1月23日礼拝「キリストの言葉を豊かに」

コロサイ書講解(NO.16)「キリストの言葉を豊かに」3章12~17節

            仁井田義政牧師

 今日の御言は、キリストを信じる人達がどのように生きるべきかの秘訣が記されています。不幸の多くは、人間関係において起こります。そのようなことが起こらないように、今日の御言の教えがあります。

★人間関係を幸せにする第一は、あなた自身が神様に選ばれ、愛され続けている(12節)という信仰の自覚を持つことです。神に選ばれているというのは、あなたが優れているからではありません。むしろ無きに等しい者であったのに愛されているという自覚です。また「愛されている」というのは、「愛され続けている」という意味です。その感謝の心が、寛容さを生むのです。ですからその後に、「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」という人間関係の徳目が続くのです。

★私達を幸せにする第二は、「互いに忍びあい、赦し」(13節)合うことです。私達人間は完全ではありません。人間の集まりですから、時には気分を害することもあるでしょう。そのような時には、主があなたを赦して下さったように、あなたも他の人を赦すことが大切なのです。キリストの平和が、あなたの心を支配するようにするのです。ですから聖書は「これら全ての上に愛(アガペー)を着けなさい」(14節)と教えています。愛は、バラバラなものをひとつにする帯のような働きをすると教えています。

★私達を幸せにする第三は、「キリストのことばを、あなたがたの内に豊かに住まわせなさい」(16節)ということです。人を赦すことは大切だと分かっていても、実際は難しくて出来ませんという人もいるでしょう。今日の御言は、そのような人に解決を与えています。それは「キリストのことばを豊かに住まわせる」ことです。キリストの言葉は、キリストそのものです。言葉は神であったと言われているからです。(ヨハネ1章1節)

★そして、賛美と霊の歌を歌うことです。賛美と霊の歌を感謝に溢れて献げ、キリストに住んでいただくのです。そうすればキリストが素晴らしい日常をあなたに作って下さるのです。私達が自分の主人である限りは、そうはならないのです。なぜなら私達は、不完全な人間だからです。キリストのことばをたくさん暗記しましょう。そして私達の内に、キリストに住んでいただきましょう。

1月16日礼拝「益々新しく」

コロサイ書講解(NO.15)「益々新しく」3章9~11節

            仁井田義政牧師

1月も半ばになりました。気を付けないと、今年も昨年と変わらない一年となってしまいます。しかし今日の御言の3章10節には、「益々新しくされ、真の知識に至るのです」と記されています。キリスト者の正しい信仰生活は、日々古くなっていくのではありません。日々新しくされていくのです。どのように新しくされていくのでしょうか。それはクリスチャン品性においてです。

★クリスチャン品性①新しい人とは、嘘をつかない人です。「嘘をつく」という癖が、人間には浸み込んでいます。自分を守るための口実などです。政治家なども「秘書がやったことで」や「記憶にございません」などと嘘をつきます。そう言われると、法律も心の中までは裁けないので、証拠不十分で「不起訴」になってしまうことが多いのです。私達人間は、そのようなことを知っているので、嘘をつきやすいのです。クリスチャンは、嘘をつかないことに心掛けなければなりません。

★クリスチャン品性②新しい人とは、キリストに似た者となる人です。聖書は、クリスチャンになる以前の人を古い人と言っています。その古い人を完全に脱ぎ捨てる覚悟と決意が必要です。脱ぎ捨てたならば、キリストに似せられた新しい人を着る決意が大切です。それは、キリストの品性です。ヘブル語でキリストは「メシア」で、「油注がれた人」という意味です。聖霊に満たされた人のことなのです。ですからキリストに似た者となるためには、聖霊に満たされることが大切なのです。

★クリスチャン品性③新しい人とは、人を決して差別しない人です。二千年前は、差別社会でした。今日の聖書にも、民族差別(ギリシャ人とユダヤ人)、宗教的差別(割礼の有無)、文化的差別(未開人・スクテヤ人)、社会的階層差別(奴隷と自由人)等が出てきます。奴隷は、人間として数えられない時代でした。キリスト教会において、このような差別が絶対にあってはなりません。今日の御言では、三つのことを話しました。このことをクリスチャンとして決意しましょう。

★キリストが全てなのです。全ての人々の内にキリストがおられるのです。私達は、日毎にキリストに似た品性を身に着け、新しくされ続けなければなりません。古い人に逆戻りしてはなりません。キリストの愛を持つ人になりましょう。「私を日々新しい人にして下さい!」と祈りましょう。

1月9日礼拝メッセージ

コロサイ書講解(NO.14)「上にあるものを求めなさい」3章1~8節

                    仁井田義政牧師

新年も第二週となり、コロサイ書からのメッセージに戻ってきました。今日の御言は、新年の御言にふさわしい「上にあるものを求めなさい」です。それは、「上から与えられるもの」を求めなさいとのクリスチャンにとって大切な教えです。

★「キリストと共によみがえらされた」とは、洗礼のことです。古い自分は死んで、新しい命によみがえったのです。また「上にあるもの」とは、啓示によって与えられた聖い道徳のことです。地上の人間からの道徳ではありません。「上にあるものを求める」ことこそ、人間なのです。ギリシャ語の人間は、アンソロ―ポス「上を見るもの」という意味でもあるのです。

★しかし、私達は地上に生きています。地上に生きているから、地上のものに心が引かれるのです。そしてその地上の力は強いのです。その地上の力とは、「不品行、汚れ、情欲、悪い欲」のむさぼりなのです。むさぼりとは、際限のない欲望に生きることです。それらから信仰心を守るためには、上にあるものを求め、天にあるものを思い続ける必要があるのです。その為に祈りがあり、日曜日ごとの礼拝があり、各集会があります。ですからこれらを大切にしましょう。

★かつての汚れた生活から救いに与かったのに、再度汚れたこの世の生き方に戻れば、神の怒りがくだると記されています。しかし旧約時代のように、即座に裁かれることを現代では見ることが出来ません。それは、キリストによってもたらされた神の忍耐の時代だからです。悔い改めて信仰に戻るように、神は忍耐して待っておられるのです。しかしそれでも、地上の欲に生き続ければ、必ず後に「神の怒り」が裁きとなって臨むのです。

★神の怒りが下るという考えは、一般的に受け入れられないことかも知れません。クリスチャンの中にさえ受け入れていない人がいるのではないでしょうか。罪に対して、不信仰に対して、旧約時代のように即座に裁きが臨まないからです。イエス様が祈られた「彼らは何をしているのか分からないのです」という十字架上の祈りの時代なのです。しかし神の怒りは必ず望むのです。私達は、天にあるものを第一に求め続けるクリスチャンとなりましょう。

2022年最初の礼拝「深みに網をおろして魚をとりなさい」

2022年最初の礼拝「深みに網をおろして魚をとりなさい」ルカ5章1~11節

            仁井田義政牧師

みなさん明けまして、おめでとうございます。今年の御言は、ルカ5章4節「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」で、今年の標語は「御言による新しいチャレンジ」です。今日は、「今年の御言」とさせて頂いたルカによる福音書の中に出てくるイエス様の言葉です。

★この言葉は、イエス様が漁師のペテロに話された言葉です。この時のシモンは、すでにイエス様に従っており、奇跡も見ていました。(ルカ4:38~39参照) しかし、群衆の熱心な御言を聞く姿勢とは対照的に、昨夜の不漁で失望し網を繕っていました。既にイエス様に従い始めてはいましたが、生活の為には、網を洗い繕い次の漁の準備を優先せざるを得なかったのです。

★イエス様は、あまりにも多くの群衆の為にペテロに舟を漕ぎ出すように求められました。岸から少し離れた所から話を続けようと思われたからです。ペテロもクリスチャンでしたからイエス様の求めに従い、舟を出しました。イエス様は話が終わると、ペテロに「深みに漕ぎ出し、漁をしてみなさい」と言われました。ペテロがその言葉に従って網を下ろしてみると、漁の時間ではないのに、大漁となったのです。

★ペテロはイエス様から「網を下ろしてみなさい」と言われた時、「先生」と答えました。しかし大漁の後には「主よ」と言っています。「主」とは、神様を表わす言葉です。それに続いて「私は罪深い者です」と言いました。それは罪の悔い改めです。ペテロは、本当のキリストの弟子となる為に、今までの信仰姿勢を悔い改めたのです。イエス様は悔い改めたペテロに「これからあなたは人間をとる漁師になるのです」と言われました。

★不漁で失望していたペテロに、イエス様は「深みに漕ぎ出して網を下ろして魚をとりなさい」と言われました。イエス様による新しいチャレンジの朝が来たのです。

個人のことにおいても、教会の各働きにおいても、今までの経験からのものではなく、2022年は深みに届く活動を開始しましょう。

(礼拝メッセージ)今年最後の礼拝「御翼の陰で」

(礼拝メッセージ)今年最後の礼拝「御翼の陰で」詩篇63篇6~8節     

                         仁井田義政牧師                                

今年も最後の主日礼拝となりました。今年一年間、皆様の生活はどうだったでしょうか。今日は一年最後の日曜日の御言として、詩篇63篇6~8節を取り上げました。作者であるダビデは、この詩を書いた時に、ユダの荒野にいました。荒野とは、非常に生活の厳しい場所です。

★そこは、砂漠ではなく荒野です。荒野とは、石や岩がゴロゴロとしている所です。また昼は暑く、夜は寒く、乾ききって水がないのです。ですから植物さえ生えることが出来ないのです。ダビデはそのような所であっても、神様に信仰の目を向け、神様の臨在と恵みを実感し感謝しました。

★ダビデは、荒野の渇きによって死の迫りを感じる程でした。また9節を見ると「私の命を求める者ら」とあり、敵に追い詰められての荒野生活とも見えます。しかしダビデは「私は生きている限りあなたをほめたたえ」と、両手を上げて礼拝しているのです。

★夜は、ダビデにとって逃亡の疲れを取る為に眠らなければならない時間でした。しかし眠れないのです。ダビデは夜が更けても眠れず、起き上がって祈りました。その時の様子をダビデは、「床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います」と記しています。その時ダビデは、神の守りを強く感じました。

★それは、母鳥が「御翼の陰」にひな鳥を敵や寒さから守るように、ダビデを守る神様の愛を感じたのです。ダビデは、「あなたの右の手は、私を支えてくださいます」と確信したのです。

★私達も、一年を振り返ると、コロナの問題だけではなく、様々な事がありました。主は、祈る人に「御翼」のような守りを感じさせてくださるのです。そのような確信がダビデに与えられたからこそ、次の朝を迎えることが出来ました。その通りに神様は、主を礼拝し祈る者を御翼の陰に隠して守って下さいます。

私達もダビデのように、御翼の陰の守りに感謝して、新しい年を迎えようではありませんか。一年の感謝を込めてお祈り致しましょう。

12月19日クリスマス礼拝「サイレントナイト・ホーリーナイト」

クリスマス礼拝「サイレントナイト・ホーリーナイト」ルカ2章1~7節      

                           仁井田義政牧師

 みなさんクリスマスおめでとうございます。クリスマスソングに「きよしこの夜」という讃美歌がありますね。この歌が作られたドイツ語の題は「シュテイレ ナハト・ハイリゲ ナハト」というそうです。日本語にしますと「静かな夜、聖なる夜」です。英語に訳した時に、ドイツ語の題の前半を取り「サイレント ナイト」としました。日本語に訳した時に後半をとり「ホーリーナイト」つまり「きよしこの夜」と付けたようです。ですから日本語に「サイレント ナイト」という歌詞が出て来ません。

★キリストが生まれた時、町は皇帝アウグストから出た「人口登録」の勅令で騒然としていました。皇帝からの勅令に従わなければならなかったのです。その勅令を喜ぶ人はいませんでした。イスラエルはローマの植民地だったからです。有無を言わせぬ勅令に「今度の皇帝は、我らにどれ程の課税をするのか」と、お酒などでも飲みながら話していたと思われます。

★その夜、寒さ刺す馬小屋には、追いやられたマリヤとヨセフがいました。今までお産に立ち会ったことのない夫のヨセフが、マリヤを見守っていました。救い主が生まれるというのに、助産士さんさえもいないのです。まさにその夜は「静かな夜、聖なる夜」でした。

★世界で最も有名になるキリストが生まれる夜であることは、誰も気がつきませんでした。一般民衆ならまだしも、神殿に仕える祭司達も全くその夜を知らなかったのです。キリストが生まれたベツレヘムの近くに、町の喧騒を離れ、野宿しながら「静かな夜」に包まれていた羊飼い達がいました。その羊飼い達が「静かな夜、聖なる夜」に導かれたのです。

★騒がしい人間生活は今も続いています。そのために、キリストの生まれた「静かな夜、聖なる夜」に入れないのです。その夜に包まれるためには、羊飼いがそうしたように、キリストの生まれた「静かな夜、聖なる夜」に向かわなければなりません。羊飼い達は、その夜の恵みに包まれ「大きな喜び」に満たされました。あなたも世の喧騒を離れ、キリストの誕生した馬小屋に心を馳せ「サイレントナイト・ホーリ―ナイト」に包まれましょう。

12月12日礼拝 待降節3「キリストと共に」

コロサイ書講解(NO13)待降節3「キリストと共に」2章20~23節

                       仁井田義政牧師

アドベント第三週に入りました。来週はいよいよクリスマス礼拝です。今週もイエス様をお迎えするために私達の信仰を整えたいと思います。

★先週もお話しましたように、コロサイの町には多くの宗教が林立していました。各宗教には長い歴史があり、大きな会堂や神殿を持っていました。そこに、小さなキリストの教会があったのです。教会と言っても会堂もなく、一般の家の教会でした。

★そのような中で、せっかくクリスチャンになった人達が異端に引き込まれたり、異教に逆戻りすることになれば、教会にとって大きな痛みとなりました。しかしコロサイの教会には、パウロを使徒と認めずにパウロの伝える福音に反対し、異端や異教の教えに逆戻りする人がいたのです。

★先週も話したことですが、今日の御言にも、異端や異教に修行や苦行が多いことが記されています。修行と言って、一般の人間には出来ないような難行・苦行をして見せるのです。日本にも一般家庭を訪問し「すみません。修行ですからトイレの掃除をさせて下さい。」と言って回る宗教まであります。そのような見せかけの行ないに騙されてはならないと教えています。

★今日の聖書の2章20節に「キリストと共に死んで」という言葉があります。その御言は、キリストの十字架での死が前提となっています。さらに、キリストの十字架の死と共に、異教的な習慣に生きていた古い自分を十字架につけて殺してしまったことを意味しています。それなのに不信仰になるということは、古い自分に死に切っていない証拠なのです。

★キリストは、私達の罪を十字架につけて殺してしまうために来られました。キリストを信じると言うことは、私達の古い生き方を完全に十字架につけて殺してしまうことなのです。それなのに再び古い生き方に戻ってしまうのは、その人は古いままの人であり、異教や異端に騙されたままの生活をしていることになるのです。イエス様は、ご自分の死によって、それらの束縛から私達を自由にするために来て下さいました。

来週はクリスマス礼拝です。私達は信仰と霊性を聖くされ、アドベントの最後の週を過ごしましょう。そして来週のクリスマス礼拝に集いましょう。

12月5日「キリストが来られた目的」

コロサイ書講解(NO12)待降節2「キリストが来られた目的」2章16~19節

仁井田義政牧師

 アドベントの第二週に入りました。キリストは私達を罪から救い、永遠の命を与え、教会と信徒達の霊性を成長させるために来られました。そのことをアドベントの大切なこととして受け止めましょう。

★コロサイ教会のあった町には、ギリシャの宗教、ローマの宗教、ペルシャの宗教、ユダヤ教が混在していました。その中に、家の教会があったのです。それぞれの習慣や祭り毎に「クリスチャンも習慣通りそうしなければならない」と言われたのです。その中にはユダヤ教の「土曜安息日」問題もありました。クリスチャン達は日曜日を安息日とし礼拝を始めていました。

★聖書は「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです」と記されています。イエス様が来られるまでの「影」とは、どういうことでしょうか。「影」と握手しようとしてもできません。本物とならば、がっちりと握手できるのです。神の本体はキリストなのです。イエス様は「私を見た者は父を見たのである。」(ヨハネ14:9)と言われました。

★さらに「ことさらなる自己卑下に騙されてはならない」と教えています。ことさらなる自己卑下とは、「このままでは至らない者だから」と難行苦行の修行をしてみせることです。また「幻を見たこと」を誇りにし自己主張する者に騙されないようしなさいというのです。どんな幻も、聖書の真理に反していれば一利もないのです。そのような人達に「褒美をだまし取られてはならない」と教えています。褒美とは、神様の恵みと祝福のことです。

★コロサイの時代と日本の状況は、非常に似ています。雑多な宗教、雑多な習慣が絡み合っています。岐阜県郡上市に、鰻を神の使いとして食べない村があります。また奈良県の窪垣内(くぼかいと)には、1500年も前の「壬申の乱」の時代から犬を飼わない所があります。その地域の人々は、その習慣にがんじがらめにされているのです。私達も、様々な地域の習慣や、仏教、神道の実体のないことに縛られていることが多いのです。キリストは、そのような全てのことから私達を解放し、私達と命の結びつきを行なうために来て下さいました。私達とキリストとの関係は、「頭と体の結びつき」(19節)です。そのキリストとしっかり結びつくことによって、私達は成長し、教会も成長するのです。アドベントのこの日に、キリストとしっかりと結びついて、クリスチャンとして成長しましょう。

11月28日礼拝待降節1「イエス様が来て下さった」

コロサイ書講解(NO.11)待降節1「イエス様が来て下さった」2章11~15節

仁井田義政牧師

 今日から、クリスマスを迎える信仰的な心の準備の4週間、アドベント週間が始まります。アドベントとはラテン語の「アドベンテウス」から来ています。日本語に訳すならば「来る」と言う言葉です。イエス様が来られるという意味で、クリスマス前の4週間が準備の時なのです。

★キリストが来られた後に書かれた聖書は新約聖書であり、それ以前に書かれたものは旧約聖書です。それは、新しい契約と古い契約を意味します。洗礼は、神様を信じて新しい命に生きることを意味します。

★今日のみことばに出てくる「罪に中に死んでいたあなたがた」とは、コロサイの異邦人のことであり、また人間全体のことです。人間の罪の身代わりとなり神の裁きを受ける為に、イエスキリストがこの世に来て下さったのです。そして私達の身代わりとなって、十字架の上で私達の罪の裁きを受けて下さったのです。そのイエス様が、死者の中から甦られました。それを聖書は「初穂となられた」と記しています。

★ローマ6章23節には「罪の支払う報酬は死である」と記されています。キリストは、その私達の債務を十字架の上の死によって釘付けにし、債務なしとしてくださったのです。ですからイエス様のその力を信じれば、私達に対するサタンの毒針は抜かれ、私達の人生に不利なものは全て排除されたのです。ですから今日のみことばのように、闘いに勝利して母国に帰ってきた戦士達のように、キリストを先頭にした勝利者となり、凱旋の行列に連なって進むことが出来るのです。

★皆さんは、今どのような思いで人生を歩んでおられるでしょうか。敗戦者のように、あるいは捕虜の行列のように、絶望感漂う人生を歩んでおられることはないでしょうか。イエス様はあなたをそのような人生から救うために来て下さったのです。自分の不幸を人のせいや、両親のせいや、神様のせいにするような生き方をしていてはなりません。悩みや問題は誰にでもあります。マルチン・ルターは困難がやって来ると「私は洗礼を受けているのだから、救いと永遠の命の約束を授かっているのだ。」と、何度も叫んだと言われています。イエス様が私達悩める者の所に来て下さいました。ですから勇気を出して、勝利のキリストの凱旋に加わりましょう。

11月21日礼拝「私の内には主の力が満ちている。」

コロサイ書講解(NO.10)「私の内には主の力が満ちている」2章8~10節

                            仁井田義政牧師

 今日の御言で、パウロは「空しいだましごとの哲学によって誰のとりこにもならぬよう注意しなさい」と教えています。これは私達が注意しなければならないことなのです。二千年前と二十一世紀の現代の私達を取り巻く幼稚な教えは、何ひとつ変わっていません。

★パウロは「あのむなしいだましごとの哲学によって、誰のとりこにもならぬよう注意しなさい」と教えています。これはデカルトやカントやヘーゲルなどの一般的な哲学を言っているのではありません。当時の社会に広がっていた星占いの類なのです。一般大衆から王様や皇帝まで、星占いを信じていました。星の拡がる宇宙に霊的な力があると信じていたのです。現代の私達の社会は、どうでしょうか。星占いから臍占いまで、霊力があると公共のテレビまで情報をたれ流しているのです。

★パウロは「だれのとりこにもならないように気を付けなさい」と教えています。「とりこ」と言う原語は「誘拐」と言う意味です。パワースポット、パワーストーンなど幼稚なものならまだ笑えますが、占いや間違った宗教は狂気を生むのです。統一教会は、その日まで相手が誰であるかも分からない結婚式を行なっているのです。ものみの塔は、輸血を禁じ、大学に進もうとする信者を軽蔑するのです。しつけと言って幼児虐待をする団体です。そのような教えのとりこにされてはならないのです。

★イエス様には、神様の全ての良きご性質が満ち溢れています。それを信じている私達にも、全てが満ち満ちているのです。神様を知りたければ、キリストを見れば良いのです。力をいただきたければ、キリストに祈れば良いのです。そして信じるあなたの内にも、満ち満ちているのです。キリストこそ、全ての支配と権威の頭なのです。それは全宇宙、全歴史の上に君臨される神なのです。

★二千年前の人々と現代の私達を取り巻く社会とは、何も変わっていません。私達には、そのような幼稚な教えやだましごとの哲学は必要ありません。私達の内にはイエス様の力が満ち溢れているからです。「私には幼稚な哲学などいりません。イエス様の力が満ちていますから」と告白し、祈りましょう。