Monthly Archives: 6月 2023

6月18日礼拝「裁く神が地におられる」

詩篇講解NO58「裁く神が地におられる」58篇1~11節

仁井田義政 牧師

 今日の詩篇は「裁く神」です。悪者が欲望のままに生きているのを見る時、神様は悪を見逃しておられるのではないかと思うことがあるのではないでしょうか。正しく生きていることが馬鹿らしく思ってしまう危険があります。そのような考えに、今日の詩篇は鉄槌を下すような御言です。

★今日の詩篇では、悪者を「力ある者」と言っています。王や権力者のことを言っていると考えられます。表面的には正しい裁きに見せても、その裁きは不正と暴虐に満ちている、悪者は「母の胎にいる時から」悪の芽があるだと言っています。これは聖書の人間理解なのです。幼い子供達を見ると、このまま悪い大人にならないようにと祈るばかりですが、大人になるにつれて悪くなることが多いのが現実です。

★ダビデは「神よ、悪者を滅ぼしてください」と祈りました。悪いサウル王に命を狙われて、辛い思いをしているダビデの祈りです。「滅ぼしてください」などと程度の低い祈りをしたものだと一言で決めつけることは出来ません。私達も人から悪事をされれば、「どうしてあの人をそのままにしておくのですか」と、神様に訴えるのではないでしょうか。しかし神様は、罪人をも愛されるお方なのです。エゼキエル18章23節には「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか・・・悔い改めて生きることを喜ばないだろうか」言われています。ですから、私達もイエス様によって罪赦されて救われているのです。

★しかし神様は、罪をそのままにしておかれる御方ではありません。罪を裁かない神ならば、そこに神の義はなく、義を失った神は神でさえなくなるのです。神様は、ひとつの罪も見逃さず完璧に裁かれます。「復讐は私のすることである」とロマ書12章19節にはっきりと書かれています。その「裁く神が地におられる」と、ダビデはこの詩篇の最後に記しています。それは、私達の生活の只中におられて、一部始終を見ておられるということです。

★その私達の全ての罪を、イエス様が身代わりとなり十字架で裁きを受けて下さいました。神様は裁かない神ではなく、ひとつの罪も赦すことなく裁きを行なわれ、神の義を打ち立てられるお方です。私達人間の罪をイエス様に背負わせて、徹底的に裁かれました。そのことを心にとめ、罪を犯すことのないように、イエス様の十字架を見上げ、神の愛に感謝して生きましょう。

6月11日礼拝「人生の暗闇に暁を呼び込む」

詩篇講解NO58「人生の暗闇に暁を呼び込む」57篇1~11節

仁井田義政 牧師

 今日の御言も、表題に「ダビデがサウル王から逃れて洞窟にいた時に」と記されています。ダビデにとって、神様の救いが強烈な体験となり、生涯にわたる信仰体験となったのです。このような生涯を貫くような体験は、信仰を強めます。

★洞窟のような体験とは何でしょうか。洞窟は、入り口からしか光が入って来ません。その入り口に人が立つと、大きく見えるのです。そして入り口に立ちふさがれると、もはや逃げ場がない状態になります。逃げ場のない体験それが洞窟体験であると言えるでしょう。

★その中で、ダビデは「滅びが過ぎ去るまで神の御翼の陰に身を避ける」(1節)しかありませんでした。洞窟の中にあっても、信仰者ダビデは「いと高き方、神に呼ばわります」(2節)と言っています。いと高きはこれ以上ない方の意であり、「呼ばわる」は祈りのことです。ダビデは「ライオンの穴に入れられているようだ」と言っています。ライオンは、情け容赦なく獲物をむさぼり食うのです。何一つ守るものがない状態、声に出して祈れない状態です。しかし神様は「天から救いを送ってくださった」(3節)のです。「神は恵みとまこととを送られるのです」と3節後半に記されています。神様の「恵みとまこと」は、ヨハネ1章14節にも出てきます。

★真っ暗な洞窟の中で、ダビデは「私の心は揺るぎません」と2回繰り返しています。それは絶対的確信です。ダビデはついに「私は歌い、ほめ歌を歌います」と神様に感謝しています。そして「私は暁を呼び起こしたい」と言いました。それは朝日の光を待つ姿です。どんなに暗い夜にも朝が来ることを意味し、真っ暗な中であっても希望を失わないことを意味しています。

★ダビデは、9~11節の中で、神様を心からほめたたえています。神様が、必ず洞窟の真っ暗な中から救い出してくださると確信しているからです。神様は、神様を信じ信頼する者の祈りを聞いて下さいます。その人が真っ暗な洞窟に追い込まれていようとも、朝日のように希望を与えてくださるのです。

あなたは、今、光の見えない洞窟のような悩みの中にいませんか。もしそうなら、主に祈って朝の光(暁)をあなたの人生に呼び込みましょう。

6月4日礼拝「神の力の内に生きよう」

主日礼拝「神の力の内に生きよう」使徒の働き9章36~42節

                                       吉原博克師

先週は祝されたペンテコステの礼拝でした。今週は先週の続編、応用編のお話となります。ペンテコステの日、エルサレムには当時のギリシア・ローマ世界にして「世界中」からの人々が集まっており、その日だけで三千人の人々が主イエスを信じる者とされました。

★主イエスの教えは、聖霊のバプテスマを受けると「力を受け」、「エルサレムからユダヤ、サマリヤの全土まで」主の証人と」なる、というものでした。エルサレムとユダヤとは、いわばなじみの町と地域、サマリヤとは、文化的に似ていながらも少し違う地域、地の果てとは大きな違いのある地域、という意味でもあります。地理的な意味に加え、文化的・社会的な意味を含んでいるわけです。あなたも、出身の地域・文化と現時点の地域・文化、そして遣わされ(てい)る先の地域・文化というものについて、少し思い巡らし、祈ってみましょう。

★今日はさらに「力」というものについて考えてみます。「力」という言葉は、聖書の原語では「デュナミス」といいます。英語の「ダイナマイト」という言葉はここから作られました。しかし、聖書の語る「デュナミス」には、様々な意味が含まれています。代表的なものは、言葉で証しする力であり、「しるしと不思議」なる奇跡を行う力です。主イエスの福音は私たちを罪から解放し、死から命に移してくれる力です。

★一方、今日のテキストのドルカス(タビタ)は、ある特技で豊かに用いられたとあります。裁縫です。彼女は一針一針、縫いものをし、下着や上着を作ることで他の女性たちを励まし、支えていたのです。ルカは、このドルカスを生き返らせた神の究極の力について証しつつも、この「女の弟子」がこつこつと積み上げてきた「良いわざと施し」についても少し詳細に紹介し、さらに豊かな証しとしているのです。

★この章の前半に出てくるアナニアは、主の語りかけを受け、回心したといわれる迫害者サウロを、恐れを乗り越えて訪問し、主の務めを全うしました(9:10-19)。神の「力」は派手なものばかりではありません。日々の努力や忍耐、忠実な歩みの中に顕れる静かな力でもあるのです。あなたに必要な「力」を祈り求め、いただいていきましょう。