11月8日礼拝「身を低くされた神」

詩篇講解NO.113「身を低くされた神」113篇1~9節(待降節第二週)
                                     仁井田義政 牧師
今日は、主の御降誕を待ち望む第2週です。来週の日曜日夕方5時からは、溝の口駅前のキラリデッキでクリスマスキャロルを行ないます。そして再来週の22日は、クリスマス合同礼拝と、クリスマス・ハンドベルコンサートが行なわれます。さらに24日夜には、クリスマスキャンドル礼拝が行なわれます。今日はアドベントメッセージとして、「身を低くされた神」という題でお話し致します。
★そのようなクリスマスシーズンにぴったりな御言です。なぜならば「主をほめたたえよ=ハレル」が3度も繰り返されて奨められているからです。3度は3回とは違います。それは「どこまでも」と言う意味です。イエス様が捕らえられた時、ペテロが「3度あの人を知らない」と言ったのは、徹底否定を意味していました。
★どこまでも主をほめたたえる理由は、偉大な神が「身を低くされた」からであると6節に記されています。それは、全歴史において君臨される神であると同時に、身を低くされる神だからです。ピリピ人への手紙2章6~11節には、神は「自分を無にして、人間と同じようになられ、自分を卑しくし(犯罪者として十字架刑に)十字架の死にまで」これが、身を低くされたキリストなのです。
★なぜ、「偉大な神が身を低く」されたのでしょうか。それは7節「弱い者を、ちりから起こし」とあります。「ちり」とは、最も小さな微粒子のことです。また「あくた」ともあります。「あくた」とは、直訳は「ゴミ」のことです。最も小さく、ゴミのような存在の私達を神の子とされたのです。
★最後に「子を産まない女」(9節)のことが記されています。イエス様は結婚されていませんから、当然子供はいません。しかしイエス様は、今や多くの霊的子供達に囲まれています。その霊的子供達が、キリスト誕生のお祝いの準備をしているのです。それがアドベントなのです。
★私達もハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!と、低きに下られた神の御子イエス様を賛美しましょう。アドベント週を、クリスマスに人々をお誘いする期間として、大切に過ごしましょう。

11月1日「光を闇の中に輝かす」待降節1

詩篇講解NO.112「光を闇の中に輝かす」112篇1~10節 待降節1

                         仁井田義政 牧師                                  

 今日から2024年の最後の月に入りました。教会の内外は先週にクリスマスの飾りつけが行われ、アドベント週間が始まりました。今年も各報道機関のニュースは暗い話の多かった年でした。闇バイト等と言う言葉と事件が一層暗闇を感じさせる出来事でした。せめて明るかったのは大谷翔平さんの活躍くらいだったでしょうか。しかし今日の詩篇には、神様がその暗い人間の世界に光を下さる事が書かれています。「光に闇」クリスマスのテーマです。今日は闇の中の希望をお話し致しましょう。

★今日の詩篇も「ハレルヤ=主をほめたたえよ」という言葉で始まっています。どんなに私達を暗闇が取り囲んでいても、神様が勝利を下さるからです。1節の「幸いな人」とは、そういう人の事です。そういう中でも「主を恐れる」人です。それは主を敬う人のことです。

★4節には「主は直ぐな人たちの為に「光を闇の中に輝かす」とあります。 私達も腰を抜かすほどの暗闇を感じる知らせを耳にすることがあります。 癌が見つかった。家族が召された。会社が倒産した。突然事故に遭って半身不随になってしまった等々です。その他にも多くの暗闇が私達を取り囲みます。しかし私達は暗闇があることが問題ではなく、光がない事が問題なのです。ですから神様は、私達に光であられる御子イエス様を下さったのです。

★主に信頼する人は「悪い知らせを恐れず」と7節にあります。主に信頼する人ほど強い人はいません。8節に「その心は堅固で、恐れることなく」と記されています。その人は、どんな「悪い知らせも恐れない」のです。

そうして、同じ8節に「自分の敵をものともしないまでになる」としるされています。それは自分の不幸を親や子や人のせいにしないのです。その人に「闇」があることが問題なのではなく、光がない事が問題なのです。

★ヨハネ1章にイエス様は「私達を照らす真の光」として来て下さったことが記されています。その5節には「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」と記されています。イエス様は私達の人生を照らす希望の光として来て下さったのです。まさに「主は…光を闇の中に輝かす」です。暗闇を照らす真の光であるイエス様をお迎えする心の準備をしましょう。

11月24日礼拝「心を尽くし主に感謝」

詩篇講解NO.111「心を尽くし主に感謝」111篇1~10節

                         仁井田義政 牧師                                  

 この詩の背景は、イスラエルの民が奴隷の地であったエジプトから脱出した歴史が土台となっています。聖書は、この功績を決して人間モーセに与えてはいません。

★その功績は、モーセにではなく主なる神にあると宣言し、「直ぐな人の集いで賛美せよ」と命じています。2節には「その御業は偉大で」と記し、5節には「主を恐れる者に食べ物を与えた」と、荒野での生活を記しています。1日や2日ではなく、40年間もそうされたのです。さらに「その契約をとこしえに覚えておられる」と記しています。それは、モーセから500年位経った詩人の時代にも変わらないとの感謝なのです。

★神様は愛に満ちた御方ですが、不信仰や罪に対しては決して赦すことのない聖なる義に満ちておられます。そのことは3節に「その御業は尊厳と威光。その義は永遠に堅く立つ」と記されている通りです。それなのにイスラエルの民は、荒野で40年間も不信仰に満ちに生活だったのに、約束の地を与えられたのでしょうか。それは「主が、御民に贖いを送られた」(9節)からに他なりません。

★10節には「主を恐れることは、知恵の初め」と記されています。箴言1章7節でも「主を恐れることは知識の初めである」と記されています。「主を恐れる」とは、主の厳しさと同時に、主の愛と恵みを知ることです。そしてその主の御前で自分を知ることなのです。主の御前で自分を知るとは、自分には正しさや聖さは何一つないということを知ることです。

★ルカの福音書18章9~14節で、イエス様は「このような譬えを話された」と記されています。それは「私は罪ひとつない正しい人間だ」というパリサイ人と、「神様、こんな罪人の私を憐れんで下さい」と祈った取税人の話です。イエス様は「神様に義と認められたのは取税人の方です」と、はっきり言われました。神様は詩篇111篇9節で「主は、御民に贖いを送り」と記されています。クリスマスは、そのお方をお迎えして喜びが爆発する教会最大のイベントです。ですから今日も「心を尽くして、主に感謝」しつつ、喜びにあふれてクリスマスの飾り付けをしましょう。

11月17日礼拝「永遠の支配者キリスト」

詩篇講解NO.110「永遠の支配者キリスト」110篇1~7節

                         仁井田義政 牧師                                  

 この110篇は、王様の即位式の為の詩篇と言われています。またこの詩篇は、詩篇中で最も多く新約聖書に引用されている有名な詩篇でもあります。なぜ多く引用されている詩篇なのかと言うと、それはキリストの誕生とキリストの働きを預言しているからです。イエス様ご自身も、マタイ23章44節でこの一節を引用しておられます。クリスマスが近づいているこの時期に、この詩篇に思いを馳せることは素晴らしい恵みです。

★最初に話しましたように、この詩篇はダビデ王の時代から王の即位式の時に読まれたと言われています。1節には、ダビデが「主は、私の主に仰せられる」と言ったと記されています。それは、キリストについての預言と同時に、ダビデ王が「私の主」と言うほどの偉大な御方の誕生だと言います。そしてその御方は「私があなたの敵を、あなたの足台とするまで、私の右の座についていよ」と、父なる神に言われた御方であると言っています。

★それは、キリストが十字架の死で終わるのではなく、復活して世界を支配し続けることの預言でした。復活のキリストが神の右の座に着かれると、教会は神の霊に満たされ、世界宣教を開始しました。その支配が2節に「シオン=エルサレム」から始まることも預言されています。その通りに教会はエルサレムで誕生し、そこから世界宣教が始まったのです。

★これは4節の「主の誓い、御心を変えない」という神様の決意なのです。それはまた、神様がアブラハムに「全世界はあなたの子孫よって祝福される」(創世記12:3)と預言された約束の成就なのです。そしてマタイ1章1節にあるように、キリストはアブラハムの子孫から、ダビデ王の子孫から生まれて、全世界の救い主となられるのです。ですからキリストによる世界の救いの戦いは、今日の詩篇110篇にあるように、必ず成功するのです。

★今日の詩篇は、永遠の支配者キリスト誕生の預言でした。キリストが誕生された時には、数人の羊飼い達にしかわかりませんでした。今も、日本人の多くが自分の極近くに救い主キリストがおられるのを知りません。しかしイエス様は、世界の人々を救う戦いをしてくださっています。私達もイエス様と共に、人々を救いに導く伝道の戦いをしましょう。

10月27日礼拝「もう私の心は揺るがない」

詩篇講解NO.108「もう私の心は揺るがない」詩篇108篇1~13節

                    仁井田義政牧師

 この詩篇は表題に「歌。ダビデの賛歌」と記されています。しかしこの詩は、詩篇57篇7~11節と60篇5~12節の合成であると言われています。おそらくダビデ王から五百年くらい後に、ダビデと同じような体験をした人が合成したものと思われます。その体験とは「神様に私は捨てられたのではないか」と言う苦しい体験です。そのような体験を私達もすることがあります。ですからこの詩は、私達にも迫ってくるのです。

★この詩の重要な所は「私達は神様に拒まれたのではないか」(10~11節)と言っている所です。味方がどんなに多くいても、神様が一緒に行ってくださって初めて勝利があると言っているのです。

★ですから詩人は「どうか、敵から私達を助けてください」(12節)と祈りました。神様はその祈りに応えて「聖所から告げられた」と記されています。人間の力や考えではなく、神様の御言です。その神様の御言は、勝利の約束でした。その御言に、詩人は勇気づけられ勝利を確信したのです。

★神様の御言によって、不安定だった詩人の心は不動のものとなりました。詩人は「神よ、あなたは私達を拒まれたのではありませんか」と、不安で揺れ動く心が定まったのです。そうすると、詩人の心に喜びと感謝があふれてきたのです。竪琴を鳴らして神様を賛美するのに、朝まで待てない程でした。そして「あなたの恵みは大きく、天にまで及び、全世界であがめられますように」(4~5節)と賛美したのです。

★今しがたまで、「神様は私達を拒まれた」と不安と恐れが彼の心を支配し、心の安定を失い、不安に揺れ動いていたのではなかったでしょうか。しかし聖所からの神様の声を聞いた時に、彼の心は定まったのです。「神様は私を愛して下さっている」という確信が、神様の言葉によって与えられたからです。「御言をすなおに受け入れなさい。御言は、あなたがたのたましいを救うことができます。」(ヤコブ 1:21)と記されています。御言には、あなたの不安な心に平安を与え、希望の朝を引き寄せる力があります。

神様と神様の御言を信じ、私達も神様の素晴らしさが、世界に届けとばかりに、神様を賛美し力強く生きる人となりましょう。

10月20日礼拝「この苦しみの時に」

詩篇講解NO.107「この苦しみの時に」詩篇107篇1~9節

                  仁井田義政 牧師

この詩は、3節に記されているように、礼拝者が礼拝のために四方の国々から集まって来た時の賛美です。その中には、色々な職業や生活状況の中にある人達もいました。それは、現代の教会のようでもあります。集まった人達には、共通した体験がありました。それは、神様による「苦しみからの救い」でした。

★ある人は「荒野や荒れ地をさまよって」いたと言います。「さまよう」は文字通りではなく、目的がなく虚しさを現わしています。ある人は「闇と死の陰に座す者」だったと記されています。死に向かって屈服している姿です。ある人は「病気の為に、食欲を失い、死」の一歩手前にまで来ていたのです。またある人は、海で嵐に遭って「船が天に上り、深みに下った」のです。そして「彼らのたましいは溶け去った」と絶望的だったことが記されています。

★彼らは、その「苦しみの時に祈ると、主は苦悩から彼らを救われた」と言っています。それが礼拝者の共通体験だったのです。人の悩みは、人の数ほど種類があることでしょう。四方の国々に住んでいた人々は、習慣や文化の違いでなおさらのことでしょう。しかし「苦しみの時に、主に叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された」のです。ですから「主の恵みと、奇しいわざを主に感謝」するという礼拝に集まって、ひとつ心で礼拝することができるのです。

人生は、必ずしも勝者が勝者であり続けることは出来ません。41節に「しかし」と記されている逆転が起こるのです。主に祈る人は、その逆転を体験することが出来ます。「知恵のある者は誰か」と詩篇の作者はそう問うています。そして、その人は「主の恵みを悟る者だ」と結論しています。

★今も、多くの人が多くの悩みを持って、苦しみつつ生きています。私達は、その悩みから解放される道を知っています。それを体験しました。その体験とは「苦しみの時に、主に叫ぶと、主は苦悩から救ってくださった」という体験です。あなたも、諦めて絶望的な人生を送っていてはなりません。あなたを助け、あなたを救って下さる神様を信じて生きましょう。

10月13日礼拝「神に逆らい続けた民」

詩篇講解NO.106「神に逆らい続けた民」詩篇106篇1~15節

                    仁井田義政牧師

106篇は、前の105篇と同じ出エジプト記を背景にしています。105篇はその時の神様の驚くべき救いの御業が記されていました。今日の106篇は、その時のイスラエルの民が、神様を何度も裏切ったことを記しています。

★この詩の作者は、イスラエルの民の裏切りの歴史を書きました。総論的に言えば、イスラエルの民は出エジプト時に荒野で何度も神様を裏切りました。そして約束の地に入ってからも、何度も神様を裏切り続けたのです。

★最初の裏切りは、「私達はエジプトの奴隷の方が良かった」(出14章)と神様への叫びとして出てきます。そうかと思えば、紅海を渡った直後には「感謝の踊り」(出15:20)をしたりしています。詩篇106篇13~14節に「しかし、彼らはすぐに、御業を忘れ・・激しい欲望にかられ」と記されています。その欲望とは「われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも」(民11:5) との叫びです。また十戒で有名なシナイ山のふもとでは「金の子牛」(19節)を作って偶像礼拝をしました。さらには「異教の偶像に仕え、自分の子供たちを悪霊の生贄として捧げた」(37節)というおぞましい事すらしたのです。

★それでも「主は彼らの苦しみに目を留められ」(44節)彼らを助けられました。しかし神様は、愛する民達に何度裏切られたことでしょう。私達は一人に裏切られても、心が激しく痛むのです。神様の心に、裏切られる度に激痛が走ったことでしょう。私達は、神様の心を痛めてはなりません。この詩人は6節で「私達は先祖と同じく・・罪を犯し」と言っています。自分も神様の心を痛めたことがあると言っているのです。

★今日、私達は自分の心を深く顧みましょう。「私は神様の心を痛めたことが有るか無いか」を振り返ってみましょう。無い人はいないと思います。私達は悔い改めて「これからは信仰にしっかりと立って歩んでいきます」と祈ろうではありませんか。そうして48節の「ほむべきかな、イスラエルの神」と勝利の宣言をして、新たに信仰から信仰へと進んで行きましょう。

10月6日礼拝「神様の約束」

詩篇講解NO.105「神様の約束」詩篇105篇1~21節

                    仁井田義政牧師

 詩篇105篇は、紀元前2000年前のアブラハムへの神様の契約から始まっています。聖書は、まさしく契約文化の始まりなのです。聖書全体が、神様が人間に与えられた契約書なのです。ゆえに聖書は旧約聖書、新約聖書と言われるのです。恵みに溢れた私達に対する神様の契約、つまり「神様の約束」が記されています。

★アブラハムは、今から4000年前、メソポタミヤのカルデヤのウルに住んでいました。その時の彼は「アブラム=高められた父」という名前でした。しかし神様から「アブラハム=多くの者の父」という名前が与えられました。神様は「アブラハムの子孫が、世界を祝福するようになる」と約束されました。(創世記22:15~18)

★イスラエル民族は「神様とアブラハム契約」のゆえに、苦難から守られました。その事が記されているのが、今日の詩篇105篇16~41節です。その苦難のひとつが、大飢饉でした。神様の数奇な導きで、ヨセフの家族とイスラエル民族が、飢餓から救われました。

★しかしエジプトでの生活が数世代に及び、ヨセフのことも知らない王が、イスラエル民族を迫害しました。そのためモーセが神様によって立てられ、エジプト脱出が起こりました。その時には、紅海の奇跡も起こりました。それは、神様とアブラハムとの契約があったからです。しかし、民族としての祝福は、彼らがキリストを殺害することによって終わりました。

★ただアブラハムに「世界はあなたの子孫によって祝福される」と言われた約束は、神様によって守られ続けました。それが新契約である新約聖書なのです。(マタイ1:1)

★神様は「アブラハムの子孫によって世界を祝福する」と言われた約束を、今もなお実行しておられるのです。アブラハムの祝福は、アブラハムの子孫イエス・キリストによって実行され続けています。そして私達クリスチャンに「全世界に福音を伝えよ」(マタイ 28:19~20)と言っておられます。まさに今日の詩篇105篇1~7節の中でも、全世界への宣教を命じておられます。私達は、約束を守られる神様を心から信頼し、ほめたたえましょう。

9月29日礼拝「ハレル、ヤハー」

詩篇講解NO.104「ハレル、ヤハー」詩篇104篇24~35節

                    仁井田義政牧師

 この詩は、103篇と同じように「我が魂よ。主をほめたたえよ」で始まり「我が魂よ。主をほめたたえよ」で終わっています。それは、自分の心への語り掛けであり、奨めなのです。104篇は、それに「ハレルヤ」が加えられています。どうしてこのように、自分自身の心に主をほめたたえることを奨めているのでしょうか。

★祈祷会では、ちょうど創世記の1章からお話をしています。創世記1章の壮大なスケールの天地創造には、現代科学も圧倒される記事が記されています。この詩篇のほとんどが、神様による天地万物の創造と、その知恵が賛美されています。

★その通りです。私が動植物を大好きなのは、その中に神様の知恵があふれて見えるからです。赤カンガルーの大人は90キロにもなります。しかしその赤ちゃんは、妊娠から30日で生まれる為に、超未熟児で生まれます。その赤ちゃんの体長は2センチ、体重は1グラム程です。その超未熟児で生まれた子が、生まれると直ぐにお母さんの袋を目指して、自分でお母さんの体をよじ登って、お母さんの袋に入るのです。その袋の中にお母さんのオッパイがあると誰が教えたのでしょう。植物の世界にも、そのような事例が数多くあります。いま私はポインセチアを育てていますが、ポインセチアには脳がないのに季節を認知して花を咲かせるのです。

★詩人は御言で「生きている限り、いのちのある限り」と記しています。詩人は、自然の中の神様の力と知恵に感動し、感極まるように「私は主をほめたたえる」と言っています。そして最後には、もう一度「我が魂よ。主をほめたたえよ。ハレルヤ。」と言っています。

★日本の詩文学の中にも、自然そのものを賛美している詩は数多くあります。しかし聖書は、ただ単に自然の素晴らしさを賛美しているのではありません。自然を造り、自然を神秘的な御業で支配しておられる神様を賛美しているのです。イエス様も、マタイ6章で「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」と弟子達に教えられました。私達も、もう一度「我が魂よ。主をほめよ。ハレルヤ。」と、自分の魂に言い聞かせましょう。

9月22日礼拝「我が魂よ。主をほめたたえよ」

詩篇講解NO.103「我が魂よ。主をほめたたえよ」詩篇103篇1~5節

                    仁井田義政牧師

今日は、詩篇の中で最も素晴らしいと言われている103篇を読んでいただきました。今日のタイトルは「我が魂よ。主をほめたたえよ」で、1節の御言からつけさせていただきました。それでは最も美しい詩とも言われ、私達への5つの祝福が記されている詩篇103篇をお話し致しましょう。

★私達の世界では「感情的になるな。もっと理性的になって」等と言われることが多いです。しかし詩篇は、いや聖書の全体が、感情豊かな世界への招待なのです。感情は、理性や知性より優ると言うのではありませんが、感情が乏しくなると、理性や知性も正しく機能しなくなるのです。

★1節に「我が魂よ。主をほめたたえよ」と記されています。魂の語源は「喉」で、乾き求めることを現わします。喉が渇いていている時、水の分子はどうでも良いのです。感情が枯渇する時、感情がプラスになるために、主をほめたたえ、感謝することが大切なのです。ですから1~2節で「我が魂よ。主をほめたたえよ」と二度も出てくるのです。

★それでは、神様にどのような事を感謝できるでしょうか。もし神様の存在を知らない人がいるなら、それは神様がいないからではありません。ハワイの夜空は、星の輝きが素晴らしいのです。しかし日本の空にも、同じ数の星が輝いているはずです。人間の作った光や大気汚染で、その星の存在が見えないのです。あなたと神様の間を妨げているものを取り払いさえすれば、あなたにも神様の存在が見えるようになるのです。

★神様は、あなたの「病を癒し」「恵みと、憐れみの冠」を与えてくださいます。あなたの一生を「良いもので満たし」将来の不安を取り除いて下さいます。あなたは「鷲のように新しくなり」悠々と空を舞い、風などにびくともしない人になります。むしろ風を利用して上昇する人となるのです。

★15節には、人の一生の短さが記されています。私達の一生は、草や花のように一瞬に過ぎ去ります。そのような短い人生を、悩みに満ちて過ごしてしまうのはもったいないことです。まさに最後の22節にあるように、「全て造られたものたちよ。我が魂よ。主をほめたたえよ」と、心からお奨めしたいのです。あなたも、神様を信じて心から主を賛美する者になりましょう。