1月29日礼拝「なぜうなだれいるのか」

詩篇NO43「なぜうなだれいるのか」43篇1~5節

                      仁井田義政 牧師

今日の43篇と前の42篇とは、非常に似ています。それゆえにこの二つの詩は、本来ひとつの詩であったのではないかと言われています。ともに最後の節などは、全く同じなのです。その内容は、どちらも深い悩みに満ちています。その悩みの中での神様への問いと、自分自身への問いがなされています。そういう意味で、困難の中に生きる私達の詩なのです。

★1~2節で、詩人は「不正の人から助けてください」と神様に訴えています。そして「あなたは私の力の神であられるからです」と祈っています。す。そう信じれば信じるほど、詩人は良くならない現状のために苦しみが増しているのです。神が力の神であるなら、私は神から拒まれ捨てられているとしか考えられないと言っています。

★ダビデは、エルサレムから遠く離れた所から、エルサレムの神の家を慕い、祈っているのです。それは3~4節に「聖なる山、あなたのお住まい」と記されていることでわかります。私達はなんと幸いなことでしょう。神の家である教会が、悩みの時の「祈りの家」として、いつでも行ける距離にあるのです。ダビデにとって最も喜びとすることは、神の御許に行って礼拝することでした。

★ダビデは、辛さでくじけそうになった時「わがたましいよ。なぜおまえはうなだれているのか。なぜ思いが乱れているのか」と、自分の深部に語り掛けました。ダビデは、自分に問いかけたのです。実生活の中で、何が起ころうとも、何が起こらなくとも、神様が神様であられることに変わりはありません。ですからダビデは「神を待ち望め。なおも神をほめたたえる」と言って、その信仰を深めたのです。

★ダビデのような困難や苦難に遭うことを、進んで望む人はいません。しかし困難や苦難は、私達が望むと望まざるとにかかわらず、私達の人生には起こるのです。ですからダビデは「神を待ち望め。なおも神をほめたたえる。私の神を」と、自分に言い聞かせて信仰を強くしたのです。

私達も苦難や困難に遭う時に、ダビデのようにもう一度信仰をジャンプさせましょう。

1月22日礼拝「生ける神を求めて」

詩篇NO42「生ける神を求めて」42篇1~11節

                      仁井田義政 牧師

 42篇は、詩篇第二巻の最初の詩篇で、それにふさわしく霊的なものです。またコラの子ら(合唱隊)のマスキール(教訓の意味)」との説明が記されています。実はコラの士族は、民数記16章32~33節で、モーセとアロンに、「私達も民の指導者になりたい」と言って、逆らった歴史が記されています。この詩自体は、ダビデがその子アブシャロムに命を狙われ、イスラエルの北方に逃げた時の詩であろうと言われています。

★この詩には有名な「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように」との御言が1節に記されています。この鹿は、喉も体も渇ききっている状態です。その渇いた状態を「あえぐ」という言葉で表わしているのです。詩人は絶対に必要な水に例えて、私は「生ける神」を求めているのだと言っているのです。「生ける神」とは、死んでいる神の反対語です。

★生ける神を求めるダビデに、人々は「お前の神はどこにいるのか」と言ってあざ笑います。この礼拝のメッセージを聞いている人の中にも、キリストへの信仰を反対され涙を流している人がおられるかもしれません。しかし、イエス様も十字架上で反対され、血を流されたのです。詩人は、そのような激しい攻撃の中で、かつての礼拝の様子を思い起こし「我が魂よ、なぜうなだれているのか、神を待ち望め」と自分を励ましているのです。

★次に、ダビデが書いた「ヨルダン。ヘルモンの地。ミツァールの山から私はあなたを思い起こします。」という言葉に目を向けましょう。ヨルダンはヨルダン渓谷のことであり、ヘルモンは万年雪のある高山。ミツァールは低い山の意味です。それは、どんな水の豊かな地にあろうとも、私の魂は生ける水である生ける神を慕い求めると言っているのです。

★ダビデは自分の子供アブシャロムに王位を狙われ、神の都エルサレムから逃げて、イスラエルの最北端にまで逃げて来たのだと思われます。悩みの中でダビデは「わがたましいよ・・なぜお前は、私の前で思い乱れているのか」と語り掛けています。私達もうなだれ、思い乱れることがあるでしょう。そのような時には、ダビデのように、自分を励まし信仰を貫く道を前進しましょう。どんな時にも、死んだ神ではなく、生ける神を求めましょう。

1月15日礼拝「アーメン。アーメン。その通り。その通り」

詩篇NO41「アーメン。アーメン。その通り。その通り」41篇5~13節

                       仁井田義政 牧師

 今日の詩篇は、ダビデの第一巻の終わりのところです。この詩は、キリストの十字架にまで預言的に言及されています。そういう意味で非常に興味深く、ダビデの詩篇第1巻の終わりの詩として、最もふさわしいものです。

★1~2節で、ダビデは日常の「弱っている人」に心を配ってきた人生を振り返っています。「神はそのような人を必ず助け出される」という、現代においても一般的な因果応報的な理解を述べています。しかし現実は、彼の病気によって弱ってきていることを喜ぶ「敵」(2節)がいたのです。

★貧しい人に心を配ってきたからと言って、私に罪がないということではなく、罪はあるとダビデは告白して、神様の前にどこまでも真実であろうとしています。しかし見舞いに来た友人が「邪悪なものが、彼にとりついている」(8節)とダビデの悪口を言いました。

★9節では、キリストの十字架についての預言がされています。イエス様が、最後の晩餐でこの言葉を引用されているので分かります。それはユダの裏切りのことです。イエス様は、ダビデの体験した親しい者からの裏切りは、私において究極的に実現したと言われているのです。つまり詩篇41篇は、キリストの受難において成就したのです。

★10節に「仕返しができます」とあります。しかしそれは病気から立ち上がることによってです。ユダや人々の裏切りに遭い、十字架で殺されたことはイエス様の敗北ではありません。イエス様は復活によって勝利されたのです。その事実は、真の神にしか出来ない逆転勝利でした。

★まさに最後の言葉にあるように、「ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで」なのです。イエス様の敗北に見えた十字架の死があったからこそ、復活という勝利につながったのです。

あなたにも、イエス様の十字架のような苦しみがあるかもしれません。しかし十字架には、逆転の勝利があるのです。それで41篇は「アーメン。アーメン」と、第一巻が閉じられるにふさわしい言葉が記されています。それは「その通り。その通り」という意味です。私達もそれに倣って、「アーメン。アーメン。その通り。その通り」と心から信じて祈りましょう。

1月15日礼拝「アーメン。アーメン。その通り。その通り

詩篇NO41「アーメン。アーメン。その通り。その通り」41篇5~13節

                       仁井田義政 牧師

 今日の詩篇は、ダビデの第一巻の終わりのところです。この詩は、キリストの十字架にまで預言的に言及されています。そういう意味で非常に興味深く、ダビデの詩篇第1巻の終わりの詩として、最もふさわしいものです。

★1~2節で、ダビデは日常の「弱っている人」に心を配ってきた人生を振り返っています。「神はそのような人を必ず助け出される」という、現代においても一般的な因果応報的な理解を述べています。しかし現実は、彼の病気によって弱ってきていることを喜ぶ「敵」(2節)がいたのです。

★貧しい人に心を配ってきたからと言って、私に罪がないということではなく、罪はあるとダビデは告白して、神様の前にどこまでも真実であろうとしています。しかし見舞いに来た友人が「邪悪なものが、彼にとりついている」(8節)とダビデの悪口を言いました。

★9節では、キリストの十字架についての預言がされています。イエス様が、最後の晩餐でこの言葉を引用されているので分かります。それはユダの裏切りのことです。イエス様は、ダビデの体験した親しい者からの裏切りは、私において究極的に実現したと言われているのです。つまり詩篇41篇は、キリストの受難において成就したのです。

★10節に「仕返しができます」とあります。しかしそれは病気から立ち上がることによってです。ユダや人々の裏切りに遭い、十字架で殺されたことはイエス様の敗北ではありません。イエス様は復活によって勝利されたのです。その事実は、真の神にしか出来ない逆転勝利でした。

★まさに最後の言葉にあるように、「ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで」なのです。イエス様の敗北に見えた十字架の死があったからこそ、復活という勝利につながったのです。

あなたにも、イエス様の十字架のような苦しみがあるかもしれません。しかし十字架には、逆転の勝利があるのです。それで41篇は「アーメン。アーメン」と、第一巻が閉じられるにふさわしい言葉が記されています。それは「その通り。その通り」という意味です。私達もそれに倣って、「アーメン。アーメン。その通り。その通り」と心から信じて祈りましょう。

1月8日礼拝「幸いなことよ、主に信頼する者は」

詩篇NO40「幸いなことよ、主に信頼する者は」40篇1~6節

                       仁井田義政 牧師

新年も第二週に入りました。今日から詩篇の講解メッセージを再開いたします。今日の詩篇は、「指揮者のためのダビデの賛歌」という題がついています。それは、大切な歌として繰り返し正式な礼拝において演奏され歌われたことを意味します。なぜそれほど大切な歌なのでしょうか。

★この詩は、感謝と祈りの二部構成になっています。1~10節は感謝の詩篇で、11~17節は苦しみの中の祈りになっています。逆ですと「悩みから救われた歌」となりますが、前半と後半があまり違うので、別の詩ではとの説さえあります。

★前半は、後半の苦しみの中にいる著者が、かつての神様の救出を思い出し希望を繋いで祈っている歌です。長年の信仰生活においては、信仰の財産として神様の救出の御業が積み上がり、そのことが試練に耐える力となってきます。ですからダビデにも、そのことが財産となり賛美となって、苦難の中のダビデを支えたのです。私達も苦難に強い人になりたいと思います。

★この詩は、キリストを預言した詩とも言われています。それは、 『わたしは、あわれみは好むがいけにえは好まない』(マタイ9:13)とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」とイエス様が引用されているからです。それはまたマタイ12章7節でも引用されています。

★このように、幾度もの神様の救出を体験した人は、11節のように苦しみにあっても絶望することなく、神様に祈ることが出来るのです。もちろん苦しみや悩みなどは無い方が良いのですが、イエス様も「この世においては悩みがある」(ヨハネ16:33)と言われました。イエス様は絵空事のような約束はされません。この世にいる間は様々な苦難や問題が襲ってきますが、その時にも救い主である私が共にいるのだから、そのことを信じて祈り勇敢に生きて行きなさい。と言っておられるのです。

私達もダビデのように、苦難の中にあっても、新しい歌を歌いながら、新しい年を楽しく生きて行きましょう。

2023年主日元旦礼拝「恐れるな。私はあなたと共にいる

2023年主日元旦礼拝「恐れるな。私はあなたと共にいるイザヤ41章10節

                       仁井田義政 牧師

明けましておめでとうございます。今年の御言は、イザヤ書41章10節の預言の言葉を選ばせていただきました。イザヤ書は大きく分けると39章までは、イスラエルの背信の裁きとして敵国の奴隷となるという預言であり、40章からは、その罪が赦され奴隷から解放されるという預言です。

★今年の御言の41章10~14節の間に「恐れるな」という言が3回もあります。その理由は、新しい解放の年が来たからです。バビロン捕囚を見た預言者エレミヤが、「捕囚期間は70年」と預言しました。(エレミヤ25:8~13)

★しかし、バビロンで70年も奴隷生活をしていたイスラエルの民は、神が起こした奇跡を信じられませんでした。突然ペルシャ王クロスが出現し、バビロンを倒し、イスラエル民族を解放すると言ったのです。しかしイスラエルの10部族は、イザヤの言葉もエレミヤの言葉も信じられませんでした。ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族は、神様の祝福の言葉を信じられずにバビロンに残りました。

★自由が与えられたのに帰ってきたのは、何とユダ族とベニヤミン族の2部族だけでした。その2部族だけが、荒れ果てたイスラエルに帰ってきました。そのユダ族の中から、やがてイエス様が生まれました。それは地球の歴史を二分する程の、神様の奇跡であり祝福でした。イエス様の誕生と十字架によって、私達の不信仰の全てを解決し、罪の奴隷から解放して下さったのです。それは、突然出現してバビロンを倒しイスラエルを奴隷から救ったクロス王にまさる御方の出現でした。

★イエス様の誕生は、預言者イザヤによって言われた「恐れるな。私はあなたと共にいる。私はあなたを強め、あなたを助け、私の義の右の手であなたを守る。」という御言の究極的な実現でした。ですから、その祝福の言葉を信じずバビロンに残った10部族のようになってはなりません。神様の祝福の御言を信じて、「神様が私を守り祝福してくださる」と強く信じて、新しい祝福の年である2023年を、希望に満ちて踏み出しましょう。

2022年クリスマス礼拝「神に栄光、地には平和を」

2022年クリスマス「神に栄光、地には平和をルカ2章8節~14節

                       仁井田義政 牧師

皆さん、クリスマスおめでとうございます。今年もいろいろな事件が起こりましたね。イザヤ書の60章2節に「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には【主】が輝き、その栄光があなたの上に現れる」とあります。クリスマスは、暗闇に住んでいる私達に主が光として来てくださった記念の日なのです。

★聖書には「暗闇に野宿の番をしていた羊飼いたちを主の栄光が照らし出した」ことが記されています。彼らは、文字通り暗闇に包まれていたのです。そこに突然、神様の栄光が現われ、光が彼らを包んだのです。彼らは神様の光に照らされて、主役となったのです。

★聖書には「栄光が神にあるように」と記されています。クリスマスは、神様の素晴らしさが御子の誕生によって現わされた日なのです。またイエス様は「平和を与えるために来られた」ことが記されています。それは「御心にかなう人々に」とあります。イエス様は平和を与える為に来られたのです。

★しかしマタイ10章34~36節を見ますと、その逆の矛盾するような言葉が記されています。そこには「わたしが来たのは、地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです」と記されています。それは「わたしを信じようとする時、家族さえも反対するでしょう」という意味です。反対される覚悟で、イエス様をお迎えすることが大切なのです。そのような人が「御心にかなう人々」であり、そのような人に本当の意味での平和が来るのです。

★イエス様は、真の光としてこの世に来られました。イエス様の光によって、あなたは輝くのです。羊飼いたちは暗闇に包まれていましたが、天からの光が彼らを照らし出しました。雰囲気だけのクリスマスならば、天からの光と天使達の賛美があれば、充分だったでしょう。しかしそれだけでは不十分なのです。ですから御使いは「ダビデの町、ベツレヘムに行って、布にくるまれ、飼葉桶に寝かされている幼子を探しなさい。その子こそあなたがたの救い主です」と言われたのです。私達もロマンチックなクリスマスの雰囲気を超えたところで、強い決意をもってイエス様を受け入れ、信じようではありませんか。

12月18日礼拝「私の望み」

詩篇NO39「私の望み」39篇1~7節

                       仁井田義政 牧師

 今日からアドベント第四週に入りました。来週の日曜日は、いよいよクリスマスです。皆さんアドベントをいかがお過ごしでしたでしょうか。アドベントの目的は、クリスマスを迎える心と魂の準備にあります。今日の御言によって、いよいよクリスマスをお迎えする霊的な準備をしましょう。

★ダビデは「自分を悪く言う者に言い返すと、罪を犯す結果になることが多い」と沈黙を決意しました。人間は字のごとく「間」が大切です。ダビデは罪を犯すことを恐れて、人との「間」を絶った時、心に激しい痛みが起こりました。人間の大切な「間」には、もう一つ大切な「間」があります。それは神様との「間」です。ダビデはそれに気が付きました。

★ダビデはこの詩篇で、「人生は短く、幻のようで、むなしいものである」と言っています。日本人の平均寿命の推移を見ますと、縄文時代15歳。江戸時代34歳。明治時代44歳。現代80歳を超え90歳になろうとしています。しかしどんなに平均寿命が延びたとしても、人生は短いものです。この詩篇はダビデの老齢時の詩篇と思われますが、高齢の人にだけではなく若者にとっても大切な視点です。人生は短いのです。まさに5~6節にあるように、「人はないも同然」であり、その人生は「幻のよう」なのです。

★ダビデは自分の残された短い人生を見つめ、「主よ、今、私は何を望みましょうか。それはあなたです」(7節)と言っています。それは神との関係であり、神との「(あいだ)」のことなのです。さらに「私は、あなたと共にいる旅人です」(12節)と言っています。旅人とは帰る所がある人のことです。13節では「私を見つめないでください」と言っていますが、それは「私の罪に目を留めないでください」という意味です。

★人との「間」に傷ついて生きてきた人生に、生き直すチャンスなどあるのでしょうか。ひとつだけあります。ダビデは「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」と祈りました。私達も「主よ。私は、今何を待ち望みましょうか。私の望み、それはあなたです。」と、イエス様を信じて、信仰をもって祈りましょう。

12月11日礼拝「主よ、私の救いよ」

詩篇NO38「主よ、私の救いよ」38篇18~22節

                       仁井田義政 牧師

アドベントの第三週に入りました。今日の詩篇は、「悔い改めの詩篇」と言われています。この詩篇の作者ダビデは、思い病気の中にありました。その病気のために、家族や友人は去り、近づいてくるのは敵ばかりでした。ダビデは、孤独の中でこの病気と闘っていました。しかし病気は悪くなる一方でした。ダビデはこの詩の表題に「記念のためのダビデの賛歌」と記しました。それはダビデが病の苦しみの中から救われたことを決して忘れないために、記念するための賛歌であることを表わしています。

★ダビデは、この病気は「罪のため」(3節)「咎のため」(4節)と言っています。人間は病気になると突然、神の前の罪を意識するものです。そして「私は何も悪いことをしていないのに」などと言うものです。ダビデの病気は、火傷のように皮膚がただれる病気だったようです。(5節、7節)

★ダビデは、離れ去っていく友人や家族にも、またダビデの病気を悪く言う敵にさえも、反論しませんでした。ただ黙って「耳が聞こえない人のように」「言葉が話せない人のように」黙って耐えと記されています。「それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神主よ、あなたが答えてくださいますように」と祈っています。それは、病気の中でも神様への信仰を貫いていたからです。その信仰は、すさまじく強いものでした。

★ダビデは、「咎」も「罪」も神様の前に原因となっていると思われる全てを告白し、悔い改めました。(18節) それに対して、ダビデの敵はそのようなことは無駄だと罵りました。しかしダビデは「私を見捨てず、遠く離れず、主よ、私の救いよ」(21~22節)と祈っています。

★ダビデは「私の罪と咎の結果、この病気がもたらされた」と思って、罪を悔い改めて祈りました。この病気が罪咎の結果であったかどうかは分かりません。たとえそうであったとしても、「イエスは・・・御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直され」(マタイ4:2)るために来てくださったと記されているからです。イエス様は、病であっても悩みであっても、どんなことであっても、私達を救うために来て下さったのです。私達も状況はどうであっても、ダビデのように神様の救いを信じて祈り求める人となりましょう。

12月4日礼拝「主を待ち望め」

                       仁井田義政牧師

 12月に入りました。世の中を見ますと、様々な問題が渦巻き、津波のように襲い掛かっています。国の指導的な立場にあるはずの国会議員たちは、年間六千万円以上ももらっていながら、脱税までしている人がいるのです。ダビデの時代も、37篇1~23節の中に見られるように、悪者が私利私欲のために動き回っていたことが記されています。1節に「腹を立てるな」とありますが、「これに腹を立てずにいられますか」と反論したいくらいです。

★今日の聖書に記されている悪者は、借りたものも返さない人です。それはお金がないからではなく、もっと欲しいからです。むしろ貧しい人は、貧しさを知っているので、貧しい人に対して優しく、施したり貸したりすると記されています。そのような心の優しい人になりなさいというのです。

★34節には「あなたは悪者が断ち切られるのを見よう」と記されています。そうでしょうか。ダビデの時代も今の時代も、悪者が必ず裁かれて滅びるとは限らず、むしろ栄えていることも多いのです。聖書は、そのようなことを言っているのではありません。終末には必ず裁きがあるのです。この世で悪事を尽くして野生の木のように栄えたとしても、わずか数十年のことなのです。死後にはもう何もないのです。

★ですから聖書は「主を待ち望め」と記しています。37節には「全き人に目を留め、直ぐな人を見よ」「正しい者の救いは、主から来る」と記されています。「全き人、直ぐな人」などいるでしょうか。パウロはローマ3章26節で「全ての人は罪を犯した」と記しています。ですから全き人などいないのです。否、たった一人だけおられます。それはイエス様です。イエス様が私達の模範なのです。間違いのある人を模範とするならば、間違った人となってしまいます。統一教会が問題になっています。間違いのある人を模範とすると、その人々も間違った人になってしまうのです。

★「正しい者の救いは、主から来る」(39節)のです。イエス様は、既に来て下さいました。それと同時に、イエス様は再臨の主として来られるのです。 私達は、地上の欲に惑わされ不信仰や悪に染まることなく、イエス様を模範として、正しいクリスチャンとして生きて行きましょう。