2月9日礼拝「主はあなたを守る方」

詩篇講解(NO.121)「主はあなたを守る方」121篇1~8節

                       仁井田義政 牧師                                        

 この詩篇には、神殿のあるエルサレムに向かって巡礼の旅をする人の真っ直ぐな心が表わされています。そのためでしょうかこの詩は、詩篇の中でも特に有名な詩篇となっています。

★詩人は最初に「私は山に向かって目を上げる」と記しています。「山」と言うと日本人は「森林」を思い出します。そして森羅万象の創造者を讃える歌だと勘違いしてしまいます。しかしこの詩人の見ている山は、どこを見ても木も草もない山なのです。現代でも、イスラエルを旅行して最初に驚くのは、岩だらけの荒野や山です。

★聖書時代は、山々には偶像の礼拝所がありました。日本の多くの山にも、山頂には祠がありますね。ですから詩人は「私の救いは山からではなく」「天地の創造者から」来るのだと言っているのです。まさに、詩人の助けの確信は、偉大な天地の創造者の守りに置かれています。そして天地万物の創造者である神は、眠ることもまどろむこともなく守って下さると言っているのです。(3-4節)

★さらに詩人は「主はあなたを守る方」と記しています。当時の巡礼の旅はいろいろな危険の伴うものでした。まず自然からの危険です。「昼は日があなたを打つこともなく。夜も月があなたを打つことがない。」とは、巡礼の旅路の自然の厳しさを現わしています。そして「主は、あなたを行くにも帰るにもとこしえまでも守られる。」とは、巡礼の行き帰りの旅が相当な危険が伴ったことが背景となっている言葉なのです。さらに7節の「主はすべてのわざわいから、あなたを守りあなたの命を守られる」の「命」はヘブル語の「ネフェシェ」と言う言葉で、それは単なる生物的命だけではなく、心も体も経済も、生活の全てを守られるという意味なのです。

★人生も旅路に譬えられます。いろいろな事が起こりますが、それらの恐怖心に勝たなければなりません。それは巡礼者が目的としていた礼拝によって与えられます。真の神を礼拝する者が「主は・・とこしえまでも守られる」という信仰を与えられるのです。あなたも真の礼拝者となって、主はとこしえまで私を守られると確信する者になりましょう。

2月2日礼拝「逆境の中の巡礼」

詩篇講解(NO.120)「逆境の中の巡礼」120篇1~7節

                       仁井田義政 牧師                                        

 今日の詩篇120篇~134篇までの15篇は、「都上りの歌」という表題が付いています。つまりエルサレムに礼拝に来る人々が歌った巡礼者の歌なのです。この詩は、詩人がどこからエルサレムに礼拝に来たのかも記しています。その地名を考えないで読んでしまうと、この詩の意図する内容の10%も理解できないでしょう。

★詩人は、礼拝のためにエルサレムに向かっています。詩人がどのような境遇にあったかを記しています。それは苦しみの中にあったのです。その中で主に祈って「主は私に答えられた」という体験を持った人でした。私達の礼拝も、「主に感謝する」という礼拝が大切であることが分かります。

★この詩の作者は、好戦的な異教徒の中にいました。「偽りの唇、欺きの舌」つまり嘘を平気でつく人々の中で生活していたのです。しかも、その人達と比べて、詩人は社会的に地位が低い立場にありました。しかし、4~5節では、必ず神様によって彼らに「鋭い矢と、炭火が加えられる」と信じていました。

★5節には、詩人が今まで住んでいた所の地名が記されています。それは、メシェク(ロシアの黒海地方)とケダル(アラビア地方)です。詩人は寒いロシアに住んでいたり、熱いアラビアに住んでいたりしていたことがあるようです。しかし、なぜそうなったのかはわかりません。戦争で捕虜になって、そのあと奴隷になったのかもしれません。そのような事は、古代においては普通に行われていたからです。

★しかも彼の住んでいる土地の人は、「彼らは戦いを望む」(7節)という好戦的民族でした。1節の「その苦しみのうちに、主に呼ばわると、主は私に答えられた」という言葉から推測すれば、解放され自由人として礼拝に来たのかもしれません。いずれにしても、この詩人は生活に負けていないのです。「苦しみのうちに主に呼ばわると、主は私に答えられた」と言って、遠い道のりを歩き、神様を礼拝しに来ているのです。私達も、このような大変な逆境の時にも、希望を持ち祈り続ける礼拝者となりましょう。

1月26日「御言の戸が開くと」

詩篇講解(NO.119)「御言の戸が開くと」119篇130節

                       仁井田義政 牧師                                        

今日の御言の詩篇119篇は、詩篇の中で最も長い詩篇です。そのとてつもなく長い詩篇を、ギュっと凝縮してお話ししたいと思います。読む箇所も130節だけにし、この詩篇の言おうとしている所をお話ししたいと思います。

★この詩篇は「幸いなことよ」という感嘆文で始まっています。幸いなのは「主の御教えによって歩む人々です。」と言っています。別の言い方をすれば、聖書の御言通りに生きる人は何と幸いなことでしょうと言う意味です。しかし、御言を実行して生きるということは、決して簡単なことではではありません。人間には、それを妨げる欲望があるからです。

★9節には、若い人のことが出てきます。若い人にはいろいろな欲望があります。芸能界のスキャンダルが後をたちません。しかし若くない人にも欲望はあります。127節の「金や純金」の魅力です。その為に銀行の内部でさえ盗みが起るのです。またこの世には「御言に信頼して生きる者達を迫害する」ことさえあります。大切なのは決して御言を捨てないことです。

人生には、話したような問題と、それ以外の何百もの問題と失敗と苦しみがあります。その失敗や苦しみを体験したことも、御言に触れるきっかけとなり、71~72節にあるように幸せのきっかけとなります。

★130節の「あなたの御言の戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」との御言ですが、「わきまえのない者」とは、他の訳では「浅はかな者」「無知な者」「無学な者」と訳されています。私がこの130節に強く感動したのは、神学生1年の1学期が終わった時でした。その成績不振で完全に自信を喪失し、チャペルで祈っていた時です。この御言が突然私の心に飛び込んできました。この御言によって、俄然聖書研究の熱意が燃え上がりました。聖書だけではなく、一般哲学、宗教哲学、教育学に心が燃え上がりました。まさに御言が私を救い、助け、立ち上がらせたのです。あなたも今、何らかの悩みの中にあるなら御言の戸を開きましょう。そこから光が差して来るのです。 

1月19日礼拝「暗闇の中の歌」

詩篇講解(NO.118)「暗闇の中の歌」118篇10~29節

                       仁井田義政 牧師                                        

 この118篇は、宗教改革者マルチン・ルターがこよなく愛した詩篇です。しかし、今日はルターのことを話そうとしているのではなく、もっと激しい迫害を受けられたイエス様をお話しするのです。この詩は、イエス様がゲデロンの谷で読まれたものと言われているのです。

★最後の晩餐の後、イエス様と弟子達は、祈るためにオリーブ山に向かわれました。そこはいつもの祈りの場所だったので、イエス様はそこにユダが敵を連れて来ることも知っておられました。イエス様は、そこで捕えられ、なぶり者にされ、殺されることも知っておられました。

★イエス様は、エルサレムの町を出たゲデロンの谷の辺りで、この詩篇を歌われました。その歌は「主に感謝せよ」で始まり、「主の恵みはとこしえまで」と、しかも3回も繰り返される歌でした。「主は私の味方。・・・主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりも良い」(6~9節)と、ルターも自分と重ねてこの詩篇を読んだのです。この詩篇には、その強力な悪に「私は主の御名によって断ち切ろう」と3回も出てきます。イエス様が「私の名によって祈りなさい」と教えています。

さらに18節には「主は私をきびしく懲らしめられた。しかし私を死に渡されなかった」と記されています。それは十字架と甦りの預言です。それは人々が捨てた石、それが「礎の石となった」(22~24節)と記されている事から見ても明らかです。イエス様ご自身が、マタイ21章42節でこの言葉をご自身のこととして引用しておられます。さらには、25節の「ああ、主よ。どうぞ救ってください」との言葉は、イエス様がエルサレムに入られる時に、人々が叫んだヘブル語の「ホサナ」と言う言葉なのです。

★イエス様は、十字架に向かう暗闇の道を歩みつつ、この歌を歌われたのです。私達にも、イエス様が通られた「ゲデロンの谷の暗闇」のような時があるかもしれません。そのような時にも「あなたは、私の神。私はあなたに感謝します。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と歌うようなクリスチャンとなりましょう。

1月12日礼拝「世界の救い」

詩篇講解(NO.117)「世界の救い」117篇1~2節

                       仁井田義政 牧師                                        

 今日の詩篇は、詩篇の中でいちばん短い詩篇ですが、最も大きな内容が記されています。それは「全ての国々よ、主をほめたたえよ。全ての民よ、主をほめたたえよ」と記されているからです。キリスト教会の究極目的は、この一節にすべて込められています。私達、溝の口キリスト教会も、今日の御言によって、キリストの教会の偉大なるビジョンに連帯する自覚を持つものとなりましょう。

★今日の詩篇の内容は、単純明快で何ら説明などはいらない御言です。 「全世界の人々よ、主をほめたたえよ」とは、全ての国々への神様の招きです。「全ての民よ、主をほめたたえよ」とは、一人残らずと言う神様の招きです。神様には、イスラエル人とパレスチナ人の差別はありません。ウクライナ人とロシア人の差別もありません。それを乗り越えられずに戦争があるのです。「この土地は私達民族のものだ」と争っているのです。

★イエス様は、この詩篇を最後の晩餐の後に弟子達と歌い (マタイ26:30・マルコ14:26)オリーブ山に向かわれました。キリストの十字架こそ、世界の救いと全ての民の救いが実現するのです。弟子達の誰も、この事を知りませんでした。その中で初代教会が始まったのです。

★その事を知ったのは、パウロでした。ですがパウロが新しい教えを作り出したのではありません。旧約聖書にそう約束されていたのです。弟子達はみなユダヤ人であったために、ユダヤの選民思想に溺れ、キリストの救いが全世界の為であることを理解することが出来なかったのです。パウロは、ロマ書15章11節で、この117篇1節を引用しています。

★イエス様にとっても十字架は苦しみでしたが、十字架を越えた向こうに、世界の人々の救いの希望がありました。それは、アブラハムと神様との約束(創世記12:1~3)でした。そこの「地上の全ての民族は、あなたによって祝福される」との約束の実現です。世界宣教は教会のゴールです。ゴールばかりを見て足元を忘れてはなりません。また、足元ばかり見てゴールを忘れてはなりません。しっかりと計画を立てましょう。それが教会会議なのです。

 

2025年1月5日礼拝「私は主を愛する」

詩篇講解(NO.116)「私は主を愛する」116篇1~8節

                       仁井田義政 牧師                                        

 皆さん、あけましておめでとうございます。今年最初の日曜礼拝です。皆さんにとって、2025年が素晴らしい年となりますようお祈り致します。今日のメッセージは、新年初めの礼拝にふさわしい詩篇116篇の御言です。

★詩篇116篇1節は「私は主を愛する」で始まっています。この御言ほど、新年にふさわしい御言はありません。詩人は今、途轍もない困難に遭っています。3節は、死を感じさせるほどの病気なのか、敵との戦いなのか、経済的なことなのか、そのいずれかでしょう。

★詩人は、その中で「主は情け深く、憐れみ深い」(5節)と記しました。どのように「情け深く、憐れみ深い」のでしょうか。それは6節の「主はわきまえのない者を守られる」と記されています。信仰の完全な人の祈りだけが聞かれるのではありません。たとえ不完全であっても、祈る者の祈りを主は聞いて下さるのです。そこに、主を信じる者の「全き憩い」(7節)があるのです。

その神様に「私は主を愛する」(1節)とは、どのようにして愛すると言っているのでしょうか。それは17節の「感謝のいけにえ」を捧げることです。この詩篇で言われている「感謝のいけにえ」とは、公けの礼拝での賛美であり、感謝です。

★あなたは新しい年に何をすると決意されましたか。もう決められた方も、まだ決めておられない方も、はっきりとした目標を設定しましょう。それは今日の御言にある「私は主を愛する」と言う決意であり、「私は、自分の誓を主に果たす」(18節)という信仰の実践です。それ以外の事は、「これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。」(マタイ6:32~33)とイエス様が教えておられます。第一の事を第一にする時に、全てが添えて与えられるのです。

2025年の今年は、私達の教会にとっても開拓から50年という記念の年です。私達は主を愛する年、主を愛することを実践する年として、団結して前進しましょう。

12月29日礼拝「主よ、栄光はあなたの御名に」

詩篇講解(NO.115)「主よ、栄光はあなたの御名に」115篇1節~18節

                       仁井田義政 牧師                                        

今日は、2024年最後の日曜礼拝です。この詩篇も、イエス様の最後の晩餐において読まれました。114篇、115篇、116篇が読み終わると、最後の杯が飲み干されます。そして117篇の詩篇が読まれ「過越し祭」が終わるのです。私達は、2024年の最後にイエス様とひとつになりましょう。

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★1節に「私達にではなく、栄光をあなたの御名のために」と記されています。これが、クリスチャンの生き方なのです。しかし、私達人間はみんな手柄や良き行いを、自分の名誉や栄光にしてしまいやすいのです。「栄光を神の御名のために」とあるように、全てを神様にお返し致しましょう。

★しかし弟子達は、イエス様と共に3年6カ月もいたのに、そのことが全く分かりませんでした。彼らは最後の晩餐で「イエス様が地上の王となられた時には「私を国の№2、№3にして下さい」と頼みました。彼等の中には、神の栄光など二の次という生き方が見えるのです。ですから数時間後、イエス様が捕えられた時、彼らはイエス様を捨てて逃げ去ったのです。

2~8節は、第一義的には偶像礼拝者達のことに言及しています。しかし、第二義的に、最後の晩餐に読まれた詩篇としてみる時に、弟子達の信仰姿勢と相まって聞こえてくるのです。それは、3年6カ月もイエス様と一緒にいながら、なお権力と富を求め偶像化している不完全な弟子達の信仰の姿です。

★9節からの御言には「主に信頼せよ」と繰り返し記されています。弟子達は、漁師から巨大国の大臣に、もう直ぐなれるのだと思っていました。しかしこの後、ゲッセマネの園で形勢は逆転し、イエス様が捕えられ、弟子達はエス様を見捨てて逃げ去ったのです。

★15節にあるように、私達の神は「天地を造られた神」であられます。神様に失敗などひとつもありません。失敗に見えた十字架さえも、最大の成功となったのです。ですから最後の18節にあるように、私達も「今よりとこしえまで主をほめたたえよう」ではありませんか。私達も今年最後の礼拝を「ハレルヤ」と感謝して終わりましょう。

12月22日 クリスマス礼拝「キリスト誕生とマリヤの不幸」

2024,クリスマス礼拝「キリスト誕生とマリヤの不幸」ルカ2章1~7節

                                    仁井田義政 牧師                                     

 キリストの誕生は、現実歴史の真っただ中でなされました。現実歴史とは、想像や空想や人間の「こういう人が現われたら良いな」等と言う願望によって作られた話とは違うということです。

★キリスト誕生の時に「皇帝アウグストが人口調査の勅令を出した」ことが記されています。アウガストは紀元前63年9月23日生まれで、紀元14年8月19日死去の実在の人物です。彼はローマ史上最大の権力者でした。マリヤとヨセフはナザレの村の出身で、勅令がなければベツレヘムに行くことはありませんでした。ナザレからベツレヘムまでは直線で115キロです。大体東京駅から日光までの距離です。

★アウガストの勅令が無ければ、マリヤとヨセフはベツレヘムに向かうことはなかったでしょう。ベツレヘムは、約1000年前、ダビデ王の出身地でしたが、キリスト誕生の頃には、小さな村となっていました。しかし旧約聖書ミカ書5章2節に「そこにイスラエルの支配者が出る」と預言されていたのです。ベツレヘムでのキリストの誕生は、ミカの預言の成就でした。

皇帝アウガストの勅令は、マリヤにとって不幸でした。ヨセフのいない間マリヤはナザレにいられなくなったからです。それは、マリヤが結婚前に身ごもったからです。そしてそれはヨセフの家族にとっても、マリヤの家族にとっても、マリヤをふしだらな女として、家族の恥とする考えが強かったからではないかと思われます。聖霊によって身ごもったことは、マリヤの不幸となりました。

★ただその不幸は、全て神様の素晴らしい御計画でした。もし皇帝アウガストの人口調査がなかったならば、またマリヤへの家族の無理解がなかったならば、ヨセフが一人でベツレヘムに向かったはずです。当時、女性は行かなくても良かったからです。しかしキリストの誕生によって、全てが神様の御計画であったことが分かりました。あなたにも不幸や苦しみがあるかもしれません。その全てが、ベツレヘムにお生まれになったイエス様にお会いする時、その苦しみの意味が分かるのです。あなたもイエス様を心にお迎えして、不幸を恵みに変えてしまう素晴らしいクリスマスを迎えましょう。

12月15日礼拝「地よ。主の御前におののけ」

詩篇講解NO.114「地よ。主の御前におののけ」114篇1~8節(待降節第三週)

                          仁井田義政 牧師                                  

 アドベントの第3週に入りました。神の御子が、私達の救いの為にこの地上に来て下さったということは、まさに7節にあるように「地よ。主の御前におののけ」全世界の人々が驚きおののきつつ感謝し、礼拝する時ではないでしょうか。

★この詩篇も、出エジプト記が背景になっています。「異なる言葉の民」とはエジプト人達のことで、ユダヤ人達にとっては異教徒でした。またユダヤ人達はその奴隷だったのです。ユダヤ人達は神様によってそこから救出され、ユダ地方は聖地となり、イスラエルは領地となりました。イエス様が生まれたベツレヘムはユダの地であり、イエス様の十字架と昇天も、ユダの地エルサレムとなったのです。

★その地がキリストの誕生と昇天の地となるためには、神の奇跡の連続がありました。神様がイスラエル民族からのキリストの誕生に固執されたのは、アブラハムとの契約があったからです。ユダヤ人の奴隷からの救出には、神様の奇跡の連続がありました。「海は逃げ去り、ヨルダン川は逆さに流れた。山々が地震になった」のも、みなユダヤ人の力によったのではなく、神様の一方的な奇跡によったのです。

★ルカ9章28~36節には、変貌の山での事が記されています。イエス様の時代には「70人訳ギリシャ語聖書」が普及していました。その聖書には出エジプト記がギリシャ語で「エクソダス」と記されています。実はその言葉が「変貌の山」の所に出てくるのです。イエス様はモーセとエリヤと一緒に「サレムで遂げようとしておられる最後(エクソダス)の事を話していたのである」と記されています。しかし「弟子達は眠くてたまらなかった」とも記されています。

★その後モーセもエリヤも見えなくなった時、弟子達は「彼の言うことを聞きなさい」との神様の声を聞きました。私達を救い出すイエス様による「エクソダス」を聞くのです。

私達は、私達を救うために来てくださったイエス様に、「おののきつつ」感謝するクリスマスを迎えましょう。 

11月8日礼拝「身を低くされた神」

詩篇講解NO.113「身を低くされた神」113篇1~9節(待降節第二週)
                                     仁井田義政 牧師
今日は、主の御降誕を待ち望む第2週です。来週の日曜日夕方5時からは、溝の口駅前のキラリデッキでクリスマスキャロルを行ないます。そして再来週の22日は、クリスマス合同礼拝と、クリスマス・ハンドベルコンサートが行なわれます。さらに24日夜には、クリスマスキャンドル礼拝が行なわれます。今日はアドベントメッセージとして、「身を低くされた神」という題でお話し致します。
★そのようなクリスマスシーズンにぴったりな御言です。なぜならば「主をほめたたえよ=ハレル」が3度も繰り返されて奨められているからです。3度は3回とは違います。それは「どこまでも」と言う意味です。イエス様が捕らえられた時、ペテロが「3度あの人を知らない」と言ったのは、徹底否定を意味していました。
★どこまでも主をほめたたえる理由は、偉大な神が「身を低くされた」からであると6節に記されています。それは、全歴史において君臨される神であると同時に、身を低くされる神だからです。ピリピ人への手紙2章6~11節には、神は「自分を無にして、人間と同じようになられ、自分を卑しくし(犯罪者として十字架刑に)十字架の死にまで」これが、身を低くされたキリストなのです。
★なぜ、「偉大な神が身を低く」されたのでしょうか。それは7節「弱い者を、ちりから起こし」とあります。「ちり」とは、最も小さな微粒子のことです。また「あくた」ともあります。「あくた」とは、直訳は「ゴミ」のことです。最も小さく、ゴミのような存在の私達を神の子とされたのです。
★最後に「子を産まない女」(9節)のことが記されています。イエス様は結婚されていませんから、当然子供はいません。しかしイエス様は、今や多くの霊的子供達に囲まれています。その霊的子供達が、キリスト誕生のお祝いの準備をしているのです。それがアドベントなのです。
★私達もハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!と、低きに下られた神の御子イエス様を賛美しましょう。アドベント週を、クリスマスに人々をお誘いする期間として、大切に過ごしましょう。