者ナタンが激しくその罪を指摘すると、ダビデは全ての罪を神様に告白したのです。

★ダビデは「自分の背きの罪を知っている」(3節)と告白しています。そして神様からどんな罰を与えられても、神様が正しい(4節)とその罪の大きさを認めています。しかしダビデは、神様に赦しを請いました。それが「ヒソプをもって私の罪をきよめて下さい。そうすれば雪よりも白くなりましょう」(7節)です。ヒソプは出エジプト記12章22節に、「ヒソプの一束を取って、・・かもいと門柱に羊の血を塗りなさい。」と記されています。またイエス様の十字架の時にも、ヨハネ19章28節に出てきます。つまりヒソプは、罪の赦しと関係があるのです。ダビデは「そうすれば、私はきよくなります。雪よりも白くなります」と信仰告白をしたのです。

★罪のない人などいるでしょうか。「私にはひとつの罪もありません」という人がいるとすれば、それは偽りです。私達も罪を告白し、不信仰を悔い改め、主から雪よりも白くして頂きましょう。

3月19日礼拝「主に感謝を捧げよ」

詩篇NO50「主に感謝を捧げよ」50篇7~15節       

仁井田義政 牧師                              

この詩篇は、感謝の奨めです。主は、何にもまして感謝を喜ばれるのです。しかし私達は主の最も喜ばれる感謝を忘れがちなのです。

★前の49篇は、お金や富に執着して神様を忘れて生きる人間の愚かさに対する警告でした。今日の50篇は、献金をしていればそれで良しとしてしまう私達への警告なのです。神様が私達に望まれている最高の捧げものは、感謝なのです。

★7節の「聞け」は、へブル語の「シェマ」です。それは強い言葉で、聞くことの命令です。8節に、捧げもののことであなたを責めるのではないと記されています。つまりすべての物は神様の所有物なのです。厳密には全ての物は神の物なので、人間から捧げてもらう必要がないと言っておられるのです。神様は「雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか」と言っておられます。

★それらは、神様への感謝を現わす為にするのです。ですから「感謝のいけにえを神に捧げよ」(14節,23節)と言われているのです。神様は私達の罪の身代わりとして、御子イエス様を十字架につけて下さいました。その御方を賛美することを忘れた生活をしているとすれば、それは異常なことなのです。

★神様は、感謝を捧げることを最も喜んでくださいます。私達もそうでしょう。子供達に「お父さん!お母さん!ありがとう。お父さんとお母さんの子供で良かった!」等と感謝されたら、すべての苦労がその一言で吹っ飛んでしまうのではないでしょうか。私達人間も神様に似せて造られているので、感謝を必要としているのです。猫や犬を飼うのも、そのためなのです。もし猫が飼い主の顔を見る度に、背中を山のようにして「シャー」と威嚇したり、犬が飼い主の帰宅する度に、凄い声をあげて吠えたり、嚙みついたりするようだったら、飼い主の心に喜びも安らぎもありません。扉を開けると、犬がしっぽをちぎれるほど振って迎えてくれたら、私達は嬉しいのです。その行動を通して、感謝を受け取っているのです。

ですから私達も、心から神様に感謝のいけにえを捧げる人になりましょう。

3月12日礼拝「悟りがなければ獣に等しい」

詩篇NO49「悟りがなければ獣に等しい」49篇16~20節       

仁井田義政 牧師                              

 詩篇49篇は、1節に記されているように全人類への勧めです。国や民族が違い、考え方が違っても、人間は49篇に示されている3つの錯覚に陥って生きている人が大半なのです。それはどのような錯覚なでしょうか。

★第一の錯覚は、「富が、幸せの一番の保証となる」という錯覚です。創世記の3章17~19節を見て下さい。そこには、世界の資源の乏しさが記されています。そこで砂漠の旅人が水の乏しさに幻覚を見てしまうように、富が幸せに至ると錯覚してしまうのです。その錯覚を利用して、詐欺師が横行します。

★第二の錯覚は「自分が死ぬべき存在である」ということを見ないようにして生きる人生の錯覚です。自分が死ぬべき存在であることは誰もが知っていますが、それを見ないようにして生きているのです。それは特に日本人に多い特色です。それは日本人が死を「穢れ」と見ているからです。死の話などすると「縁起でもない」と叱られてしまうようなことが起きるのは、そのような日本の文化的な要素があるのです。しかし自分が死ぬべき存在であるということを悟って初めて、それではどう生きるかということを考えることが出来るのです。

★第三の錯覚は「聖書の真理などを知らなくても私は幸せになれる」(20節)という錯覚です。聖書の真理によって見えてくる人間の本当の姿を「そのとおりです」という確信がなければ、「富が幸せの全て」と思い込み「自分が死ぬ存在である」ことからも目を背けて生きる人生になってしまうのです。死から目をそむければ、当然死後のことも考えなくなります。それが「悟りがなければ」という意味なのです。

★もちろん神様は、私達人間が全て貧しくあるべきで豊かになることは罪であると言っておられるのではありません。「人はその栄華の中にあっても滅びうる獣に等しい」(20節)と言っておられるのです。貧しくあっても豊かであっても、悟りがなければまさに獣に等しいのです。詩篇49篇は全人類に向けて「悟りを得よ。悟りがなければすべてが虚しい」と叫び、宣言し、宣告しているのです。私達は聖書の言葉によって、ますます真理を悟っていく者になりましょう。真理の神様への信仰を強くしましょう。

3月5日礼拝「宮の中で神の恵みを思う」

詩篇NO48「宮の中で神の恵みを思う」48篇9~14節       

仁井田義政 牧師                              

 今日の詩篇は、神の家であるエルサレムの神殿賛歌です。今日は、メッセージ題となった「神よ。私たちは、あなたの宮の中で、あなたの恵みを思い巡らしました」という御言を中心に、お話ししたいと思います。

★「シオン」と言う名は、ダビデが「エルサレム」と呼び名を変更する以前の地名です。シオンは清いという意味で、エルサレムは平和という意味だと考えられています。その神の都に、他国の王達が攻めてきても、恐怖のあまり逃げ去ったと記しました。タルシシュはスペインのことで、スペインが攻めて来た時には、嵐でその船団が海に沈んでしまったと記しています。

★12~14節には、シオンを巡り歩きそのやぐらを数えよと言っています。エルサレムに行ってみると、その大きさよりもその小さなことに驚きます。エルサレムは、周囲がわずか5キロしかありません。「シオンを巡り歩け。そのやぐらを数えよ」と命じられています。それは、神様の守りを語り継ぐためにです。今の壁は、オスマントルコ、つまりイスラム教徒が作りました。かろうじて神殿の壁として残っているのが、現在の「嘆きの壁」と言われている所なのです。教会の始まりは、エルサレム教会から始まりました。

★イエス様の弟子達が、神殿の素晴らしさをほめたたえた時、イエス様はエルサレムの崩壊を預言しました。(マルコ13:1~2) その預言のように、今エルサレムに神殿はありません。しかしイエス様によって、新しい神殿がたてられました。それが教会です。イエス様は「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまでわたしの証人となるであろう」(使徒1:8)と言われました。

★現代のエルサレム神殿は、キリスト教会です。聖書の神を信じる人は、教会において神様の「恵みを思い巡らすべき」です。私達人間は、お金に思いを巡らし、健康に思いを巡らし、不安に満ちてしまうのです。そうではなく「神様の宮」である教会で、神様の恵みに思いを巡らし、恵みでいっぱいに満たされることが大切なのです。

私達も、教会で神様の恵みを深く思いめぐらすことを大切にするクリスチャンになりましょう。