3月23日礼拝「涙と共に種をまく人」

詩篇講解(NO.126)「涙と共に種をまく人」126篇1~6節

                         仁井田義政 牧師 

 この詩篇は非常に有名です。特に5-6節は、キリスト教界の大きな大会等でも朗読される聖句です。この詩の前半は、喜びと感謝に溢れています。後半は「涙」という言葉がありますが、希望にあふれています。

★イスラエルの民は、神様への不信仰の為に、バビロンの奴隷とされてしまいました。奴隷になると、そう簡単に自由人になれなかった時代です。王が代わり、政権が幾度代わろうと、奴隷は奴隷のままのことが多かったのです。しかし預言者エレミヤは、「バビロンの奴隷生活は70年間」と預言していました(エレミヤ25:11-12)。それを発見したのが、捕囚となって67年後頃、バビロンにいたダニエルです(ダニエル書9:2)。

★バビロンに移されて67年目の頃、人々は絶望していました。バビロンで生まれた人の中にも、67歳になる人がいたわけです。しかしエレミヤの言葉によって、もう間もなく奴隷生活が終わると知った民は、喜びに溢れました。しかし、どのように解放されるかは分かりません。それは不可能なことでした。しかし、ペルシャのクロス王がバビロンを滅ぼし、イスラエル人奴隷を解放したのです。しかも神殿を造るお金までも与えて、解放しました。

★しかし喜び勇んで帰って来た彼らの見たのは、荒廃したエルサレムとイスラエルの地でした。また破壊された神殿を再建しようとすれば、サマリヤ人から嫌がらせを受けました。この時を境に、イスラエル人はサマリヤ人と長い間反目し合うことになりました。神殿再建を中断して、まず生活を優先させるために農業をしようとすれば、70年見捨てられた農地は、荒れ果てていました。しかしどんなに辛くても、種を蒔いてこその収穫なのです。

★私達の人生や生活は、イスラエルのバビロン捕囚時のように、どうにもならないと思っていないでしょうか。そうならないように、預言者エレミヤは何度も警告していたのです(エレミヤ1:14)。しかし人々は、その警告を無視しました。神様の言葉を無視するところから、人生の苦しみが始まります。しかし御言によって、希望が湧いてくるのです。そのためには涙を流すほどの耕作と種まきが必要なのです。そうする者だけが、束を抱え喜びの時を迎えるのです。神様の御言を信じて、御言の種を蒔きましょう。

3月16日礼拝「平和があるように」

詩篇講解(NO.125)「平和があるように」125篇1~5節

                         仁井田義政 牧師 

 今日の御言の最後には「平和(シャローム)があるように」とあります。この言葉は、今世界中で最も必要な言葉ではないでしょうか。二十世紀は第一次世界大戦、第二次世界大戦と戦争の世紀でした。そうして世界中が「二十一世紀こそ、戦争がない時代に」と、25年前に出発したはずです。

★1節に「主に信頼する人はシオンの山のようだ」とあります。シオン(エルサレム)の山と結びつけられているのは、信仰と関係しているからです。不安は心の中に起こります。しかし主に信頼する者は揺るぐことがないと記されています。不安がないので心が平安であるという意味です。

★それは、エルサレムが山々に囲まれているように、主が御民をとこしえまでも守られるというイメージでした。そのように「主は御民をとこしえまでも囲まれる」と詩人は記しています。しかしイスラエルの歴史は、不信仰ゆえに国が破れることを体験することになるのです。それはエルサレムでのキリスト殺害によって、A.D.70年にローマ軍が破壊してしまうのです。

★主の守りは永遠です。「しかし曲がった道にそれる者を連れ去られる」と記されています。どこからどこへ連れ去るのでしょうか。キリスト殺害後、イスラエル民族は、二千年間エルサレムから連れ去られ、今に至るも平和から遠いのです。

★この巡礼者は、エルサレムの町が神殿を中心に山々に囲まれているのを見ました。そして礼拝者の私達も、神様によってあのように守られているのだとの信仰的な洞察を得たのです。信仰者であって神様の守りに囲まれている存在であっても、曲がった道へそれる時に、つまり神様に対する信仰から曲がってしまう時に、神様の守りは失われてしまうのです。ホサナ「主よ、いま救ってください」とイエス様をエルサレムに迎えた人々なのに、一週間もたたないうちに「私達に、お前はいらない」と、キリストを十字架につけ、殺してしまったように、心が曲がり不信仰になる時、平和を失ったのです。

心を真っ直ぐに信仰へと向けましょう。そうすれば神様は、あなたをあらゆる困難から守って下さいます。

3月9日礼拝「幾度もの危機から」

詩篇講解(NO.124)「幾度もの危機から」124篇1~8節

                         仁井田義政 牧師 

私達の人生は、幾度もの危機に遭遇します。この詩にも、数多くの危機的な状況が記されています。詩人は巡礼の末にエルサレム神殿で礼拝し、自分の人生とイスラエル民族の歴史を振り返っています。そして「もしも主が私の味方でなかったなら」と、この短い詩の中で二度も記しています。

★詩人も、彼の民族も幾度もの危機に遭いました。その様子を「人々が私達に逆らって・・・彼らの怒りが・・燃え上がった時」(2~3節)と記しています。また「大水が押し流し、私達を越えて行ったであろう」(4~5節)とも記しています。また獰猛な敵からの危険を「歯の餌食にされなかった」(6節)と記し、「罠にかかった鳥のように」とも記しています。しかし神様が助け出して下さったのです。

★詩人は上述の色々な困難の体験を、個人のそして民族全体の体験として「もし主が私達の味方でなかったなら」と感謝しているのです。私達の信仰も、過去の神様の数々の守りと祝福を思い起こすことによって強化されるのです。私達は、礼拝で悩みばかりを神様に訴える者であってはならないのです。

★私達の味方の神様は、将来においても私達の味方として、いつも私達のそばにいてくださいます。ローマ書8章31節に「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」とあります。35~37節には「患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣…から圧倒的勝利者となる」と記されています。人々がなぜ人生の中で困難に遭う時、絶望し敗北してしまうのでしょう。味方になる神様を信じていないからです。

★旧約聖書の詩人は「もし主が私達の味方でなかったなら」と仮定法で言っています。しかし、それは「主は私達の味方であられる」ということを、強調するための仮定法なのです。新約聖書の使徒パウロは「主が私達の味方であるなら、だれが私達に敵対できるでしょう」と未来形で言っています。

神様の守りを信じる人となるなら、この詩人やパウロの言うように「圧倒的な勝利者」となるのです。神様が私達の味方であることを信じる者となって、危機や困難も恐れない勝利者となりましょう。

3月2日礼拝「私はあなたに向かって目を上げる」

詩篇講解(NO.123)「私はあなたに向かって目を上げる」123篇1~4節

                         仁井田義政 牧師 

 今日の詩篇は、僅か4節だけのごく短い詩です。しかしこの詩には、神様と人間との壮大なドラマが記されています。

★詩人は、当時の最高の神殿を目指して旅を続けて来たのです。そうして神殿での礼拝を心から喜んで、この詩を書いたのでしょう。しかし詩人は、その素晴らしい神殿に目を奪われてしまってはいないのです。詩人は、神殿で礼拝しつつも、その信仰の目は神殿をつらぬき「私はあなたに向かって、目を上げます」と祈り「天の御座についておられる方よ」と祈っているのです。礼拝とは、そうでなければなりません。礼拝者の信仰の目は、教会の礼拝堂を突き抜け、天におられる神様にまで目を上げることが大切なのです。

★また詩人は、「奴隷の目が主人の手に向けられるように、私達の目は私達の神、主に向けられています。」(2節)と言っています。これは奴隷制度の中の主人の厳しさ、恐ろしさを表わしているのではなく、神様の御指示のことなのです。それは、神様である主人の手の動きを、ひとつも見逃さないということなのです。また神様の手が動き指示命令が出た時には、「それは無理です」とか、「私はそうしたくありません」とか言わないということです。それは、主なる神様への従順な姿勢が込められているのです。

★この詩は 1節では「私」で始まったのですが、2節からは「私達」と記されています。つまり詩人は、自分の住んでいる人々の代表として祈っているのです。その故郷の人々は、3~4節にあるように「あざけりとさげすみ」とで「もういっぱい」の状態でした。

★私達も今、巡礼者のように礼拝に来ているのです。私達の住んでいる所にも、いろいろな問題を抱えて「いっぱい、いっぱい」になっている人達がいます。その人は家族かもしれませんし、友人かもしれません。ですから今日の詩人のように、たった一人で礼拝に来たとしても、目を上げ、教会堂を突き抜けて、全能なる神様に目を上げ「主よ、私達を憐れんで下さい」と、とりなしの祈り手となって祈りましょう。諦めて下を向いたままではいけません。私達も、天の御座に信仰の目を上げて、そこにおられる主に祈りましょう。

2月23日礼拝「さあ、主の家に行こう」

詩篇講解(NO.122)「さあ、主の家に行こう」122篇1~9節

                         仁井田義政 牧師 

 この詩篇は、神殿に来た巡礼者がその庭で記したものと思われます。どれくらい長い旅をして、神殿のあるエルサレムに来たのでしょうか。困難を乗り切って、ようやく着いたエルサレム。そうして数日間を礼拝三昧に過ごし、夢を見ているような幸せな気持ちをもって神様の恵みに感謝している光景が、ありありと浮かんできます。

★まず1節で『人々が私に、「さあ、主の家に行こうと言った時」、私は喜んだ』という言葉で始まっています。詩人を巡礼に誘ってくれたのは、友人達でした。遠いエルサレム神殿までの礼拝の旅路を思うと、心のどこかに躊躇する気持ちがあったのかもしれません。友人達の誘いがあったからこそ、いま礼拝に来ることが出来ているのだと感謝しているのです。

★神殿には、多くの人々が来ていました。しかし、その多くはイスラエル人でした。当時は、礼拝場所も異邦人の庭、イスラエル人女性の庭、イスラエル人男性の庭と、分離されていました。教会は、礼拝場所からそのような差別を一切取り払ったのです。

★巡礼者は「主の御名に感謝するために」(4節)エルサレム神殿に来ました。礼拝で最も大切なことは「主の御名に感謝する」ことでした。これは教会の礼拝でも、最も大切なことです。

★6節には「エルサレムの平和の為に祈れ」という言葉があります。エルサレムは、西暦70年にローマ軍によって、西暦637年にはイスラム教徒によって、その支配下におかれました。西暦688年には、今も残るイスラム教の寺院が建てられました。そのドームは、今日まで1337年も建っています。

★ある教会は「エルサレムの平和のために祈れ」というこの御言を、イスラエル人がエルサレムを支配し、神殿を再建することだと信じています。イスラエルがエルサレムを支配しても、ユダヤ教の神殿が建つだけなのです。そこでは異邦人とユダヤ人の差別、男と女の差別が行なわれます。

★イエス様によって、全ての礼拝者を教会は平等な民とされたのです。それが教会の礼拝です。私達も「さあ、主の家に行こう」と言う互いの言葉に励まされて、真の礼拝場所である教会に喜びと感謝を持って集まりましょう。

2月9日礼拝「主はあなたを守る方」

詩篇講解(NO.121)「主はあなたを守る方」121篇1~8節

                       仁井田義政 牧師                                        

 この詩篇には、神殿のあるエルサレムに向かって巡礼の旅をする人の真っ直ぐな心が表わされています。そのためでしょうかこの詩は、詩篇の中でも特に有名な詩篇となっています。

★詩人は最初に「私は山に向かって目を上げる」と記しています。「山」と言うと日本人は「森林」を思い出します。そして森羅万象の創造者を讃える歌だと勘違いしてしまいます。しかしこの詩人の見ている山は、どこを見ても木も草もない山なのです。現代でも、イスラエルを旅行して最初に驚くのは、岩だらけの荒野や山です。

★聖書時代は、山々には偶像の礼拝所がありました。日本の多くの山にも、山頂には祠がありますね。ですから詩人は「私の救いは山からではなく」「天地の創造者から」来るのだと言っているのです。まさに、詩人の助けの確信は、偉大な天地の創造者の守りに置かれています。そして天地万物の創造者である神は、眠ることもまどろむこともなく守って下さると言っているのです。(3-4節)

★さらに詩人は「主はあなたを守る方」と記しています。当時の巡礼の旅はいろいろな危険の伴うものでした。まず自然からの危険です。「昼は日があなたを打つこともなく。夜も月があなたを打つことがない。」とは、巡礼の旅路の自然の厳しさを現わしています。そして「主は、あなたを行くにも帰るにもとこしえまでも守られる。」とは、巡礼の行き帰りの旅が相当な危険が伴ったことが背景となっている言葉なのです。さらに7節の「主はすべてのわざわいから、あなたを守りあなたの命を守られる」の「命」はヘブル語の「ネフェシェ」と言う言葉で、それは単なる生物的命だけではなく、心も体も経済も、生活の全てを守られるという意味なのです。

★人生も旅路に譬えられます。いろいろな事が起こりますが、それらの恐怖心に勝たなければなりません。それは巡礼者が目的としていた礼拝によって与えられます。真の神を礼拝する者が「主は・・とこしえまでも守られる」という信仰を与えられるのです。あなたも真の礼拝者となって、主はとこしえまで私を守られると確信する者になりましょう。

2月2日礼拝「逆境の中の巡礼」

詩篇講解(NO.120)「逆境の中の巡礼」120篇1~7節

                       仁井田義政 牧師                                        

 今日の詩篇120篇~134篇までの15篇は、「都上りの歌」という表題が付いています。つまりエルサレムに礼拝に来る人々が歌った巡礼者の歌なのです。この詩は、詩人がどこからエルサレムに礼拝に来たのかも記しています。その地名を考えないで読んでしまうと、この詩の意図する内容の10%も理解できないでしょう。

★詩人は、礼拝のためにエルサレムに向かっています。詩人がどのような境遇にあったかを記しています。それは苦しみの中にあったのです。その中で主に祈って「主は私に答えられた」という体験を持った人でした。私達の礼拝も、「主に感謝する」という礼拝が大切であることが分かります。

★この詩の作者は、好戦的な異教徒の中にいました。「偽りの唇、欺きの舌」つまり嘘を平気でつく人々の中で生活していたのです。しかも、その人達と比べて、詩人は社会的に地位が低い立場にありました。しかし、4~5節では、必ず神様によって彼らに「鋭い矢と、炭火が加えられる」と信じていました。

★5節には、詩人が今まで住んでいた所の地名が記されています。それは、メシェク(ロシアの黒海地方)とケダル(アラビア地方)です。詩人は寒いロシアに住んでいたり、熱いアラビアに住んでいたりしていたことがあるようです。しかし、なぜそうなったのかはわかりません。戦争で捕虜になって、そのあと奴隷になったのかもしれません。そのような事は、古代においては普通に行われていたからです。

★しかも彼の住んでいる土地の人は、「彼らは戦いを望む」(7節)という好戦的民族でした。1節の「その苦しみのうちに、主に呼ばわると、主は私に答えられた」という言葉から推測すれば、解放され自由人として礼拝に来たのかもしれません。いずれにしても、この詩人は生活に負けていないのです。「苦しみのうちに主に呼ばわると、主は私に答えられた」と言って、遠い道のりを歩き、神様を礼拝しに来ているのです。私達も、このような大変な逆境の時にも、希望を持ち祈り続ける礼拝者となりましょう。

1月26日「御言の戸が開くと」

詩篇講解(NO.119)「御言の戸が開くと」119篇130節

                       仁井田義政 牧師                                        

今日の御言の詩篇119篇は、詩篇の中で最も長い詩篇です。そのとてつもなく長い詩篇を、ギュっと凝縮してお話ししたいと思います。読む箇所も130節だけにし、この詩篇の言おうとしている所をお話ししたいと思います。

★この詩篇は「幸いなことよ」という感嘆文で始まっています。幸いなのは「主の御教えによって歩む人々です。」と言っています。別の言い方をすれば、聖書の御言通りに生きる人は何と幸いなことでしょうと言う意味です。しかし、御言を実行して生きるということは、決して簡単なことではではありません。人間には、それを妨げる欲望があるからです。

★9節には、若い人のことが出てきます。若い人にはいろいろな欲望があります。芸能界のスキャンダルが後をたちません。しかし若くない人にも欲望はあります。127節の「金や純金」の魅力です。その為に銀行の内部でさえ盗みが起るのです。またこの世には「御言に信頼して生きる者達を迫害する」ことさえあります。大切なのは決して御言を捨てないことです。

人生には、話したような問題と、それ以外の何百もの問題と失敗と苦しみがあります。その失敗や苦しみを体験したことも、御言に触れるきっかけとなり、71~72節にあるように幸せのきっかけとなります。

★130節の「あなたの御言の戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」との御言ですが、「わきまえのない者」とは、他の訳では「浅はかな者」「無知な者」「無学な者」と訳されています。私がこの130節に強く感動したのは、神学生1年の1学期が終わった時でした。その成績不振で完全に自信を喪失し、チャペルで祈っていた時です。この御言が突然私の心に飛び込んできました。この御言によって、俄然聖書研究の熱意が燃え上がりました。聖書だけではなく、一般哲学、宗教哲学、教育学に心が燃え上がりました。まさに御言が私を救い、助け、立ち上がらせたのです。あなたも今、何らかの悩みの中にあるなら御言の戸を開きましょう。そこから光が差して来るのです。 

1月19日礼拝「暗闇の中の歌」

詩篇講解(NO.118)「暗闇の中の歌」118篇10~29節

                       仁井田義政 牧師                                        

 この118篇は、宗教改革者マルチン・ルターがこよなく愛した詩篇です。しかし、今日はルターのことを話そうとしているのではなく、もっと激しい迫害を受けられたイエス様をお話しするのです。この詩は、イエス様がゲデロンの谷で読まれたものと言われているのです。

★最後の晩餐の後、イエス様と弟子達は、祈るためにオリーブ山に向かわれました。そこはいつもの祈りの場所だったので、イエス様はそこにユダが敵を連れて来ることも知っておられました。イエス様は、そこで捕えられ、なぶり者にされ、殺されることも知っておられました。

★イエス様は、エルサレムの町を出たゲデロンの谷の辺りで、この詩篇を歌われました。その歌は「主に感謝せよ」で始まり、「主の恵みはとこしえまで」と、しかも3回も繰り返される歌でした。「主は私の味方。・・・主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりも良い」(6~9節)と、ルターも自分と重ねてこの詩篇を読んだのです。この詩篇には、その強力な悪に「私は主の御名によって断ち切ろう」と3回も出てきます。イエス様が「私の名によって祈りなさい」と教えています。

さらに18節には「主は私をきびしく懲らしめられた。しかし私を死に渡されなかった」と記されています。それは十字架と甦りの預言です。それは人々が捨てた石、それが「礎の石となった」(22~24節)と記されている事から見ても明らかです。イエス様ご自身が、マタイ21章42節でこの言葉をご自身のこととして引用しておられます。さらには、25節の「ああ、主よ。どうぞ救ってください」との言葉は、イエス様がエルサレムに入られる時に、人々が叫んだヘブル語の「ホサナ」と言う言葉なのです。

★イエス様は、十字架に向かう暗闇の道を歩みつつ、この歌を歌われたのです。私達にも、イエス様が通られた「ゲデロンの谷の暗闇」のような時があるかもしれません。そのような時にも「あなたは、私の神。私はあなたに感謝します。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と歌うようなクリスチャンとなりましょう。

1月12日礼拝「世界の救い」

詩篇講解(NO.117)「世界の救い」117篇1~2節

                       仁井田義政 牧師                                        

 今日の詩篇は、詩篇の中でいちばん短い詩篇ですが、最も大きな内容が記されています。それは「全ての国々よ、主をほめたたえよ。全ての民よ、主をほめたたえよ」と記されているからです。キリスト教会の究極目的は、この一節にすべて込められています。私達、溝の口キリスト教会も、今日の御言によって、キリストの教会の偉大なるビジョンに連帯する自覚を持つものとなりましょう。

★今日の詩篇の内容は、単純明快で何ら説明などはいらない御言です。 「全世界の人々よ、主をほめたたえよ」とは、全ての国々への神様の招きです。「全ての民よ、主をほめたたえよ」とは、一人残らずと言う神様の招きです。神様には、イスラエル人とパレスチナ人の差別はありません。ウクライナ人とロシア人の差別もありません。それを乗り越えられずに戦争があるのです。「この土地は私達民族のものだ」と争っているのです。

★イエス様は、この詩篇を最後の晩餐の後に弟子達と歌い (マタイ26:30・マルコ14:26)オリーブ山に向かわれました。キリストの十字架こそ、世界の救いと全ての民の救いが実現するのです。弟子達の誰も、この事を知りませんでした。その中で初代教会が始まったのです。

★その事を知ったのは、パウロでした。ですがパウロが新しい教えを作り出したのではありません。旧約聖書にそう約束されていたのです。弟子達はみなユダヤ人であったために、ユダヤの選民思想に溺れ、キリストの救いが全世界の為であることを理解することが出来なかったのです。パウロは、ロマ書15章11節で、この117篇1節を引用しています。

★イエス様にとっても十字架は苦しみでしたが、十字架を越えた向こうに、世界の人々の救いの希望がありました。それは、アブラハムと神様との約束(創世記12:1~3)でした。そこの「地上の全ての民族は、あなたによって祝福される」との約束の実現です。世界宣教は教会のゴールです。ゴールばかりを見て足元を忘れてはなりません。また、足元ばかり見てゴールを忘れてはなりません。しっかりと計画を立てましょう。それが教会会議なのです。