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10月2日礼拝「人生を立て直す」

詩篇NO28「人生を立て直す」28篇5~9節

                        仁井田義政牧師

 今年も早十月となって、一年の四分の三が過ぎてしまいました。皆さんにとって、今年はどのような年だったでしょうか。素晴らしい2022年であったのであれば、喜ばしいことです。たとえそうでなくても大丈夫です。今日の御言は、私達の祈りに応えて、神様が起死回生を与えてくださるという約束が記されている所です。

★この詩篇の1~5節で、ダビデは状況の悪化の中で祈っています。神様を信じる自分にも、神様を信じない者と同じように苦難が自分を包み込んでいるように感じています。苦難は混沌です。秩序が見えないのです。どうなるかわからないので不安なのです。しかし創世記1章2節を見ると、その私達の混沌「茫漠」さえも、聖書の神様は包み込んでおられるのです。5節は、「主を信頼しない者の人生を主は建ち直さない」と。

★苦悩の中の祈りから(5節まで)、6節からは突然、確信に満ちた感謝の詩篇へと変わっています。ダビデはその理由を「主は願いの声を聞かれた」からと言っています。この「聞かれた」というヘブル語「シャマア」は、預言的過去形であると言われています。つまり未来に起こることを、すでに起こったこととして、預言的完了形で表わしているのです。

★ダビデは7節で「私の心は主により頼み、私は助けられた」と記しました。主の助けを確信したダビデに、心の強さが戻って来たのです。悩みの混沌の中で祈り始めたダビデは、8~9節から自国の民の為に「民達の羊飼いとなって、いつまでも携えて行ってください」と祈っています。

★この祈りの中にある「神なる羊飼」こそ、イエス様なのです。たとえあなたの全生活に、苦悩が黒雲のように覆っていても、あなたの神の聖霊が覆って下さっているのです。そのことを信じる時、ダビデのように、悩みから解放され、自分のことだけではなく、家族のため人々のために祈ることが出来る人となるのです。文字通り、立て直してくださるのです。

★私達もダビデがしたように(2節)「聖所の奥に向けて祈りの手をあげ」ましょう。そして「神様は、私の祈りを聞いてくださった」と、預言的完了形で、神様の力を確信して人生を立て直しましょう。

9月25日「私のただひとつの願い」

詩篇NO27「私のただひとつの願い」27篇4~6節,13~14節

                        仁井田義政牧師

 私達は、日常生活の中で時には疲れを感じ、暗闇に取り囲まれているように感じてしまうことがあります。ダビデも戦いの真っただ中で、疲れと闇を感じていました。その中でも、ダビデには揺るがない希望がありました。それは1節の中に出てくる「光」の存在です。それゆえに、力に満ちたこの詩を書くことが出来たのです。

★ダビデにとって、一番大切にし、一番願っていることがありました。それは、主の家に住むことでした。主の家で、生涯にわたって神様を賛美し、礼拝するということでした。イエス様も、ベタニヤのマルタとマリヤの家で「大切なのはひとつだけです」(ルカ10:38~42)と言われました。

★ダビデは、主の家で祈っている時に「あなたに代わってわたしの心が申します。わたしの顔を慕い求めよ」(7~8節)と言う心の声を聞きました。「わたしの顏」とは神様のことです。そして「あなたに代わってわたしの心は申します」とは、主が言われないのに私が言うという意味ではありません。主の言っておられることが魂の中で、本当に分かるということです。

★13節では「生ける者の地で、主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら」と疑問形になっています。それは、苦難の時に主の宮で祈ることが出来ることが、どんなに幸せなことかを意味しています。それゆえに、ダビデは、戦いという日々の命の危険の中でも、主の宮で祈り賛美する礼拝を第一としたのです。ですから人々にも「主を待ち望め。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め、主を。」(14節)と奨めることができたのです。

★現代は、ストレスの多い時代です。そのために日本人の成人20人に1人が、睡眠薬を飲んでいるという報告があります。不眠症になった時には、医者の指導のもとに睡眠薬を服用することもあるでしょう。しかし聖書は、ダビデのように戦争というストレスの多い中においても、平安でいられる道があることを教えています。それが「主の宮に住まう」ということであり、ダビデの「ひとつの願い」(4節)なのです。私達も三千年前のダビデの「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」との奨めに、「アーメン」と心から応えようではありませんか。

9月18日礼拝「誤解されて心が痛む時」

詩篇NO26「誤解されて心が痛む時」26篇1~12節

                        仁井田義政牧師

 この詩は、ダビデが人から誤解された時の祈りです。私達も生きていく中で、誤解されて苦しむ時があります。詩人は誤解されて、それを解くための反論も出来ずに苦しんでいます。私達は人から誤解された時、どうすれば良いでしょうか。

★ダビデは、自分は神様の御前で潔白だという確信がありました。しかしそのことは相手には伝わらず、誤解されたままでした。ですから神様の弁護を求めて祈っているのです。しかし詩人は「私は潔白だ」とどんなに思っても、人間ですから自分の知らない落ち度があるかも知れません。それゆえに「あなたの恵みが私の目の前にあり」(3節)と祈りました。つまり自分の正しさの限度をも、神様の御前に自覚しているのです。

★6~8節に出てくる「祭壇の回り」も「主の家」も、神様の幕屋のことです。現代で言うならば、教会のことです。悩んで家に閉じこもっていては、解決になりません。教会に来て、主を礼拝し、賛美し、主の御業を語ることが大切なのです。イエス様は、人々を愛し完全に正しいお方だったのに、誤解され極悪人として十字架につけられて殺されたのです。そのイエス様が、あなたの誤解されている心の痛みを、必ず理解してくださいます。

★9節の「血を流す」とは、暴力のことです。10節の「両手の放らつ」とは性的な罪のことです。また「右の手のわいろ」は言うまでもなく「賄賂」のことです。11節で、そのような怒りから来る罪の誘惑に身を委ねることなく「しかし私は誠実に歩みます」と告白しているのです。そのようにして12節で「私の足は平らな所に立っています」と、安全な安定した生活をしていることを証言しています。

礼拝において、イエス様が誤解され嘘の証言によって十字架に付けられたことを明かに見ることによって、その心の痛みも消えていくのです。

皆さん、人生においては誤解されたり、悪口を言われたりすることもあるでしょう。しかし、その時に腐るのではなく主に信頼して祈りましょう。その結果、ダビデが12節で「私は数々の集まりの中で、主をほめたたえましょう。」と感謝にかえられたように、私達も人から誤解されることがあっても、主をほめたたえる生活を奪われないようにしましょう。

9月11日礼拝「主よ。御名のために」

詩篇NO25「主よ。御名のために」25篇1~11節

                        仁井田義政牧師

今日の詩篇は、アルファベットの順に書かれています。つまりヘブル語の「アーレフ。ベート。ギメル」という順に作られているのです。作者自身はもとより、この詩篇を読む人々が、すぐに覚えやすく、繰り返し口ずさむことができるように作られたと考えられるのです。それだけに、重要な内容が込められた詩篇ということが出来ます。その内容は、この詩篇に多く出てくる「恥・罪・咎」という言葉に表わされています。その重大な問題を、どのように解決することが出来るかを、この詩篇は教えています。

★恥について。

アメリカ人ルース・ベネデクトは「菊と刀」という本の中で、日本の文化は「恥」の文化であると書いています。武士の世界では、人に切られるよりは切腹を。兵隊では、捕虜になって恥をかくよりは玉砕を美としたのです。この「恥」の文化は、人の目を気にすることです。それが多くの人を生きづらくしてしまっているのです。

★咎と罪について。

咎とは、人に対する悪い行為を指すと言われています。また罪は、神様に対しての不従順のことであると言われています。7節でダビデは「若い時の罪」のことを言っています。聖書では、「咎と罪」は区別されていないことが多いです。順序立てて言うならば、罪が咎を生むということが出来るでしょう。

★11節に「主よ。御名のために、私の罪をお許しください」と記されています。それは「御名によってだけ」と訳せる語です。罪や咎の代償となりうるものは、この世に存在しないのです。解決は、「御名によって」以外はないのです。それは使徒4章12節にも記されています。これが初代教会からの救いの真理なのです。

★恥、咎、罪を持ったまま、自分を騙し、人の目を騙し逃げ続けている人生には、平安がないのです。犯罪者が「逮捕されてほっとした」と言うことが多いのです。人が死ぬ時に一番心配になるのは、人生の罪の問題だと言われます。どんな罪もイエス様が許してくださると信じましょう。

9月4日礼拝「永遠の戸よ。上がれ」

詩篇NO24「永遠の戸よ。上がれ」24篇1~10節

                        仁井田義政牧師

 この詩篇は、ダビデがエブス人の地であったエルサレムを占領し、ダビデの町とした時のことです。そのエルサレムに神の箱を運び入れた時のことが第二サムエル記5~6章に記されています。その時ダビデは、嬉しさのあまり裸になって、喜び踊りながらエルサレムに入ったと記されています。当時、神の箱は神の臨在そのものでした。7節の「門よ、お前たちの頭をあげよ」は、まさにエルサレムの城壁の門なのです。

★ダビデは、「世界とその中に住む者は主のものである」という言葉で、それまでのイスラエル民族の神を世界の神として示しています。その世界の神を礼拝できる人は、「手がきよく、心が清らかな者」と4節に記されています。完全に「聖」人などいません。ですから「その人は、主から祝福を受け、救いの神から義を受ける」人であると記されているのです。

★7節に「門よ、お前たちの頭をあげよ。永遠の戸よ。上がれ」と記されています。イエス様のエルサレム入場の場面が思い浮かびます。しかしイスラエルは、イエス様をエルサレムから排除しました。それと同時に、黙示録3章20節にあるイエス様が私達の心の戸を叩いておられる様子を思い起こします。また、ヨハネ14章1~3節には、私達を天国に迎えるために、天に帰って行かれたイエス様のことも思い起こします。

★「永遠の戸」は「手が汚れ、心が清らかでない人」の為にも、「救いの神」の義によって、聖くされて入ることができるのです。イエス様は心の戸を叩いておられるのです。

★イエス様がエルサレムの門を入られた時、群衆はイエス様を取り囲んで「ホサナ・ホサナ=主よ、いま救ってください」と叫んで迎えました。しかしその群衆は、一週間もたたない内にイエス様を門の外に追い出し、十字架に付けてしまったのです。しかしイエス様は、三日目に復活されて、天国に向かわれました。それは、私達のために救いの扉を永遠に開けて下さるためでした。この救いの扉は、誰も閉じることができません。なぜならこの扉の開放を命じられたのは、「万軍の主」イエス様だからです。イエス様の救いを信じましょう。そして感謝の人生を歩き続けましょう。

8月28日礼拝「主は私の羊飼い」

詩篇NO23「主は私の羊飼い」23篇1~6節

                        仁井田義政牧師

今日の詩篇は、詩篇の中で最も有名です。そこには、私達に対する霊的な祝福が溢れています。先週の22篇の中には、「エリ、エリ、レマサバクタニ」というイエス様が十字架の上で叫ばれた言葉がありました。その次の詩篇に、私達への溢れるほどの祝福が記されているということは、図らずして為しえた神様の美しい御業ということができるでしょう。キリストの十字架のお苦しみがなかったならば、クリスチャン達の祝福もなかったからです。今日は、神様の恵みに溢れた御言をお話し致しましょう。

★1節に「主は私の羊飼い」とあります。ダビデは羊飼いでしたから、王様になってからも、神様と自分を羊飼いと羊の関係で記しているのです。羊飼いは、多くの羊を群れで飼っています。それなのに、ダビデは「主は私の羊飼い」と言っているのです。どんなに多くの信徒がいても、「主は私の羊飼いです」と信仰告白が出来る人は幸いです。

★イスラエルは、砂漠地帯です。その土地にはまばらな草しか生えません。そのために、常に移動しながら草を得る生活です。ですから羊飼いの優れた能力が必要なのです。ある時は、次の牧草地や水飲み場に「死の影の谷」と言われる所を通って行かなければならないこともあります。クリスチャンにも、そのような苦しい谷を通らなければならないことも起きます。しかし神の愛に信頼している人は、災いを恐れないのです。

★それでは、死の陰の谷を通ってもなぜ恐れないのでしょうか。それは、4節に「あなたが私と共におられますから」と記されています。1~3節までは「主は」という三人称で記されています。しかし、4~5節で「あなたが」という二人称で4回も記されています。神様を「あなた」と呼べる関係が与えられているのです。マタイ28章20節では、イエス様が「見よ、わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と約束されています。

★さらに「あなたは敵の前で食事を整え、私の頭に油を注いでくださいます。」と記されています。「頭に油」は、主の祝福の象徴であり、聖霊の象徴でもあります。ダビデも油を注がれて王様になりました。私達も、ダビデに倣って詩篇23篇を私の詩篇としましょう。そして3節にあるように、「たましいを生き返らせて」頂きましょう。

8月21日礼拝「エリ、エリ、レマサバクタニ」

詩篇NO22エリ、エリ、レマサバクタニ」22篇1~8節

                        仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、31節からなる長い御言なので8節までを読んでいただきました。ダビデの詩篇の中で、これほど苦しみに満ちたものは他にありません。その苦しみは、ダビデから千年後、イエス様によって成就するのです。この22篇は、キリストの十字架の預言なのです。

★22篇の中心的な御言は、「わが神、わが神、どうして私をお捨てになったのですか」です。ヘブル語では「エリ、エリ、レマサバクタニ」であり、アラム語では、「エロイ、エロイ、ラマサバクタニ」です。ヘブル語ではマタイによる福音書に、アラム語ではマルコによる福音書に、イエス様の十字架上の言葉として記されています。「どうして」とは、「自分には神様に捨てられるような理由がひとつも見当たらないのに」との意味です。

★続いてダビデは「けれどもあなたは聖であられ」と記しました。「けれども」は、「私がなぜ神様から捨てられるのか全くわからないが」の意味です。悪い者には悪いことが起こり、良い者には良いことが起こる。という因果応報には当てはまらないということです。「けれどもあなたは聖であられる」。つまり神様がなさることには、何一つ間違いがないとの信仰の言葉なのです。

★続いて「犬どもが私の手足を引き裂き、私の着物をくじ引きにします」と記されています。「犬ども」とは、乱暴な者、愚かな者、異邦人をさす言葉です。文字通りイエス様の十字架の下では、ローマの兵隊がイエス様の着物をくじ引きで奪い合いました。そのような人々の手によって、イエス様は十字架の上で処刑されたのです。

★さらにダビデは、苦難の後に全世界は主を賛美するようになり、その規模は、地の果てにまで及ぶと記しました。このようなことは、キリストの十字架と、その後のキリスト教会を抜きには考えられません。この詩篇の預言のように、現代ではキリストは世界中で賛美されているのです。

★キリストは十字架の上で「エリ、エリ、レマサバクタニ」と叫ばれました。イエス様に全く罪が無かったのに、私達の罪の身代わりとなって十字架つけられたのです。ですからイエス様の十字架の救いを信じる者は、直ちに全ての罪が赦されるのです。それゆえに私達は、イエス様を礼拝し賛美するのです。今日も私達の救い主イエス様を心から賛美し礼拝しましょう。

8月14日礼拝「私はあなたの御力を喜ぶ」

詩篇NO21私はあなたの御力を喜ぶ」21篇1~7節

                        仁井田義政牧師

21篇は、20篇の続きであったろうと言われています。20篇7節で「ある者はいくさ車を誇り、馬を誇る」と人間の愚かさを記していますが、それに応えて「しかし私たちは、私たちの神、主の聖名を誇ろう」と続いています。そして21章1節では「主よ。王はあなたの御力を喜びましょう」と記されています。私たちは何を喜びとしているでしょうか。今日の御言によって、私たちの喜びをどこにおいて生活しているかをはっきりと確かめたいと思います。

★選挙が終わって臨時国会に新議員たちが、緊張して登庁していました。期を重ねるごとに、初心を忘れて当選することが目的になってしまう人が多いように思います。私達は国会議員ではありませんが、権力が喜びの誘惑となりやすいことは同じだと言えるでしょう。

★権力だけではありません。健康に喜びを置いている人もいるでしょう。しかし健康もいずれ崩れるのです。家族に喜びを置いている人もいるでしょう。しかし子供たちもいずれは親元を離れるのです。子供に喜びをおいていた人が、今は孤独な老人となっている人が多いのです。

★健康が大切ではないと言っているではありません。また家族が大切ではないと言っているのでもありません。それらが大切であることは大前提として踏まえ、さらに大切なものがあると言っているのです。ダビデは「あなたの御力を」「あなたの御救いを」「喜び、楽しむ」と言って、喜びの源を明らかにしています。

★3~6節の「純金の冠をおかれた」と、詩篇20篇6節に「油注がれたもの」とはキリストのことであろうと言われています。また「王の支配はとこしえまでの長い日々」という御言にふさわしい御方は、キリスト以外にはおられないからです。

★私たちは1節にあるように、「その御方によって救われた」のです。それを喜び、楽しむのです。ダビデの実生活には、多くの苦しみがありました。しかしダビデの心には賛美があり、感謝に溢れていました。

私達も永遠の救い主を信じていることに、喜びと楽しみの基礎を置こうではありませんか。

8月7日礼拝「主の御名を誇ろう」

詩篇NO20主の御名を誇ろう20篇1~9節

                        仁井田義政牧師 

 この詩は、イスラエルの民がダビデ王のために祈る形式をとっています。ダビデは、イスラエル史上最強の王でした。しかしダビデは、イスラエルの民に王のために祈ることを求めました。その内容は、謙遜と神への信頼に満ちています。第一義的には、ダビデ王が国民に依頼した祈りですが、第二義的には、この詩篇の「王」を「王の王、主イエス・キリスト」に当てはめて読むことも可能だと思います。それと同時に、私達の信仰姿勢と大切な関係がある詩篇でもあります。

★1~3節の中で、ダビデは「王である私にも苦難の日がある」と言い、その日のために祈ってほしいと言っています。当時の王は「どんなことでも突破し、解決できる」と自分を誇示して民を治めるのが常でした。ダビデはそうではなく、「苦難の日」のために祈ってくださいと依頼しています。

★4~5節の「願い」や「はかりごと」とは、計画のことです。つまり計画通りになりますようにとの祈りです。そのために必要なのは、王とひとつになって、信仰の「旗を高く掲げる」ことでした。そのように民がひとつになって「旗を高く掲げて」祈る時、主があなたの願いの全てを遂げさせてくださいと祈ることが出来るのです。

★「ある者は、戦車や馬を誇る。私たちは主の御名を誇ろう。」と言っています。三千年前の軍備で、馬や戦車は最高の兵器でした。ですから、他国は競って軍備増強のために馬や戦車を取り入れたのです。しかし、ダビでは馬や戦車の軍備はしませんでした。「神様が守って下さる」という信仰に立っていたからです。馬や戦車を莫大な規模に取り入れたのは、ダビデの息子ソロモンでした。それを裏付けるように、最近ソロモン軍の馬屋跡が発掘されました。しかし統一王国は、ソロモン王を境に滅びてしまいました。ダビデには、石投げ器でゴリアテとの戦いで得た確信があったと思われます。

★私達は、軍馬や戦車でイスラエルを占領していたローマの十字架につけられた御方を知っています。その時もイエス様は、祈りの力を信じて「父よ、彼らを許したまえ」(ルカ23:34)と十字架の上で祈られました。ほどなくローマ帝国は滅び、イエス様は世界の王となられました。イエス様のご計画は、人々を救うことです。「そのご計画が実現されますように」と、私達も共に祈りましょう。

7月31日礼拝「天は神の栄光を語り告げる」

詩篇NO19「天は神の栄光を語り告げる19篇1~6節

                        仁井田義政牧師 

 なんと雄大な詩篇でしょうか。人生の数えきれないほどの苦労を、まるで風が霧を払うように、吹き飛ばしてしまうような詩です。人類の最も素晴らしい発明の一つは、夜をも明るくする照明です。しかしその発明によって、夜空から聞こえてくる声が聞こえなくなってしまったのです。今や、天、大空という異次元世界からの声が聞こえなくなってしまいました。そのため「何を飲もうか、何を食べようか」という日常の悩みにうずもれて、窒息してしまいそうなのです。今日は御言によって、雄大な宇宙に目を注ぎましょう。

★1節に「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」とあります。天は、夜に輝く星の世界です。昼は、万物にその恵みを与える太陽の世界です。ハワイのマウイ島にあるハレアカラでの星と朝日は素晴らしいものです。

★夜の星、昼の太陽からの言葉が全地に響いているとありますが、その声を正しく聞くためには、7節からの「主のみおしえ」(聖書)が必要です。人間は、ありがたさを感じると神として崇めてしまうからです。古代の日本人も「お日様」「お星様」と言って崇拝していました。ダビデは「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせる」と言っています。

★完全な「みおしえ」(聖書)によって信仰が整えられる時、私達の良心も清められます。その結果「数々のあやまち」(12節)を悟ることができるでしょう。自分が正しいと言うならば、それは傲慢なのです。神様を信じなくても正しく生きて行けると言う人は、人間の弱さや罪深さを知らないのです。神様は、私を守ってくださる「岩」であり、「贖い主」です。天地万物を創造された偉大な神様は、私達の贖い主でもあると、この詩篇は教えています。

★贖い主とは、私達の負債(罪)を代わりに払ってくださる御方のことです。つまり神様が私達の罪の身代わりになってくださったということです。ですからイエス様を「贖い主」というのです。広大な宇宙を造られた神様が、地球の小さな存在である私達の為に、贖い主となって下さったと言うのです。なんという恵み、なんという愛、なんという祝福でしょうか。その神様の愛に、私達は心から感謝して礼拝する者となりましょう。