Monthly Archives: 10月 2022

10月30日礼拝「本当に幸せなこと」

詩篇NO32「本当に幸せなこと」32篇1~11節

                        仁井田義政牧師

 この詩篇は「幸いなことよ」から始まっています。ヘブル語の「アッシュレー」という言葉です。それは直訳すれば「なんと幸せなことだろうか」と言う感嘆文なのです。パウロはこの1~2節の言葉を、ローマ4章7~8節の中で引用しています。それでは、私達人間にとって「本当に幸せなこと」とは、どんなことなのでしょうか。

★ダビデは「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」と言っています。背くとは、神様に対して背を向けることです。先週も話しましたが、イエス様は「放蕩息子の譬え」でそのことを話されています。父親を捨てた息子が帰って来ると、父は許し喜んで家族に迎え入れました。

★ダビデは罪を隠していた時には「骨髄まで・・乾ききった」(4節)と言っています。これほど罪を苦しむ人は、日本人の中では稀でしょう。しかし、罪を認めないから罪を持っていないことにはならないのです。病気の人が、自分は病気であると認めなくでも病気があることと同じです。ダビデは隠していた罪の為に、「私は骨髄まで・・乾ききった」と言っています。

★ダビデは、隠していた罪を神様に告白し悔い改めました。それが、ダビデの人生の大転機となりました。5節を見ると、神様は、罪を告白したダビデの全ての罪を赦し、幸せを与えられました。そのことによって、ダビデは「主に信頼する者には、恵みがその人を取り囲む。」という幸せ体験をするのです。

★この詩篇32篇は、私達にとって「本当の幸せ」につながることは何かを教えています。新約聖書は、さらにそのことを明確に教えています。イエス様もバプテスマのヨハネも、宣教開始の第一声は「悔い改めなさい」でした。(マタイ3:2、4:17参照)そしてイエス様は、私達の罪の為に十字架に付いて下さったのです。そのことを新約聖書において知らされている私達は、何と幸いなことでしょう。そういう意味で、十字架の意味を知らされている私達の感動は、ダビデよりも何十倍も大きいのです。今日の詩篇の最後に「正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。」とありますように、心から主を賛美しましょう。

10月23日礼拝「八方ふさがりの時」

詩篇NO31「八方ふさがりの時」31篇9~14節

                        仁井田義政牧師

この詩人は、四方八方のふさがりを体験した人です。周り中が敵だらけで、11節を見ると親友にさえも裏切られ詩人の敵となってしまいました。まさに「四方八方」ふさがりの絶望的人生となってしまったのです。その中から、この詩人はいかにして立ち上がったのでしょうか。この詩篇はその大切なことを教え示しています。

★詩人は、多くの人に命を狙われていました。全ての人間的な道は閉ざされて、もう神に祈る以外に助かる道がないのです。しかも、命の危険が迫っていて、「早く、私を救い出してください」と祈っています。

★9~10節では、苦しみで全身全霊が弱り果ててしまっていることが記されています。その原因は、「私の咎によって」と告白しています。その結果、命を狙われる「八方ふさがり」の状態になってしまったと告白しています。

★その中で「しかし、主よ。」(14節)と祈りました。この詩篇の中で最も重要箇所です。たとえ、四方八方ふさがりの状態であっても、その原因が自分の「咎=罪」にあっても、「しかし、主よ。」と、神様に祈っているのです。まさに家族や親友が命を狙っていて、その原因が自分の「咎」にあろうとも「しかし、主よ」と、神様の赦しと愛に食いついて祈る祈りこそ、起死回生の一事なのです。

★それは19節に「あなたのいつくしみは、なんと大きいことでしょう」との洞察にあるのです。四方八方ふさがりの状況よりも、主のいつくしみ、つまり「私に対する神様の愛のほうが大きく、何倍も深いのだ」という、信仰の告白なのです。まさに私の罪の破壊力よりも、悔い改めて祈る者に対する神様の愛の方が強いのだと、信じて祈ることが大切なのです。

★イエス様は、ヨハネ16章33節で「この世では悩みがある、しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」と言われました。たとえ現状が八方ふさがりに見えても、14節にあるように「しかし私は主に信頼します。私は告白します。あなたこそ私の神です」と、信仰の告白をしましょう。

問題を見て圧倒されてしまうのではなく、天の神様の愛と力を信じましょう。

10月16日礼拝「病気と主の癒し」

詩篇NO30「病気と主の癒し」30篇1~6節

                        仁井田義政牧師

 この詩篇は、作者が重い病気からどのようにして神様に癒して頂いたかが背景となっています。表題には「ダビデの賛歌。家をささげる歌」となっていますから、ダビデが病気から癒され健康になり、家を建てることができたことから「主への感謝の歌」と理解することができる詩篇かもしれません。そこには、病気から癒されるために大切なことが教えられています。

★ダビデは、病気の心当たりを「私が栄えた時に、私は決して揺るがされない」(6節)と、反省的に言っています。健康は普通のことではありません。病原菌が世界的規模で行き交う現代においては、なおさらのことです。健康は奇跡的なことなのです。神様の守りがあればこそです。

★ダビデは「栄えた時」の傲慢を、病気によって主に示され、即座にその罪を悔い改めました。すると「神様はその罪を赦し、死の病からすぐに私を癒してくださった」と言っています。神様は、私達が不信仰を悔い改めて祈ることを待っておられるのです。

★神様は、心と魂、体の癒し主です。その癒しの力を止めているのは「祈らない」傲慢の罪です。ダビデは、その傲慢が神様の癒しの力を堰き止めていたと言っています。ダビデはその罪に気が付いて、神様に悔い改めを祈ると、神様の癒しの力が堰を切って流れてきたのです。

★私は、福島県の田の多いいなか育ちです。田には水が必要です。しかし夏は、川の水が不足することがあります。そうしますと、水を田に入れる日を村の農家で決めるのです。田は干上がり、土はひび割れ、稲はみるみる健康を失っていきます。やがて水を入れる日がきます。その日の朝、その時間を農家の人は取水口で待っています。時間が来ると水を入れます。すぐにひび割れた田んぼに水が広がって行き、水を吸って稲も健康を取り戻します。

★神様の癒しの川は豊かです。取水口のゴミを取り除けば、神様の癒しはすぐにあなたの隅々にまで流れて行き、癒すのです。私達に癒しが必要なのは、病気だけではありません。家庭の経済も人間関係も、神様は癒してくださいます。癒しの御業は、主から流れて来るのです。ですからどんな時にも、主に癒しを求めて祈りましょう。

10月9日礼拝「栄光を主に帰せよ」

詩篇NO29「栄光を主に帰せよ」29篇1~11節

                        仁井田義政牧師

 今日の詩篇の主題は「栄光を主に帰せよ」です。栄光を主に帰するとは、わかりやすく言えば、「素晴らしいことは、全て神様のものです」と認めることです。私達は、ともすれば良いことはみんな自分の能力や力の結果として、人からもそれを認めて欲しいのです。それは、今日の詩篇と正反対の「自分に栄光を帰する」人の生き方です。真の神様を信じているクリスチャンの私達までもが、陥りやすい落とし穴なのです。

★この詩の1節に「力ある者の子らよ」とあります。新改訳聖書では神様を知らない権力者と取れますが、口語訳と新共同訳は「神の子ら」と訳して、信仰者への忠告となっています。しかしこの語は、両方にとれる言葉なのです。2節には「聖なる飾り物をつけて、主にひれ伏せ」とあります。礼拝への奨めであることがわかります。

★3節~9節の中で、ダビデは、自然現象の中に表わされる神の力を記しています。3節の「主は大水の上にいます」は、地球が最初は水に覆われていた(創世記1:1~2)ことを示しています。それを、南極と北極に氷として蓄え陸地が出来ました。しかし今は温暖化で溶け出し、海面上昇が始まりました。また「子牛のように跳ねさせる」や「大森林を裸にする」等の言葉は、地震や災害が起こることを記しています。

★主は全歴史を通して、永遠の王であられます。10節の「大洪水の時」は、創世記の水が覆っていた時か、ノアの洪水の時か、あるいは現代の世界の洪水かもしれません。神様は、全歴史のいかなる変動の時にも、その変動を超えて神であられるのです。そして「主はご自分の民に力を与え、平安と祝福」を与えて下さるのです。

★今日の詩篇のように、ダビデの時代は、雷鳴の中に神の偉大さを感じました。しかし、現代の私達には自然をはるかに超えた神の言葉が与えられたのです。それはイエス様 (ヨハネ1:1~5参照) です。イエス様は歴史の上におられる神の言葉なのです。

その御方から私達に祝福と恵みが注がれています。私達は、その御方に栄光をお返しする人となりましょう。

10月2日礼拝「人生を立て直す」

詩篇NO28「人生を立て直す」28篇5~9節

                        仁井田義政牧師

 今年も早十月となって、一年の四分の三が過ぎてしまいました。皆さんにとって、今年はどのような年だったでしょうか。素晴らしい2022年であったのであれば、喜ばしいことです。たとえそうでなくても大丈夫です。今日の御言は、私達の祈りに応えて、神様が起死回生を与えてくださるという約束が記されている所です。

★この詩篇の1~5節で、ダビデは状況の悪化の中で祈っています。神様を信じる自分にも、神様を信じない者と同じように苦難が自分を包み込んでいるように感じています。苦難は混沌です。秩序が見えないのです。どうなるかわからないので不安なのです。しかし創世記1章2節を見ると、その私達の混沌「茫漠」さえも、聖書の神様は包み込んでおられるのです。5節は、「主を信頼しない者の人生を主は建ち直さない」と。

★苦悩の中の祈りから(5節まで)、6節からは突然、確信に満ちた感謝の詩篇へと変わっています。ダビデはその理由を「主は願いの声を聞かれた」からと言っています。この「聞かれた」というヘブル語「シャマア」は、預言的過去形であると言われています。つまり未来に起こることを、すでに起こったこととして、預言的完了形で表わしているのです。

★ダビデは7節で「私の心は主により頼み、私は助けられた」と記しました。主の助けを確信したダビデに、心の強さが戻って来たのです。悩みの混沌の中で祈り始めたダビデは、8~9節から自国の民の為に「民達の羊飼いとなって、いつまでも携えて行ってください」と祈っています。

★この祈りの中にある「神なる羊飼」こそ、イエス様なのです。たとえあなたの全生活に、苦悩が黒雲のように覆っていても、あなたの神の聖霊が覆って下さっているのです。そのことを信じる時、ダビデのように、悩みから解放され、自分のことだけではなく、家族のため人々のために祈ることが出来る人となるのです。文字通り、立て直してくださるのです。

★私達もダビデがしたように(2節)「聖所の奥に向けて祈りの手をあげ」ましょう。そして「神様は、私の祈りを聞いてくださった」と、預言的完了形で、神様の力を確信して人生を立て直しましょう。