Monthly Archives: 2月 2024

2月18日礼拝「正義の神が見ておられる」

詩篇講解NO82「正義の神が見ておられる」詩篇82篇1~8節

                          仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、悪とは何か、神様の正義とは何かを教えています。聖書は神様の正義だけではなく、悪の存在をいたるところに記しています。

★悪が存在すれば、当然正義も存在します。聖書の正義は、単に人間の決めた決まり事、つまり法律や憲法を守るということ以上のものです。政治家に求められるのも、憲法や法律以上の志の高いものでなければなりません。それは何かというと、2~3節にある「弱い者、みなしご、悩む者、乏しい者を助け出す」ことなのです。

★それを知らない人達の指導する国や社会には、安定がなく希望がなく、見通しが立ちません。現代は、共産主義も民主主義も行き詰っています。世界的には、国際連合も何の決断も出来ない状態です。日本の国会を見ても、居眠り議員や、自分の選挙の為に走りまわる議員や、都合が悪いと突然記憶喪失になる議員や、病院に逃げ込む議員もいます。派閥の権力者になるために、不正なお金をパーティなどで集め、それを部下にばら撒く始末です。

★82篇の詩人は、神の預言者的な目をもって、神の正義とは「弱い者、みなしご、悩む者、乏しい者を助け出すことだ」と記しています。それを見失っている党や個人は、悪魔的な存在なのです。ですから私達は、選挙の時だけではなく、常日頃から見張っていなければなりません。その議員が「弱い者、みなしご、悩む者、乏しい者を助け出す」志を持っているかどうかが、その人を見分ける試金石なのです。

★さて私達は、指導者や政治家などの不正を見る時、途方に暮れてしまいます。しかもその不正は、アダムとエバの時代から何一つ変わっていないのを知ると、さらに途方に暮れるのです。統一教会と政治家の結びつき、車関係の大企業の不正など、何故それらがこうも次々に起こるのでしょう。それは不正を裁かれる神様がおられることを信じていないからです。正義の神様は、私達の全ての生活をいつも見ておられます。

クリスチャンである私達は、しっかりとそのことを心に留めて、正義の神様の御心にかなう生活をしましょう。

2月11日礼拝「メリバの水のほとり」詩篇81篇1~16節

詩篇講解NO81「メリバの水のほとり」詩篇81篇1~16節

                          仁井田義政牧師

 この詩篇は「喜び歌え。喜び叫べ」という礼拝賛美への招きで始まっています。神様は、四百年以上も奴隷となっていたイスラエル民族を、エジプトの国から救出して下さいました。しかし民は不信仰になり、神様に不平ばかりを言っています。ここでは人間の罪深さが示されています。

★メリバは、旧約聖書の2か所に出てきます。第一回目は、出エジプト記17章6~7節に記されています。この時、神様はモーセに岩を杖で打って水を出すように命じました。第二回目は、民数記20章1~13節に記されています。カデシュバルネア近くでこの時、神様は岩に命じて水を出すように命じました。しかしモーセは二度も岩を打ってしまいました。そのため、神様の怒りによって、モーセも約束の地に入れてもらえませんでした。

★この詩が書かれた時、北王国イスラエルは混合宗教となっていました。北王国イスラエルの地は農業にむいており、南は牧畜にむいていました。北王国の王は、国内に外国の神々の礼拝所を作ることも許しました。イエス様の時代にさえも、イスラエルの北方は「異邦人のガリラヤ」(マタイ4:15)として、軽蔑されていました。それはイザヤ9章にも記されています。

★神様は「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」(10節)と記されています。「しかし、わが民はわたしの声を聞かず、従わなかった。それで彼らの思うように歩かせた」(11~12節)と記されています。北はアッシリヤの、南はバビロンの奴隷とされてしまったのです。

★今日の御言のキーワードは、10節の「わたしが、あなたの神、主である。」です。イスラエルの民がメリバで喉が渇く試練に遭った時に、神様はイスラエルの民を試しました。本当はその時にこそ、神様の力を信じて「信仰の口を大きく開ける」(10節)ことが必要だったのです。そうすれば16節に記されているように「主は、最良の小麦をイスラエルに食べさせる。」「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせて」くださるのです。

その神様は、あなたの為にも身を乗り出して「わたしが、あなたの神、主である」と語り掛けてくださっています。私達は、喜びと叫びをもって神様を礼拝し、賛美しようではありませんか。

2月4日礼拝「私達をもとに返して下さい」

詩篇講解NO80「私達をもとに返して下さい」詩篇80篇1~19節

                         仁井田義政 師

 詩篇80篇は、北王国イスラエルが滅亡し、南王国ユダがまだ存続していた時代のものだろうと言われています。南王国滅亡が紀元前722年頃であり、南王国ユダ滅亡が紀元前586年頃ですから、その間の作かもしれません。その証拠は、2節に「エフライム」「ベニヤミン」「マナセ」という北王国イスラエルに住んでいた民族名が出てくるからです。今日の詩篇80篇の中心的な御言は、「私達をもとに返してください」という祈りです。

★その祈りは、三回繰り返されています。一回目は3節の「神よ」。二回目は7節の「万軍の神よ」。三回目は19節の「万軍の神、主よ」ですが、繰り返すごとに神の名が強化されています。それは詩人の信仰が、祈りの中で強められている証拠です。

★1節に「ケルビムの上の御座についておられる方よ」との祈りがあります。このケルビムは、「契約の箱」上につけられた飾りです。ケルビムが聖書に最初に出てくるのは、エデンの園からアダムとエバが追放された所(創世記3:24)です。アダムとエバが、二度とエデンの園に入れないように置いた天的な存在なのです。詩人は、ケルビムの上におられる神様に祈っています。

★「神様の御顔が輝いていた時に」は、詩人が祝福された民と認識しています。「ヨセフを羊のように導かれていた」時は、「ブドウの木のように」勢いがありました。その枝は海にまで伸びました。海は、地中海かも知れません。川は、チグリス・ユーフラテスかも知れません。杉の木は、レバノン杉かも知れません。しかし今は、そのブドウの木も神の手によって切り倒され、神の御顔のとがめによって(16節)悲惨な状態となっているのです。

★イエス様はこのような状態を、父親を捨てて遠い国に行った放蕩息子の譬えで教えて下さっています。マックス・ピカートという哲学者の著書「神よりの逃走」という本の中に、「今や社会全体が神より逃走している。だから誰も、自分が神より逃走しているとは感じなくなってしまった」という文があります。私達は気付こうではありませんか。そして今日の詩人が言っているように、「私達をもとに返してください」と祈ろうではありませんか。しっかりと信仰に立ちましょう。