Author Archives: admin2

9月6日礼拝「私達の病と主の十字架」

マタイ講解NO31「私達の病と主の十字架」マタイ8章14~17節

                          仁井田義政牧師

イエス様の時代は、安息日に病気を癒すことは禁じられていました。イエス様がそれを打ち破ります。イエス様がこの世に来られたのは、人々を苦しみから解放するためです。今日は、十字架と私達の関係をお話し致します。

★ペテロの姑が、安息日に熱を出して病気で臥せっていました。それを聞いたイエス様は、安息日の礼拝帰りにペテロの家に行き、ペテロの姑を癒されました。しかし、あと数時間待てば安息日が終わって、安息日の習慣を破らずに癒すことが出来たはずです。イエス様は人々を苦しみから救うためにこの世に来られました。ですから安息日の癒しも、ためらわなかったのです。

★癒された姑は直ぐに起き上がり、イエス様とその弟子達をもてなしました。料理を出したのです。ざっと数えてもイエス様の弟子が12人。イエス様とベテロの姑と合わせると14人もの食事の用意をし、仕えたのです。ギリシャ語の「仕える」の言葉は①ドゥレイウォー:奴隷として強制的に仕える。

②ラトレウォー:賃金のために働く、神に儀礼的奉仕をする。

③ディアコネーオ:相手の必要に気づき、進んで手を差し伸べる。

この姑の所には、③のディアコネーオが使われています。

★夕方になり、安息日が終わりました。すると安息日終了を待っていた人々が大勢イエス様に癒しを求めて押し寄せてきました。イエス様は、それらの人々の霊的患いや、肉体的な病気をみな癒されました。それは預言者イザヤが53章で預言していたことの成就でした。それは肉体的・精神的癒しです。

★イエス様は、私達に平安と感謝の人生を与えるために来られました。イエス様はペテロの姑ひとりの為にさえ安息日を破り、罪を着せられ十字架につけられることに繋がっていくのです。イザヤの預言の通り「私達のわずらいや病を背負った」のです。癒し主イエス様を信じましょう。

8月16日礼拝「主よ、私に御言を下さい」

マタイ講解NO30主よ、私に御言を下さい」マタイ8章5~13節

                             仁井田義政牧師

 今日の聖書の箇所には、イエス様に対する信仰と、人を愛するイエス様の愛が、ぴったりとひとつになる様子が記されています。山を下りて来られたイエス様に、ローマ軍の百人隊長が会いに来たのです。

★百人隊長とイエス様の関係について話しますと、社会的には、当時イエス様はローマの軍人に支配されている立場にありました。その命令に従わなければ、処罰を受ける時代だったのです。そのような時に、ローマの百人隊長が「主よ、私の僕の病気を癒してください」とイエス様に願ったのです。

★その時、百人隊長が病の奴隷を「パイス」と言ったことが記されています。それは「子供」を現わす語で、英語では「ボーイ」と訳されています。ふつう奴隷を表わす語は「ドゥロス」です。奴隷であれば、大人でも子供でも、役に立たなければコスト削減の為に捨てられるのが普通の時代です。そのような時に、この百人隊長は必死で僕の癒しを求めて、イエス様の所に来たのです。

★イエス様は、一瞬で隊長の心の中を読み取られました。隊長は、自分の為ではなく僕の為に、支配者の誇りも捨ててイエス様に懇願したのです。主もその百人隊長の信仰の姿に感動して、当時の「異邦人の家に行けば汚れる」という意識も越えて、「私が行って直してあげよう」と言われました。それは当時の一般常識を越えるイエス様の強い決意が現わされています。

★しかし隊長は「主よ、私の家にお入れする資格は私にはありません。ただおことばを下さい。」(7節)と言いました。隊長は、イエス様が私の家に来られたら「イエスは異邦人の家に入って汚れた人となった」と人々に言われてしまうだろうと思ったのです。それで隊長は「ただ、おことばを下さい。そうすれば僕は直ります」と言ったのです。言葉には力があると体験的に知っていたのです。イエス様は、この異邦人の百人隊長の信仰に驚きました。この時、イエス様のことばで百人隊長の僕は癒されました。私達も百人隊長に倣って「主よ、私におことばを下さい」と祈りましょう。

8月9日礼拝「主よ、私をきよめて下さい」

マタイ講解NO29「主よ、私をきよめて下さい」マタイ8章1~4節

                             仁井田義政牧師

 イエス様は、群衆と一緒に山を下りてこられました。すると山のふもとに人間の悲惨な生活がありました。最初に出会ったのが、ツァラート(重い皮膚病)の人でした。

★ツァラート(重い皮膚病)の病気は、汚れた病気として人々から大変嫌われていました。そのため家族からも社会からも隔離されていました。この病気の辛さは、痛みや痒みという病状の辛さはさることながら、家族や社会、そして当時の人々にとって何よりも大切だった宗教社会からも、阻害されたことでした。すべての人間関係において、その人は「百害あって一利なし」として扱われたのです。

★その人は重い皮膚病を隠して、人里離れた谷間の洞穴などで生活していました。彼らにとっても彼らの家族にとっても、人々から「汚れた病気」と言われるのが一番つらかったのです。自分でも「私は汚れた者」だと100%思っていたことは間違いありません。ですから、イエス様の所に来た時「治して下さい」ではなく、「きよめて下さい」と言ったのです。

★当時この病気の人は、人の前に出てくることは禁じられていました。このような場合、人々から石を投げつけられて殺されることになっていたのです。そこは、イエス様が直ぐに怒り「石を投げよ」と命じるだろうと思うような場面です。しかしその時、度肝を抜くような事が起こりました。イエス様は石を投げるどころか、手を伸ばして彼に触られて「わたしの心だ、きよくなれ」と言って癒されたのです。彼は、この病いの苦しみから救われました。彼は、谷間の生活から命を賭けてイエス様の前に来たのです。イエス様はその人を見逃しませんでした。

★私達も、この重い皮膚病の人のように、自分の汚れを認め「主よ、私をきよめて下さい」と祈りましょう。イエス様は手を伸ばしてあなたに「私の心だきよくなれ」と触れてくださいます。

8月2日礼拝「人生は岩の上に」

マタイ講解NO28「人生は岩の上に」マタイ7章24~29節

                     仁井田義政牧師

今日の聖書箇所は、イエス様の「山上の教え」の結論です。本来は「山上の教え」は一気に読んで、今日の結論を聞かなければなりません。しかし今日はその時間が取れませんので、あとで5章から7章の終わりまで、是非読んで下さい。

★イエス様は、山の上で多くの人々に大切な話を聞いて欲しかったので、当時の正式な話の姿勢の「座って」話をされたのです。イエス様は多くの話をされ、ついに結論に至りました。その結論こそが大切でした。

★その結論は、わたしのことばを聞いて、それをしっかりと人生の土台とするようにということでした。どれだけ聞いたかではなく、聞いてどれだけ実行するかが大切なのです。山の上には、イスラエル人も異邦人もいました。それは、全ての人にこの教えが必要であることを示しています。この教え(岩)の上に人生を築くようにという結論でした。

★イエス様が、山上の教えを「律法学者達のようでなく、権威ある者のように教えられた」と記されています。それは、律法学者が自分の言葉を権威づけるために、他の学者の名前を利用し「誰々先生もこう言っておられる」と話すのが常だったからです。しかし、イエス様はどのような学者の名も用いずに、権威ある者「神」のように話されたのです。

★イエス様の話が学者の話であれば、聞いて参考にするもしないも、聞いた人の自由です。しかし権威ある者「神」が話された真理の御言には、従うか従わないかのいずれしかないのです。それゆえに群衆が「驚いた」のです。この「驚いた」のギリシャ語は、心臓が激しく鼓動し、飛び出しそうになる状態のことです。「岩」と譬えられた主の教えの上に、しっかりとしたあなたの人生を築きましょう。

7月19日礼拝「命に至る道」

マタイ講解NO27「命に至る道」マタイ7章13~23節

                          仁井田義政牧師

 今日はイエス様の山上での教え16回目です。その教えも、ついに結論に入ってきました。この教えの目的がどこにあったかが、明確に現わされる部分となってきたのです。今日の御言の中心テーマは「命に至る道」です。

★イエス様は「あなたがたの人生は、何処に向かおうとしているのですか」と言われます。しっかりとした人生の目標設定が必要なのです。イエス様は「命に至る」ことこそ、あなたの人生のゴールでなければなりませんと言われます。しかし、若い人は人生のゴールを「幸せな結婚生活」としたり、中年・壮年は「お金持ちになること」としたり、老年は「健康一番」としたりすることが多いのです。そしてやがて健康にも裏切られて、死で滅びる人生を描いて生きてしまうことがあるのです。イエス様は「あなたがたのゴールは死ではなく、命に目標設定をしなさい」と教えておられます。

★さらにイエス様は「滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです」と言われました。滅びに至る道は、欲望のままに流されて生きる人生です。しかし「命に至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。」とイエス様は教えられました。

★さらにイエス様は「主よ、主よ、と言う者が、みな天の御国に入るのではない」と言われました。この時、五千人以上の人々が「主よ、主よ」とイエス様を慕って集まって来ていたのです。イエス様は、その人達を前にそのように言われたのです。この言葉は、クリスチャンの私達が心して聞かなければならないのです。

★イエス様が言われているように、多くの人が「滅び」に至る道を歩いています。その大衆の流れに流されてはなりません。もう一度、あなたの人生を「命のゴール」に設定しましょう。そして父なる神様の御心を行なう人生を力強く生きていきましょう。

7月12日礼拝「愛されているから」マタイ7章7~12節

マタイ講解NO26「愛されているから」マタイ7章7~12節

                          仁井田義政牧師

今日の御言は、悩んでいる人々を一歩も二歩も行き詰まりから前進させる素晴らしい御言です。行き詰まりとは、自分の何か越えられない壁のようなものを感じて悩んでいることです。それは6章25~34節で、イエス様が教えられた衣食住の問題かもしれません。あるいは先週、話しました人間関係の問題かもしれません。今日のイエス様の御言を聞いて、そのような人生から立ち上がりましょう。

★イエス様は「求めなさい」と言われました。それは「求め続けなさい」との意味です。誰に求めるのでしょうか。自分に求めるでしょうか。他人に求めるのでしょうか。違います。神様に求めるのです。神様に求め続ける、探がし続ける、たたき続けるのです。それは祈りです。

★祈る人は、神様の愛を知っている人です。イエス様は、人間の親のことを例にしながら、神様の愛を教えておられます。不完全な人間の父親さえ、パンを求める子に石を与えることはありません。魚を求める子に蛇を与えることはありません。それならば完全な愛に満ちた天の父が、私達に「良いものを下さらないはずがありましょうか」と言われました。ルカ福音書11章13節には「良いもの」とは「聖霊である」と記されています。

★この話は、あなたの人生の行き詰まりのことが目的で話されたのではありません。この話の最後の「それで」「だから」いう接続詞で、そのことは明かです。「人に良いことをしたら、神様が良いことをして下さる」のではないのです。「私達は神様にすでに愛されているので、人々を愛する」のです。

★今日の御言は、12節の「それで」「だから」という接続詞で、聖書全体の教えの「神と人の愛」につながっているのです。祈りなさい、求めなさい、探しなさい、叩きなさい、と教えて下さっているのです。神様の愛が既に与えられていることを感謝して、行き詰った人生から立ち上がりましょう。

7月5日礼拝「あなたの聖なる真珠を守れ」

マタイ講解NO25「あなたの聖なる真珠を守れ」マタイ7章1~6節

                          仁井田義政牧師

今日の御言は、私達クリスチャンにとってとても大切なことです。クリスチャンには、クリスチャンの誇りがあります。信仰に熱心であればあるほど、一歩退いて今日の御言を聞く必要があります。なぜなら、聖さを求めるあまり、裁き合うことがあるからです。

★山の上でイエス様から教えを聞いた群衆は、みな不完全な人々でした。しかし郊外の山の上にまで、イエス様についていくほど熱心な人々でもありました。その数は男性だけで五千人と言われています。一方から見れば、宣教の大成功に見えるのではないでしょうか。イエス様は、その人達にクリスチャンとなって教会を形成するために大切な教えをされました。

★教会の中で大切なことは、裁き合わないことです。イエス様は、譬え話をされました。目のちりと梁の譬えです。梁とは丸太のことです。イエス様は自分の目に丸太が刺さっている人が、他の人の目の塵を取ってあげようと言えるだろうか、他人の塵が気になって仕方のない人は、自分の目には丸太が刺さっていることを覚えなさいと言われたのです。

★教会が「私は聖い」と言う人ばかりだったらどうなるでしょう。教会は、裁き合う所となり、イエス様が一番大切にされた「神を愛し、人を愛する」という教えはどうなるでしょう。続いてイエス様は「豚に真珠を投げて与えるな」と教えられました。真珠とは、聖書の真理や信仰と考えることができるでしょう。それを豚に投げ与えることは、あなたもその真理や信仰の価値を知らなかったことになります。信仰の価値を相手に教えようとして、踏みにじられ、失望し、信仰を失うことになったら元もこもありません。

★まず、自分自身の信仰を真珠のように大切にしなければならないのです。人の目に塵がみえて「なぜそのままにしておく、私が取ってあげるよ」という思いが沸き上がってきたら、聖なる真珠を投げて与えるのではなく、その人の為に祈ってあげるのです。そうすれば「向き直ってあなたがたを引き裂く」ことはないでしょう。あなたの真珠を大切にしましょう。何があっても失わないようにしましょう。

6月28日礼拝「今は恵みの時、救いの日」

(特別合同礼拝)「今は恵みの時、救いの日」            仁井田義政牧師

出エジプト記3章1~5節  第二コリント6章1~2節

 今日は合同礼拝です。集会企画部より「特別なメッセージをしてください」と依頼されました。佐藤達彦兄による特別な賛美も用意されました。特別なメッセージを聞くためには、聞き手にも特別な覚悟が必要です。モーセも「あなたの足の靴を脱ぎなさい」と言われたのです。

★靴を脱ぐとは、自分の足で歩いてきた過去を脱ぎ去ることです。人はみな過去を引きずって生きています。モーセは、40歳までエジプトの王子として自信に満ちて生きていました。しかし40歳の時に自己過信で失敗し、80歳まで荒野で義父イテロの羊を飼っていました。彼は、華やかな時と失敗の時を引きずって生きていたのです。その時「モーセ、モーセ」と呼ぶ神の声を聞きました。

★第二コリント6章1~2節見ると、「時計の時間」と「神様の時間」がギリシャ語ではっきりと区別されています。時計の時間は「クロノス」で、神様の時間は「カイロス」なのです。ここでは「今は恵み時、今は救いの日」と、カイロスという言葉が2回繰り返されています。それは、神様のあなたに対する「恵みの時」の接近です。カイロスの接近です。

★その「カイロス」ゆえに、使徒パウロは「神の恵みを無駄にしないで下さい」と懇願しています。そして ἰδού (イドゥ)見よ。νῦν (ニュン)今。まさにこの時と二度繰り返し、今がその時、今日がその時と言っているのです。決断の時が今であり、あなたの前にイエス様の救いの門は、今日最高に開かれているという意味なのです。

★神様がなぜ懇願しておられるのでしょう。それは100%あなたの為であって、0.1%も御自分の為ではありません。あなたを過去の全てから救うために懇願し、語り掛け、救いの門を開いて下さっているのです。神様の愛の前に、靴を抜いで、イエス様を信じましょう。

6月21日礼拝「遣わされた者として生きる」

(礼拝メッセージ) 「遣わされた者として生きる」ルカ4章42節~44節

                            高間智浩師

クリスチャンの生活は祝福もありますが、多くのことに向き合う生活でもあります。その中で私たちは時に、「自分は何のためにここにいるのか」「どこへ向かっているのか」を見失いそうに、また見えなくなることがあります。しかし今日の箇所でイエス様は、ご自身が“何のために遣わされたのか”を、非常に明確に語っておられます。この御言葉から、「遣わされた者として生きる」とは何かを共に考えたいと思います。

★「朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。」とあります。前章の3章では、多くの癒しと悪霊追放が行われていました。その時人々は熱狂していましたが、イエス様はその流れに飲み込まれることなく、祈りの場へ退かれました。忙しさの中でも、父なる神との交わりを優先されたとみることができます。生活の中で私たちに必要なのは“主との交わり”です。

★「イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。」とあります。イエス様は、“求められること”より“遣わされた目的”を優先されました。人から必要とされることと、神から遣わされていることは、必ずしも同じではない時があります。例えばパウロの例では、使徒の働き16章で、パウロはアジアで伝道したかったのですが、聖霊によって禁じられた箇所があります。その結果、主の導きにより家族が救われる事が起きました。

★イエス様には“どうしても”がありました。「どうしても宣べ伝えなければならない」と。イエス様には使命への確信と従順がありました。感情や状況ではなく、父なる神の御心に生きておられました。では私たちはどうでしょうか?イエス様は癒しも奇跡もなされました。しかし中心は、「神の国の福音を宣べ伝えること」でした。教会は知識取得の場所だけでなく、福音に生きる者同士が共に支えあう場所です。そしてさらに、福音を伝える者として整えられていく場所でもあります。

★主は、目的なく私たちをここへ置かれたのではありません。イエス様が、「そのために遣わされたのです」と語られたように、私たちもまた、「主によって遣わされた者」として、これからの歩みを続けていきたいと思います。

6月14日礼拝「不安に打ち勝つ方法」

マタイ講解NO24「不安に打ち勝つ方法」6章31~34節

                                              仁井田義政 牧師

 現代は不安に満ちています。イエス様は「不安に打ち勝つ決定的な方法」を教えておられます。それが今日の御言です。

★多くの人達は、先週話しましたように「衣食住」の心配で心がいっぱいになっています。そのことをイエス様は「異邦人の生き方」と言われました。それは神様を知らせない人のことです。明日のことが不安なのです。神様を知らない人は、なぜ不安なのでしょう。「天の父=アバ」を知らないからです。天の父とは「私達を愛して下さっている」唯一の神様です。その御方が私達の必要を知っておられるのです。

★イエス様は、不安に勝利する方法を教えられました。その方法とは、「神の国と神の義を第一に求めなさい」ということです。「神の国」とは、神様の御支配のことです。「神の義」とは、神様の正しさに添った生き方を求めることです。そして、明日のことまで引きずり込む「取り越し苦労」をやめて、まず神様との関係をしっかり建て上げなさいと教えておられるのです。

★ロシアの文豪トルストイは五十歳の頃、小説「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」を書き終え、有名人となっていました。しかしその名声や富も、決して心を満たすものではないことを知ってしまったのです。五十歳以後のトルストイは、子供たちにそのことを教えなければと考えて「民話集(童話集)」を書きました。その中には「愛のある所に神あり」という短編もあります。日本では「靴屋のマルチン」という題名の方が有名でしょう。

★その民話集には、神様を第一に愛し、そして人々を愛する人々が記されています。彼は、イエス様が教えられたマタイの6章を実践する人こそが、本当の幸せになれると確信したのです。私達も、神様を知らない人のように生きるのではなく「神の国と神の義を第一に求めて生きる」人になりましょう。それが不安に打ち勝つ唯一の方法なのです。現代は、いろいろな不安に満ちています。その不安に心が分散されてはなりません。「神の国と神の義」に集中しましょう。「そうすればそれ以外のものは添えて与えられます」とイエス様は言われました。