(礼拝メッセージ)「あなたがたが命を得るため」ヨハネ20章24~31節
仁井田義政牧師
先週は主の復活祭でした。弟子達はイエス様の御復活にふれ、喜びに溢れました。しかし弟子のトマは、弟子達と一緒にいませんでした。トマスは「私は見て触ってからでないと信じない」と言いました。その為に「不信仰なトマス」と言われることが多いのです。トマスは不信仰なのでしょうか。今日は、少し違った角度からトマスを見て、イエス様の復活後の第一週メッセージとしたいと思います。
★トマスが「私は信じない」と言ったのは、復活のイエス様が弟子達の所に来られた時、トマスはそこにいなかったからとあります。イエス様が来られた時に弟子達と一緒にいたならば、復活のイエス様を信じたでしょう。「弟子達の知らせを聞いたのに信じなかったのは、トマスの不信仰だ」と言う人もいるでしょう。しかし弟子達も「復活の主を見て」信じたのです。
★しかしトマスは「私は見て、触ってでなければ信じないと」と言いました。つまり、私は他の弟子達のように簡単には信じない。否私は信じられないと言ったのです。それは、間違った自己認識でした。「他の人達のように簡単には信じられない人間だ」と思い込んだのです。次の日曜日にイエス様が再度現れると、トマスは他の弟子達と全く同じように「見て信じたのです」それ以上のことでも、それ以下のことでもありませんでした。
★しかしトマスは、自分で「私は他のクリスチャンと違って、単純な人間ではない。疑い深い人間だ」と思い込んでしまっていたのです。しかしそうではありませんでした。他の弟子達と同じように、イエス様を信じました。そればかりか、他の弟子達よりも明確な信仰告白をしたのです。それは「私の主。私の神」というものでした。教会は、この信仰告白を完璧な信仰告白として受け継いで、今日まで来ているのです。
★ヨハネ20章31節には「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」と記されています。主は、あなたを愛してくださっています。その主を「我が主よ。我が神よ」と、今日信じようではありませんか。