10月11日礼拝「イエス様による解放」

マタイ講解NO.34 「イエス様による解放」マタイ8章28~34節

                         仁井田義政 牧師

 いつの時代にも誰からも忘れ去られた人がいます。今の時代も同じです。しかしイエス様はその人を救うために命をかけられるのです。その主イエス様が今も変わらず生きておられるので、私達には希望があります。今日の聖書箇所も、誰からも墓に忘れ去られたガダラの2人を救うために、舟に乗って向かわれたイエス様の話ですす。

★イエス様は、弟子達と一緒に舟に乗ってガダラの地に来られました。しかもガリラヤ湖では嵐に遭い、弟子達が命の危険を感じ、取り乱した姿がマルコ 4章38節に記されています。なぜイエス様は、それほどまでしてガダラの地に来られたのでしょうか。しかもその地は、ユダヤ人から汚れた異邦人の地として嫌われていたのです。

★イエス様がこの地に来られた理由は、その地の墓地に悪霊に憑かれた人がいたからでした。墓にいた彼らは、その地の人達に害をもたらす人として、鎖でつながれて墓から出てこないようにされていたのです。(マルコ5章3-4節)イエス様は、そのように阻害されている状態が、人間にはふさわしくないと思われ、救出に来てくださったのです。

★危険人物だった彼らが、イエス様によって救われました。本来ならば、ガダラの人達からも感謝されるべき事柄でした。しかしそうではありませんでした。ガダラの人々は、イエス様に「この地から出ていくように」と、イエス様を追い出してしまいました。それは、二人の人間の救いよりも、財産である豚の方が大切だったのです。人の価値よりも、経済の方が大切だったのです。

★イエス様はユダヤ人です。ユダヤ人は、異邦人の住むガダラの地に、しかも無数の悪霊が住むと信じられていた墓地に絶対に来たくなかったはずです。しかしイエス様は、苦しむ人の為にはどこまでも救いに行かれます。だからと言って、拒否する人の所には留まられません。イエス様と弟子達は、その地を立ち退きました。

私達はどうでしょうか。私達はイエス様の愛に感謝して、私達の内に住んでいただこうではありませんか。

10月4日礼拝「なぜ怖がるのか」

マタイ講解NO.33 「なぜ怖がるのか」マタイ8章23~27節

                         仁井田義政 牧師

 今日の「ガリラヤの嵐」の記事は、三福音書に出てきます。それは、いかにこの事件が大切な出来事であったかを表わしています。この舟に乗っていたのは、十二弟子とイエス様でした。つまりクリスチャン集団でした。その弟子達がイエス様から「信仰の薄いものたち」と言われてしまったのです。

★十二弟子達は、イエス様と共に舟でガダラの地に向かいました。多くの弟子達は、ガリラヤ湖の漁師でした。イエス様は舟に乗り込むと、すぐに眠り込んでしまわれました。しかし突然、突風が吹いてきて嵐になり、舟が大波をかぶり沈みそうになったのです。

★マルコによる福音書4章37~38節を見ると、「舟は波をかぶって水でいっぱいになった。先生、私たちが溺れて死にそうでも、なんとも思われないのですか」との弟子達の言葉が記されています。誰にでも人生の途上で一度や二度、嵐が起こることがあります。その時ほど、イエス様が寝ておられるように見えることがあるのです。

★しかしイエス様は、何もして下さらないのではなく、イエス様が一緒だということが守りの約束なのです。イエス様は嵐の中でも平安の中におられ、弟子達は「人生の終わり」とばかりにパニックになっています。イエス様はその弟子達の信仰不足を補うために、嵐を沈められました。

★私達も、人生の中で私達の乗っている舟が大波をかぶるような体験をすることがあるでしょう。その時に「イエス様は、私達の苦しみを分からず眠っておられる」ように感じるかもしれません。しかしイエス様は、私達の全てを守って下さっているのです。私達の人生という舟に、イエス様が一緒に乗って下さっているのです。ですから、どんな人生の嵐も怖がることはありません。私達の人生に一緒にいて下さるイエス様は「なぜ怖がるのか」と言っておられます。そのことに感謝して、平安な人生を送りましょう。

9月27日「福音とは何か」

(礼拝メッセージ) 「福音とは何か」第一コリント15章1~5節、11節

                            高間智浩師

「福音」という言葉を私たちは知っています。しかし「福音を知っていること」と「福音を理解していること」は同じではありません。先月のメッセージは「神は失われた一人を捜される」というテーマでした。そして今日は「では、神はその一人のために何をしてくださったのか」という疑問に対する答えとして、「福音」についてお話したいと思います。

★福音は、ギリシャ語でエヴァンゲリオンと言いますが、古典ギリシャ語でこの言葉は、良い知らせに対する報い、それを伝えた人への報酬を意味すると共に、その知らせ自体をも指しました。元来は勝利の知らせでありましたが、後には喜びをもたらす知らせを意味するようになりました。福音は、神がイエス・キリストによって、イスラエルへの御自身の約束を成就される良い知らせであり、すべての人に救いの道が開かれたことを伝えるものです。

★福音は「命令」ではなく、「知らせ」であることに注目します。福音とは、キリストが私たちのために何をしてくださったかという知らせです。テーマ聖句を読むと、キリストが私たちの罪のために死なれ、そして葬られ、三日目によみがえられたことが記されていて、ここに福音の中心があります。つまり「キリストの十字架」と「キリストの復活」です。

★福音が必要な理由を考えます。人間の最大の問題は、神から離れていることです。罪とは単なる悪いことをしたという意味だけではありません。聖書が示す罪の根本には、罪によって人間と神との間に隔たりが生じているということです。信仰のない状態で、人間的な行いを積み重ねても、過去の罪を消すことはできません。だからこそ、「救い」が必要なのです。イエスの十字架は単なる悲劇ではなく「私たちの罪のため」の死です。身代わりとなり、私たちが受けるべき罪の結果をキリストが担ってくださったのです。

★福音とは「キリストそのもの」です。福音を単なる情報としてはいけなく、救われる方法というだけでもありません。福音の中心には、死んで、よみがえられた「イエス・キリスト」がおられます。私たちが伝道する時は、宗教を紹介するのではなく、キリストを伝えるのです。

9月20日礼拝「私に着いて来なさい」

マタイ講解NO32「私に着いて来なさい」マタイ8章18~22節
仁井田義政 牧師
この時のイエス様は、人気絶頂期にありました。イエス様は群衆を残して
ガリラヤ湖を渡り、ガダラ人の地に行こうとされました。すると群衆の中に
イエス様について行きたいという人と、ついて行きたくないという人が出て
きました。
★そこにいたユダヤ教の超エリート律法学者が「あなたについて行きます」
と言いました。しかしイエス様は、律法学者の本心を見抜かれ、「人の子に
は枕する所もありません」と言われました。それは「誰も安泰のみを求めて
来てはなりません」との意味でした。
★すると「枕する所もない」との言葉を聞いていた一人の弟子が「主よ、父
の葬り後についていきます」と言いました。父親の死が近づいていたのでは
なく、「父親の面倒を見る」ということが、当時の一般常識だったからで
す。
★しかしイエス様は「死人は死人に任せて、私について来なさい」と言われ
ました。それは決して、親不孝をして良いということではありません。世の
中のことは、世の中の人達に任せ、私の弟子は弟子でなければ出来ない奉仕
をするために、私に着いてきなさいと言われたのです。
★私達はこの時の律法学者のように、安泰のみを求めてイエス様についてい
くのか、それとも「別のひとりの弟子」のように、一般の社会常識を盾にし
て、イエス様に従おうとしない生き方をするのかが問われているのです。
★あなたが全てに優先してイエス様について行くならば、ガダラの墓場の名
もなき人を救うイエス様の純粋な愛を目撃するのです。それは、あなたを愛
するイエス様の強い愛でもあります。あなたもその愛を目撃しましょう。

9月6日礼拝「私達の病と主の十字架」

マタイ講解NO31「私達の病と主の十字架」マタイ8章14~17節

                          仁井田義政牧師

イエス様の時代は、安息日に病気を癒すことは禁じられていました。イエス様がそれを打ち破ります。イエス様がこの世に来られたのは、人々を苦しみから解放するためです。今日は、十字架と私達の関係をお話し致します。

★ペテロの姑が、安息日に熱を出して病気で臥せっていました。それを聞いたイエス様は、安息日の礼拝帰りにペテロの家に行き、ペテロの姑を癒されました。しかし、あと数時間待てば安息日が終わって、安息日の習慣を破らずに癒すことが出来たはずです。イエス様は人々を苦しみから救うためにこの世に来られました。ですから安息日の癒しも、ためらわなかったのです。

★癒された姑は直ぐに起き上がり、イエス様とその弟子達をもてなしました。料理を出したのです。ざっと数えてもイエス様の弟子が12人。イエス様とベテロの姑と合わせると14人もの食事の用意をし、仕えたのです。ギリシャ語の「仕える」の言葉は①ドゥレイウォー:奴隷として強制的に仕える。

②ラトレウォー:賃金のために働く、神に儀礼的奉仕をする。

③ディアコネーオ:相手の必要に気づき、進んで手を差し伸べる。

この姑の所には、③のディアコネーオが使われています。

★夕方になり、安息日が終わりました。すると安息日終了を待っていた人々が大勢イエス様に癒しを求めて押し寄せてきました。イエス様は、それらの人々の霊的患いや、肉体的な病気をみな癒されました。それは預言者イザヤが53章で預言していたことの成就でした。それは肉体的・精神的癒しです。

★イエス様は、私達に平安と感謝の人生を与えるために来られました。イエス様はペテロの姑ひとりの為にさえ安息日を破り、罪を着せられ十字架につけられることに繋がっていくのです。イザヤの預言の通り「私達のわずらいや病を背負った」のです。癒し主イエス様を信じましょう。

8月16日礼拝「主よ、私に御言を下さい」

マタイ講解NO30「主よ、私に御言を下さい」マタイ8章5~13節

                             仁井田義政牧師

 今日の聖書の箇所には、イエス様に対する信仰と、人を愛するイエス様の愛が、ぴったりとひとつになる様子が記されています。山を下りて来られたイエス様に、ローマ軍の百人隊長が会いに来たのです。

★百人隊長とイエス様の関係について話しますと、社会的には、当時イエス様はローマの軍人に支配されている立場にありました。その命令に従わなければ、処罰を受ける時代だったのです。そのような時に、ローマの百人隊長が「主よ、私の僕の病気を癒してください」とイエス様に願ったのです。

★その時、百人隊長が病の奴隷を「パイス」と言ったことが記されています。それは「子供」を現わす語で、英語では「ボーイ」と訳されています。ふつう奴隷を表わす語は「ドゥロス」です。奴隷であれば、大人でも子供でも、役に立たなければコスト削減の為に捨てられるのが普通の時代です。そのような時に、この百人隊長は必死で僕の癒しを求めて、イエス様の所に来たのです。

★イエス様は、一瞬で隊長の心の中を読み取られました。隊長は、自分の為ではなく僕の為に、支配者の誇りも捨ててイエス様に懇願したのです。主もその百人隊長の信仰の姿に感動して、当時の「異邦人の家に行けば汚れる」という意識も越えて、「私が行って直してあげよう」と言われました。それは当時の一般常識を越えるイエス様の強い決意が現わされています。

★しかし隊長は「主よ、私の家にお入れする資格は私にはありません。ただおことばを下さい。」(7節)と言いました。隊長は、イエス様が私の家に来られたら「イエスは異邦人の家に入って汚れた人となった」と人々に言われてしまうだろうと思ったのです。それで隊長は「ただ、おことばを下さい。そうすれば僕は直ります」と言ったのです。言葉には力があると体験的に知っていたのです。イエス様は、この異邦人の百人隊長の信仰に驚きました。この時、イエス様のことばで百人隊長の僕は癒されました。私達も百人隊長に倣って「主よ、私におことばを下さい」と祈りましょう。

8月9日礼拝「主よ、私をきよめて下さい」

マタイ講解NO29「主よ、私をきよめて下さい」マタイ8章1~4節

                             仁井田義政牧師

 イエス様は、群衆と一緒に山を下りてこられました。すると山のふもとに人間の悲惨な生活がありました。最初に出会ったのが、ツァラート(重い皮膚病)の人でした。

★ツァラート(重い皮膚病)の病気は、汚れた病気として人々から大変嫌われていました。そのため家族からも社会からも隔離されていました。この病気の辛さは、痛みや痒みという病状の辛さはさることながら、家族や社会、そして当時の人々にとって何よりも大切だった宗教社会からも、阻害されたことでした。すべての人間関係において、その人は「百害あって一利なし」として扱われたのです。

★その人は重い皮膚病を隠して、人里離れた谷間の洞穴などで生活していました。彼らにとっても彼らの家族にとっても、人々から「汚れた病気」と言われるのが一番つらかったのです。自分でも「私は汚れた者」だと100%思っていたことは間違いありません。ですから、イエス様の所に来た時「治して下さい」ではなく、「きよめて下さい」と言ったのです。

★当時この病気の人は、人の前に出てくることは禁じられていました。このような場合、人々から石を投げつけられて殺されることになっていたのです。そこは、イエス様が直ぐに怒り「石を投げよ」と命じるだろうと思うような場面です。しかしその時、度肝を抜くような事が起こりました。イエス様は石を投げるどころか、手を伸ばして彼に触られて「わたしの心だ、きよくなれ」と言って癒されたのです。彼は、この病いの苦しみから救われました。彼は、谷間の生活から命を賭けてイエス様の前に来たのです。イエス様はその人を見逃しませんでした。

★私達も、この重い皮膚病の人のように、自分の汚れを認め「主よ、私をきよめて下さい」と祈りましょう。イエス様は手を伸ばしてあなたに「私の心だきよくなれ」と触れてくださいます。

8月2日礼拝「人生は岩の上に」

マタイ講解NO28「人生は岩の上に」マタイ7章24~29節

                     仁井田義政牧師

今日の聖書箇所は、イエス様の「山上の教え」の結論です。本来は「山上の教え」は一気に読んで、今日の結論を聞かなければなりません。しかし今日はその時間が取れませんので、あとで5章から7章の終わりまで、是非読んで下さい。

★イエス様は、山の上で多くの人々に大切な話を聞いて欲しかったので、当時の正式な話の姿勢の「座って」話をされたのです。イエス様は多くの話をされ、ついに結論に至りました。その結論こそが大切でした。

★その結論は、わたしのことばを聞いて、それをしっかりと人生の土台とするようにということでした。どれだけ聞いたかではなく、聞いてどれだけ実行するかが大切なのです。山の上には、イスラエル人も異邦人もいました。それは、全ての人にこの教えが必要であることを示しています。この教え(岩)の上に人生を築くようにという結論でした。

★イエス様が、山上の教えを「律法学者達のようでなく、権威ある者のように教えられた」と記されています。それは、律法学者が自分の言葉を権威づけるために、他の学者の名前を利用し「誰々先生もこう言っておられる」と話すのが常だったからです。しかし、イエス様はどのような学者の名も用いずに、権威ある者「神」のように話されたのです。

★イエス様の話が学者の話であれば、聞いて参考にするもしないも、聞いた人の自由です。しかし権威ある者「神」が話された真理の御言には、従うか従わないかのいずれしかないのです。それゆえに群衆が「驚いた」のです。この「驚いた」のギリシャ語は、心臓が激しく鼓動し、飛び出しそうになる状態のことです。「岩」と譬えられた主の教えの上に、しっかりとしたあなたの人生を築きましょう。

7月19日礼拝「命に至る道」

マタイ講解NO27「命に至る道」マタイ7章13~23節

                          仁井田義政牧師

 今日はイエス様の山上での教え16回目です。その教えも、ついに結論に入ってきました。この教えの目的がどこにあったかが、明確に現わされる部分となってきたのです。今日の御言の中心テーマは「命に至る道」です。

★イエス様は「あなたがたの人生は、何処に向かおうとしているのですか」と言われます。しっかりとした人生の目標設定が必要なのです。イエス様は「命に至る」ことこそ、あなたの人生のゴールでなければなりませんと言われます。しかし、若い人は人生のゴールを「幸せな結婚生活」としたり、中年・壮年は「お金持ちになること」としたり、老年は「健康一番」としたりすることが多いのです。そしてやがて健康にも裏切られて、死で滅びる人生を描いて生きてしまうことがあるのです。イエス様は「あなたがたのゴールは死ではなく、命に目標設定をしなさい」と教えておられます。

★さらにイエス様は「滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです」と言われました。滅びに至る道は、欲望のままに流されて生きる人生です。しかし「命に至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。」とイエス様は教えられました。

★さらにイエス様は「主よ、主よ、と言う者が、みな天の御国に入るのではない」と言われました。この時、五千人以上の人々が「主よ、主よ」とイエス様を慕って集まって来ていたのです。イエス様は、その人達を前にそのように言われたのです。この言葉は、クリスチャンの私達が心して聞かなければならないのです。

★イエス様が言われているように、多くの人が「滅び」に至る道を歩いています。その大衆の流れに流されてはなりません。もう一度、あなたの人生を「命のゴール」に設定しましょう。そして父なる神様の御心を行なう人生を力強く生きていきましょう。

7月12日礼拝「愛されているから」マタイ7章7~12節

マタイ講解NO26「愛されているから」マタイ7章7~12節

                          仁井田義政牧師

今日の御言は、悩んでいる人々を一歩も二歩も行き詰まりから前進させる素晴らしい御言です。行き詰まりとは、自分の何か越えられない壁のようなものを感じて悩んでいることです。それは6章25~34節で、イエス様が教えられた衣食住の問題かもしれません。あるいは先週、話しました人間関係の問題かもしれません。今日のイエス様の御言を聞いて、そのような人生から立ち上がりましょう。

★イエス様は「求めなさい」と言われました。それは「求め続けなさい」との意味です。誰に求めるのでしょうか。自分に求めるでしょうか。他人に求めるのでしょうか。違います。神様に求めるのです。神様に求め続ける、探がし続ける、たたき続けるのです。それは祈りです。

★祈る人は、神様の愛を知っている人です。イエス様は、人間の親のことを例にしながら、神様の愛を教えておられます。不完全な人間の父親さえ、パンを求める子に石を与えることはありません。魚を求める子に蛇を与えることはありません。それならば完全な愛に満ちた天の父が、私達に「良いものを下さらないはずがありましょうか」と言われました。ルカ福音書11章13節には「良いもの」とは「聖霊である」と記されています。

★この話は、あなたの人生の行き詰まりのことが目的で話されたのではありません。この話の最後の「それで」「だから」いう接続詞で、そのことは明かです。「人に良いことをしたら、神様が良いことをして下さる」のではないのです。「私達は神様にすでに愛されているので、人々を愛する」のです。

★今日の御言は、12節の「それで」「だから」という接続詞で、聖書全体の教えの「神と人の愛」につながっているのです。祈りなさい、求めなさい、探しなさい、叩きなさい、と教えて下さっているのです。神様の愛が既に与えられていることを感謝して、行き詰った人生から立ち上がりましょう。