Monthly Archives: 5月 2022

5月29日「山に向かうか、宮に向かうか」

詩篇NO11「山に向かうか、宮に向かうか」11篇1~7節

         仁井田義政 牧師

 今日の11篇もダビデの詩です。ここでもダビデは敵に命が狙われています。敵に命を狙われる場面で、ダビデの生涯中に最も当てはまるのは、サウル王に命を狙われた時でしょう。ダビデには友人達もいました。その友人達が、ダビデに山に逃げるようにと助言しました。ダビデは、その助言に従うべきかどうかの選択を迫られました。私達クリスチャンにも、人生は常に選択であることを印象付けられる詩篇です。

★友人達の助言は、「鳥のように山に飛んで行け」というものでした。しかもダビデの「魂」に言うのでした。それは、友人として善意からの助言でした。「お前たちの山」は、まだ敵の手が回っておらず、ダビデが自由に行動出来る所を意味しています。「鳥のように飛んで行け」は、ダビデにすぐにでも出来る行動であり、安全確保の道でした。

★しかし1節にあるように、ダビデの信仰は最初から「主に私は身を避ける」と決まっていました。ダビデは、友人達の魂に語り掛ける善意の言葉にも、動くことはありませんでした。それは、「主に身を避ける」と、はっきりとした信仰の選択を持っていたからです。私達日本人は、そこが弱いと言われています。

★ダビデは、悪しき者が暴虐の限りを尽くしても、必ず正しい者が勝つことが出来ると確信していました。その証拠として、ダビデは、創世記のソドムとゴモラ滅亡の事件を取り上げています。イエス様は、十字架の死が待つエルサレムに向かわれる時、弟子のペテロから「エルサレムに行き、私は死ななければならない等と言ってはいけません」と助言されました。それは、ペテロがイエス様を愛するがゆえの助言でした。しかしそれに対してイエス様は、「サタンよ、引き下がれ」と激しく退けました。(マタイ16:23)

★私達にも「神の御言に従うか、人の助言に従うか」の選択が常に求められています。そのような時に気を付けないと、私達は人の助言を聞いてしまいやすいのです。神様の御言に背を向けて、鳥のようにバタバタと山に逃げてしまうのです。しかしそのような時に、神の宮(4節)教会に向かおうではありませんか。

5月22日礼拝「主は見ておられる」

詩篇NO10「主は見ておられる」10篇1~6節,16~18節

         仁井田義政 牧師

今日の詩篇10篇の中を見ますと、神様を信じていない人が力強く歩み、神様を信じている人達を苦しめています。そのようなことは遠い世界のことではなく、クリスチャンである私達の日常にも起こっています。その中で私達は、どう生きれば良いのでしょうか。

★この詩篇前半の1~11節は、神様を信じない人が成功している様子を記しています。悪者が、神様を信じる人達に悪口雑言を浴びせながら生活しているのです。しかも、その人は何をやっても成功していて「私は・・世々にわたって災いに会わない」と確信しているのです。そしてその人は、堂々と「神はいない」(3節)と公言しているのです。

★その人によって、弱い人が傷つけられ、食い物にされています。その苦しさの中で、神様を信じる人は、神様がその悪行を裁かず沈黙しているように感じてしまいます。さらに神様を信じない人達は「神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ」と言って侮蔑します。さらには神様を信じない人達は、どんなに悪いことをしても神は裁くことが出来ない。なぜなら「神はいない」からであると言い放ちます。  

★それに対して詩人は、神様は「貧しい者」「みなしごと、しいたげられている者」を、じっと見ておられると言っています。それは、神様が十字架の上で苦しまれるイエス様をじっと見ておられたようにです。十字架のイエス様を見て沈黙されていた神様には、広大な計画がありました。三日後にイエス様を死から甦らせ、世界の王にする計画です。

★私達は、悪者が栄え「神はいない」と言いながら生きている日本に生活しています。しかし神様は、決して見過ごしておられるのではありません。14節にあるように「じっと見つめておられるのです。」イエス様の十字架をじっと見つめておられたように、注視しておられるのです。それはイエス様の十字架の時と同じように、世界を統べ治められるためです。ですからクリスチャンは、いつもその信仰を失ってはなりません。今日の詩篇10篇の作者のように、しっかりとした信仰に立つのです。世の中にどんな悪事が起こっても、主は王の王、主の主です。確信をもって信仰の告白をしましょう。

5月15日礼拝「砕かれた者の神」

詩篇NO9「砕かれた者の神」9篇10~20節

         仁井田義政 牧師

9篇は、感謝と祈りの詩篇です。特に1~12節は、感謝と賛美の言葉に満ちています。そして後半には、苦難の中で心砕かれたダビデの祈りが記されています。私達を信仰の深みへと引き上げてくれます。

★この詩人は、「貧しい者」に自分を置き換えて祈っています。ここで言う貧しいとは、お金がないこととは違います。それはヘブル語で「砕かれた」という意味なのです。ダビデは、敵が連合を組んで迫まって来ていると言っています。その敵を前にして、人間的な計算ではたち打ちできない状況にあるのです。それを貧しい者、または心砕かれた者と言う言葉で現わしているのです。私達も、病気・仕事の失敗・失業等々で、心砕かれるような体験をすることがあります。神様は、そのような心砕かれた者の祈りを聞かれます。

★そのように数々の問題が襲い掛かってきても、神様の御性質を知っていれば立ち上がれるのです。それでは、神様はどのような御性質なのでしょうか。まず、詩人は「あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした」(10節)と記しました。訪ね求めるとは祈りのことで、神様は祈る人を捨てられることが絶対にないのです。また「貧しい者の叫びをお忘れにならない」とも記されています。

★それゆえに、この詩の最初は賛美で始まっています。ダビデにとって「神様を喜び歌う」ことは、音楽上のことではありませんでした。日常のこと、現実生活だったのです。つまり日常において、神様に本当に信頼し、辛い時にも嬉しい時にも祈ったのです。天地万物を創造し、歴史において悪者達の国々を滅ぼし、あるいは衰退させる力の神が、私達のような貧しい者の祈りを聞いて下さる結果なのです。イエス様が「心の貧しい者は幸いである。」と言われたのは、心砕かれた人のことなのです。2節では、心砕かれているダビデが「私は、あなたを喜び誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います」と言っています。

★そうであるならば、私達も神様の御名を心から喜び誇るのです。私達は、心から主を誇るクリスチャンとなりましょう。

5月8日礼拝「広大な宇宙を見て知る私」

詩篇NO8「広大な宇宙を見て知る私」8篇1~9節

         仁井田義政 牧師

 今日の詩篇は、地上から広大な宇宙を見ての感嘆文で始まり、感嘆文で終わっています。広大な宇宙とその美しさを仰いだ時に、地上の争いや人間の様々な悩み事が、あまりにも取るに足らない小さなことで、なんと馬鹿らしいことかと価値の変化を体験しています。

★私達人間は、一般的に「人間は偉大だ」と思っています。しかし今から三千年前のダビデが、星空を見上げて、その広大さと美しさに嘆声をあげました。創世記1章14~17節には、宇宙は神様が創造された御業として記されています。ダビデからさらに千年前、アブラハムも星空を見上げてその雄大さの中で神様の声を聞きました。

★ダビデは、「幼子によって星空を作られた神様がほめたたえられる」と言っています。それは「力がある、知恵があると思っている者には、神の栄光が見えず聞こえない」という意味です。むしろ「幼子の方が神様の存在を見ることが出来、神様の声を聞くことが出来ている」と言っているのです。この言葉は、マタイ21章14~17節で、イエス様がエルサレム入城の時に引用しています。この所の祭司長・律法学者とは、当時の権力者であり知識人達なのです。

★広大な宇宙を見た後に、3節でダビデは地上の人間生活を見ています。神様の御業である広大な宇宙とその美しさとを比べて見ると、人間の存在のなんと小さなことかと思いました。しかし神様は、その人間を広大な宇宙よりも、万物や天使達よりも、価値のあるものとして創造されたというのです。その驚きが「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう」(9節)との最後の感嘆文につながっているのです。

★私達は、地上のことばかりを見てしまいがちです。悪口を言われたとかで険悪な状態になることもあります。都会では、地境が1センチ違うというだけで、何十年にも亘る隣同士の争いになることもあります。人間関係で思い悩み、自死にまで至ることがあるのです。星空を見上げ、神様の創造された宇宙の広大さとその美しさを見ましょう。自分の悩んでいる事が何と小さなことであるかに気付くでしょう。大宇宙の創造者であられる神様は、私達のことをご自身よりも少しだけ低く造って、世界で一番大切な存在として愛して下さっています。感謝して祈りましょう。

5月1日礼拝「誤解され心痛み悩む時」7篇1~5節

詩篇NO7「誤解され心痛み悩む時」7篇1~5節

         仁井田義政 牧師

今日は、誤解の中で苦しむダビデの詩です。私達が生きている世界では、身に覚えのないことで憎まれたり、悪口を言われたりすることがあります。私達も誤解されれば深く傷つきます。そういう意味で、今日の詩篇も私達とつながりがあります。

★ダビデは、4節にあるように「親しい友」から誤解を受け、憎まれ命まで狙われています。おそらくサウル王であろうと考えられています。誤解されることは苦しいことです。

★ダビデは「私が言われているような事をしたのなら、どうぞ私を敵の手で殺して下さい。彼から何も奪ったことはないし、不正なことをしたこともありません。私は彼に誠実に接してきました」と祈っています。神様は善と悪をはっきりとして下さる御方。私の正しさを神様が一番知っておられるはずと言っています。誤解されることは、それほど辛いことなのです。                                        

★人に誤解され、身に覚えのないことで誹謗中傷される時に、私達は激高し、怒りが火山のように爆発し噴出するのを感じます。しかし、ダビデはその人に仕返しをするのではなく、神様の裁きにお委ねする祈りをするのです。(14~16節)神様以外に力と正義に満ちた御方は、他にいません。ですからダビデは、「いと高き方」と神様の名を褒めたたえるのです。

★この詩の背景は、彼の友人がタビデの命を取る為に、怒りに満ちて軍隊を連れダビデに迫ってきている状況です。おそらくダビデは「それは誤解だ」と何度も説明をしたと思われます。しかし友人は聞き入れません。私達も親しい友に裏切られて苦しむ時があります。その苦しみが憎しみとなって、復讐心に捕らわれてはならないのです。悩み苦しみに心を満たしてしまって、心が病むような状態になってはならないのです。正しい祈りは、必ず終わりに神様の完全なお取扱いを確信し、怒りを納めるのです。

★イエス様ほど誤解された御方はいません。それでもイエス様は「我が霊を御手にゆだねます」と祈られました。ダビデも、「私はあなたのもとに身を避けました」と祈りました。自分で仕返しをするのではなく、神様に委ねたのです。私達も人々から誤解され苦しむ時に、十字架の上で誤解の苦しみを体験されたイエス様のように、またダビデのように、神様にそのことを知って頂き、神様の判断を求めて祈ろうではありませんか。