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7月13日礼拝「バビロンでの嘆きの詩」    

                         仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、非常に感情的な詩です。現実の戦争は、残虐であり、激しい感情がぶつかり合い、憎しみの火花が散る地獄です。イスラエルの南王国ユダは、紀元前587年、新バビロニア王国のネブカドネツァルによって滅ぼされました。その時、ゼデキヤ王の子供達は目の前で殺され、王の両目はつぶされ、鎖につながれて、バビロンに連れて行かれました。その時の捕囚人数は約1万人です。この詩は、そのような時代背景の中で作られたものであることを踏まえて、読まなければなりません。

★ハビロンの地に捕らえ移されたイスラエルの民達は、二つに分かれました。奴隷の地で、その地の豊かさに心惹かれ、支配者におもねる人々と、頑として信仰を貫く人々です。ペルシャがバビロンを倒し、イスラエルの人々が解放された時、10部族が自らバビロンに残ることを選んだのです。

★この嘆きの詩は、信仰を守り通した人の歌です。彼がハビロンで苦しんだのは、神の名が汚されていることでした。ハビロン人達は「戦争に負けたお前の神は何処にいるのだ」「お前たちの神を讃える歌を歌え」と言ってあざ笑ったのです。イスラエル人の多くはその屈辱に屈して、ハビロン人と同化していきました。そのような中で、この詩人は「私は忘れない」と信仰を告白しているのです。

★7~9節は、憎しみの詩です。エドム人は、バビロン軍と一緒にエルサレムを攻撃しました。このエドム人の子孫が、イエス様時代のヘロデ大王なのです。彼は、ユダヤ人から王が出ることを恐れていました。その時、東方の博士達が「ユダヤ人の王は何処に生まれましたか」と言って訪ねて来ました。(マタイ2:1~3)今日の詩篇から587年も経ったイエス様の時代になっても、ヘロデ大王はイスラエル国民の仕返しを恐れたのです。そうして2歳以下の男の子を皆殺しにしました。

★戦争は両国に大きな傷を残します。平和な時に「戦争は絶対に良くない」と言うのは簡単です。しかし戦争になりそうな時「戦争は良くない」というのは非常に難しいのです。私達は、戦争がないこの時代に「戦争は絶対悪である」と主張し、戦争に反対し、平和を祈りましょう。

詩篇講解NO137詩篇講解NO137「バビロンでの嘆きの詩」詩篇137篇1~9節    

                         仁井田義政牧師

7月6日礼拝「主の恵みはとこしえまで」

詩篇講解NO136「主の恵みはとこしえまで」詩篇136篇23~26節    

                         仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、繰り返しの多い詩です。文学的な見地からすれば、美しさの枠から外れてしまうかもしれません。それは、ひたすら同じ文の繰り返しだからです。しかしこの詩は別名を「大ハレル」と呼ばれています。この詩は、礼拝を通して苦しみの中にある人に希望と勇気を与えます。

★まず1~9節までは、天地万物の創造者であられる神様に感謝する内容です。1節では感謝の理由を「主はまことにいつくしみ深い」方と言っています。いつくしみとは、神様の愛のことです。第二の理由は、神様が天地万物の創造者だからです。水も太陽も星も、神様の恵みによって造られたのです。決して偶然ではありません。この創造に、神様の英知と恵みが溢れています。

★1~22節までは、エジプトからの救出を神様に感謝する内容です。詩人は、出エジプトからバビロン捕囚期後までの歴史に言及しています。11節には「イスラエルをエジプトの真ん中から連れ出された」と記されています。約束のカナンの地に入ってからも、先住民とのいざこざが長い間続きました。しかし「主の恵みはとこしえまで」と繰り返すのです。

★23~26節までは、詩人の苦しみの体験です。詩人は自分の現在のことを「卑しめられた」「敵から」「食物を」と、経済的なことまで記しています。しかし神様は、天地創造から今まで、恵み深いお方であったと感謝しているのです。それゆえに、自分が今どのような状況にあろうとも、主の恵みが私の上にとこしえにあると言っているのです。

★詩人には、聖書の神による天地創造から現在までの歴史観がありました。その歴史には、人間が存在していなかった天地創造の時から現在に至るまで、神様がどのようなことをして下さったかの歴史観があったのです。ですから「卑しめられた体験」と「つぶしてしまおう」とする体験と、「食べ物の不足」を体験しても、その現実の苦しみにさえも希望があると告白し「主の恵みはとこしえまで」と、この詩を締めくくるのです。私達もどんな苦境にあったとしても、「主の恵みはとこしえまで」と感謝し、力強く生きていきましょう。

6月29日礼拝「ハレルヤ!主をほめたたえよ」

詩篇講解NO135「ハレルヤ!主をほめたたえよ」詩篇135篇1~8節    

                         仁井田義政牧師

今日の詩篇は「ハレルヤ!」で始まり、終わりの方には、何ヶ所にも「主をほめたたえよ」との薦めが記されています。真の信仰とは「主をほめたたえることである」と言わんばかりです。神殿での礼拝のための「都上りの歌」は、134篇で終わっています。しかしなお詩篇は「主をほめたたえよ」と繰り返し薦めています。それほどまでに、信仰には「主をほめたたえる」ことが大切なのです。

★ハレルとは「ほめたたえよ」という意味で、「ヤー」はヤーウェの短縮形です。聖書時代の信仰者は、神の御名をみだりに口に出すことを恐れたのです。それは出エジプト記20章7節に「主の名をみだりに唱えてはならない」と記されているからです。また聖書を読んだり祈ったりする時も、神の御名の所に来ると、人々は「アドナイ=主」と発音したのです。              

★詩篇135篇の作者は、「主の家で仕える」人にも賛美を薦めています。それは、牧師に「聖書を読みなさい」「祈りをしなさい」というのと同じです。そして礼拝に来られた一般の礼拝者にも、全ての信仰者に神様への賛美が薦められているのです。

★賛美の理由は、神様の救いにあります。1~4節には「主はまことにいつくしみ深いからである」と、5~7節には「神様が自然を支配されているからである」と、そして8~14節には「神様は救出の神だからです」と、さらには15~18節には「神は人間の作った偶像などではないからです」と記されています。それゆえに、神様は賛美を受けるに最もふさわしい御方であるのです。

★続いての19~21節までは、賛美への誘いのオンパレードです。この所では全聖職者集団と、全礼拝者に呼びかけています。礼拝においては聖職者も信徒もないのです。私達は、礼拝において主をほめたたえる時を最も大切な時としましょう。聖霊に満たされて、主をほめたたえるのです。その時、救いが起こり、癒しが起こり、奇跡が起こるのです。主は「賛美を住まいとしておられるからです。」私達は心から主を賛美しましょう。

6月22日礼拝「礼拝者に注がれる祝福」

詩篇講解NO134「礼拝者に注がれる祝福」詩篇134篇1~3節    

                         仁井田義政牧師

 今日の詩篇は非常に短い詩でありながら、重要な位置に置かれています。それは、120~134篇までの「都上りの歌」15篇の最後に位置しているからです。

★1節は、「主をほめたたえよ」との薦めで始まっています。長い旅をして神殿にたどり着き、数日間の礼拝の後、いよいよ帰らなければならない時が来たのです。その数日、主の宮での礼拝でどんなに祝福されたことか、その全ての感謝をこめて「全ての礼拝者、またとりなしの祈りをしてくれた祭司たち、主をほめよ」と喜びを現わしているのです。

★「夜ごとに、主の家で仕える者たちよ」は、祭司たちのとりなしの祈りのことです。夜は多くの人にとって眠らなければならない時です。しかし私達の眠っている時にも、眠らず祈って下さっている祭司たちがいるのです。

★また詩人は「祭司たちも、礼拝者たちも聖所に向かって手を上げ、主をほめたたえよ」と記します。「手を上げて」の礼拝とは、絶対的な信頼、心からの賛美を現わします。手を上げての賛美が、消極的であるはずがありません。牧師たちと信徒たちが手を上げ主をほめたたえる時、天地を造られた主から祝福が注がれるのです。

★夜ごとに主の家で仕える祭司たちを、新約聖書の光を通して見てみますと、大祭司と言われるイエス様の姿が浮かんできます。へブル7章24~25節と8章1節には、大祭司なるイエス様のことが記されています。現代の完全な聖所である天の聖所において、イエス様は神の右に座し、いつも私達の為に昼夜なく、とりなしてくださっているのです。私達が深い眠りについている時も、日々の生活の一寸先が見えない不安な時も、イエス様は私達の為に昼夜なく、とりなしの祈りをしてくださっているのです。

ですから私達は、主に信頼し、両手を上げ感謝して祈る時、今日の134篇3節の祝福が「天地を造られた主から来る」のです。私達は牧師たちも信徒たちも、ひとつになって手を上げて、賛美と感謝の礼拝をささげましょう。

6月15日「ひとつになる幸せ」

詩篇講解NO133「ひとつになる幸せ」詩篇133篇1~3節    

                         仁井田義政牧師

今日は父の日です。午後には、南地区の壮年合同集会がズームで行なわれます。さて、この詩は短い詩でありながら、読む者をほっとさせます。

先週はペンテコステの日でした。この詩篇は、ペンテコステの日と直接関係はありませんが、ある意味、充分に関係の深い詩であると思えるのです。

★まず「兄弟達がひとつになる幸せ」のことが記されています。兄弟と言っても、血縁関係にある一家族のことではありません。様々な悩みや問題を抱えながら、色々な地方から礼拝に集まって来た礼拝者達を意味しています。どこから来ても、どんな問題を抱えていても、父なる神様をひとつになって礼拝する主の兄弟達なのです。

★新約時代はさらに兄弟の範囲は拡大し、パウロはピリピ3章1節で主を信じる全ての人々を「兄弟」と呼んでいます。もちろん教会は天国ではありませんし、信徒達は天使達でもありません。ですから人間関係で問題が起きたりすることがあるのです。新約聖書の多くの手紙はその為に書かれました。主にある兄弟達は、それを乗り越えなければなりません。主にある兄弟だからです。違いを認め合いつつ、主の家に共に住み、主を礼拝するのです。

★「ひとつになって」とは、調和することです。英語では「ハーモニー」と言う語が使われています。音楽会には様々な楽器が用いられます。それぞれの楽器は、作られた国も音色も違います。そのそれぞれがハーモニーとなる時、そこに集う人達はその音色に酔いしれるのです。礼拝者は、主のもとにある兄弟姉妹達です。ですからひとつ心となり礼拝する時に、幸せと楽しさがあふれるのです。

★その幸せは「なんという幸せ」「なんという楽しさ」という感動なのです。「それは祭司アロンに注がれた油のようだ」と。神様にお仕えするための特別な聖別された油のことです。その油は、新約においては聖霊を現わします。兄弟が違いを認め合いながらも、互いに主を礼拝する者として和合する時、聖霊の油がその上に注がれるのです。そこに私達の幸せと楽しさがあります。私達も主を礼拝することにおいて、ひとつとなる幸せを頂きましょう。

6月8日 (ペンテコステ礼拝)「異言と聖霊の力」

(ペンテコステ礼拝)「異言と聖霊の力」使徒の働き2章1~8節    

                         仁井田義政牧師

今日は、世界最初の教会誕生の記念日です。世界最初のキリスト教会は、エルサレムに誕生しました。それは偶然ではありません。復活のイエス様が約束しておられたのです。それは、聖霊のバプテスマの力を受けた世界初の教会が誕生するということでした。

★それでは「聖霊のバプテスマ(洗礼)」とは、どのようなことなのでしょうか。バプテスマとは「浸す」と言う意味です。浸すとは、一滴二滴ではなく、全身が浸されるのです。特別な人にではありません。弟子達は「ガリラヤの人」と言われ、当時、無学な人とも言われていました。聖霊は、誰でも聖霊の力を受けたいと強く願って祈り求める人に与えられるのです。

★聖霊を受けたことは、どのようにしてわかるのでしょうか。それは自分の口から知らない言葉が出てくることによってです。イエス様は、明確に聖霊を受けると力を受けると言っておられます。

★しかし長い間、この真理は世界の教会に忘れられていましたが、今から124年前に、アメリカのカンサス州トペカの「ベテル聖書学院」で祈祷会を行なっていた時、学生のアグネス・オズマンが聖霊に満たされて、異言を語り出しました。それから今年で僅か124年です。その間にペンテコステ派は、世界で6億人以上に増加したと報告されています。それは世界人口の10%に迫る数です。ペンテコステ派はプロテスタントで最大となりました。

★世界のアッセンブリー教団は、MM33というビジョンを掲げました。昨年の世界のアッセンブリーの教会数は、450106です。あと8年位の間に100万教会にしようという計画です。日本の状況とあまりにもかけ離れていますが、聖霊を受けると力を受けるということは事実であり、イエス様が約束して下さったように、教会が力に満ちて活動していくために、絶対に必要な真理です。

★それぞれの教会が聖霊に満たされるならば、5名の教会が7名に、10名の教会が15名に、100名の教会が120名になるでしょう。

私達の教会にも、ますます聖霊の力が必要です。今日の午後に、聖霊待望会を行ないます。皆で、聖霊充満を求めて祈りましょう。

6月1日聖降臨前礼拝「ペンテコステの力に向かって」

聖降臨前礼拝「ペンテコステの力に向かって」ルカ24章44~53節 

                         仁井田義政牧師

来週はペンテコステです。それは教会誕生の記念すべき日です。今日は、その前の礼拝ですので、待ち望みつつ礼拝しましょう。

★ルカによる福音書と使徒の働きは、ルカによって書かれた前編と続編です。ルカは12弟子ではなく、パウロの伝道でクリスチャンになったギリシャ人である可能性が大です。ギリシャ人で異邦人のルカが、異邦人の高職「尊敬するテオピロ殿」と敬称を付けて書きました。敬称が書かれていることから、求道中だったのではないかと言われています。その後に書かれた使徒の働きには、敬称が書かれていません。クリスチャンになったからだと思われます。

★ルカは医者でもあり、歴史家でもありました。当時の医学用語が文中に用いられていますし、また歴史家として「はじめから綿密に調べて」書き、「順序立てて書いている」と記されていることから分かります。その目的は「正確な事実」を書いて、テオピロに献上することでした。前編は、キリストの誕生から昇天まで。続編は、キリストの昇天から福音がエルサレムからローマまでどのようにして伝えられたかを記しています。

★復活のイエス様が言われたことは「モーセの律法、預言者、詩篇の預言は全て成就する」「福音は、エルサレムから始まって、あらゆる国の人々に延べ伝えられる」ことでした。そしてそのための「力を着せられるまでエルサレムにとどまっていなさい」(ルカ24:49)と言われています。続編の使徒の働き1章4節では、その力が「聖霊のバプテスマ」であることを記しています。

★弟子達は、その約束の「聖霊のバプテスマ」がどのようものかを知らずに、エルサレムに留まって待ち望んだのです。洗礼者ヨハネも「私はあなたがたに水で洗礼を授けたが、私の後に来られる方は聖霊によって洗礼を授ける」と予言していました。しかし「聖霊による洗礼」がどのようなものか、何が起きるのかも知らずに、ただ「力を受ける」のを120名の者達が祈って待ったのです。弟子達は、聖霊の力を求めて10日間も祈りました。

私達も聖霊の力を求めて、今日からペンテコステに向かって祈りましょう。

5月25日礼拝「彼の冠が光り輝く」

詩篇講解NO132「彼の冠が光り輝く」132篇13~18節

                         仁井田義政牧師

この詩篇は、キリストの誕生と深い関わりがあります。しかもダビデの子孫としてやがて生まれられるメシヤが、ダビデ王に優る究極的な王であることが預言されています。

★1節に「ダビデの苦しみを思い出してください」との、とりなしの祈りがあります。この祈りが、いつ誰によってされたのかは分かりません。そのダビデの苦労とは、ペリシテ軍に奪われていた「契約の箱」を、エルサレムに戻す苦労のことかもしれません。もう一つは、ダビデは軍人で「多くの人の血を流したので」神殿を建てることを禁じられたことかもしれません。ダビデは神殿の為に蓄財をするだけで、その子ソロモンが神殿を建てたのです。

★この詩が書かれたのは、バビロン捕囚後と思われます。神の箱も、586年バビロン軍のエルサレム神殿破壊で失っています。そして未だに失われているのです。捕囚期間後、建てられた第二神殿。それに異邦人ヘロデ大王によってされた大改築工事。イエス様と弟子達が見たのは、その増築された神殿でした。しかし主の十字架後の37年後に、その神殿もローマ軍に破壊されてしまいました。紀元70年のことです。

★しかし、17節には「ダビデの為にひとつの角を生えさせよう」と預言されています。神様が約束されたダビデの子孫による王国復活の預言です。「油注がれた者=メシヤ」(17節)によって、神様の約束は実行されるのです。このメシヤには「角」という巨大な支配権と、「ともしび」なる人の希望が溢れているのです。バプテスマのヨハネの父ザカリヤも、聖霊に満たされて語った預言の言葉に「救いの角」と出てきます。(ルカ1:69参照)

★イエス様こそ、預言された「メシヤ」であり救い主なのです。イエス様が来られた時、人々はイエス様を救い主とは認め、お前が王様なら冠が必要だろうと言って、いばらを編んだ冠をイエス様の頭に押し付けました。冠の棘が、イエス様の皮膚を突き破って血が流れました。それは屈辱の冠でした。人間がどんなにイエス様を侮蔑し嘲笑しても「彼の冠は光り輝く」のです。

★あなたも、いばらの冠をイエス様に押し込み続けますか。イエス様はあなたの救い主です。イエス様を信じてクリスチャンとなる決心をしましょう。

5月18日礼拝「信頼する者に与えられる平安」

詩篇講解NO131「信頼する者に与えられる平安」131篇1~3節

                         仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、ダビデの短い詩です。短いながらも、その内容は重要さに満ちています。現代は科学が発展し、ウェッブ宇宙望遠鏡によって、地球から約46億光年の距離にある銀河団まで、見ることができるようになりました。また物質の最小単位と考えられている素粒子の存在やその活動まで、知ることが出来るようになりました。しかし私達人間は、ストレスや不安を解決できないばかりか、増大しているのです。

★ダビデは、私達の不安は誇りと高ぶりから来ると言っています。誇りと高ぶりが、なぜ不安を生むのでしょうか。それは、いつも自分が人より優れていないと平安がないからです。マタイ2章2~3節には、イエス様がお生まれになった時、ヘロデ大王が不安になったことが記されています。また旧約聖書第一サムエル記18章6~9節には、少年ダビデがゴリアテに勝利した時、サウル王が不安になり、嫉妬し、被害妄想を起こしたと記されています。

★ダビデは、平安を得る秘訣を「及びもつかないことや、奇しいことに深入りしないこと」と教えています。それはどのようなことを言っているのでしょうか。例えば創世記には「世界の無から有の創造」のことが記されています。どのように、無から有が生まれるのでしょうか。それは奇跡的なことなので、人間には説明できないのです。ですから「神が天と地を創造された」と記されているのです。それを理論的に説明できないと信仰を持つことは出来ないと言うなら、一生涯信仰を持つことなど出来ません。

★ダビデは「私は自分の魂をやわらげ、静めました」と言っています。そしてその後に「乳離れした子が母親の前にいるように」と言っています。赤ちゃんも乳離れすると、あまり泣かなくなります。お母さんがそばにいてくれれば、安心なのです。泣いても、お母さんが抱っこすれば泣き止むのです。母親も、子供と一緒にいれば平安で幸せになります。神様を信頼する者が、神様がそばにいてくださるだけで平安になるのと同じです。

今日の詩篇は、ストレスと不安の解決は主に信頼することだと教えています。イエス様を信じて、ストレスや不安から救われましょう。

5月11日礼拝「人生のブラックホール」

詩篇講解NO130「人生のブラックホール」130篇1~8節

                         仁井田義政牧師

 詩篇130篇は、深く苦悩する者の祈りです。それだけに、私達の心に響いてくる祈りなのです。今日のメッセージには「人生のブラックホール」という題を付けましたが、宇宙にあるブラックホールは、光までも飲み尽くし、出てこられない宇宙の穴のことです。私達の人生では、そのような混沌、カオスを体験することがあります。病気、人間関係、経済的なこと等々、多くの苦悩があるでしょう。詩人は、そのような「深い淵」から、主に祈っているのです。

★詩人は、自分に「深い淵」をもたらしたのは、自分の罪のゆえであることを自覚しています。そのために「深き淵」に落ちてしまい、もがいても足がかりがなく、爪を立てても登れない状態なのです。神様がその罪と失敗に目を留められるならば救いは無いが、神様には赦しがあると祈っています。

★四方八方ふさがりで絶望的な状況でも、最後の望みがあります。それは、神様に助けを求めることでした。詩人は、この世のあらゆるものに頼ることが出来なくなった悩みのブラックホールからの救出を祈っています。それは天地万物の創造者なる神様への祈りです。この短い詩に「主を待つ」と言う言葉が5回も出て来ます。神様の救いを待つ祈りなのです。

★神様はなぜ、こんなに優しいお方なのでしょうか。それは、神様が人となってこの世に来て下さったからです。それはイエス様のことです。イエス様こそ、深い淵が渦巻き苦しみが渦巻くブラックホールを体験されたのです。

ですから「主は、ご自身が苦しまれたので、苦しんでいる人を助けることができる」(へブル2:18)と記されています。

★この詩は個人の苦しみの祈りで始まっていますが、終わりには「イスラエルよ、主を待て」と、不特定多数の祈りとなっています。まさに「苦みの中にある日本人よ、主を待て」「苦みの中にある地上の全ての人々よ、主を待て」と呼び掛けていると考えて良いでしょう。なぜなら私達の神様は、世界の救い主だからです。7~8節にあるように「主の恵み深さ」を信じるのです。「豊かな贖い」を信じるのです。「贖い」とは、救いのことです。

あなたも「深い淵」「心のブラックホール」から救われましょう。