4月14日礼拝「天に国籍を持つ天国人」

詩篇講解NO87「天に国籍を持つ天国人」87篇1~7節

                         仁井田義政 牧師 

 今日の詩篇は、旧約時代の御言としては画期的なものです。それは、異邦人の全てを神の民とするという思想が記されているからです。弟子のペテロでさえ、使徒の働き10章の中で初めて知るのです。

★もちろん旧約聖書の選民思想の中でも、全人類・全民族が救われるという思想が無かったわけではありません。創世記12章3節に「アブラハムの子孫によって、地上の全ての民族は祝福される」と記されていますし、イザヤ書65章1節に「私に問わなかった民」の救いが記されています。パウロはローマ書10章19~20節で、この御言を引用して異邦人の救いを示しています。

今日の詩篇には「ラハブ、バビロン、ペリシテ、ツロ、クシュ」の名があげられています。これらはみなユダヤ人から見れば、異国人であり異教徒です。もちろん日本人も、イスラエル民族から見れば、異邦人であり異教徒です。それを「神の国民とする」ということが預言的に記されているのです。

★この預言は、イエス様のエルサレムでの十字架を信じる者の上に成就しました。エマオの途上で、クレオパが「エルサレムで起こったことを知らないのですか」(ルカ24:18)と言っています。それは、エルサレムで起こったキリストの十字架のことです。エルサレムで現れた神なるキリストを礼拝する者は、みな神の国で生まれた者として認められ、その国民となるのです。

★どの国の異民族、異教徒であろうと、ひとつの国籍が、神様によって与えられる時が来ると預言されているのです。そこには一切の差別や区別はありません。ただひとつ、神様に愛され、神様によって天国の民として国籍を持つようにされたのです。それが、キリストによって創られた神の国の民であるクリスチャン達なのです。つまりあなたも「天に国籍を持つ天国人」のひとりなのです。

その事を感謝しましょう。私達は天国人としてひとつになりましょう。

4月7日礼拝「私の心を一つにして下さい」

詩篇講解NO86「私の心を一つにして下さい」86篇11節

                         仁井田義政 牧師 

 今日の詩篇には「ダビデの祈り」という題が付いています。この詩は後の時代に編集された詩であろうという人もいます。たとえ後の時代の編集だったとしても、今日はダビデの心に立って、メッセージをお伝えします。

★ダビデは1節で「私は悩み、そして貧しいのです」と言っています。この貧しさは、金銭的なものではありません。敵への対処能力のことです。あるいは、心の力を意味します。その悩みは「たましいを守って下さい」とあるように、たましいが破壊されるほど激しい心配なのです。皆さんにとって、たましいを破壊するほどの敵は何でしょうか。

★たましいを破壊するほどの苦難に、一日中ダビデはあきらめずに祈りました。そのことは3節に記されています。なぜそのような祈りをすることが出来たのでしょうか。それは5節にあるように「神は恵み豊か」だからです。この詩篇には、苦難の中にありながら、感謝の言葉があふれています。まさに苦難の中における感謝の祈りです。

★それでは、それほどの苦難の中で、たましいが破壊されなかった秘訣はどこにあったのでしょうか。それは、11節の「主よ、あなたの道を教えてください。私は真理のうちを歩みます」と記されている通りです。神様の御言、聖書の御言に「聞く」こと。そしてそれだけではなく「歩む」こと。つまり御言を実践し、生活することです。悩みの中で、いろいろなことを思い煩い、心が分裂しまとまらないことがあります。ダビデはそのようにならないように、「心を一つにする」(11節)ことを祈ったのです。そうして「御名を恐れるように」と祈りました。

★「御名を恐れる」とは、神様を怖いと思うこととは全く違います。この所に出で来る「恐れ」とは、神様はどんな問題でも解決し、助けてくださる唯一の御方であると信頼することなのです。ですからダビデは、たましいを破壊してしまうほどの苦難の中にあっても、「まことに主よ、あなたは私を助け、私を慰めてくださいます。」と、祈りを終えることが出来きました。

あなたも苦難の中にあるならば、心が心配事で分裂することを許さず、徹底して神様の愛を信じることに集中し、「心を一つ」にしましょう。

3月24日受難週「あざ笑われた十字架」

受難週「あざ笑われた十字架」ルカ23章32~43節

                         仁井田義政牧師

今日から受難週が始まります。今週は、イエス様が私達を罪から救うために、エルサレムにおいて過ごされた一週間を思い巡らし、感謝する一週間です。イエス様は、ゴルゴタの丘で十字架につけられました。

★イスラエルに王様のいない時代が、イエス様の時代です。イスラエルのヘロデ大王が死んで後、ヘロデの三人の息子は王ではなく、領主としてローマから命名されていました。しかもヘロデ家はイドマヤ人で、血統の重んじるユダヤ人ではなかったのです。そこにイエス様が現われました。イエス様は、ダビデ王の血統につながる御方でした。イエス様がエルサレムに入られる時、人々がイエス様に王様になって欲しいと期待したのも無理のないことでした。しかしイエス様は、病気の人・経済的な弱者・外国人・精神障害者・取税人等、当時差別された人々を救う為に活動されました。人々は、そのようなイエス様に失望し、十字架につけたのです。

★人々は、十字架についたイエス様をあざ笑いました。一番目は、指導者たち(35節)でした。二番目は、ローマの兵士たち(37節)でした。「ユダヤ人の王なら自分を救え」と言って、あざ笑ったのです。三番目は、十字架につけられていた犯罪人(39節)でした。「あなたはキリストではないか、自分と私たちを救え」と悪口を言い、あざ笑ったのです。イエス様をキリスト「油注がれた王」とは、信じられなかったのです。

★しかし、犯罪人の一人は「おまえは神をも恐れないのか・・・この方は悪いことは何もしなかったのだ」と言いました。そして「イエス様、あなたの御国の位におつきになる時には、私を思い出して下さい」と祈ったのです。イエス様は「あなたは今日、私と共にパラダイスにいます」と言われました。イエス様を信じたこの犯罪人は、自分の「罪」を認めたところに、他の人達とは全く異なるところがあったのです。

★今日の聖書には、三種類の人々が出てきました。その人々は、十字架につけられたイエス様を見てあざ笑ったのです。一人だけがイエス様を信じたのです。

あなたはどうでしょうか。あざ笑う立場に立ちますか。それとも十字架のイエス様を信じる人になりますか。

3月17日礼拝「神の葛藤と救い」

詩篇講解NO85「神の葛藤と救い」詩篇85篇1~13節

                         仁井田義政牧師

 今日のメッセージに「神の葛藤と救い」という題を付けさせていただきました。そもそも完全なる神様に、葛藤などあるのだろうかという疑問が残ります。しかし聖書に示されている真の神は、葛藤されるのです。それは10節にあるように、神は「恵みとまこと」の神だからです。この詩篇には、神様の葛藤の姿が見えるのです。

★そもそもこの詩篇には、詩文であるがゆえに矛盾があります。その矛盾を埋める解釈学的な解決法として、いくつか考えられます。そのひとつは、詩人から見て1~3節までを、未来に関する預言的な言葉と見ることです。

また4~7節を、詩人が現在体験している苦しみの状況と見ることです。そして8~13節を、現在の苦しみからの解放と見ることです。

★1節に出てくるヤコブの繁栄を一個人のことではなく、イスラエル民族のことであり、その希望であるとすれば、まだ実現していない希望のことと考えることが出来ます。その繁栄の妨げになっているのは、民の「咎と罪である」と詩人は2節で言っています。イスラエルの歴史の中で、罪を犯したイスラエルが栄えたことは一度もありません。

★10節から神様の葛藤が記されます。それは神様が「恵みとまこと」に満ちた御方だからです。罪の為に苦しむ人々を「まことの神」は、罪の裁きなしでは赦すことが出来ません。しかしその正義の神様は、同時に「恵みに満ちた赦しの神」なのです。神様はその矛盾する心で、葛藤されるのです。日本語の「葛藤」とは、つる性の「(くず)」と「(ふじ)」のことです。そのつるが、がんじがらめに絡まってしまう(さま)です。その解決法は、人間の考えには全くないのです。ですから「神の仰せを聞きたい」(8節)と詩人は言うのです。

★神様は「神の葛藤」の究極的な解決法として、イエス様を遣わされました。それは、ヨハネ1章14節に「この方は恵みとまことに満ちておられた」と記されている通りです。詩篇85篇10節に「恵みとまこととは互いに出会い、互いに口づけしています」と預言されています。ですからあなたもイエス様を信じ、神様の祝福を受ける人となりましょう。

3月10日礼拝「なんという幸せ」

詩篇講解 NO84「なんという幸せ」詩篇 84 篇 1~12 節
仁井田義政牧師
今日の詩篇は、神様を信じる者の幸せについて記しています。この詩人は
神殿から遠い所に住んでいる人のように感じます。何らかの理由で、外国に
住んでいる人かもしれません。この詩は、読む者をはっとさせ、純粋な信仰
へと目覚めさせる力に満ちています。
★詩人は「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは」(4 節)
「雀や燕さえも住家を見つけました」(3 節)と言っています。彼は神殿の大
庭を恋い慕っています。(2節) そこにおられる神は、生ける神で偶像等と
は全く違う神であることを現わしています。そして雀と燕の譬えで、人間の
心の平安がそこにあることを示しています。ここで、詩人は第一回目の「な
んと幸いなことでしょう」という感嘆に満ち溢れた言葉を記しています。
★5 節では「なんと幸いなことでしょう。・・シオンへの大路のある人は」と
二度目の感嘆文を記しています。「シオンへの大路にある人」とは、詩人の
エルサレムを目指しての巡礼時のことかも知れません。礼拝に行くためには
長い道のりと、その道での困難や危険がありました。「彼らは涙の谷を過ぎ
る時も、そこを泉の湧く所とします」(6 節)とあるのは、そのことなので
す。これは文字通りの巡礼の道だけではありません。私達の人生であり、実
生活の中でのことです。それを乗り越えて礼拝に向かい、集うのです。
★詩人は「あなたの大庭の一日は、悪の天幕の千日にまさる」(10 節)と言
い、「神の宮の門口に立てるだけでも良い」と言っています。あらゆる困難
を乗り越えて行く神殿には、異教の宮のような神様の見える姿はありませ
ん。ですから 12 節で「なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその
人は」と、第三回目の感嘆文を記しています。目には見えないけれども、生
きておられる真の神に信頼することこそが大切なのです。それが、真の神を
信じる信仰者であることの幸せなのです。
★私達も、神の宮である教会を大切にしましょう。またどんな困難があって
も、日曜日の礼拝を大切にしましょう。そして何にもまして、見えない神様
を信じていることを最高の幸せとし、見えないからこそ、生きておられる神
様に全信頼を置く信仰の幸せを得ようではありませんか。

3月3日礼拝メッセージ「勝利するのは誰か」

詩篇講解NO83「勝利するのは誰か」詩篇83篇1~18節

                         仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、戦いの祈りの詩です。私達にも様々な戦いがあります。そのような時に、次々に神様が指導して下さり、神様の奇跡的な御力によって敵に勝利することが出来れば、それほど力強いことはありません。

★今日の詩篇には10の民族の連合との戦いが記されていますが、そのような戦争は聖書の歴史にはありません。そのことから、実際に起きた戦争ではなく、時代が違う戦争をまとめたものと考えられます。詩人は、この詩篇で真の神を信じる者の国に、度々戦いを挑んでくる者達を「滅ぼしてください」と祈りました。

★しかし神様は、その祈りに沈黙されたのです。私達も、祈ってもいのっても、神様が沈黙され行動して下さらないと感じることがあります。この詩人は「私達が攻撃されているのは、あなたが攻撃されているのですよ」と苛立っています。イエス様も、ゲッセマネの園で、裁判で、十字架で、神様の沈黙を体験されました。しかしイエス様は、はためには敗北に見える十字架において、神様の沈黙の中、勝利を信じて前進されたのです。

★この詩人の究極的な願いは、16節や18節にあるように、「彼らも神を知ること」にありました。詩人が言うように、時には神様が「沈黙」され、「その活動が見えず」何の力もないように見えても、結果は勝利するのです。それは、聖書全体のメッセージです。黙示録も、力強くその事を記しています。まさに「全地の上にいますいと高き方」(18節)なのです。

★先ほど、イエス様が十字架につけられる時「ゲッセマネの園や、裁判、十字架でも神様は沈黙しておられた」と言いました。その時には、同胞のユダヤ人たちからは嘘の証言を立てられ、ローマ兵からは唾をかけられ、平手やこぶしで叩かれ、いばらの冠をかぶらされ、葦の棒を持たされたのです。しかし、神様は黙しておられました。十字架につけられた時も、そうでした。しかし、神様のお働きは、その沈黙の中で始まっていたのです。黙示録にあるように、イエス様こそ最終的な勝利者なる神様なのです。「小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば小羊は主の主、王の王だからです。」(黙17:14)

私達はそのことを信じて、あらゆる戦いに挑んでいきましょう。

2月18日礼拝「正義の神が見ておられる」

詩篇講解NO82「正義の神が見ておられる」詩篇82篇1~8節

                          仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、悪とは何か、神様の正義とは何かを教えています。聖書は神様の正義だけではなく、悪の存在をいたるところに記しています。

★悪が存在すれば、当然正義も存在します。聖書の正義は、単に人間の決めた決まり事、つまり法律や憲法を守るということ以上のものです。政治家に求められるのも、憲法や法律以上の志の高いものでなければなりません。それは何かというと、2~3節にある「弱い者、みなしご、悩む者、乏しい者を助け出す」ことなのです。

★それを知らない人達の指導する国や社会には、安定がなく希望がなく、見通しが立ちません。現代は、共産主義も民主主義も行き詰っています。世界的には、国際連合も何の決断も出来ない状態です。日本の国会を見ても、居眠り議員や、自分の選挙の為に走りまわる議員や、都合が悪いと突然記憶喪失になる議員や、病院に逃げ込む議員もいます。派閥の権力者になるために、不正なお金をパーティなどで集め、それを部下にばら撒く始末です。

★82篇の詩人は、神の預言者的な目をもって、神の正義とは「弱い者、みなしご、悩む者、乏しい者を助け出すことだ」と記しています。それを見失っている党や個人は、悪魔的な存在なのです。ですから私達は、選挙の時だけではなく、常日頃から見張っていなければなりません。その議員が「弱い者、みなしご、悩む者、乏しい者を助け出す」志を持っているかどうかが、その人を見分ける試金石なのです。

★さて私達は、指導者や政治家などの不正を見る時、途方に暮れてしまいます。しかもその不正は、アダムとエバの時代から何一つ変わっていないのを知ると、さらに途方に暮れるのです。統一教会と政治家の結びつき、車関係の大企業の不正など、何故それらがこうも次々に起こるのでしょう。それは不正を裁かれる神様がおられることを信じていないからです。正義の神様は、私達の全ての生活をいつも見ておられます。

クリスチャンである私達は、しっかりとそのことを心に留めて、正義の神様の御心にかなう生活をしましょう。

2月11日礼拝「メリバの水のほとり」詩篇81篇1~16節

詩篇講解NO81「メリバの水のほとり」詩篇81篇1~16節

                          仁井田義政牧師

 この詩篇は「喜び歌え。喜び叫べ」という礼拝賛美への招きで始まっています。神様は、四百年以上も奴隷となっていたイスラエル民族を、エジプトの国から救出して下さいました。しかし民は不信仰になり、神様に不平ばかりを言っています。ここでは人間の罪深さが示されています。

★メリバは、旧約聖書の2か所に出てきます。第一回目は、出エジプト記17章6~7節に記されています。この時、神様はモーセに岩を杖で打って水を出すように命じました。第二回目は、民数記20章1~13節に記されています。カデシュバルネア近くでこの時、神様は岩に命じて水を出すように命じました。しかしモーセは二度も岩を打ってしまいました。そのため、神様の怒りによって、モーセも約束の地に入れてもらえませんでした。

★この詩が書かれた時、北王国イスラエルは混合宗教となっていました。北王国イスラエルの地は農業にむいており、南は牧畜にむいていました。北王国の王は、国内に外国の神々の礼拝所を作ることも許しました。イエス様の時代にさえも、イスラエルの北方は「異邦人のガリラヤ」(マタイ4:15)として、軽蔑されていました。それはイザヤ9章にも記されています。

★神様は「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」(10節)と記されています。「しかし、わが民はわたしの声を聞かず、従わなかった。それで彼らの思うように歩かせた」(11~12節)と記されています。北はアッシリヤの、南はバビロンの奴隷とされてしまったのです。

★今日の御言のキーワードは、10節の「わたしが、あなたの神、主である。」です。イスラエルの民がメリバで喉が渇く試練に遭った時に、神様はイスラエルの民を試しました。本当はその時にこそ、神様の力を信じて「信仰の口を大きく開ける」(10節)ことが必要だったのです。そうすれば16節に記されているように「主は、最良の小麦をイスラエルに食べさせる。」「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせて」くださるのです。

その神様は、あなたの為にも身を乗り出して「わたしが、あなたの神、主である」と語り掛けてくださっています。私達は、喜びと叫びをもって神様を礼拝し、賛美しようではありませんか。

2月4日礼拝「私達をもとに返して下さい」

詩篇講解NO80「私達をもとに返して下さい」詩篇80篇1~19節

                         仁井田義政 師

 詩篇80篇は、北王国イスラエルが滅亡し、南王国ユダがまだ存続していた時代のものだろうと言われています。南王国滅亡が紀元前722年頃であり、南王国ユダ滅亡が紀元前586年頃ですから、その間の作かもしれません。その証拠は、2節に「エフライム」「ベニヤミン」「マナセ」という北王国イスラエルに住んでいた民族名が出てくるからです。今日の詩篇80篇の中心的な御言は、「私達をもとに返してください」という祈りです。

★その祈りは、三回繰り返されています。一回目は3節の「神よ」。二回目は7節の「万軍の神よ」。三回目は19節の「万軍の神、主よ」ですが、繰り返すごとに神の名が強化されています。それは詩人の信仰が、祈りの中で強められている証拠です。

★1節に「ケルビムの上の御座についておられる方よ」との祈りがあります。このケルビムは、「契約の箱」上につけられた飾りです。ケルビムが聖書に最初に出てくるのは、エデンの園からアダムとエバが追放された所(創世記3:24)です。アダムとエバが、二度とエデンの園に入れないように置いた天的な存在なのです。詩人は、ケルビムの上におられる神様に祈っています。

★「神様の御顔が輝いていた時に」は、詩人が祝福された民と認識しています。「ヨセフを羊のように導かれていた」時は、「ブドウの木のように」勢いがありました。その枝は海にまで伸びました。海は、地中海かも知れません。川は、チグリス・ユーフラテスかも知れません。杉の木は、レバノン杉かも知れません。しかし今は、そのブドウの木も神の手によって切り倒され、神の御顔のとがめによって(16節)悲惨な状態となっているのです。

★イエス様はこのような状態を、父親を捨てて遠い国に行った放蕩息子の譬えで教えて下さっています。マックス・ピカートという哲学者の著書「神よりの逃走」という本の中に、「今や社会全体が神より逃走している。だから誰も、自分が神より逃走しているとは感じなくなってしまった」という文があります。私達は気付こうではありませんか。そして今日の詩人が言っているように、「私達をもとに返してください」と祈ろうではありませんか。しっかりと信仰に立ちましょう。

1月21日礼拝「惨状の中の祈り」

詩篇講解NO79「惨状の中の祈り」詩篇79篇1~13節   仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、大変重苦しい内容です。それは、今から約2500年前にイスラエルの民がバビロンに奴隷として連れていかれたことが背景になっているからと考えられています。戦争の光景は、今も昔も破壊された町と、軽視された人の命の惨状です。完全に破壊された虚無的な廃墟の中で、今日の詩人は「嘆きの詩」を記しています。

★神の都エルサレムは、必ず神が守って下さる!神殿は神の家だから絶対に破壊はされない!と人々は考えていました。しかし、バビロン軍によって瞬く間に廃墟とされ、死体さえも埋葬されることなく、空の鳥、野の獣の食い荒らすままに任せる状態でした。その結果、敵達は「お前たちの神様はどこにいるのか」と嘲ったのです。

★このような惨状の原因は、先祖たちと私達の不信仰にあると詩人は認めて祈っています。(5-8節)詩人は、エルサレム壊滅、神殿壊滅、人命軽視の原因を、神様の無力さには置きませんでした。「むしろ力の神の怒り」と理解したのです。神様は何度も預言者を起こして「不信仰の罪を悔い改めるように、このままではエルサレムの町も神殿も滅ぼされてしまう」と語りかけました。しかし人々は、その忠告を軽んじました。

★詩人は、その「先祖と自分達の罪」を認めました。しかし「私達の救いの神よ。御名の栄光のために、私達を助けて下さい」(9節)と祈りました。これは、私達にとっても非常に大切な部分です。私達も、全てを失ったかのような惨状を体験することがあるからです。しかもその惨状の中で、神様の偉大な力に触れることがあるからです。

★マルコの福音書4章35~41節の中には、ガリラヤ湖で嵐に遭った弟子達のことが記されています。「ところがイエスだけは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた」と記されています。弟子達に、イエス様に対する不満が起こりました。イエス様が「さあ、向こう岸に渡ろう」と言われたことを、弟子達は忘れてしまっていたのです。その結果、波に極限の不安を感じたのです。イエス様は、そのような弟子達の不信仰にも「風と波を静められ」ました。彼らを愛しておられたのです。

私達も、どのような状況の中でも、神様の愛を信じて生活しましょう。