Monthly Archives: 8月 2022

8月28日礼拝「主は私の羊飼い」

詩篇NO23「主は私の羊飼い」23篇1~6節

                        仁井田義政牧師

今日の詩篇は、詩篇の中で最も有名です。そこには、私達に対する霊的な祝福が溢れています。先週の22篇の中には、「エリ、エリ、レマサバクタニ」というイエス様が十字架の上で叫ばれた言葉がありました。その次の詩篇に、私達への溢れるほどの祝福が記されているということは、図らずして為しえた神様の美しい御業ということができるでしょう。キリストの十字架のお苦しみがなかったならば、クリスチャン達の祝福もなかったからです。今日は、神様の恵みに溢れた御言をお話し致しましょう。

★1節に「主は私の羊飼い」とあります。ダビデは羊飼いでしたから、王様になってからも、神様と自分を羊飼いと羊の関係で記しているのです。羊飼いは、多くの羊を群れで飼っています。それなのに、ダビデは「主は私の羊飼い」と言っているのです。どんなに多くの信徒がいても、「主は私の羊飼いです」と信仰告白が出来る人は幸いです。

★イスラエルは、砂漠地帯です。その土地にはまばらな草しか生えません。そのために、常に移動しながら草を得る生活です。ですから羊飼いの優れた能力が必要なのです。ある時は、次の牧草地や水飲み場に「死の影の谷」と言われる所を通って行かなければならないこともあります。クリスチャンにも、そのような苦しい谷を通らなければならないことも起きます。しかし神の愛に信頼している人は、災いを恐れないのです。

★それでは、死の陰の谷を通ってもなぜ恐れないのでしょうか。それは、4節に「あなたが私と共におられますから」と記されています。1~3節までは「主は」という三人称で記されています。しかし、4~5節で「あなたが」という二人称で4回も記されています。神様を「あなた」と呼べる関係が与えられているのです。マタイ28章20節では、イエス様が「見よ、わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と約束されています。

★さらに「あなたは敵の前で食事を整え、私の頭に油を注いでくださいます。」と記されています。「頭に油」は、主の祝福の象徴であり、聖霊の象徴でもあります。ダビデも油を注がれて王様になりました。私達も、ダビデに倣って詩篇23篇を私の詩篇としましょう。そして3節にあるように、「たましいを生き返らせて」頂きましょう。

8月21日礼拝「エリ、エリ、レマサバクタニ」

詩篇NO22エリ、エリ、レマサバクタニ」22篇1~8節

                        仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、31節からなる長い御言なので8節までを読んでいただきました。ダビデの詩篇の中で、これほど苦しみに満ちたものは他にありません。その苦しみは、ダビデから千年後、イエス様によって成就するのです。この22篇は、キリストの十字架の預言なのです。

★22篇の中心的な御言は、「わが神、わが神、どうして私をお捨てになったのですか」です。ヘブル語では「エリ、エリ、レマサバクタニ」であり、アラム語では、「エロイ、エロイ、ラマサバクタニ」です。ヘブル語ではマタイによる福音書に、アラム語ではマルコによる福音書に、イエス様の十字架上の言葉として記されています。「どうして」とは、「自分には神様に捨てられるような理由がひとつも見当たらないのに」との意味です。

★続いてダビデは「けれどもあなたは聖であられ」と記しました。「けれども」は、「私がなぜ神様から捨てられるのか全くわからないが」の意味です。悪い者には悪いことが起こり、良い者には良いことが起こる。という因果応報には当てはまらないということです。「けれどもあなたは聖であられる」。つまり神様がなさることには、何一つ間違いがないとの信仰の言葉なのです。

★続いて「犬どもが私の手足を引き裂き、私の着物をくじ引きにします」と記されています。「犬ども」とは、乱暴な者、愚かな者、異邦人をさす言葉です。文字通りイエス様の十字架の下では、ローマの兵隊がイエス様の着物をくじ引きで奪い合いました。そのような人々の手によって、イエス様は十字架の上で処刑されたのです。

★さらにダビデは、苦難の後に全世界は主を賛美するようになり、その規模は、地の果てにまで及ぶと記しました。このようなことは、キリストの十字架と、その後のキリスト教会を抜きには考えられません。この詩篇の預言のように、現代ではキリストは世界中で賛美されているのです。

★キリストは十字架の上で「エリ、エリ、レマサバクタニ」と叫ばれました。イエス様に全く罪が無かったのに、私達の罪の身代わりとなって十字架つけられたのです。ですからイエス様の十字架の救いを信じる者は、直ちに全ての罪が赦されるのです。それゆえに私達は、イエス様を礼拝し賛美するのです。今日も私達の救い主イエス様を心から賛美し礼拝しましょう。

8月14日礼拝「私はあなたの御力を喜ぶ」

詩篇NO21私はあなたの御力を喜ぶ」21篇1~7節

                        仁井田義政牧師

21篇は、20篇の続きであったろうと言われています。20篇7節で「ある者はいくさ車を誇り、馬を誇る」と人間の愚かさを記していますが、それに応えて「しかし私たちは、私たちの神、主の聖名を誇ろう」と続いています。そして21章1節では「主よ。王はあなたの御力を喜びましょう」と記されています。私たちは何を喜びとしているでしょうか。今日の御言によって、私たちの喜びをどこにおいて生活しているかをはっきりと確かめたいと思います。

★選挙が終わって臨時国会に新議員たちが、緊張して登庁していました。期を重ねるごとに、初心を忘れて当選することが目的になってしまう人が多いように思います。私達は国会議員ではありませんが、権力が喜びの誘惑となりやすいことは同じだと言えるでしょう。

★権力だけではありません。健康に喜びを置いている人もいるでしょう。しかし健康もいずれ崩れるのです。家族に喜びを置いている人もいるでしょう。しかし子供たちもいずれは親元を離れるのです。子供に喜びをおいていた人が、今は孤独な老人となっている人が多いのです。

★健康が大切ではないと言っているではありません。また家族が大切ではないと言っているのでもありません。それらが大切であることは大前提として踏まえ、さらに大切なものがあると言っているのです。ダビデは「あなたの御力を」「あなたの御救いを」「喜び、楽しむ」と言って、喜びの源を明らかにしています。

★3~6節の「純金の冠をおかれた」と、詩篇20篇6節に「油注がれたもの」とはキリストのことであろうと言われています。また「王の支配はとこしえまでの長い日々」という御言にふさわしい御方は、キリスト以外にはおられないからです。

★私たちは1節にあるように、「その御方によって救われた」のです。それを喜び、楽しむのです。ダビデの実生活には、多くの苦しみがありました。しかしダビデの心には賛美があり、感謝に溢れていました。

私達も永遠の救い主を信じていることに、喜びと楽しみの基礎を置こうではありませんか。

8月7日礼拝「主の御名を誇ろう」

詩篇NO20主の御名を誇ろう20篇1~9節

                        仁井田義政牧師 

 この詩は、イスラエルの民がダビデ王のために祈る形式をとっています。ダビデは、イスラエル史上最強の王でした。しかしダビデは、イスラエルの民に王のために祈ることを求めました。その内容は、謙遜と神への信頼に満ちています。第一義的には、ダビデ王が国民に依頼した祈りですが、第二義的には、この詩篇の「王」を「王の王、主イエス・キリスト」に当てはめて読むことも可能だと思います。それと同時に、私達の信仰姿勢と大切な関係がある詩篇でもあります。

★1~3節の中で、ダビデは「王である私にも苦難の日がある」と言い、その日のために祈ってほしいと言っています。当時の王は「どんなことでも突破し、解決できる」と自分を誇示して民を治めるのが常でした。ダビデはそうではなく、「苦難の日」のために祈ってくださいと依頼しています。

★4~5節の「願い」や「はかりごと」とは、計画のことです。つまり計画通りになりますようにとの祈りです。そのために必要なのは、王とひとつになって、信仰の「旗を高く掲げる」ことでした。そのように民がひとつになって「旗を高く掲げて」祈る時、主があなたの願いの全てを遂げさせてくださいと祈ることが出来るのです。

★「ある者は、戦車や馬を誇る。私たちは主の御名を誇ろう。」と言っています。三千年前の軍備で、馬や戦車は最高の兵器でした。ですから、他国は競って軍備増強のために馬や戦車を取り入れたのです。しかし、ダビでは馬や戦車の軍備はしませんでした。「神様が守って下さる」という信仰に立っていたからです。馬や戦車を莫大な規模に取り入れたのは、ダビデの息子ソロモンでした。それを裏付けるように、最近ソロモン軍の馬屋跡が発掘されました。しかし統一王国は、ソロモン王を境に滅びてしまいました。ダビデには、石投げ器でゴリアテとの戦いで得た確信があったと思われます。

★私達は、軍馬や戦車でイスラエルを占領していたローマの十字架につけられた御方を知っています。その時もイエス様は、祈りの力を信じて「父よ、彼らを許したまえ」(ルカ23:34)と十字架の上で祈られました。ほどなくローマ帝国は滅び、イエス様は世界の王となられました。イエス様のご計画は、人々を救うことです。「そのご計画が実現されますように」と、私達も共に祈りましょう。