Monthly Archives: 1月 2022

1月30日礼拝「家族の中心はキリスト」

コロサイ書講解(NO.17)「家族の中心はキリスト」3章18~4章1節

             仁井田義政牧師

ローマ時代の家族の中心は、男性でした。一家の序列は、まず夫、次に妻、次に子供、そして最下位に奴隷がいたのです。そのような文化の時代に、今日の御言は書かれたのです。

★第一は、夫と妻と子の関係についての教えです。「妻は夫に従いなさい。夫は妻を愛しなさい。」こう記されたのは、出来たばかりのコロサイの教会に、夫婦問題が少なからず起こっていたからだと思われます。妻が夫に従うのも、夫が妻を愛するのも、創世記2章18節の「ふさわしい助け手」という言葉がそのことを教えています。その言葉はヘブル語の「ケネゲドー」で「向かい合って響き合う」という意味なのです。子供との関係においても同じです。キリストが家庭の主人となっていることが、最も大切なのです。

★ 第二は、奴隷についての教えです。奴隷は、家畜と同じように扱われ、どんなに働いても、報酬も感謝されることもありませんでした。その為に、奴隷達には何の希望もありませんでした。職業選択の自由も、その家を辞めることも出来なかったのです。そこで奴隷達は、主人の見ている前では一生懸命に仕事をしますが、見ていない所ではさぼったりしたのです。今日の御言は、奴隷達に「真心から従いなさい」と教えています。しかしこの言葉は、奴隷制度容認の勧めではありません。奴隷と主人の同列化の勧めです。それは23節で「人に対してではなく、主に対するように、心からしなさい」と教えていることから見て明らかです。

★第三は、奴隷達を家畜として扱ってきた主人達に対しての教えです。4章1節で「奴隷に対しても正義と公平を示しなさい」と教えています。それは、奴隷達の人権を認めなさいと言うことです。

★当時の教会は、小さな団体にすぎませんでした。しかしその悪い習慣に戦いを開始したのです。戦いと言っても、武力を伴う「革命」とは違います。今までの歴史で革命という美名のもとに、どれほど多くの人々が犠牲になったか知れません。犠牲を出さない世界最大の変革が、聖書から始まったのです。家族の変革、奴隷の改革が始まりました。「家族の中心はキリスト」という変革です。私達の家庭は、キリストが主人となっていますでしょうか。「イエス様!私の家の主となって下さい。」と祈りましょう。

1月23日礼拝「キリストの言葉を豊かに」

コロサイ書講解(NO.16)「キリストの言葉を豊かに」3章12~17節

            仁井田義政牧師

 今日の御言は、キリストを信じる人達がどのように生きるべきかの秘訣が記されています。不幸の多くは、人間関係において起こります。そのようなことが起こらないように、今日の御言の教えがあります。

★人間関係を幸せにする第一は、あなた自身が神様に選ばれ、愛され続けている(12節)という信仰の自覚を持つことです。神に選ばれているというのは、あなたが優れているからではありません。むしろ無きに等しい者であったのに愛されているという自覚です。また「愛されている」というのは、「愛され続けている」という意味です。その感謝の心が、寛容さを生むのです。ですからその後に、「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」という人間関係の徳目が続くのです。

★私達を幸せにする第二は、「互いに忍びあい、赦し」(13節)合うことです。私達人間は完全ではありません。人間の集まりですから、時には気分を害することもあるでしょう。そのような時には、主があなたを赦して下さったように、あなたも他の人を赦すことが大切なのです。キリストの平和が、あなたの心を支配するようにするのです。ですから聖書は「これら全ての上に愛(アガペー)を着けなさい」(14節)と教えています。愛は、バラバラなものをひとつにする帯のような働きをすると教えています。

★私達を幸せにする第三は、「キリストのことばを、あなたがたの内に豊かに住まわせなさい」(16節)ということです。人を赦すことは大切だと分かっていても、実際は難しくて出来ませんという人もいるでしょう。今日の御言は、そのような人に解決を与えています。それは「キリストのことばを豊かに住まわせる」ことです。キリストの言葉は、キリストそのものです。言葉は神であったと言われているからです。(ヨハネ1章1節)

★そして、賛美と霊の歌を歌うことです。賛美と霊の歌を感謝に溢れて献げ、キリストに住んでいただくのです。そうすればキリストが素晴らしい日常をあなたに作って下さるのです。私達が自分の主人である限りは、そうはならないのです。なぜなら私達は、不完全な人間だからです。キリストのことばをたくさん暗記しましょう。そして私達の内に、キリストに住んでいただきましょう。

1月16日礼拝「益々新しく」

コロサイ書講解(NO.15)「益々新しく」3章9~11節

            仁井田義政牧師

1月も半ばになりました。気を付けないと、今年も昨年と変わらない一年となってしまいます。しかし今日の御言の3章10節には、「益々新しくされ、真の知識に至るのです」と記されています。キリスト者の正しい信仰生活は、日々古くなっていくのではありません。日々新しくされていくのです。どのように新しくされていくのでしょうか。それはクリスチャン品性においてです。

★クリスチャン品性①新しい人とは、嘘をつかない人です。「嘘をつく」という癖が、人間には浸み込んでいます。自分を守るための口実などです。政治家なども「秘書がやったことで」や「記憶にございません」などと嘘をつきます。そう言われると、法律も心の中までは裁けないので、証拠不十分で「不起訴」になってしまうことが多いのです。私達人間は、そのようなことを知っているので、嘘をつきやすいのです。クリスチャンは、嘘をつかないことに心掛けなければなりません。

★クリスチャン品性②新しい人とは、キリストに似た者となる人です。聖書は、クリスチャンになる以前の人を古い人と言っています。その古い人を完全に脱ぎ捨てる覚悟と決意が必要です。脱ぎ捨てたならば、キリストに似せられた新しい人を着る決意が大切です。それは、キリストの品性です。ヘブル語でキリストは「メシア」で、「油注がれた人」という意味です。聖霊に満たされた人のことなのです。ですからキリストに似た者となるためには、聖霊に満たされることが大切なのです。

★クリスチャン品性③新しい人とは、人を決して差別しない人です。二千年前は、差別社会でした。今日の聖書にも、民族差別(ギリシャ人とユダヤ人)、宗教的差別(割礼の有無)、文化的差別(未開人・スクテヤ人)、社会的階層差別(奴隷と自由人)等が出てきます。奴隷は、人間として数えられない時代でした。キリスト教会において、このような差別が絶対にあってはなりません。今日の御言では、三つのことを話しました。このことをクリスチャンとして決意しましょう。

★キリストが全てなのです。全ての人々の内にキリストがおられるのです。私達は、日毎にキリストに似た品性を身に着け、新しくされ続けなければなりません。古い人に逆戻りしてはなりません。キリストの愛を持つ人になりましょう。「私を日々新しい人にして下さい!」と祈りましょう。

1月9日礼拝メッセージ

コロサイ書講解(NO.14)「上にあるものを求めなさい」3章1~8節

                    仁井田義政牧師

新年も第二週となり、コロサイ書からのメッセージに戻ってきました。今日の御言は、新年の御言にふさわしい「上にあるものを求めなさい」です。それは、「上から与えられるもの」を求めなさいとのクリスチャンにとって大切な教えです。

★「キリストと共によみがえらされた」とは、洗礼のことです。古い自分は死んで、新しい命によみがえったのです。また「上にあるもの」とは、啓示によって与えられた聖い道徳のことです。地上の人間からの道徳ではありません。「上にあるものを求める」ことこそ、人間なのです。ギリシャ語の人間は、アンソロ―ポス「上を見るもの」という意味でもあるのです。

★しかし、私達は地上に生きています。地上に生きているから、地上のものに心が引かれるのです。そしてその地上の力は強いのです。その地上の力とは、「不品行、汚れ、情欲、悪い欲」のむさぼりなのです。むさぼりとは、際限のない欲望に生きることです。それらから信仰心を守るためには、上にあるものを求め、天にあるものを思い続ける必要があるのです。その為に祈りがあり、日曜日ごとの礼拝があり、各集会があります。ですからこれらを大切にしましょう。

★かつての汚れた生活から救いに与かったのに、再度汚れたこの世の生き方に戻れば、神の怒りがくだると記されています。しかし旧約時代のように、即座に裁かれることを現代では見ることが出来ません。それは、キリストによってもたらされた神の忍耐の時代だからです。悔い改めて信仰に戻るように、神は忍耐して待っておられるのです。しかしそれでも、地上の欲に生き続ければ、必ず後に「神の怒り」が裁きとなって臨むのです。

★神の怒りが下るという考えは、一般的に受け入れられないことかも知れません。クリスチャンの中にさえ受け入れていない人がいるのではないでしょうか。罪に対して、不信仰に対して、旧約時代のように即座に裁きが臨まないからです。イエス様が祈られた「彼らは何をしているのか分からないのです」という十字架上の祈りの時代なのです。しかし神の怒りは必ず望むのです。私達は、天にあるものを第一に求め続けるクリスチャンとなりましょう。

2022年最初の礼拝「深みに網をおろして魚をとりなさい」

2022年最初の礼拝「深みに網をおろして魚をとりなさい」ルカ5章1~11節

            仁井田義政牧師

みなさん明けまして、おめでとうございます。今年の御言は、ルカ5章4節「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」で、今年の標語は「御言による新しいチャレンジ」です。今日は、「今年の御言」とさせて頂いたルカによる福音書の中に出てくるイエス様の言葉です。

★この言葉は、イエス様が漁師のペテロに話された言葉です。この時のシモンは、すでにイエス様に従っており、奇跡も見ていました。(ルカ4:38~39参照) しかし、群衆の熱心な御言を聞く姿勢とは対照的に、昨夜の不漁で失望し網を繕っていました。既にイエス様に従い始めてはいましたが、生活の為には、網を洗い繕い次の漁の準備を優先せざるを得なかったのです。

★イエス様は、あまりにも多くの群衆の為にペテロに舟を漕ぎ出すように求められました。岸から少し離れた所から話を続けようと思われたからです。ペテロもクリスチャンでしたからイエス様の求めに従い、舟を出しました。イエス様は話が終わると、ペテロに「深みに漕ぎ出し、漁をしてみなさい」と言われました。ペテロがその言葉に従って網を下ろしてみると、漁の時間ではないのに、大漁となったのです。

★ペテロはイエス様から「網を下ろしてみなさい」と言われた時、「先生」と答えました。しかし大漁の後には「主よ」と言っています。「主」とは、神様を表わす言葉です。それに続いて「私は罪深い者です」と言いました。それは罪の悔い改めです。ペテロは、本当のキリストの弟子となる為に、今までの信仰姿勢を悔い改めたのです。イエス様は悔い改めたペテロに「これからあなたは人間をとる漁師になるのです」と言われました。

★不漁で失望していたペテロに、イエス様は「深みに漕ぎ出して網を下ろして魚をとりなさい」と言われました。イエス様による新しいチャレンジの朝が来たのです。

個人のことにおいても、教会の各働きにおいても、今までの経験からのものではなく、2022年は深みに届く活動を開始しましょう。