Monthly Archives: 5月 2023

ペンテコステ礼拝「聖霊のバプテスマ、神の力」

ペンテコステ礼拝「聖霊のバプテスマ、神の力」使徒の働き2章1~4節

     吉原博克師

今日は教会暦で「五旬節/ペンテコステ」と呼ばれる日です。これは、ユダヤ教の「初穂の祭」キリスト教の「復活節」から50日目で、ユダヤ教では「七週の祭」とも呼ばれます。旧約聖書ではレビ記23:15-16などに定められています。

★「使徒の働き」では2章全般にわたり、神の霊である聖霊が弟子達に、人々にわかる形で注がれた様子とその結果が記されています。私達ペンテコステ派を含む諸教派の中には、ヨハネ19:20-23から、弟子達には既に復活の日の晩に聖霊が与えられており(内住)、使徒2章ではさらに、誰にもわかる顕著な奇跡として注がれたのだ(バプテスマ)、と考える立場もあります。使徒2章の日に主を信じた三千人(の多く)には、この「内住」と「バプテスマ」の二つが同時に起こったのだ、というわけです。

★いずれにせよ、現代を生きる私達の場合、イエス様を信じているならば聖霊は既に与えられています。ご安心ください。パウロはこれを「証印を押され」「御国を受け継ぐことの保証」(エペソ1:13, 14)と呼び、これにより私達は神の子どもとされているのだと教えています(ガラテヤ4:6)。

★その上で、私達ペンテコステ派は、加えてこの使徒2章の異言を伴う「聖霊のバプテスマ」が、今の時代にも頂けると信じる教派であり、多くの兄姉がこれを体験しています。そして、これを初めて体験した日を、通例「受霊日」と呼んでいます。ただし、上の「内住」の教えとの関連で、特にこの「バプテスマ」を信じない人々との対話では注意が必要です。

★異言は、「御霊が語らせるままに」(4節)とあるように、不思議な音のつながりとして顕れますが、怖がったり、不審に思うことはありません。「他国の」(同)いわゆる「○○語」であることは、事例としては報告されているものの稀です。体験の形も様々です。この午後の待望会のような特別な場で頂けることも多いですが、日々の祈りや讃美の中で頂く人もいます。リラックスし、主に悔い改めと感謝を捧げつつ、委ねて求めてみましょう。

★異言で祈れることは、ただただ恵み、賜物です。信仰の大小優劣とは無関係です。そしてイエス様がおっしゃったように、「力」(使徒1:8)です。信仰生活、奉仕、証の力です。期待しつつ、求め続けていきましょう。

5月21日礼拝「苦難の中のみことば」

詩篇講解NO56「苦難の中のみことば」詩篇56篇1~13節

                              仁井田義政牧師

ダビデの苦難の詩篇が続きます。ダビデの命を狙うサウル王は、非常にしつこい人でした。ダビデの逃亡生活の中で、最悪の事態に陥ったことがありました。それが表題に記されている「ペリシテ人がガテでダビデを捕らえた時」のことです。

★それは、第一サムエル21章10~15節にあります。ダビデはサウル王から逃げて、ペリシテ領ガテの王アキシュの所に行ってしまいました。その時ダビデは、かつて倒したペリシテの英雄ゴリアテの剣を持っていたのです。ダビデが来たことが、アキシュ王に伝わったことを聞いて、ダビデは、殺されると思って非常に恐れました。その時ダビデは、精神病のふりをしてよだれを流し、その町を脱出するのです。

★この詩篇には、恐れと信仰が交互に記されています。つまり恐れが来るごとに、祈っていたということです。祈る相手は、聖書の神です。まだ旧約聖書が完成していなかった時です。そのような時にもかかわらず、ダビデは祈りの中で、御言により頼みました。

★そうすると、いつも不安が消え去っていきました。神様の御言に目を留めると、どんな苦難の中でも神様は私を守って下さるとの約束があるのを見たのです。ダビデは、ゆえに「神様の御言をほめたたえた」のです。そうすると、あれほど恐れていたアキシュ王を、単なる「人」と言えるようになったのです。

★私達が苦難の中で恐れおののく時、ダビデのようにその苦しみを祈りによって、神様に知って頂くことが大切なのです。そして知って頂くだけではなく、御言に目を向けるのです。御言には、私達への神様の約束が満ちているのです。苦難の中で、初めて御言が自分のものとなり、自分への神様の約束として聞こえて来るのです。まさに御言によって、ダビデのように挫折から立ち上がることが出来るのです。

苦難の時に、あなたを愛しておられる神様に祈り、あなたへの御言の約束をつかみましょう。

5月14日礼拝「あなたの重荷を主にゆだねよ」

詩篇講解NO55「あなたの重荷を主にゆだねよ」詩篇55篇16~22節

                                 仁井田義政牧師

 私達の人生には、様々なことが起こるものです。今日の詩篇は、荒野の中のことではなく、イスラエル最大の都市エルサレムでのことです。それゆえ荒野の逃亡生活から帰って、王様になった後の詩と思われます。人間はどこに住もうと、どんな地位につこうと、問題が付いて回るものです。私達は、どのようにして生きていけば良いのでしょうか。

★ダビデは、2節で苦しみに泣きわめいています。その苦しみは、同輩、友達、親友の裏切りでした。しかも彼らは一緒に神を礼拝する仲間でした。ようやく荒野から町に帰って来たのに、ダビデには命の危険がありました。

★ダビデは苦しみから「鳩」のように逃げ、人のいない「荒野の中」に宿りたいと言っています。荒野の逃亡生活ではエルサレム「シオン」に戻りたいと祈ったのではなかったでしょうか。私達は苦難に遭うと、現状から逃避したくなるのです。しかし町には町の、荒野には荒野の苦しみがあるのです。

★16節でダビデは苦しみの中で「神」(エロヒーム)に祈ると「主」(アドナイ)が救ってくださると記しました。町にも、荒野にも苦難のない所などありません。ですからこの苦しみの場で「夕、朝、真昼」祈るのです。「救ってくださる」「聞いて下さる」は、完了形ではありません。祈りのたびに続いているのです。

★ダビデは22節で「あなたの重荷を主にゆだねよ」と奨めています。それは、ダビデの体験から出た言葉でした。私達が苦しみに遭う時、私達のなすべきことは、そこから逃げることではありません。またただ耐えることでもありません。「あなたの重荷を主にゆだねる」ことです。主が「あなたを心配してくださる」のからです。イエス様も「重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」(マタイ11:28)と言われました。主が苦しむあなたを招いておられるのです。

★イエス様ほど、苦しみにあわれた御方はおられません。そのイエス様が、苦しみにあるあなたを招いておられるのです。

あなたの重荷をあなたのことを心配して下さっている主にゆだねましょう。主は必ずその祈りに応えて、あなたを苦しみから救ってくださいます。

5月7日礼拝「苦難に強い人になる」

詩篇講解NO54「苦難に強い人になる」詩篇54篇1~7節

 仁井田義政牧師

 ダビデが荒野の逃亡生活という苦難の中で記したこの詩篇は、私達が苦難にあっている時に、力強い信仰のヒントを与えてくれます。私達の人生にも、様々な苦難が起こり、私達を取り囲みます。そのような時に、苦難に負けない強いクリスチャンになりたいと思います。

★ダビデは、3節でサウル王もジフの人達も「自分の前に神を置いていない人」と言っています。それは、神様がどのように思われるかではなく、常に自分の考えを優先する人のことです。サウル王は、ダビデに対して嫉妬し、恐れを優先しました。

★それに対して、ダビデは自分と敵の間にいつも神様を置く人でした。ダビデはどんな時にも、怒りや恐れに自分を任せることはありませんでした。ダビデは、どんな困難な時も神様を前に置いて祈りました。祈りは、神様を前に置くことなのです。1~3節は、そのようなダビデの祈りです。ダビデは、逃亡中に2回程サウル王の命をとるチャンスがありましたが、それをしませんでした。神様がそれをお喜びにならないと思ったからです。神様にその裁きをゆだねたのです。

★ダビデは、祈りの中で強い確信を持ちました。4節の「まことに」との新改訳聖書の訳は、正確さに欠けると思われます。口語訳も共同訳も「見よ」と訳しています。現状がまだ好転していない時に、ダビデは祈りの中で勝利の確信を得たのです。祈りによって恐れから解放されたのです。ですから、最後の節に「神は全ての苦難から私を救い出し」と記されているのです。それに続いて「私の目が私の敵をながめるようになったからです」と記されています。敵を脅威に見るのではなく、問題から抜け出て下に見ているのです。

★私達は大きな苦難にあった時に、なぜ悩むのでしょうか。敵である問題をとてつもなく巨大化して見るからです。ロマ書8章31節に「神が私達の味方であるなら、だれが私達に敵対できるでしょう」とあります。苦難にあった時、苦難と自分が一対一になってはなりません。その間に神様に入って頂くのです。そのようにすることによって、ダビデのように苦難を見下ろすことのできる人となるのです。私達も苦難に強い人になりましょう。