1月18日礼拝「苦しみの中での御言」

マタイ講解NO8「苦しみの中での御言」4章1~11節 

                        仁井田義政 牧師

イエス様は洗礼を受けられた後に、聖霊によって荒野に導かれました。イエス様が荒野であわれた試みは、私達クリスチャンにも襲いかかるサタンの罠なのです。その罠に私達がどのように勝利するかを、イエス様に学びましょう。

★荒野の40日間は、イスラエルの荒野における40年の不信仰と失敗を意味していました。イスラエルは、エジプトから救出された後、40年間も荒野をさまよったのです。イエス様は、人間の代表として40日間断食を、マナもなく、岩から水もなく、極限の空腹を体験されたのです。その中でサタンは

「奇跡を使い、その苦しみから逃れたらどうか」と誘惑しました。

★最初の誘惑は「神の子なら、石をパンに」するというものでした。イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神のことばによって生きると聖書に書いてある」と誘惑を退けました。その言葉の通り、パン(経済)の豊かな国の方が、むしろ自殺者が多いのも事実なのです。

★次に「あなたが神の子なら、神殿の屋根から飛びおりてみなさい。」とサタンは誘惑しました。するとイエス様は「神様を試してはならないと聖書に書いてある」とサタンの誘惑を退けました。

★最後にサタンは、イエス様に世界の栄華を見せて「ひれ伏して私を拝むなら、これらを全てあなたに上げます」と誘惑してきました。しかしそのサタンの声に屈服するなら、全てを失うのです。イエス様は「主にだけ仕えよと書いてある」とサタンの誘惑を退けました。 ★ある哲学青年が「先生、人間は自分の心に忠実に生きることが正しいのではないでしょうか」と論争を仕掛けてきました。私は「そうですか、そうならば私が今あなたを殴っても、あなたは抗議できませんよ」と言いました。さらに続けて「私はあなたを殴りたいと思っても殴りません。聖書に「仕返しをしてはならない」という御言があるからです。殴るのと殴らないのと、どちらが正しいですか。私は自分の心に忠実にではなく、聖書の御言に忠実に生きたいと思っているのです」と話しました。私達は自分の心に忠実にではなく、神様の御言つまり聖書の御言に忠実に、新しい年を生きましょう。

1月11日礼拝「天の窓が開いた」3章13~17節

マタイ講解NO7「天の窓が開いた」3章13~17節 

                        仁井田義政 牧師

新しい時代が近づいているのを感じていた洗礼者ヨハネは、新しい時代を生きるようにと、人々に悔い改めの洗礼を授けていました。するとイエス様が、洗礼を受けるために故郷のナザレからヨハネの所に出て来られたのです。そのことにヨハネは驚き、戸惑いました。

★ヨハネは、洗礼を受けようされるイエス様に洗礼を授けることをためらいました。それはヨハネの洗礼の目的は「悔い改めの洗礼」(3章2節)だったからです。イエス様は罪のない御方であるから、私こそイエス様から悔い改めの洗礼を授けて頂くのが正しいと思ったのです。たとえば、子供達に習字を教える先生の所に、世界的な習字の先生が来て「私に習字を教えて下さい」と言ったとしたらどうでしょう。恐縮し必死に止めようとするでしょう。

★イエス様は罪のない御方です。ですから洗礼が必要ないのです。その御方が、罪人と一緒の列に並び、洗礼を受けようとされたのです。それは、私達罪ある人間と、イエス様の連帯を示しています。それこそがイエス様の使命に「正しい」のです。ヨハネはそれを聞いて承知し、洗礼を授けました。

★すると「天が開けて、聖霊が鳩のように下り、これは私の愛する子」と父なる神の声が聞こえたと聖書に記されています。それはまさに「父・子・聖霊」なる神が、イエス様の「罪人との連帯」を喜ばれたことを表わしています。つまり、イエス様が罪人との連帯を喜ばれたことを示しています。

★イエス様が罪人の列に加わり洗礼を受けられると、「天が開け」ました。四百年も閉ざされていた天との交流が、開始される新しい時代が始まったのです。それはノアの洪水の時に、放たれた鳩がオリーブの葉をくわえて来た時のようでした。イエス様が水から上がられると「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」との声が聞こえました。それは私達もイエス様に習って洗礼を受ける時「神の愛する子」とされることを示しています。

★イエス様が、私達の代表となって人間の列に並んで洗礼を受けられたように、ここに集まっている皆が洗礼を受けて、クリスチャンになりましょう。

2026年1月4日「実を結ぶクリスチャン」

マタイ講解NO6「実を結ぶクリスチャン」3章7~12節 

                        仁井田義政 牧師

 今年最初の礼拝メッセージは、昨年11月16日から始まりましたマタイの福音書の講解より、イエス様のご生涯から順を追って祝福の御言を取り次ぎます。

★今日出てくるバプテスマのヨハネは、1400年以上続いてきた祭司の家系の息子でした。家系的に見ても、当時のエリートでした。そのままで、神殿で仕える祭司となり、衣食住に心配のない立場にありました。しかしヨハネは、救い主の先駆者となるために、それらの全てを捨てたのです。それは預言者イザヤが750年前に預言した「荒野に叫ぶ声」は、自分のことだと確信したからです。

★一方イエス様は、ナザレの大工の家系でした。祭司の家系とは雲泥の差がありました。考古学では、当時のナザレの家々は、半洞窟であったということがわかっています。イエス様は、30歳の時に突然、世にご自分を表わされました。格式ある家に生まれたヨハネは、イエス様を迎えるために、大工より低いラクダの毛衣を身にまとっていたと見ることも出来るのです。

★バプテスマのヨハネは、人々に「自分は優れた血筋だ等と思っていてはならない。神は能力のない石ころからでもアブラハムの子孫を起こす時代が来たのだ」と叫びました。それは、何の価値もない者からも世の中を祝福する者を起こすことができるという意味です。そのためには「悔い改める」ことが必要であると教えました。それは「向きを変える」という意味です。そのために「聖霊と火とによる洗礼」が大切なのです。彼は、集まってきた人々に「実を結ぶ」人となるように勧めました。

★イエス様も、この新しい年に、「実を結ぶクリスチャン」になるように私達に近づいて下さっているのです。私達がたとえ「石ころ」のような存在であっても、「多くの実を結ぶクリスチャン」となるのです。

2026年元旦礼拝「年の初めから終わりまで」

        仁井田義政 牧師

今年の溝の口キリスト教会の御言                             

「そこは、あなたの神、主が目を留めておられる地であり、年の初めから年の終

わりまで、あなたの神、主の目が絶えずその上にある。」(共同訳 申命記 十一 章 十二 節)

 皆さん、あけましておめでとうございます。溝の口キリスト教会は、申命記の御言で二〇二六年が始まりました。申命記は、イスラエルがエジプトの奴隷状態から解放されて、神様の約束の地に入る前に、モーセによって語られた説教集です。その内容は、新しい地に入っていったなら、どのように生活して神様の祝福を受け、幸せな生活をするかの教えです。それは、そのまま私達が新しい年を迎えて、どのようにして祝福された生活をするかの教えにもなります。今日の御言の前後関係から、新年二〇二六年が、皆さんにとって素晴らしい年となりますよう、この御言を新年礼拝のメッセージとしたいと思います。

★まず新しい年を祝福に満ちた年とするための条件は、八~九節にあるように、神様の命令を守ることです。神様の命令と言いますと、堅苦しく感じる人がいるかもしれません。しかし、それは神様の優しさなのです。新しい機械等を購入して、その取扱い説明書がないと困ります。それと同じように、神様は私達が新しい年に迷い、無駄な日や時間を使うことのないように、説明書を下さったのです。それは、イスラエルの民達が、エジプトからイスラエルにひと月もあれば来られるのに、四十年もかかってしまったからです。さらに悲劇的なのは、エジプトを出る時に二十歳以上だった人々は、四十年の間に全て荒野で死んでしまいました。それこそ無駄死をしたのです。

★さて申命記は、エジプトの地と新しい約束の地の違いについて、記しています。エジプトの地には大きなナイル川がありましたが、その利益を受けるためには、自分の力で川から水をくみ上げて動植物に与えなければなりませんでした。しかし新しい地イスラエルには、山があり谷があり、そこは雲が湧き出て雨が天から降ってくる地なのでした。人力によってではなく、前の雨と後の雨が地を潤し、農作物を育てたのです。前の雨は、十月~十一月頃にあり、その時が種蒔きの季節となりました。後の雨は、三月~四月頃で、それは収穫前の大切な雨なのです。その二度の雨季は。今もなお変わることがありません。

★そのように、天から雨の降る新しい地で、神様からの祝福を受ける方法は「主を愛すること」ですと二十二節に記されています。そうする時、主が新しい年に於いて、あなたを祝福してくださるのです。しかし無視すれば、新しい地での生活も「呪われたもの」になってしまうと二十六節に記されています。

★神様はイスラエルの民が、新しい約束の地に入っていくにあたり、イスラエルのために「年の初めから、年の終わりまで、絶えずその上に目をとめておられる地である」(十一節)と言っておられます。イスラエルの民は、エジプトから約束の地まで一ヵ月もあれば十分に行けた距離なのに、不信仰のために四十年も荒野をさまよい続け、苦しい生活をすることになってしまいました。モーセは、イスラエルの民が約束の地で不信仰のゆえに無駄死にすることがないように、この申命記の一大説教をしたのです。

★私達は、新しい年を「強く主を愛する年」と致しましょう。そして強い信仰の告白をもって、神様からの祝福に満ちた新しい年を受け取り、二〇二六年を希望に満ちて出発いたしましょう。

2025年最後の礼拝「神が全てを益として下さる」

2025年最後の礼拝「神が全てを益として下さる」ローマ8章28節

                        仁井田義政 牧師

 皆さん、いよいよ今年最後の礼拝です。2025年は皆さんにとって素晴らしい年でしたか。それとも失敗ばかりの年でしたか。どちらにせよ過ぎ去ってゆく2025年は、取り戻すことが出来ません。今日の御言には「神が全てのことを働かせて益として下さる」とあります。

★しかし「全ての人の失敗が益とされる」とは言っていません。「神を愛する人々、すなわち召された人々には」と記されているのです。それは、今、神様を愛する人となっているかどうかが大切なのです。

★私達の人生には、自分から招いた失敗や、他人から与えられた苦しみなど沢山あります。旧約聖書の中には、試練の人としてヨセフが出てきます。彼は「みんな私に礼拝する」等と言って、兄弟達から恨まれてしまいました。そして17歳で、奴隷商人に売られてしまいました。(創世記37:2)

★しかしヨセフは失敗続きの中でも、神様を信じ続け、決して不平を言いませんでした。ヨセフは、ポテパルの妻に罪を着せられ、牢獄に10年くらいいた時も、不平を言いませんでした。彼が総理大臣になったのは、13年後の30歳の時でした(創世記 41:46)

★ヨセフは、自分の失敗も、人々からのひどい仕打ちも許すことが出来ました。自分を奴隷に売った兄弟達さえも、許すことが出来たのです。それは、ヨセフが寛容な人だったから出来たのではありません。神様を愛する人だったから、神様は全てを益にして下さると信じることが出来のです。

★あなたも、いま全てのことを神様にゆだねて、神様を愛しましょう。そうする時、2025年の全てが、オセロのようにみるみるうちに逆転し、あなたの勝利となるのです。

クリスマス記念礼拝「まことの光が来られた」ヨハネ1章9~13節

クリスマス記念礼拝「まことの光が来られた」ヨハネ1章9~13節

                        仁井田義政 牧師

 皆さん、クリスマスおめでとうございます。十二弟子の一人のヨハネは、クリスマスの出来事を「まことの光の到来」として紹介しています。二千年前の世界は、光の見えない時代でした。当時、ヨハネを初めとして人々を取り巻く世界は、暗闇に包まれていたのです。

★それではどのような暗闇でしょうか。ます宗教が形骸化していました。613の戒律が人々を縛っていたのです。その中でユダヤ教の一派であるパリサイ派は、それを完全に守っていると豪語し、威張っていました。

次にローマが世界を支配し、ローマに逆らう外国人は、十字架刑にされました。しかも見せしめのために、街道際に処刑場があったのです。

ローマにおもねる者達が優遇され。金持ちになっていました。

★そのような「闇を照らすまことの光」として、イエス様は誕生されたのです。まことの光の証拠は「全ての人を照らす」ことです。イエス様は、人種、民族、国家を超えて、全ての人を照らす光なのです。まさに賛美歌にある「諸人こぞりてたたえまつれ。久しく待ちにし主は来ませり」です。

★その光の恩恵を受けるためには、人間的な優秀さは一切必要がありません。また「血筋にもよらない」と聖書に記されています。ユダヤ人は、血筋を重んじる民族でしたが、血筋にもよらないのです。また「肉の欲求によらない」とも記されています。それは、人間の情熱的な努力にもよらないのです。つまり神の子となろうと、難行苦行する必要もないのです。

★あなたが「神の子」とされるためには「全ての人を照らすまことの光」として来て下さったイエス様を信じるだけで良いのです。イエス様はあなたを闇から救い出して、平安と喜びを与えるために来て下さったのです。それがクリスマスなのです。あなたも、全ての人を照らすまことの光として来て下さったイエス様をお迎えしましょう。

(待降節2)12月7日礼拝「幼子イエス様の御受難」

(待降節2)マタイ講解NO4「幼子イエス様の御受難」2章11~15節

                        仁井田義政 牧師

 今日の聖書には、マリヤとヨセフが幼子イエス様とエジプトに避難したことが記されています。こうして受難の御生涯が始まるのです。

★この時はイエス様誕生から二年後くらいで、馬小屋から家(オイカン)に移っています。もし誕生の夜ならば、イエス様の献児式の時に「貧しい者の鳩のささげ物」をしたことに矛盾が生まれます。東方の博士達から、黄金・乳香・没薬が捧げられているからです。

★誕生から二年後くらいに、博士達からの捧げられたものが、エジプトへの避難の費用となったことは明らかです。貧しい彼らにとって、東方の博士達の捧げ物は、エジプトへの旅費と滞在費となったのです。異教の地で、星占いという迷信に導かれてきた博士達でしたが、イエス様を礼拝してからは、星占いではなく神様の御言によって、帰ったことが記されています。イエス様を礼拝した博士達は、ヘロデ大王さえも恐れない人達となったのです。

★イエス様のご家族のエジプトへの避難も、偶然ではありません。それは、預言者ホセアが預言していることだったのです。(ホセア11:1)

昔イスラエルは、モーセによるエジプト脱出を実行しました。しかし、徒歩で一ケ月もかからない距離だったのに、不信仰で四十年もかかったのです。イスラエルは帰って来てからも不信仰が続き、イエス様の時代には、ローマの傀儡(かいらい)政権として、エドム人ヘロデ大王がイスラエルを支配していました。

★イエス様は、イスラエルの不信仰による四十年の荒野の旅を拭い去るために、エジプトに渡りエジプトから帰って来られたと記されています。イエス様のエジプトからの帰還は、まさに世界の王・世界の救い主であることの宣言なのです。この幼子の誕生によって、新しい人類の歴史が始まったのです。そして誰でもイエス様の招きによって、その神の国に入ることが出来るのです。あなたもイエス様を信じて神の国の人とされ、祝福された人生を歩みましょう。

11月30日待降礼拝1「異教の地にある人達には星の光を」

(待降節1)マタイ講解NO3「異教の地にある人達には星の光を」2章1~10節

                        仁井田義政 牧師

 世界の教会は、今日からクリスマス前の待降節(アドベント)に入ります。私達の教会はイルミネーションが飾り付けられます。それは今日の聖書記事のように、キリストが誕生されたことを世の人々に伝えるために飾るものです。聖書を知らない異教社会に住んでいた博士達(マギー)を、星の光がキリスト誕生の地ベツレヘムに導きました。

★実は、博士達は星占い師でした。二千年前も異教の地では、占いがとても盛んでした。日本においては今なお占いが盛んです。マギーを博士達と訳してあるのは、その道において精通し成功した人達として、表わそうとしたからかもしれません。しかし、異郷の地で成功し地位や名誉や富を得ても、西に輝く星の下に生まれた御方を求めて、長い旅をして来たのです。

★博士達は、どれくらいの日数を旅して来たのでしょうか。二年という説が有力です。それは星の輝いた時から二年です。イエス様は、この時すでに馬小屋から「家」(11節)に移り、二歳くらいになっていたと思われます。彼らは、星の導きによってエルサレムまで来ることができました。しかし、それだけではキリストに会うことはできませんでした。キリスト誕生の地がベツレヘムであることを、聖書から初めて知ったのです。それは今も同じです。

★キリスト誕生を博士達から聞いて、ヘロデ大王は恐れました。ヘロデ大王は、自分の王位を狙っているという疑いで、妻子も殺している残酷な人でした。ですから博士達が「ユダヤにお生まれになられた王を拝みに来ました」と言った時、ヘロデ大王は恐れたのです。しかし博士達は「この上もなく喜んだ」(9節)のでした。「この上もなく」とは、最高の喜びです。

★異教の地に於いて、博士達をキリストに導いたのは、夜空に輝いた大きな星の光でした。私達も異教の地に住んでいます。星の光が異教徒の博士達をキリストに導いたように、私達も教会にクリスマスイルミネーションを飾り、キリストのご降誕を知らせましょう。できるだけ綺麗に飾り付けましょう。異教の地にある人達には、星の光がキリストにお会いするきっかけともなるのです。

11月23日礼拝「恐れないで」

マタイ講解NO2「恐れないで」1章18~25節

                        仁井田義政 牧師

その時、マリヤは13歳の頃でヨセフは18歳の頃でした。若い二人は、いいなづけであり、結婚を控えてどんなに希望に溢れていたことでしょう。しかしその二人が、突然「恐れ」(1章20節)に包まれたのです。

★マリヤとヨセフを襲った恐れとは何でしょう。それは二人にとって身に覚えのない子がマリヤに宿ってしまったことです。マリヤが「この子は神の聖霊によって身ごもったのです」といくら説明しても、ヨセフが納得するはずがありません。そのような女性は夫に不貞の罪で訴えられ、処刑されることもありました。ヨセフはどうすれば良いかと思い悩みました。そうして出した結論は、マリヤと離縁し遠くに逃がすことでした。

★しかし御使いは、ヨセフの夢の中に現れて別の方法を示しました。マリヤが身ごもった男の子は「聖霊」によるということで、しかもその子の名前を「イエスとつけなさい」との指示でした。その名前は「主は救い」という意味です。さらには「この方こそ、ご自分の民を罪から救ってくださる方です。だから恐れないでマリヤを妻として迎えなさい」と言われたのです。

★御使いはさらに、この事はイザヤが預言したことの成就であると言われました。その預言には「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(イザヤ7:14)と記されていました。それは「神は私達と共におられる」という意味でした。そのことによって、ヨセフはマリヤを妻として迎えました。ヨセフから恐れは消え去り、マリヤとその子を命がけで守ることを決意したのです。

★このようにヨセフとマリヤにとって、結婚前に描いていた二人の幸せの計画通りにはなりませんでした。その時に二人は、「恐れ」に包まれてしまったのです。

私達の人生にも、思い通りにならないで恐れに包まれてしまうことはいくらでもあります。あなたは今、どんなことに悩んだり恐れたりしていますか。あなたも、ヨセフやマリヤのようにイエス様をお迎えして、あらゆる恐れや心配ごとから救って頂きましょう。

2025年11月16日礼拝「過去に何があっても」

マタイ講解NO1「過去に何があっても」1章1~17節

                      仁井田義政 牧師

先週で3年8カ月にわたった旧約聖書の詩篇からのメッセージが終わり、今日から新約聖書のマタイによる福音書から話していきます。福音書は、イエス様の御生涯にスポットを当てて書かれていますので、教会に来られたばかりの人にもわかりやすいところだと思います。このマタイによる福音書を通して、キリストの偉大な生涯を知って頂きたいと思います。第一回目は、キリストの系図から「過去に何があっても」という題で、聖書の喜ばしいメッセージをお伝えいたします。

★「福音書はイエス様にスポットを当てて書かれているので分かりやすい」と言いましたが、どうも私達には分かりにくい系図から開始しているのです。しかしこの系図は、ユダヤ人にとっては大切で分かりやすい部分なのです。キリストは「アブラハム」「ダビデ」の子孫であると記されていますが、それは神様の約束「契約」の成就のことでした。

★この系図の中には、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻(バテ・シェバ)という女性達の名が記されています。タマルとバテシェバは道徳的に問題がある女性でした。そしてラハブとルツは、外国人というユダヤ人は自分の家系図に入れたくない人たちでした。罪ある女性や外国人がキリストの系図に入れられているのは、誰でも神の家族になれることを表わしています。

★さらにこの系図は、男性の系図から突然、女性マリヤに系図が変わっています。マリヤもアブラハムの子孫、ダビデの子孫であることはわかっています。しかしその夫ヨセフの男性系図から、突如マリヤとい女性系図に変わっています。しかもマリヤもヨセフもダビデ王家の子孫とはいえ、既に昔にダビデ王家は衰退してしまっているのです。

★キリストの系図には、実は大きなメッセージが記されています。一つは、神様の前に男女の差別はないということです。第二は、私達の家系にどんな犯罪者やその血筋の者がいたとしても、神様の私たちに対する祝福はには関係がないということです。福音書とは「良い知らせの書」という意味です。あなたもこの福音を信じて、過去に支配されない人生を歩き出しましょう。