5月22日礼拝「主は見ておられる」

詩篇NO10「主は見ておられる」10篇1~6節,16~18節

         仁井田義政 牧師

今日の詩篇10篇の中を見ますと、神様を信じていない人が力強く歩み、神様を信じている人達を苦しめています。そのようなことは遠い世界のことではなく、クリスチャンである私達の日常にも起こっています。その中で私達は、どう生きれば良いのでしょうか。

★この詩篇前半の1~11節は、神様を信じない人が成功している様子を記しています。悪者が、神様を信じる人達に悪口雑言を浴びせながら生活しているのです。しかも、その人は何をやっても成功していて「私は・・世々にわたって災いに会わない」と確信しているのです。そしてその人は、堂々と「神はいない」(3節)と公言しているのです。

★その人によって、弱い人が傷つけられ、食い物にされています。その苦しさの中で、神様を信じる人は、神様がその悪行を裁かず沈黙しているように感じてしまいます。さらに神様を信じない人達は「神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ」と言って侮蔑します。さらには神様を信じない人達は、どんなに悪いことをしても神は裁くことが出来ない。なぜなら「神はいない」からであると言い放ちます。  

★それに対して詩人は、神様は「貧しい者」「みなしごと、しいたげられている者」を、じっと見ておられると言っています。それは、神様が十字架の上で苦しまれるイエス様をじっと見ておられたようにです。十字架のイエス様を見て沈黙されていた神様には、広大な計画がありました。三日後にイエス様を死から甦らせ、世界の王にする計画です。

★私達は、悪者が栄え「神はいない」と言いながら生きている日本に生活しています。しかし神様は、決して見過ごしておられるのではありません。14節にあるように「じっと見つめておられるのです。」イエス様の十字架をじっと見つめておられたように、注視しておられるのです。それはイエス様の十字架の時と同じように、世界を統べ治められるためです。ですからクリスチャンは、いつもその信仰を失ってはなりません。今日の詩篇10篇の作者のように、しっかりとした信仰に立つのです。世の中にどんな悪事が起こっても、主は王の王、主の主です。確信をもって信仰の告白をしましょう。

5月15日礼拝「砕かれた者の神」

詩篇NO9「砕かれた者の神」9篇10~20節

         仁井田義政 牧師

9篇は、感謝と祈りの詩篇です。特に1~12節は、感謝と賛美の言葉に満ちています。そして後半には、苦難の中で心砕かれたダビデの祈りが記されています。私達を信仰の深みへと引き上げてくれます。

★この詩人は、「貧しい者」に自分を置き換えて祈っています。ここで言う貧しいとは、お金がないこととは違います。それはヘブル語で「砕かれた」という意味なのです。ダビデは、敵が連合を組んで迫まって来ていると言っています。その敵を前にして、人間的な計算ではたち打ちできない状況にあるのです。それを貧しい者、または心砕かれた者と言う言葉で現わしているのです。私達も、病気・仕事の失敗・失業等々で、心砕かれるような体験をすることがあります。神様は、そのような心砕かれた者の祈りを聞かれます。

★そのように数々の問題が襲い掛かってきても、神様の御性質を知っていれば立ち上がれるのです。それでは、神様はどのような御性質なのでしょうか。まず、詩人は「あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした」(10節)と記しました。訪ね求めるとは祈りのことで、神様は祈る人を捨てられることが絶対にないのです。また「貧しい者の叫びをお忘れにならない」とも記されています。

★それゆえに、この詩の最初は賛美で始まっています。ダビデにとって「神様を喜び歌う」ことは、音楽上のことではありませんでした。日常のこと、現実生活だったのです。つまり日常において、神様に本当に信頼し、辛い時にも嬉しい時にも祈ったのです。天地万物を創造し、歴史において悪者達の国々を滅ぼし、あるいは衰退させる力の神が、私達のような貧しい者の祈りを聞いて下さる結果なのです。イエス様が「心の貧しい者は幸いである。」と言われたのは、心砕かれた人のことなのです。2節では、心砕かれているダビデが「私は、あなたを喜び誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います」と言っています。

★そうであるならば、私達も神様の御名を心から喜び誇るのです。私達は、心から主を誇るクリスチャンとなりましょう。

5月8日礼拝「広大な宇宙を見て知る私」

詩篇NO8「広大な宇宙を見て知る私」8篇1~9節

         仁井田義政 牧師

 今日の詩篇は、地上から広大な宇宙を見ての感嘆文で始まり、感嘆文で終わっています。広大な宇宙とその美しさを仰いだ時に、地上の争いや人間の様々な悩み事が、あまりにも取るに足らない小さなことで、なんと馬鹿らしいことかと価値の変化を体験しています。

★私達人間は、一般的に「人間は偉大だ」と思っています。しかし今から三千年前のダビデが、星空を見上げて、その広大さと美しさに嘆声をあげました。創世記1章14~17節には、宇宙は神様が創造された御業として記されています。ダビデからさらに千年前、アブラハムも星空を見上げてその雄大さの中で神様の声を聞きました。

★ダビデは、「幼子によって星空を作られた神様がほめたたえられる」と言っています。それは「力がある、知恵があると思っている者には、神の栄光が見えず聞こえない」という意味です。むしろ「幼子の方が神様の存在を見ることが出来、神様の声を聞くことが出来ている」と言っているのです。この言葉は、マタイ21章14~17節で、イエス様がエルサレム入城の時に引用しています。この所の祭司長・律法学者とは、当時の権力者であり知識人達なのです。

★広大な宇宙を見た後に、3節でダビデは地上の人間生活を見ています。神様の御業である広大な宇宙とその美しさとを比べて見ると、人間の存在のなんと小さなことかと思いました。しかし神様は、その人間を広大な宇宙よりも、万物や天使達よりも、価値のあるものとして創造されたというのです。その驚きが「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう」(9節)との最後の感嘆文につながっているのです。

★私達は、地上のことばかりを見てしまいがちです。悪口を言われたとかで険悪な状態になることもあります。都会では、地境が1センチ違うというだけで、何十年にも亘る隣同士の争いになることもあります。人間関係で思い悩み、自死にまで至ることがあるのです。星空を見上げ、神様の創造された宇宙の広大さとその美しさを見ましょう。自分の悩んでいる事が何と小さなことであるかに気付くでしょう。大宇宙の創造者であられる神様は、私達のことをご自身よりも少しだけ低く造って、世界で一番大切な存在として愛して下さっています。感謝して祈りましょう。

5月1日礼拝「誤解され心痛み悩む時」7篇1~5節

詩篇NO7「誤解され心痛み悩む時」7篇1~5節

         仁井田義政 牧師

今日は、誤解の中で苦しむダビデの詩です。私達が生きている世界では、身に覚えのないことで憎まれたり、悪口を言われたりすることがあります。私達も誤解されれば深く傷つきます。そういう意味で、今日の詩篇も私達とつながりがあります。

★ダビデは、4節にあるように「親しい友」から誤解を受け、憎まれ命まで狙われています。おそらくサウル王であろうと考えられています。誤解されることは苦しいことです。

★ダビデは「私が言われているような事をしたのなら、どうぞ私を敵の手で殺して下さい。彼から何も奪ったことはないし、不正なことをしたこともありません。私は彼に誠実に接してきました」と祈っています。神様は善と悪をはっきりとして下さる御方。私の正しさを神様が一番知っておられるはずと言っています。誤解されることは、それほど辛いことなのです。                                        

★人に誤解され、身に覚えのないことで誹謗中傷される時に、私達は激高し、怒りが火山のように爆発し噴出するのを感じます。しかし、ダビデはその人に仕返しをするのではなく、神様の裁きにお委ねする祈りをするのです。(14~16節)神様以外に力と正義に満ちた御方は、他にいません。ですからダビデは、「いと高き方」と神様の名を褒めたたえるのです。

★この詩の背景は、彼の友人がタビデの命を取る為に、怒りに満ちて軍隊を連れダビデに迫ってきている状況です。おそらくダビデは「それは誤解だ」と何度も説明をしたと思われます。しかし友人は聞き入れません。私達も親しい友に裏切られて苦しむ時があります。その苦しみが憎しみとなって、復讐心に捕らわれてはならないのです。悩み苦しみに心を満たしてしまって、心が病むような状態になってはならないのです。正しい祈りは、必ず終わりに神様の完全なお取扱いを確信し、怒りを納めるのです。

★イエス様ほど誤解された御方はいません。それでもイエス様は「我が霊を御手にゆだねます」と祈られました。ダビデも、「私はあなたのもとに身を避けました」と祈りました。自分で仕返しをするのではなく、神様に委ねたのです。私達も人々から誤解され苦しむ時に、十字架の上で誤解の苦しみを体験されたイエス様のように、またダビデのように、神様にそのことを知って頂き、神様の判断を求めて祈ろうではありませんか。

4月24日礼拝「一緒に歩いて下さっていたイエス様」

メッセージ「一緒に歩いて下さっていたイエス様」ルカ24章13~17節

          仁井田義政 牧師

今日の御言は、イエス様が復活された日の午後の出来事です。すでに弟子達は、マグダラのマリヤから「イエス様は復活された」と聞いています。しかしマグダラのマリヤのその知らせを、弟子達の誰一人として信じる人はいませんでした。

★十二弟子達は、マグダラのマリヤから知らせを聞いても、信じることが出来ずに失望したままでした。十二弟子ではない二人の弟子は、イエス様に見切りをつけて生まれ故郷に帰っていく途中でした。イエス様がローマからイスラエルを独立させ、同胞たちを圧政から解放して自由にしてくださるという夢は、十字架で完全に敗れ去ってしまったのです。十字架は、敵国ローマの極刑で不名誉極まりない最もイスラエル人が忌み嫌う処刑でした。二人は夢破れ、危険なエルサレムを離れて故郷に帰る途中だったのです。

★イエス様は、その二人の弟子の道中に現われ、一緒に話しながら道を歩いて下さいました。それは、彼らが深く悲しんでいる人達だったからです。イエス様は、悲しみにある人を決して見過されることはありません。しかし二人は、一緒に歩いて下さっているイエス様を知ることが出来ませんでした。死んだ人が甦るなど、あるはずがないと思い込んでいたからです。

★エマオの村に入り、二人の弟子はイエス様を旅人だと思って、自分達の家に招きました。夕食の準備ができ、食事の祈りになった時です。その旅人がパンを祝福し、分け始めたのです。通常は、一家の主人がパンを裂いて分けるのです。弟子達は、非常識なその旅人を目を凝らして見ました。するとその旅人は、イエス様だったのです。弟子達がその御方が復活のイエス様だと分かった時、イエス様の姿がスーッと消えてしまいました。今までの失望の道を、イエス様が一緒に歩いて来て下さったことを知ったからです。

★私達の世界にも、イエス様は十字架で殺された人、私達の人生には何ら関係のない人と思っている人が多くいるでしょう。失望や悲しみにある時などはなおさらです。しかしイエス様は「悲しむ人は幸いです。彼らは慰められるからです」(マタイ5:4)と言っておられます。また「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます。」(マタイ28:20)と約束して下さっています。イエス様は、私達の人生を一緒に歩いて下さっています。今日、復活のイエス様を信じる者になりましょう。

イースター礼拝「すがりついてはならない」

イースター礼拝「すがりついてはならない」ヨハネ20章11~18節

           仁井田義政 牧師

イースターおめでとうございます。最初のイースターの朝は、あわただしいものでした。その後、墓には急に静寂が訪れました。そこには、マグダラのマリヤの姿だけが残りました。マグダラのマリヤは、暗い墓の中を覗き込みました。その絶望的な静寂を破って、この後の事件が開始されるのです。

★マグダラのマリヤは、ガリラヤ湖近くのマグダラ地方のマリヤのことです。同じガリラヤ地方出身のイエス様によって救われ、イエス様一団と行動を共にして、遠くエルサレムまで来たのです。イエス様が十字架時につけられた時、弟子達は逃げ去りましたが、マグダラのマリヤは、その十字架を見ていました。そして埋葬も見ていたのです。日曜日の朝、イエス様の体が墓から無くなっていた時も、墓にたたずんで泣いていました。

★その時、天使が現れて、イエス様の甦りをマリヤに伝えました。殺された人が甦るなどということは、マグダラのマリヤにとって信じられないことでした。ですから天使さえも墓の番人に見え、イエス様の体を運び出した人にしか見えなかったのです。「なぜ泣いているのですか」と、天使も復活のイエス様も語りかけました。それは、泣いている理由が分からなかったわけではありません。泣く必要などないのですよということを、気付いて欲しかったからです。

★しかしマリヤは、その問いかけに頓珍漢な答えと質問をしました。イエス様はそのマリヤに「マリヤ!」と呼びかけられたのです。その時に初めて、マリヤは自分の置かれている世界を知ったのです。私達も同じです。イエス様から自分の名前が呼ばれるのを聞く時に、信仰が生まれるのです。 

★名前を呼ばれたマリヤは、イエス様に「先生!」と言って「すがりつこう」としました。それは、確かめる為にさわるのとは違います。もう離さないとばかりに、強くつかむことです。イエス様はそれを拒否されました。イエス様が天に帰らなければ、復活のイエス様との交流が無くなってしまうからです。それは、聖霊を通しての交流です。復活前後の短期間に7回も「御霊」「聖霊」に満たされなさいと教えておられます。またマタイの福音書28章20節で「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます」と言っておられます。地上のイエス様にすがりつく信仰ではなく、聖霊による信仰で、今も生きておられるイエス様としっかりと繋がりましょう。

4月10日受難週「孤独者イエスの勝利」

受難週メッセージ「孤独者イエスの勝利」ヨハネ16章32節~33節

          仁井田義政 牧師

 今日から受難週です。イスラエル最大の祭である「過越しの祭」の日に、イエス様と弟子達は、エルサレムの部屋で夕食の時を持ちました。

★イエス様は、その時に弟子達の全てが自分を見捨てることを知っておられました。しかもそれが数時間後に起こるのです。食後イエス様がゲッセマネの園に弟子達を連れて行き、「起きていて私の為に祈っていなさい」と弟子達に祈りを依頼しました。しかし弟子達はイエス様の心が分からず、眠ってしまいました。その時、弟子のユダに導かれたローマ兵がゲッセマネの園に登ってきました。すると弟子達の全てが、イエス様を残して逃げ去ってしまったのです。しかしイエス様は、これから起こることを全て知っておられました。

★イエス様は、今日の御言で「わたしをひとり残す時が来ます。いやすでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」(16:32)と言われました。私達から見れば、イエス様は弟子達に捨てられ孤独者となったのです。しかしイエス様は、私は孤独者となったが孤独ではないと言われたのです。ここに「逆説」が起こったのです。それは、私は父なる神と共にいるというイエス様の確信でした。イエス様は、十字架につくことが全世界の人々を救うことだと確信しておられたからです。そのことは、ヨハネ12章32~33節に記されています。まさにイエス様は、孤独に見えましたが孤独ではありませんでした。イエス様は強い勝利者であったのです。

★イエス様が私は孤独となったが孤独ではないと言われた後に、その話の目的を話されました。それは「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を保つためです」(33節)との御言です。そして「この世にあっては患難があります。しかし勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」と続けて話されました。それは、あなたがたも私を信じれば、孤独の中でも平安を得て勝利者となるのですという言葉なのです。私も19歳の時にイエス様の受難と十字架の意味を知りました。そのことを知った時に、私の心に平安が訪れました。生きる勇気が湧いてきました。イエス様の受難は、私達に平安と勝利を与えます。今週は受難週です。「孤独者イエスの勝利」を思いながら、一週間を過ごしましょう。

4月3日礼拝「絶望の中での祈り」

詩篇講解(NO.6)「絶望の中での祈り」6篇1~10節

          仁井田義政 牧師

 今日から会堂での礼拝を再開できますことを感謝いたします。

さて私達の人生には、絶望してしまうような暗い夜を過ごさなければならないことがあります。詩篇6篇の作者ダビデは、まさにそのような絶望的な夜を迎えていました。その夜ダビデは自分の生き方を振り返り、神様の前に悔い改めの祈りをしたのです。

★ダビデは病気でした。「この病気は自分の罪の結果」だと、思っていたのです。このような時に人間は、さらに不信仰になるか、それをとも今までの歩みを振り返り、罪を悔い改めて、さらに信仰へと進むかのどちらかなのです。ダビデは2節で「主よ、あわれんでください」と、神様の赦しを求める信仰へと進みました。

★ダビデの病気は、非常に重かったようです。「衰え。骨は恐れ。たましいは恐れおののき」(2-3節)とその苦痛を記しています。「骨は恐れ」とは、激しい痛みと、精神的苦痛が読み取れます。ダビデは、悔い改めを病気で伏すベッドの上で涙を流して祈りました。しかも「夜ごとに」(6節)と記されているように、その病気は長期にわたるものでした。ダビデは夜ごとにベッドが涙で溢れるほど祈り、寝室が涙で流れてしまう程に悔い改めの祈りをしたというのです。

★ダビデが病気になったことを喜ぶ人達もいました。「私の目は、いらだちで衰え、私のすべての敵のために弱まりました。」(7節)と記しています。8節で「不法を行なう者ども。みな私から離れて行け。主は私の泣く声を聞かれたのだ」と言っています。「不法を行なう者」とは、異教徒のことです。ダビデの敵達は、ダビデは神を信じていると言うが、その神はダビデを守れなかったか、ダビデの罪を罰して殺そうとしているのだと言っていたのです。しかし祈りの中で、神様が祈りを聞いて下さったと確信したダビデは「私の敵は瞬く間に恥を見る」(10節)と確信したのです。

★病気の時には、自分の今までの信仰の在り方を振り返って祈るべきです。元気な時には気付かなかったことが示されるものです。ダビデはその示されたことを悔い改め、涙を流して祈ったのです。そのような祈りをすればこそ「主は私の切なる祈りを聞かれた」と確信することが出来るのです。私達も、このような深い祈りの出来るクリスチャンになりましょう。

3月27日礼拝「自分の心を見張る人」

詩篇講解(NO.5)「自分の心を見張る人」5篇1~12節

          仁井田義政 牧師

 今日の御言のように、私達の人生には苦難があります。苦難は、私達の心を鍛えることもありますが、心を弱らせて絶望的な人生にしてしまうこともあります。日本の昨年の自死者は、21,007人でした。動機の一位は病気で、二位は生活苦でした。私達は、どのように生きて行けば良いのでしょうか。今日の御言はそのことを教えています。

★ダビデの朝の祈りは、祈りと言うよりも「うめき」であり「叫び」でした。今日も敵がダビデの命を狙ってくるのです。私達にとって命を狙うものは、病気も経済的なこともそうです。ダビデはその圧迫によって、祈りが「うめき」「叫び」となっていたのです。

★3節の「備え」は、動物の犠牲のことです。昔は、羊などの群れの中で一番良い羊を祭壇に捧げました。動物犠牲は、自分の罪の身代わりとして捧げたもので、自分の心を省み見張る時でした。当時、羊全てに名前が付いていました。一番良い羊なら尚更のことです。私たち日本人は牧畜民族ではないので、この感覚はわかりにくいかもしれません。しかし愛しているペットを自分の罪の身代わりとして犠牲として捧げなければならないとすれば、どんなに悲しい思いをするでしょうか。その時に、自己中心になりがちな心を見張り、神様に喜ばれる生き方をする決心をしたのです。

★7節でダビデは、自分の心を守る為に「私は、豊かな恵みによって、あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します」と言っています。私は、あなたの豊かな恵みによって神の家に行って祈る」と記しています。この所で大切なのは「神の恵みによって」と記されていることです。誰も自分は正しい人間だからと言って、神のもとに来ることはできません。「神の豊かな恵みによって」なのです。

★この詩は「うめき、叫ぶ」の声で始まっています。苦しみの時にこそ朝ごとに祈り、夕ごとに神の家に来て、自分自身を神に捧げつつ礼拝し祈るという詩です。そのようにして自分の心を見張るのです。主はそのような正しい信仰者を「大盾をもって守られる」(12節)のです。私達も、困難にあった時に「心を見張る」ことを心掛け、いっそう信仰に歩むことを決意し祈りましょう。神様は、必ず大盾をもって守ってくださいます。

3月20日礼拝「苦難の中の喜び」

詩篇講解(NO.4)「苦難の中の喜び」4篇1~8節

          仁井田義政 牧師

 今日の第4篇も、ダビデが我が子アブシャロムから命を狙われている苦難時代の詩篇であると言われています。この詩は、私達がダビデと同じように苦難の中にある時、どのようにして喜びを失わずに生きることが出来るかを学ぶことが出来ます。

★1節の「私が呼ぶとき、答えてください」は、ダビデが苦難の中で主の名を呼んだのです。神様が呼べば応えて下さる方であることを表わしています。私達は、苦難の時に神様の名を呼ぶことさえ、おろそかになってしまうことがあります。「今、困難の中にありますので、落ち着いたらまた教会に行きます。それまでお休みします」等という言葉になって現われます。ダビデは、苦難の夜に祈ったのです。苦難の夜は、一層不安になる時です。病気で入院などしますと、とても夜が不安になり、朝が来て明るくなってくるのをひたすら待つのです。ダビデは、苦しい中で神様の名を呼んで祈りました。その神様は「私の義なる神」です。それは自分が正しい人間だから祈るのではなく、私を義として下さる神様だから祈るのです。

★2節の「人の子たちはいつまでわたしの栄光を恥ずかしめ」は、ダビデに敵対してアブシャロムを担ぎ上げている者たちのことです。「いつまで」は長期に亘っていることを表わしています。「私の栄光」は、神様が王として任じて下さったことです。それに反逆することは、「神の選び」に対して反逆することなのです。神に立てられた王に反逆するということは、空しく無駄な行為なのです。

★3節の「知れ」はとても強い言葉です。何を知らなければならないのでしょうか。「主はご自分の聖徒を特別に扱われる」ということです。苦しみの夜に、主の名を呼ぶ聖徒達の祈りを「特別に扱われる」のです。このことを全てのクリスチャンは知らなければなりません。選ばれていることに感謝して、確信して祈るのです。

★私達は、神様の愛する特別な存在とされた者なのです。ですから神様はその人を特別に扱って下さるのです。祈りの中で神様の名を呼び「神様!私は神様にとって特別な人とされました。」と言いましょう。困難が大きければ大きい程、「私は神様により分けられた特別な人だ」と、祈りの中で告白しましょう。そうすれば苦難の中にあっても、心に喜びが与えられるのです。