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12月5日「キリストが来られた目的」

コロサイ書講解(NO12)待降節2「キリストが来られた目的」2章16~19節

仁井田義政牧師

 アドベントの第二週に入りました。キリストは私達を罪から救い、永遠の命を与え、教会と信徒達の霊性を成長させるために来られました。そのことをアドベントの大切なこととして受け止めましょう。

★コロサイ教会のあった町には、ギリシャの宗教、ローマの宗教、ペルシャの宗教、ユダヤ教が混在していました。その中に、家の教会があったのです。それぞれの習慣や祭り毎に「クリスチャンも習慣通りそうしなければならない」と言われたのです。その中にはユダヤ教の「土曜安息日」問題もありました。クリスチャン達は日曜日を安息日とし礼拝を始めていました。

★聖書は「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです」と記されています。イエス様が来られるまでの「影」とは、どういうことでしょうか。「影」と握手しようとしてもできません。本物とならば、がっちりと握手できるのです。神の本体はキリストなのです。イエス様は「私を見た者は父を見たのである。」(ヨハネ14:9)と言われました。

★さらに「ことさらなる自己卑下に騙されてはならない」と教えています。ことさらなる自己卑下とは、「このままでは至らない者だから」と難行苦行の修行をしてみせることです。また「幻を見たこと」を誇りにし自己主張する者に騙されないようしなさいというのです。どんな幻も、聖書の真理に反していれば一利もないのです。そのような人達に「褒美をだまし取られてはならない」と教えています。褒美とは、神様の恵みと祝福のことです。

★コロサイの時代と日本の状況は、非常に似ています。雑多な宗教、雑多な習慣が絡み合っています。岐阜県郡上市に、鰻を神の使いとして食べない村があります。また奈良県の窪垣内(くぼかいと)には、1500年も前の「壬申の乱」の時代から犬を飼わない所があります。その地域の人々は、その習慣にがんじがらめにされているのです。私達も、様々な地域の習慣や、仏教、神道の実体のないことに縛られていることが多いのです。キリストは、そのような全てのことから私達を解放し、私達と命の結びつきを行なうために来て下さいました。私達とキリストとの関係は、「頭と体の結びつき」(19節)です。そのキリストとしっかり結びつくことによって、私達は成長し、教会も成長するのです。アドベントのこの日に、キリストとしっかりと結びついて、クリスチャンとして成長しましょう。

11月28日礼拝待降節1「イエス様が来て下さった」

コロサイ書講解(NO.11)待降節1「イエス様が来て下さった」2章11~15節

仁井田義政牧師

 今日から、クリスマスを迎える信仰的な心の準備の4週間、アドベント週間が始まります。アドベントとはラテン語の「アドベンテウス」から来ています。日本語に訳すならば「来る」と言う言葉です。イエス様が来られるという意味で、クリスマス前の4週間が準備の時なのです。

★キリストが来られた後に書かれた聖書は新約聖書であり、それ以前に書かれたものは旧約聖書です。それは、新しい契約と古い契約を意味します。洗礼は、神様を信じて新しい命に生きることを意味します。

★今日のみことばに出てくる「罪に中に死んでいたあなたがた」とは、コロサイの異邦人のことであり、また人間全体のことです。人間の罪の身代わりとなり神の裁きを受ける為に、イエスキリストがこの世に来て下さったのです。そして私達の身代わりとなって、十字架の上で私達の罪の裁きを受けて下さったのです。そのイエス様が、死者の中から甦られました。それを聖書は「初穂となられた」と記しています。

★ローマ6章23節には「罪の支払う報酬は死である」と記されています。キリストは、その私達の債務を十字架の上の死によって釘付けにし、債務なしとしてくださったのです。ですからイエス様のその力を信じれば、私達に対するサタンの毒針は抜かれ、私達の人生に不利なものは全て排除されたのです。ですから今日のみことばのように、闘いに勝利して母国に帰ってきた戦士達のように、キリストを先頭にした勝利者となり、凱旋の行列に連なって進むことが出来るのです。

★皆さんは、今どのような思いで人生を歩んでおられるでしょうか。敗戦者のように、あるいは捕虜の行列のように、絶望感漂う人生を歩んでおられることはないでしょうか。イエス様はあなたをそのような人生から救うために来て下さったのです。自分の不幸を人のせいや、両親のせいや、神様のせいにするような生き方をしていてはなりません。悩みや問題は誰にでもあります。マルチン・ルターは困難がやって来ると「私は洗礼を受けているのだから、救いと永遠の命の約束を授かっているのだ。」と、何度も叫んだと言われています。イエス様が私達悩める者の所に来て下さいました。ですから勇気を出して、勝利のキリストの凱旋に加わりましょう。

11月21日礼拝「私の内には主の力が満ちている。」

コロサイ書講解(NO.10)「私の内には主の力が満ちている」2章8~10節

                            仁井田義政牧師

 今日の御言で、パウロは「空しいだましごとの哲学によって誰のとりこにもならぬよう注意しなさい」と教えています。これは私達が注意しなければならないことなのです。二千年前と二十一世紀の現代の私達を取り巻く幼稚な教えは、何ひとつ変わっていません。

★パウロは「あのむなしいだましごとの哲学によって、誰のとりこにもならぬよう注意しなさい」と教えています。これはデカルトやカントやヘーゲルなどの一般的な哲学を言っているのではありません。当時の社会に広がっていた星占いの類なのです。一般大衆から王様や皇帝まで、星占いを信じていました。星の拡がる宇宙に霊的な力があると信じていたのです。現代の私達の社会は、どうでしょうか。星占いから臍占いまで、霊力があると公共のテレビまで情報をたれ流しているのです。

★パウロは「だれのとりこにもならないように気を付けなさい」と教えています。「とりこ」と言う原語は「誘拐」と言う意味です。パワースポット、パワーストーンなど幼稚なものならまだ笑えますが、占いや間違った宗教は狂気を生むのです。統一教会は、その日まで相手が誰であるかも分からない結婚式を行なっているのです。ものみの塔は、輸血を禁じ、大学に進もうとする信者を軽蔑するのです。しつけと言って幼児虐待をする団体です。そのような教えのとりこにされてはならないのです。

★イエス様には、神様の全ての良きご性質が満ち溢れています。それを信じている私達にも、全てが満ち満ちているのです。神様を知りたければ、キリストを見れば良いのです。力をいただきたければ、キリストに祈れば良いのです。そして信じるあなたの内にも、満ち満ちているのです。キリストこそ、全ての支配と権威の頭なのです。それは全宇宙、全歴史の上に君臨される神なのです。

★二千年前の人々と現代の私達を取り巻く社会とは、何も変わっていません。私達には、そのような幼稚な教えやだましごとの哲学は必要ありません。私達の内にはイエス様の力が満ち溢れているからです。「私には幼稚な哲学などいりません。イエス様の力が満ちていますから」と告白し、祈りましょう。

11月14日礼拝「溢れるばかり感謝しなさい」

コロサイ書講解(NO.9)「溢れるばかり感謝しなさい」2章6~7節

仁井田義政牧師

 パウロは、コロサイ教会の信徒達が異端に騙されないように、様々な方向から教えています。今日の御言も、どうすればクリスチャン達が異端に騙されないで生きることが出来るかを教えています。

★パウロは、まず「キリストにあって歩むことである」と教えています。「キリストにあって」とは、キリストと一緒にという意味です。それは、キリストの道徳的な教えを信じる以上のことで、生きておられるキリストと共に毎日を生きることです。詩篇23篇4節の「たとえ死の陰の谷を歩むことがあっても、私は災いを恐れません。あなたが私と共におられますから」という信仰です。

★パウロは、さらに「キリストにあって歩む」ということを具体的に教えています。第一は、「キリストの中に根ざす」ことです。それは地中深く根を張った木が、強い風にも倒れないのと同じです。第二は、「キリストの上に建てられる」ことです。どんなに立派な代理石でも、しっかりした土台の上に建てられなければ単なる石にすぎません。第三は「教えられた信仰を固く」することです。すぐ新しいものに飛びつく人は、異端につけこまれます。

★そしてパウロは、異端につけこまれない生活を続けるのに大切なのは、「あふれるばかり感謝する」生活をすることだと教えています。異端は、正しい救いからクリスチャンを引きずり落とそうとします。異端やサタンの影響を受けないように生きる賢い生き方は「神を感謝する」生活をすることです。神様を礼拝するとは「神様に感謝する」ことに他なりません。人間はその為に造られたのです。しかも今日の御言は、「溢れるばかりに感謝しなさい」と教えています。

★何もかも上手くいっているならば感謝も出来るでしょう。その反対に何もかも上手くいっていない時に、どうやって「溢れるばかりの感謝」が出来るでしょう。イエス様が私達に注いでくださった愛と恵みは、「十字架にご自分の体をつけてくださった」程の偉大なものです。そのことを覚え、私達はどんな時にも、「信仰を堅くし、溢れるばかりの感謝」を献げるクリスチャンになりましょう。

11月7日礼拝「キリストの宝」

コロサイ書講解(NO.8)「キリストの宝」2章1~5節

仁井田義政牧師

 今日の御言に「このキリストの内に、知恵と知識との宝が全て隠されているのです」と記されています。パウロは、キリストの内に全ての祝福が宝物のようにあることを教えています。

★パウロは、行ったこともない教会の人々のことを心配していました。パウロは、2章1節で「その人々のために苦闘していることを知って欲しい」と言っています。いったい何を苦闘しているのでしょうか。それは、獄中での祈りのことです。その祈りは主のゲッセマネの祈りのようです。コロサイ地方に広がり始めた異端に、クリスチャン達が騙されないようにと祈っていたのです。

★獄中のパウロの祈りは、コロサイ教会の信徒達が「神の奥義であるキリストを真に知ることが出来ますように」との祈りでした。なぜ、キリストは神の奥義と言われているのでしょうか。それは、純粋な信仰によらないでは見ることが出来ないからです。純粋な信仰とは、幼子のような心です。イエス様も、弟子達に「だれでも幼子のようにならなければ」(マタイ18:3-4)と教えられています。イエス様には「知恵と知識との宝が全て隠されている」のです。信じない者には見えませんが、信じる者には見える世界があるのです

★パウロは、コロサイの教会に迫っていた異端の「まことしやかな議論に」よって、間違った教えに引き込まれないように、獄中で祈っていました。それは思い出したら祈るなどではなく「苦闘」の祈りを捧げていたのです。パウロはローマの牢獄にいます。残酷さで有名な皇帝ネロが、いつパウロに死刑の判決を下すかしれません。しかし、パウロは自分の命のことよりも、コロサイ教会と諸教会が異端に騙されないようにいつも祈っていたのです。

★これらの教会と地理的には遠く離れたローマの獄中で苦闘ながら祈るパウロにも、一筋の希望がありました。それは異端の教えに引き込まれた者は、まだ数人であると言うことでした。教会はまだしっかりとした「秩序」を保っており、信徒達は「キリストに対する固い信仰」を持っていると言うことでした。キリストの内にはあらゆる宝が隠されているのです。その宝は、純粋なキリストへの信仰で誰でも発見できるのです。幼子のようにイエス様の祝福を信じて祈り、イエス様に祝福して頂こうではありませんか。