詩篇NO32「本当に幸せなこと」32篇1~11節
仁井田義政牧師
この詩篇は「幸いなことよ」から始まっています。ヘブル語の「アッシュレー」という言葉です。それは直訳すれば「なんと幸せなことだろうか」と言う感嘆文なのです。パウロはこの1~2節の言葉を、ローマ4章7~8節の中で引用しています。それでは、私達人間にとって「本当に幸せなこと」とは、どんなことなのでしょうか。
★ダビデは「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」と言っています。背くとは、神様に対して背を向けることです。先週も話しましたが、イエス様は「放蕩息子の譬え」でそのことを話されています。父親を捨てた息子が帰って来ると、父は許し喜んで家族に迎え入れました。
★ダビデは罪を隠していた時には「骨髄まで・・乾ききった」(4節)と言っています。これほど罪を苦しむ人は、日本人の中では稀でしょう。しかし、罪を認めないから罪を持っていないことにはならないのです。病気の人が、自分は病気であると認めなくでも病気があることと同じです。ダビデは隠していた罪の為に、「私は骨髄まで・・乾ききった」と言っています。
★ダビデは、隠していた罪を神様に告白し悔い改めました。それが、ダビデの人生の大転機となりました。5節を見ると、神様は、罪を告白したダビデの全ての罪を赦し、幸せを与えられました。そのことによって、ダビデは「主に信頼する者には、恵みがその人を取り囲む。」という幸せ体験をするのです。
★この詩篇32篇は、私達にとって「本当の幸せ」につながることは何かを教えています。新約聖書は、さらにそのことを明確に教えています。イエス様もバプテスマのヨハネも、宣教開始の第一声は「悔い改めなさい」でした。(マタイ3:2、4:17参照)そしてイエス様は、私達の罪の為に十字架に付いて下さったのです。そのことを新約聖書において知らされている私達は、何と幸いなことでしょう。そういう意味で、十字架の意味を知らされている私達の感動は、ダビデよりも何十倍も大きいのです。今日の詩篇の最後に「正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。」とありますように、心から主を賛美しましょう。