Monthly Archives: 4月 2023

4月30日礼拝「救いがシオンから来る」

詩篇講解NO53「救いがシオンから来る」詩篇53篇1~6節

 仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、14篇とほぼ同じ内容です。違いといえば、神様の名前が14篇では数か所「主」で、53篇では「神」となっているくらいです。14篇は個人的な詩であり、53篇は神殿などで公式に朗読された詩篇だろうと言われています。14篇は個人にとって、53篇は人間共同体として、何が一番大切なことかを教えています。

★聖書は、本当の愚かな者とは知恵や能力のない者とは違うとはっきり教えています。どんなに知能が優れていても、どんなに社会貢献をしていても、「神はいない」と言う人は愚か者であるとダビデは言っているのです。神様を信じない自己中心の人間社会では、全ての人間が腐ってしまうのです。ローマ人への手紙3章10節に「義人はいない、一人もいない」と、詩篇53篇3節から引用されている通りです。

★「少年よ、大志を抱け」の言葉で有名なクラーク博士が、聖書30冊をカバンに入れて北海道開拓長官の黒田清隆と、北海道に向かう船の中にいました。黒田が「生徒達に聖書を教えてはならない」と言いましたが、クラークは「私は聖書なくして生徒を教育することができない。聖書を教えてはならないというならば、私はアメリカに帰る」と言ったのです。ついに黒田が折れました。クラークは札幌農学校「現、北海道大学」の教師となり、わずか8か月の滞在でしたが、その間にクラス全員の生徒がクリスチャンになったのです。その二期生に、内村鑑三・新渡戸稲造等がいました。

★今日の詩篇には、「イスラエルの救いがシオンから来るように」(6節)と記されています。シオンとはエルサレムのことです。イエス様はエルサレムで十字架に着けられました。そこから「エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、さらに地の果てまで」(使徒1:8)、つまり世界の果てまで「主を知る知識」が広がったのです。

★今日の詩篇は、神様を忘れた民が背景となっています。ですからダビデは「シオンから救いが来るように」と祈っているのです。聖書は、人間の本当の愚かさとは何か、それは「神はいないということである」と、はっきり言っています。私達も愚か者にならず、シオンから来られたイエス様をしっかりと信じて、生きる人となりましょう。

4月23日「私は神の家にあるオリーブの木」

詩篇講解NO52「私は神の家にあるオリーブの木」詩篇52篇1~9節

 仁井田義政牧師

私達クリスチャンにとって、自分をどのように見ているかは大切なことです。私には主の愛と祝福が豊かに注がれていると見ることの出来る人は幸いです。それと反対に自分がみじめに見えてしまう人がいるならば、今日の御言によって、自分の本当の姿に気付いてほしいと思います。

★表題は、ダビデの置かれた最悪な状況を表わしています。そのことは、第一サムエル記21章にあります。ダビデはサウル王に命を狙われて、ノブの祭司アビメレクの所に逃げてきました。その時ダビデには食べ物もなく、祭司から神様に供えたパンのお下がりを頂いて食べました。ダビデは、サウル王が死ぬまでの9~10年間の逃亡生活を送りました。

★何もなかった逃亡者のダビデの目には、サウル王は巨大な富と権力を持った人としてうつりました。祭司アビメレクから、パンとゴリアテの剣をもらったダビデが、次にペリシテの町ガテに逃げて行きましたが、ダビデと闘って戦死したペリシテ人のゴリアテの剣を持っていたので、そこで殺されると思い、よだれを流すという演技までして、その場を逃れました。

★ダビデは、神様を信じない「悪の勇者」(1節)達を羨ましいとは思いませんでした。神様が「根こぎにされる」(5節)からです。ダビデは自分を「神の家にあるオリーブの木のようだ」(8節)と言っています。オリーブは、冬も夏も常に葉の繁る常緑樹なのです。しかも神様の家の庭にある木なので、神様が毎日愛し世話をしてくださるのです。

★この詩を書いた時、ダビデは生涯中最も困難な時期にありました。命の危険すら感じる毎日だったのです。しかしダビデのセルフイメージは、神様に可愛がられ、神様の庭で大切に育てられているオリーブの木のイメージだったのです。ダビデは「私は神様を信じてきたのに、サウル王から汚名を着せられ、命まで狙われている。さらにイスラエルの宿敵ペリシテの町に入り込んでしまった。最悪だ」とは言わなかったのです。それどころか「私は、神の家にあるオリーブの木のようだ、世々に限りなく神の恵みにより頼む」と言ったのです。あなたはいま困難の中にあるかもしれません。たとえ困難の中にあっても、ダビデのようなセルフイメージを持ちましょう。「私は神の家にあるオリーブの木ようだ」と信仰の告白をして心を明るくしましょう。

復活祭後の主日礼拝「人を恐れてはならない」

復活祭後の主日礼拝「人を恐れてはならない」マタイ10章28~33節

 仁井田義政 牧師

受難週、復活祭、復活祭後の本日の三回ほど、詩篇の連続メッセージを中断しております。来週からはまた詩篇へ戻ります。さて今日の御言を復活祭後のメッセージとして選んだ理由は、イエス様の十字架とご復活に見る勇敢な生き方に感動したからです。人からどんな評価を受けようとも恐れない、揺るぐことのない生き方という意味での勇敢さです。

★イエス様は弱い人たちばかりを相手にし、罪の問題「神様との関係」ばかりを教えて回られました。人々は、そのようなイエス様に失望しました。人々は、イエス様に戦争で手柄を立てる人のような勇敢さを求めていたのです。イエス様の十字架の上には、ローマ総督ピラトの命令で「ヘブル語・ラテン語・ギリシャ語」で罪状が書いてありました。ローマの総督ピラトも「十字架につけよ」と叫ぶ大衆を恐れて、無罪と知りつつイエス様を処刑しました。

★しかしイエス様は、人の目を気にされませんでした。もしイエス様が人々の目を恐れる方であれば、「私はイスラエル人の王となります」と言って大衆の力を手中に収めることが出来たのです。しかしイエス様は、人の目を恐れるような御方ではありませんでした。神様を裏切って命を永らえようとはされませんでした。人の目よりも、神様の目を畏れ敬う御方だったのです。

★イエス様は「体を殺しても、魂を殺せない者を恐れてはなりません・・魂も体も、ともにゲヘナで殺すことのできる方を恐れなさい」と教えられました。内村鑑三は、第一高等中学校の教師だった時(明治24年)1月9日に教育勅語に敬礼をしなかったという事で、教師の職を追われました。イエス様は「魂を殺すことができないものを恐れてはなりません」と言われました。

★また「人の前で、私を認める者は、私も天におられる父の前で、その人を認めます。しかし人の前で私を知らないというような者なら、わたしも天の父の前で、そんな者は知らないといいます」と私達に迫られます。人々の前で、私達は信仰に誇りをもって生きているでしょうか。「私はクリスチャンです」と証言して生きているでしょうか。それとも人々の目や、批判を恐れて、クリスチャンであることを隠して生きてはいないでしょうか。人を恐れず「私はクリスチャンです」と、キリストを表わしていきましょう

4月9日復活祭「立ちはだかった大きな石」

復活祭「立ちはだかった大きな石」マルコ16章1~8節

 仁井田義政 牧師

今日は復活祭イースターです。もう一つ特別なことは、第二礼拝の中で吉原博克先生の就任式があります。まずイースターのメッセージをお届けしたいと思います。今日の聖書には、イエス様の墓に向かう女性達と、墓の「大きな石」が出てきます。

★なぜ女性達は墓に向かったのでしょう。それは、イエス様を愛していたからに他なりません。その女性達の一人は、イエス様に7つの悪霊から解放して頂いたというマグダラのマリヤでした。女性達はその生前のイエス様に感謝し、そのお体に香油を塗ろうとして墓に向かったのです。

★しかし女性達は、その墓が大きな石の戸でふさがれていることに気が付き、自分達の力ではその石の戸を開けることが出来ず、途方に暮れてしまいました。数トンもあったからです。そして「あの石を転がしてくれる人が誰かいるでしょうか」と言いました。この言葉に目を向けましょう。この女性達のように、イエス様の教えや力に感動したクリスチャンでも、復活の主を信じないうちは、自分の前に立ちはだかる大きな石に途方にくれるのです。そればかりかその解決を「あの石を転がしてくれる人が誰かいるでしょうか」と人に頼るのです。そこに解決などありませんでした。

★しかし、女性達の前に立ちはだかっていた大きな石は、復活されたイエス様ご自身が転がして下さったのです。人に頼る必要などありませんでした。そのことによって女性達は、亡くなられたけれど復活され、生きておられるイエス様をキリスト(救い主の意味)と信じるのです。それが、初代教会から現代のクリスチャンの信仰なのです。女性達は、「復活の事実を弟子達に伝えよ」と宣教命令を受けました。昨年の統計で、クリスチャンは25億6千万人となりました。そこに宣教の希望があります。復活のキリストを信じる本当のクリスチャンによって、人々の救いは力を増すのです。

★私達、溝の口教会のクリスチャンも、自分や人に頼るのではなく、復活のキリストが私達の人生に立ちはだかる大きな石を取り除いてくださると信じましょう。復活の主に感謝し祈りましょう。

受難週「わが神、わが神。なぜ私を捨てられたのですか」

受難週「わが神、わが神。なぜ私を捨てられたのですか」

マルコ15章33~34節  仁井田義政 牧師

今日は受難週の始まりの日です。マルコによる福音書は、福音書の中で最初に書かれた原福音書と言われています。今日は、その15章33節にあるイエス様の十字架上の御言を受難週礼拝のメッセージとしてお話し致します。

★そこには、12時から3時までの間「全地が暗くなった」と記されています。キリストの十字架を中心に、その地域一帯が暗くなったのです。その時の雲は、分厚く不気味でした。その不気味な暗闇は、父なる神と御子との断絶を意味しています。3時間にもわたる暗闇。その時、キリストは「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。

★キリストが十字架につけられた時は、イスラエルの最大の「過ぎ越しの祭」でした。過ぎ越しとは、イスラエル人達がエジプトで奴隷であった時の羊の犠牲に由来します。キリストは罪がなかったけれども、羊のように人の罪の為に犠牲となってくださったのです。

★キリストは、人々の罪のために身代わりとなって十字架につかれたのに、そこにいる人々にはそれが分かりませんでした。人々との断絶があったのです。さらに12時から午後3時までは、神との断絶が記されています。人と神とから捨てられた断絶の狭間で、キリストが叫ばれたのが「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉です。

★確かにこの言葉は、詩篇22篇にそのまま出てきます。多くの学者は、この時にイエス様の心の中には詩篇22篇があって、それを朗読するように叫んだのだと説明していますが、今日の御言葉に出てくる「大声」といい、「叫ばれた」という言葉は、朗読したとは違うのです。しかも死が近づき、肉体が弱り、声も出にくくなるそのような時に、なぜ大声で叫ばなければならなかったのかということです。

★それは罪を持ったままで死ぬならば、私達が暗闇である地獄へと捨てられるということです。これは、私達が死後に叫ばなければならない言葉でした。聖霊が私達にそのことを示して下さいます。聖霊は私達が拒まなければ、私達に働かれます。イエス様の十字架上の「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになられるのですか」の御苦しみは、私の罪の為であったと深く知り、イエス様に感謝しましょう。