詩篇講解NO58「裁く神が地におられる」58篇1~11節
仁井田義政 牧師
今日の詩篇は「裁く神」です。悪者が欲望のままに生きているのを見る時、神様は悪を見逃しておられるのではないかと思うことがあるのではないでしょうか。正しく生きていることが馬鹿らしく思ってしまう危険があります。そのような考えに、今日の詩篇は鉄槌を下すような御言です。
★今日の詩篇では、悪者を「力ある者」と言っています。王や権力者のことを言っていると考えられます。表面的には正しい裁きに見せても、その裁きは不正と暴虐に満ちている、悪者は「母の胎にいる時から」悪の芽があるだと言っています。これは聖書の人間理解なのです。幼い子供達を見ると、このまま悪い大人にならないようにと祈るばかりですが、大人になるにつれて悪くなることが多いのが現実です。
★ダビデは「神よ、悪者を滅ぼしてください」と祈りました。悪いサウル王に命を狙われて、辛い思いをしているダビデの祈りです。「滅ぼしてください」などと程度の低い祈りをしたものだと一言で決めつけることは出来ません。私達も人から悪事をされれば、「どうしてあの人をそのままにしておくのですか」と、神様に訴えるのではないでしょうか。しかし神様は、罪人をも愛されるお方なのです。エゼキエル18章23節には「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか・・・悔い改めて生きることを喜ばないだろうか」言われています。ですから、私達もイエス様によって罪赦されて救われているのです。
★しかし神様は、罪をそのままにしておかれる御方ではありません。罪を裁かない神ならば、そこに神の義はなく、義を失った神は神でさえなくなるのです。神様は、ひとつの罪も見逃さず完璧に裁かれます。「復讐は私のすることである」とロマ書12章19節にはっきりと書かれています。その「裁く神が地におられる」と、ダビデはこの詩篇の最後に記しています。それは、私達の生活の只中におられて、一部始終を見ておられるということです。
★その私達の全ての罪を、イエス様が身代わりとなり十字架で裁きを受けて下さいました。神様は裁かない神ではなく、ひとつの罪も赦すことなく裁きを行なわれ、神の義を打ち立てられるお方です。私達人間の罪をイエス様に背負わせて、徹底的に裁かれました。そのことを心にとめ、罪を犯すことのないように、イエス様の十字架を見上げ、神の愛に感謝して生きましょう。