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10月13日礼拝「神に逆らい続けた民」

詩篇講解NO.106「神に逆らい続けた民」詩篇106篇1~15節

                    仁井田義政牧師

106篇は、前の105篇と同じ出エジプト記を背景にしています。105篇はその時の神様の驚くべき救いの御業が記されていました。今日の106篇は、その時のイスラエルの民が、神様を何度も裏切ったことを記しています。

★この詩の作者は、イスラエルの民の裏切りの歴史を書きました。総論的に言えば、イスラエルの民は出エジプト時に荒野で何度も神様を裏切りました。そして約束の地に入ってからも、何度も神様を裏切り続けたのです。

★最初の裏切りは、「私達はエジプトの奴隷の方が良かった」(出14章)と神様への叫びとして出てきます。そうかと思えば、紅海を渡った直後には「感謝の踊り」(出15:20)をしたりしています。詩篇106篇13~14節に「しかし、彼らはすぐに、御業を忘れ・・激しい欲望にかられ」と記されています。その欲望とは「われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも」(民11:5) との叫びです。また十戒で有名なシナイ山のふもとでは「金の子牛」(19節)を作って偶像礼拝をしました。さらには「異教の偶像に仕え、自分の子供たちを悪霊の生贄として捧げた」(37節)というおぞましい事すらしたのです。

★それでも「主は彼らの苦しみに目を留められ」(44節)彼らを助けられました。しかし神様は、愛する民達に何度裏切られたことでしょう。私達は一人に裏切られても、心が激しく痛むのです。神様の心に、裏切られる度に激痛が走ったことでしょう。私達は、神様の心を痛めてはなりません。この詩人は6節で「私達は先祖と同じく・・罪を犯し」と言っています。自分も神様の心を痛めたことがあると言っているのです。

★今日、私達は自分の心を深く顧みましょう。「私は神様の心を痛めたことが有るか無いか」を振り返ってみましょう。無い人はいないと思います。私達は悔い改めて「これからは信仰にしっかりと立って歩んでいきます」と祈ろうではありませんか。そうして48節の「ほむべきかな、イスラエルの神」と勝利の宣言をして、新たに信仰から信仰へと進んで行きましょう。

10月6日礼拝「神様の約束」

詩篇講解NO.105「神様の約束」詩篇105篇1~21節

                    仁井田義政牧師

 詩篇105篇は、紀元前2000年前のアブラハムへの神様の契約から始まっています。聖書は、まさしく契約文化の始まりなのです。聖書全体が、神様が人間に与えられた契約書なのです。ゆえに聖書は旧約聖書、新約聖書と言われるのです。恵みに溢れた私達に対する神様の契約、つまり「神様の約束」が記されています。

★アブラハムは、今から4000年前、メソポタミヤのカルデヤのウルに住んでいました。その時の彼は「アブラム=高められた父」という名前でした。しかし神様から「アブラハム=多くの者の父」という名前が与えられました。神様は「アブラハムの子孫が、世界を祝福するようになる」と約束されました。(創世記22:15~18)

★イスラエル民族は「神様とアブラハム契約」のゆえに、苦難から守られました。その事が記されているのが、今日の詩篇105篇16~41節です。その苦難のひとつが、大飢饉でした。神様の数奇な導きで、ヨセフの家族とイスラエル民族が、飢餓から救われました。

★しかしエジプトでの生活が数世代に及び、ヨセフのことも知らない王が、イスラエル民族を迫害しました。そのためモーセが神様によって立てられ、エジプト脱出が起こりました。その時には、紅海の奇跡も起こりました。それは、神様とアブラハムとの契約があったからです。しかし、民族としての祝福は、彼らがキリストを殺害することによって終わりました。

★ただアブラハムに「世界はあなたの子孫によって祝福される」と言われた約束は、神様によって守られ続けました。それが新契約である新約聖書なのです。(マタイ1:1)

★神様は「アブラハムの子孫によって世界を祝福する」と言われた約束を、今もなお実行しておられるのです。アブラハムの祝福は、アブラハムの子孫イエス・キリストによって実行され続けています。そして私達クリスチャンに「全世界に福音を伝えよ」(マタイ 28:19~20)と言っておられます。まさに今日の詩篇105篇1~7節の中でも、全世界への宣教を命じておられます。私達は、約束を守られる神様を心から信頼し、ほめたたえましょう。

9月29日礼拝「ハレル、ヤハー」

詩篇講解NO.104「ハレル、ヤハー」詩篇104篇24~35節

                    仁井田義政牧師

 この詩は、103篇と同じように「我が魂よ。主をほめたたえよ」で始まり「我が魂よ。主をほめたたえよ」で終わっています。それは、自分の心への語り掛けであり、奨めなのです。104篇は、それに「ハレルヤ」が加えられています。どうしてこのように、自分自身の心に主をほめたたえることを奨めているのでしょうか。

★祈祷会では、ちょうど創世記の1章からお話をしています。創世記1章の壮大なスケールの天地創造には、現代科学も圧倒される記事が記されています。この詩篇のほとんどが、神様による天地万物の創造と、その知恵が賛美されています。

★その通りです。私が動植物を大好きなのは、その中に神様の知恵があふれて見えるからです。赤カンガルーの大人は90キロにもなります。しかしその赤ちゃんは、妊娠から30日で生まれる為に、超未熟児で生まれます。その赤ちゃんの体長は2センチ、体重は1グラム程です。その超未熟児で生まれた子が、生まれると直ぐにお母さんの袋を目指して、自分でお母さんの体をよじ登って、お母さんの袋に入るのです。その袋の中にお母さんのオッパイがあると誰が教えたのでしょう。植物の世界にも、そのような事例が数多くあります。いま私はポインセチアを育てていますが、ポインセチアには脳がないのに季節を認知して花を咲かせるのです。

★詩人は御言で「生きている限り、いのちのある限り」と記しています。詩人は、自然の中の神様の力と知恵に感動し、感極まるように「私は主をほめたたえる」と言っています。そして最後には、もう一度「我が魂よ。主をほめたたえよ。ハレルヤ。」と言っています。

★日本の詩文学の中にも、自然そのものを賛美している詩は数多くあります。しかし聖書は、ただ単に自然の素晴らしさを賛美しているのではありません。自然を造り、自然を神秘的な御業で支配しておられる神様を賛美しているのです。イエス様も、マタイ6章で「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」と弟子達に教えられました。私達も、もう一度「我が魂よ。主をほめよ。ハレルヤ。」と、自分の魂に言い聞かせましょう。

9月22日礼拝「我が魂よ。主をほめたたえよ」

詩篇講解NO.103「我が魂よ。主をほめたたえよ」詩篇103篇1~5節

                    仁井田義政牧師

今日は、詩篇の中で最も素晴らしいと言われている103篇を読んでいただきました。今日のタイトルは「我が魂よ。主をほめたたえよ」で、1節の御言からつけさせていただきました。それでは最も美しい詩とも言われ、私達への5つの祝福が記されている詩篇103篇をお話し致しましょう。

★私達の世界では「感情的になるな。もっと理性的になって」等と言われることが多いです。しかし詩篇は、いや聖書の全体が、感情豊かな世界への招待なのです。感情は、理性や知性より優ると言うのではありませんが、感情が乏しくなると、理性や知性も正しく機能しなくなるのです。

★1節に「我が魂よ。主をほめたたえよ」と記されています。魂の語源は「喉」で、乾き求めることを現わします。喉が渇いていている時、水の分子はどうでも良いのです。感情が枯渇する時、感情がプラスになるために、主をほめたたえ、感謝することが大切なのです。ですから1~2節で「我が魂よ。主をほめたたえよ」と二度も出てくるのです。

★それでは、神様にどのような事を感謝できるでしょうか。もし神様の存在を知らない人がいるなら、それは神様がいないからではありません。ハワイの夜空は、星の輝きが素晴らしいのです。しかし日本の空にも、同じ数の星が輝いているはずです。人間の作った光や大気汚染で、その星の存在が見えないのです。あなたと神様の間を妨げているものを取り払いさえすれば、あなたにも神様の存在が見えるようになるのです。

★神様は、あなたの「病を癒し」「恵みと、憐れみの冠」を与えてくださいます。あなたの一生を「良いもので満たし」将来の不安を取り除いて下さいます。あなたは「鷲のように新しくなり」悠々と空を舞い、風などにびくともしない人になります。むしろ風を利用して上昇する人となるのです。

★15節には、人の一生の短さが記されています。私達の一生は、草や花のように一瞬に過ぎ去ります。そのような短い人生を、悩みに満ちて過ごしてしまうのはもったいないことです。まさに最後の22節にあるように、「全て造られたものたちよ。我が魂よ。主をほめたたえよ」と、心からお奨めしたいのです。あなたも、神様を信じて心から主を賛美する者になりましょう。

9月15日礼拝「悩む者の祈り」

詩篇講解NO.102「悩む者の祈り」詩篇102篇1~13節

                    仁井田義政牧師

 今日のメッセージ題は、102篇の表題をそのままつけさせていただきました。私達の人生には、悩みと苦しみを体験することがあります。しかもこの詩人は、神様を信じている信仰者なのです。それは信仰者の上にも、悩みや苦しみがあることを現わしています。そのような時、私達はどのように祈ったら良いのでしょうか。

★詩人は、激しい悩みと苦しみを体験しました。その激しい悩みと苦しみは、この人の食欲まで減退させ、体まで痩せ衰えさせたのです。食物を食べても「灰のように。飲み物は涙」のように感じました。(8~9節)しかも、その原因が「あなたの憤りと怒りとのゆえ」と言っています。それは、「私の罪の故に」と言っていることと同じです。

★そのような絶望的な状況で「しかし主よ・・あなたはシオンをあわれんでくださいます」(12~13節)と祈っています。人間的には絶望的な状況にあっても「しかしあなたは」(ヘブル語のブェアター)で、一変するのです。この詩人の悩みと苦しみは、エルサレムの崩壊と関係しています。シオンはエルサレムのことです。エルサレムの崩壊という大きな事件が、一個人の悩みと苦しみの祈りとなっています。しかし神様は、その一個人の窮した者の祈りを「顧みてないがしろに」はされないのです。これこそ、詩人の個人体験なのです。(17節)

★詩人は、その体験を「後の時代の人々の為に書き記」しました。「新しく造られる民が、主を賛美しますように」(18節)との目的が記されています。その「新しく造られる民」とは、キリストの恵みによって救われた私達のことと理解しても良いのです。神様は、旧約の時代も新約の時代も、小さな者の祈りをないがしろにされません。神様は愛と優しさに満ちた御方なのです

★26節に「全てのものは衣のようにすり切れます」とあります。私達の命もはかないものです。しかし神様の恵みといつくしみは、変わることがありません。それゆえに「あなたのしもべらの子孫は住みつき、彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう」と結論付けられています。ですから、どんな時にも絶望せずに「主よ。私の祈りを聞いてください」(1節)と祈りましょう。

9月8日礼拝「全き道に心を留めよ」

詩篇講解NO.101「全き道に心を留めよ」詩篇101篇1~8節

                    仁井田義政牧師

 今日の詩篇101篇は、ダビデの賛歌という表題が付いていますが、ダビデ作かどうかはわかりません。少なくとも王職にあった人の作ということが出来ます。王職にある人は、どのように生きなければならないかを記しています。その人が悪い人だと、その国の民は苦しむことになります。現代の総理大臣や大統領たちにも、是非学んで欲しい詩篇です。

★王職にある人の理想は、まず神様の恵みと裁きを誉め歌う人でなければなりません(1節) つまり、自分を最高権威に置くのではなく、神様が最高権威者であることを認める人であるべきなのです。そして王職にある人は、神様が「恵みと裁きの神」であることを知っていなければなりません。

★2~4節では、王としての個人的な決意が記されています。王様は「全き道」に心を留める人でなければなりません。それは自分の考えにではなく、神様の道を歩むためです。2節に「私は、正しい心で自分の家の中を歩みます」と王の決意が記されています。つまり王たる者は私生活が大切なのです。3節には「私の目の前に卑しいことを置きません」と言っています。ダビデはウリヤの妻バテシェバを家に引き入れて罪を犯しました。この失敗の為に、ダビデ王家が陰り始めました。自分の息子アブシャロムに命を狙われ、後継者ソロモンは、異教徒の多くの妻を家に入れました。その結果、分裂国家となり弱体化してしまったのです。

★王様としての働きは、国中の真実な人達に目を注ぐことです。正しい人が馬鹿を見るような国を作ってはならないのです。正しい人が正しく評価される国作りに励むべきです。王の働きのもう一つは、治安の維持で「悪者を国からなくす」働きです。

★民主国家においては、主権者は私達です。家庭においても、親は子供たちの指導者であり、見本的な存在です。また職場においても、何らかの指導者であることも多いでしょう。私達もたとえ小さな集団の指導者であっても、大切なことは1節にあるように「神様の恵みと裁き」を賛美する人であることです。ですから私達は、自分の生活から主に喜ばれないことは、8節にあるように「朝ごと」に滅ぼす時を持とうではありませんか。

9月1日礼拝「感謝しつつ、賛美しつつ」

詩篇講解NO.100「感謝しつつ、賛美しつつ」詩篇100篇1~5節

                    仁井田義政牧師

 詩篇からのメッセージも、ついに100回となりました。第一回の一篇は、2022年2月27日に始まっていますから、約2年半にわたって詩篇からメッセージを取り次いできたわけです。今日の御言は、100篇の表題にふさわしく「感謝しつつ、賛美しつつ」です。

★まず1節に「全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ」と記されています。聖書は正にこのために書かれました。あるクリスチャンが近くに引っ越して来て、私達の礼拝に出席しました。するとみんなが大声で笑っていたので驚いたというのです。前の教会では、礼拝は厳粛な面持ちで、静かにしているものだと思っていたのです。しかし聖書は「喜びの声をあげよ」「喜びをもって主に仕えよ」「喜び歌いつつ主の御前に来たれ」と記しています。

★3節には「知れ。主こそ神」と記されています。つまり喜びの源は、主を知ることにあるのです。世界にはいろいろな宗教があり、いろいろな神がいると信じている人もいます。しかし本当の神は、唯一なのです。それを知ることが喜びの源なのです。さらには「主が私達を造られた」と記されています。たとえ「お前なんかうちの子でない」と親から捨てられた者であっても、私達のルーツは神様にあるのです。ですから「主が私達を造られた」と詩人は言うのです。親のいない子などはいません。神様が親だからです。

★3節の後半には「私達は主のもの。主の民。その牧場の羊である」と記されています。「私達は主のもの」とは、主の宝物であるということです。横浜港で、大きな船から銀のインゴットを陸揚げしたことがあります。その荷物室の扉は、びっしりと溶接されて守られていました。高価だからです。

また、3節に「私達は主のもの、その牧場の羊である」と記されています。それは羊飼いのいない迷子の羊ではないのです。イエス様が良き羊飼いであり、羊の為に命を捨てて下さったのです。(ヨハネ10:11)

★4節には「感謝しつつ・・賛美しつつ」と記されています。それは形式的になってしまっていた犠牲の捧げ物より、礼拝で最も大切なのは「感謝と賛美」であることを示しています。私たち溝の口教会は、これからも「感謝と賛美に満ちた」喜びの礼拝を主に捧げていきましょう。

8月18日礼拝「主は聖である」

詩篇講解NO99「主は聖である」詩篇99篇1~9節 

                        仁井田義政牧

詩篇99篇の最初に「主は王である」という言葉が記されています。詩篇の中では、何度か出てくる言葉です。それと同時に「主は聖である」という言葉も、99篇の中に3回ほど出てきます。その言葉は「神様は愛である」という言葉の陰に、薄くなってしまっている危険があるのです。神様が聖であることが分からなければ、神様が愛であるということもわからなくなってしまうのです。今日の「主は聖である」という御言を通して、もう一度信仰に燃やされていきましょう。

★主は全人類の「王」です。日本の宗教とか外国の宗教とかではないのです。2節にあるように、神様が世界の王であられ「全ての国々の民の上に高くいます」御方なのです。

★また主は「聖である」と言う言葉が、3回も出てきているのは、完全に聖いということです。この言葉が最も多く出てくるのは、イザヤ書の36回です。聖であられる神様は、汚れている者と交流を持つことが出来ないのです。その為にイザヤは「ああ、私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者で・・・万軍の主である王をこの目で見たのだから」(イザヤ6:5)と恐れました。これが、世界を支配する「聖なる神の聖さ」なのです。

★神様は聖であられる御方であり、罪に汚れた私達人間など、絶対に近づけない御方なのです。しかしその神様は「赦しの神」(詩篇99:8)でもあられます。詩篇作者は、その「絶対的な聖なる御方と、赦しの神」を記しています。イザヤも「神を見たので死ぬ」と恐れましたが、神様がひとつの方法で罪をきよめて下さったことを記しています。それは祭壇の炭火でした。

★祭壇の炭火とは何でしょうか。それは羊等を捧げて燃やした犠牲の火です。その火で、罪人であったイザヤの罪が赦されたのです。そこに、キリスト・イエスの十字架による救いと赦しの原型が見えるのです。洗礼者ヨハネが、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と言ったのは、そのことです。しかもその聖であり愛であられる神は、全世界の王なのです。小さな民族のたった一人も、忘れ去られることはありません。そのように私達を愛される神様に感謝して、献身的な信仰を持ちましょう。

8月11日礼拝「主は御救いを行われた」

詩篇講解NO98「主は御救いを行われた」詩篇98篇1~9節
仁井田義政牧師
今日の詩篇は、「新しい歌を歌え」との招きの歌です。この詩も、バビロン捕囚後に書かれたものだろうと言われています。なぜ新しい歌を歌えと書かれているのでしょうか。現代においては、私達ペンテコステ派の中から、新しい歌が続々と作られています。今日の詩篇のように、新しい歌を歌うように奨められているのは、神様が日々奇しい御業を行なってくださっているからです。その奇しい御業とは何かをお話し致しましょう。
★まず1節にある神の「右の御手」とは、神様の全能の力を表わしています。その力は、破壊的な力とは違います。神様の力は、聖なる秩序ある力です。ビックバンという爆発が宇宙の始まりであったとしても、この宇宙は無秩序ではありません。数学的に秩序づけられているのです。数学こそ、神の真理に次ぐ真理だと言われている理由なのです。
★その奇しい御業とは何でしょうか。それは、歴史の中に表わされた「救いの御業」なのです。旧約聖書にあるイスラエルの歴史は、ノアの箱舟やエジプトの奴隷からの解放、バビロンの奴隷からの解放等いくらでもあります。エジプトでは、悪い王の代で過酷な労働の時でした。ノアの箱舟の時は、艪も舵もないものでした。バビロンの時は、巨大化するハビロン帝国で、人間的には解放の希望が全く持てない時でした。その敵にペルシャ王クロスが起こされ「自分達の国に帰って、自分達の神殿を作りなさい」と、お金まで持たせてくれました。これが主の御腕なのです。
★神様は、二千年前に究極的な人々の救いを、キリストの十字架によって開始されました。現在では世界人口の3分の1ほどが、クリスチャンになりました。しかしまだ3分の2はクリスチャンではないのです。地の果て果てに近づいてはいますが、「地の果て果てもが、みな我らの神の救いを見る」はまだ実現していません。
★それゆえに、この詩は、これから起こる預言的なものということも出来るのです。神様の強い「右の御手」の働きによって、「地の果て果てまでも主の救いを見る時」が来るのです。ですからクリスチャンは、古い歌だけではなく、新しい希望の歌を心から主に向かって歌おうではありませんか。

8月4日礼拝「光は種のように」

詩篇講解NO97「光は種のように」詩篇97篇1~12節      

                         仁井田義政牧師

 この詩は「主は王だ」で始まっています。つまり、主は世界を支配しておられると告げているのです。

★この97篇は、おそらくバビロン捕囚期間後と、出エジプト記の荒野での生活が重ね合わされて記されていると思われます。イスラエルの歴史は、その二つの歴史が忘れられない体験として、イスラエル人の心に彫り込まれているのです。神様は初めから歴史の王として君臨していたのですが、イスラエルの民には、その事が明らかには見えませんでした。その原因は、人間の罪と限界の為に見えなかったのです。むしろ「神を見た者は死ぬ」とさえ恐れられていました。1-7節までは、神様は、歴史に自然界を統べ納める支配者なる王として記されています。

★8-9節は、真の偉大な神様が世界の王として君臨されている事を聞いて、シオンの民が喜ぶ姿が記されています。もし捕囚期間後すぐの詩であるとすれば、まだ再建もままならぬ暗い時代でした。しかし、自分達の神様は世界の王の王であるという事を知って、勇気百倍の賛美をしたのです。礼拝とはまさしくそうでなければなりません。どんな問題にとり囲まれていようと、神殿において「主は王だ」と聞いて、勇気に満たされなければなりません。

★神様が王だからこそ、神様を信じる者達は、悪の時代に悪に染まらず、正しい生き方を求めるのです。神様が悪を憎まれるので、神様を信じる私達は悪を憎むのです。そして悪に染まらないのです。11節に「光は、正しいものの為に、種のように蒔かれている」とあります。その「種のように蒔かれている光」とは、御言と考えても良いでしょう。

★太陽の光がなければ、植物は育ちません。また日陰では弱々しい植物となってしまいます。力に満ちた王なる神様は、御言の光を私達の心に種のように蒔かれます。その光を心から信じて受け入れるならば、受け入れた御言は芽を出し成長し、その人の人生を喜びと感謝に満ち溢れさせるのです。光である御言に照らされると「感謝と喜び」に溢れ、生活にも力がみなぎってきます。神様は、全世界の人々に光を種のように蒔くために、世界の王となられました。その王を「こおどりし」(1節、8節)て、礼拝しましょう。