Monthly Archives: 12月 2021

(礼拝メッセージ)今年最後の礼拝「御翼の陰で」

(礼拝メッセージ)今年最後の礼拝「御翼の陰で」詩篇63篇6~8節     

                         仁井田義政牧師                                

今年も最後の主日礼拝となりました。今年一年間、皆様の生活はどうだったでしょうか。今日は一年最後の日曜日の御言として、詩篇63篇6~8節を取り上げました。作者であるダビデは、この詩を書いた時に、ユダの荒野にいました。荒野とは、非常に生活の厳しい場所です。

★そこは、砂漠ではなく荒野です。荒野とは、石や岩がゴロゴロとしている所です。また昼は暑く、夜は寒く、乾ききって水がないのです。ですから植物さえ生えることが出来ないのです。ダビデはそのような所であっても、神様に信仰の目を向け、神様の臨在と恵みを実感し感謝しました。

★ダビデは、荒野の渇きによって死の迫りを感じる程でした。また9節を見ると「私の命を求める者ら」とあり、敵に追い詰められての荒野生活とも見えます。しかしダビデは「私は生きている限りあなたをほめたたえ」と、両手を上げて礼拝しているのです。

★夜は、ダビデにとって逃亡の疲れを取る為に眠らなければならない時間でした。しかし眠れないのです。ダビデは夜が更けても眠れず、起き上がって祈りました。その時の様子をダビデは、「床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います」と記しています。その時ダビデは、神の守りを強く感じました。

★それは、母鳥が「御翼の陰」にひな鳥を敵や寒さから守るように、ダビデを守る神様の愛を感じたのです。ダビデは、「あなたの右の手は、私を支えてくださいます」と確信したのです。

★私達も、一年を振り返ると、コロナの問題だけではなく、様々な事がありました。主は、祈る人に「御翼」のような守りを感じさせてくださるのです。そのような確信がダビデに与えられたからこそ、次の朝を迎えることが出来ました。その通りに神様は、主を礼拝し祈る者を御翼の陰に隠して守って下さいます。

私達もダビデのように、御翼の陰の守りに感謝して、新しい年を迎えようではありませんか。一年の感謝を込めてお祈り致しましょう。

12月19日クリスマス礼拝「サイレントナイト・ホーリーナイト」

クリスマス礼拝「サイレントナイト・ホーリーナイト」ルカ2章1~7節      

                           仁井田義政牧師

 みなさんクリスマスおめでとうございます。クリスマスソングに「きよしこの夜」という讃美歌がありますね。この歌が作られたドイツ語の題は「シュテイレ ナハト・ハイリゲ ナハト」というそうです。日本語にしますと「静かな夜、聖なる夜」です。英語に訳した時に、ドイツ語の題の前半を取り「サイレント ナイト」としました。日本語に訳した時に後半をとり「ホーリーナイト」つまり「きよしこの夜」と付けたようです。ですから日本語に「サイレント ナイト」という歌詞が出て来ません。

★キリストが生まれた時、町は皇帝アウグストから出た「人口登録」の勅令で騒然としていました。皇帝からの勅令に従わなければならなかったのです。その勅令を喜ぶ人はいませんでした。イスラエルはローマの植民地だったからです。有無を言わせぬ勅令に「今度の皇帝は、我らにどれ程の課税をするのか」と、お酒などでも飲みながら話していたと思われます。

★その夜、寒さ刺す馬小屋には、追いやられたマリヤとヨセフがいました。今までお産に立ち会ったことのない夫のヨセフが、マリヤを見守っていました。救い主が生まれるというのに、助産士さんさえもいないのです。まさにその夜は「静かな夜、聖なる夜」でした。

★世界で最も有名になるキリストが生まれる夜であることは、誰も気がつきませんでした。一般民衆ならまだしも、神殿に仕える祭司達も全くその夜を知らなかったのです。キリストが生まれたベツレヘムの近くに、町の喧騒を離れ、野宿しながら「静かな夜」に包まれていた羊飼い達がいました。その羊飼い達が「静かな夜、聖なる夜」に導かれたのです。

★騒がしい人間生活は今も続いています。そのために、キリストの生まれた「静かな夜、聖なる夜」に入れないのです。その夜に包まれるためには、羊飼いがそうしたように、キリストの生まれた「静かな夜、聖なる夜」に向かわなければなりません。羊飼い達は、その夜の恵みに包まれ「大きな喜び」に満たされました。あなたも世の喧騒を離れ、キリストの誕生した馬小屋に心を馳せ「サイレントナイト・ホーリ―ナイト」に包まれましょう。

12月12日礼拝 待降節3「キリストと共に」

コロサイ書講解(NO13)待降節3「キリストと共に」2章20~23節

                       仁井田義政牧師

アドベント第三週に入りました。来週はいよいよクリスマス礼拝です。今週もイエス様をお迎えするために私達の信仰を整えたいと思います。

★先週もお話しましたように、コロサイの町には多くの宗教が林立していました。各宗教には長い歴史があり、大きな会堂や神殿を持っていました。そこに、小さなキリストの教会があったのです。教会と言っても会堂もなく、一般の家の教会でした。

★そのような中で、せっかくクリスチャンになった人達が異端に引き込まれたり、異教に逆戻りすることになれば、教会にとって大きな痛みとなりました。しかしコロサイの教会には、パウロを使徒と認めずにパウロの伝える福音に反対し、異端や異教の教えに逆戻りする人がいたのです。

★先週も話したことですが、今日の御言にも、異端や異教に修行や苦行が多いことが記されています。修行と言って、一般の人間には出来ないような難行・苦行をして見せるのです。日本にも一般家庭を訪問し「すみません。修行ですからトイレの掃除をさせて下さい。」と言って回る宗教まであります。そのような見せかけの行ないに騙されてはならないと教えています。

★今日の聖書の2章20節に「キリストと共に死んで」という言葉があります。その御言は、キリストの十字架での死が前提となっています。さらに、キリストの十字架の死と共に、異教的な習慣に生きていた古い自分を十字架につけて殺してしまったことを意味しています。それなのに不信仰になるということは、古い自分に死に切っていない証拠なのです。

★キリストは、私達の罪を十字架につけて殺してしまうために来られました。キリストを信じると言うことは、私達の古い生き方を完全に十字架につけて殺してしまうことなのです。それなのに再び古い生き方に戻ってしまうのは、その人は古いままの人であり、異教や異端に騙されたままの生活をしていることになるのです。イエス様は、ご自分の死によって、それらの束縛から私達を自由にするために来て下さいました。

来週はクリスマス礼拝です。私達は信仰と霊性を聖くされ、アドベントの最後の週を過ごしましょう。そして来週のクリスマス礼拝に集いましょう。

12月5日「キリストが来られた目的」

コロサイ書講解(NO12)待降節2「キリストが来られた目的」2章16~19節

仁井田義政牧師

 アドベントの第二週に入りました。キリストは私達を罪から救い、永遠の命を与え、教会と信徒達の霊性を成長させるために来られました。そのことをアドベントの大切なこととして受け止めましょう。

★コロサイ教会のあった町には、ギリシャの宗教、ローマの宗教、ペルシャの宗教、ユダヤ教が混在していました。その中に、家の教会があったのです。それぞれの習慣や祭り毎に「クリスチャンも習慣通りそうしなければならない」と言われたのです。その中にはユダヤ教の「土曜安息日」問題もありました。クリスチャン達は日曜日を安息日とし礼拝を始めていました。

★聖書は「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです」と記されています。イエス様が来られるまでの「影」とは、どういうことでしょうか。「影」と握手しようとしてもできません。本物とならば、がっちりと握手できるのです。神の本体はキリストなのです。イエス様は「私を見た者は父を見たのである。」(ヨハネ14:9)と言われました。

★さらに「ことさらなる自己卑下に騙されてはならない」と教えています。ことさらなる自己卑下とは、「このままでは至らない者だから」と難行苦行の修行をしてみせることです。また「幻を見たこと」を誇りにし自己主張する者に騙されないようしなさいというのです。どんな幻も、聖書の真理に反していれば一利もないのです。そのような人達に「褒美をだまし取られてはならない」と教えています。褒美とは、神様の恵みと祝福のことです。

★コロサイの時代と日本の状況は、非常に似ています。雑多な宗教、雑多な習慣が絡み合っています。岐阜県郡上市に、鰻を神の使いとして食べない村があります。また奈良県の窪垣内(くぼかいと)には、1500年も前の「壬申の乱」の時代から犬を飼わない所があります。その地域の人々は、その習慣にがんじがらめにされているのです。私達も、様々な地域の習慣や、仏教、神道の実体のないことに縛られていることが多いのです。キリストは、そのような全てのことから私達を解放し、私達と命の結びつきを行なうために来て下さいました。私達とキリストとの関係は、「頭と体の結びつき」(19節)です。そのキリストとしっかり結びつくことによって、私達は成長し、教会も成長するのです。アドベントのこの日に、キリストとしっかりと結びついて、クリスチャンとして成長しましょう。