Monthly Archives: 4月 2022

4月24日礼拝「一緒に歩いて下さっていたイエス様」

メッセージ「一緒に歩いて下さっていたイエス様」ルカ24章13~17節

          仁井田義政 牧師

今日の御言は、イエス様が復活された日の午後の出来事です。すでに弟子達は、マグダラのマリヤから「イエス様は復活された」と聞いています。しかしマグダラのマリヤのその知らせを、弟子達の誰一人として信じる人はいませんでした。

★十二弟子達は、マグダラのマリヤから知らせを聞いても、信じることが出来ずに失望したままでした。十二弟子ではない二人の弟子は、イエス様に見切りをつけて生まれ故郷に帰っていく途中でした。イエス様がローマからイスラエルを独立させ、同胞たちを圧政から解放して自由にしてくださるという夢は、十字架で完全に敗れ去ってしまったのです。十字架は、敵国ローマの極刑で不名誉極まりない最もイスラエル人が忌み嫌う処刑でした。二人は夢破れ、危険なエルサレムを離れて故郷に帰る途中だったのです。

★イエス様は、その二人の弟子の道中に現われ、一緒に話しながら道を歩いて下さいました。それは、彼らが深く悲しんでいる人達だったからです。イエス様は、悲しみにある人を決して見過されることはありません。しかし二人は、一緒に歩いて下さっているイエス様を知ることが出来ませんでした。死んだ人が甦るなど、あるはずがないと思い込んでいたからです。

★エマオの村に入り、二人の弟子はイエス様を旅人だと思って、自分達の家に招きました。夕食の準備ができ、食事の祈りになった時です。その旅人がパンを祝福し、分け始めたのです。通常は、一家の主人がパンを裂いて分けるのです。弟子達は、非常識なその旅人を目を凝らして見ました。するとその旅人は、イエス様だったのです。弟子達がその御方が復活のイエス様だと分かった時、イエス様の姿がスーッと消えてしまいました。今までの失望の道を、イエス様が一緒に歩いて来て下さったことを知ったからです。

★私達の世界にも、イエス様は十字架で殺された人、私達の人生には何ら関係のない人と思っている人が多くいるでしょう。失望や悲しみにある時などはなおさらです。しかしイエス様は「悲しむ人は幸いです。彼らは慰められるからです」(マタイ5:4)と言っておられます。また「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます。」(マタイ28:20)と約束して下さっています。イエス様は、私達の人生を一緒に歩いて下さっています。今日、復活のイエス様を信じる者になりましょう。

イースター礼拝「すがりついてはならない」

イースター礼拝「すがりついてはならない」ヨハネ20章11~18節

           仁井田義政 牧師

イースターおめでとうございます。最初のイースターの朝は、あわただしいものでした。その後、墓には急に静寂が訪れました。そこには、マグダラのマリヤの姿だけが残りました。マグダラのマリヤは、暗い墓の中を覗き込みました。その絶望的な静寂を破って、この後の事件が開始されるのです。

★マグダラのマリヤは、ガリラヤ湖近くのマグダラ地方のマリヤのことです。同じガリラヤ地方出身のイエス様によって救われ、イエス様一団と行動を共にして、遠くエルサレムまで来たのです。イエス様が十字架時につけられた時、弟子達は逃げ去りましたが、マグダラのマリヤは、その十字架を見ていました。そして埋葬も見ていたのです。日曜日の朝、イエス様の体が墓から無くなっていた時も、墓にたたずんで泣いていました。

★その時、天使が現れて、イエス様の甦りをマリヤに伝えました。殺された人が甦るなどということは、マグダラのマリヤにとって信じられないことでした。ですから天使さえも墓の番人に見え、イエス様の体を運び出した人にしか見えなかったのです。「なぜ泣いているのですか」と、天使も復活のイエス様も語りかけました。それは、泣いている理由が分からなかったわけではありません。泣く必要などないのですよということを、気付いて欲しかったからです。

★しかしマリヤは、その問いかけに頓珍漢な答えと質問をしました。イエス様はそのマリヤに「マリヤ!」と呼びかけられたのです。その時に初めて、マリヤは自分の置かれている世界を知ったのです。私達も同じです。イエス様から自分の名前が呼ばれるのを聞く時に、信仰が生まれるのです。 

★名前を呼ばれたマリヤは、イエス様に「先生!」と言って「すがりつこう」としました。それは、確かめる為にさわるのとは違います。もう離さないとばかりに、強くつかむことです。イエス様はそれを拒否されました。イエス様が天に帰らなければ、復活のイエス様との交流が無くなってしまうからです。それは、聖霊を通しての交流です。復活前後の短期間に7回も「御霊」「聖霊」に満たされなさいと教えておられます。またマタイの福音書28章20節で「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます」と言っておられます。地上のイエス様にすがりつく信仰ではなく、聖霊による信仰で、今も生きておられるイエス様としっかりと繋がりましょう。

4月10日受難週「孤独者イエスの勝利」

受難週メッセージ「孤独者イエスの勝利」ヨハネ16章32節~33節

          仁井田義政 牧師

 今日から受難週です。イスラエル最大の祭である「過越しの祭」の日に、イエス様と弟子達は、エルサレムの部屋で夕食の時を持ちました。

★イエス様は、その時に弟子達の全てが自分を見捨てることを知っておられました。しかもそれが数時間後に起こるのです。食後イエス様がゲッセマネの園に弟子達を連れて行き、「起きていて私の為に祈っていなさい」と弟子達に祈りを依頼しました。しかし弟子達はイエス様の心が分からず、眠ってしまいました。その時、弟子のユダに導かれたローマ兵がゲッセマネの園に登ってきました。すると弟子達の全てが、イエス様を残して逃げ去ってしまったのです。しかしイエス様は、これから起こることを全て知っておられました。

★イエス様は、今日の御言で「わたしをひとり残す時が来ます。いやすでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」(16:32)と言われました。私達から見れば、イエス様は弟子達に捨てられ孤独者となったのです。しかしイエス様は、私は孤独者となったが孤独ではないと言われたのです。ここに「逆説」が起こったのです。それは、私は父なる神と共にいるというイエス様の確信でした。イエス様は、十字架につくことが全世界の人々を救うことだと確信しておられたからです。そのことは、ヨハネ12章32~33節に記されています。まさにイエス様は、孤独に見えましたが孤独ではありませんでした。イエス様は強い勝利者であったのです。

★イエス様が私は孤独となったが孤独ではないと言われた後に、その話の目的を話されました。それは「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を保つためです」(33節)との御言です。そして「この世にあっては患難があります。しかし勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」と続けて話されました。それは、あなたがたも私を信じれば、孤独の中でも平安を得て勝利者となるのですという言葉なのです。私も19歳の時にイエス様の受難と十字架の意味を知りました。そのことを知った時に、私の心に平安が訪れました。生きる勇気が湧いてきました。イエス様の受難は、私達に平安と勝利を与えます。今週は受難週です。「孤独者イエスの勝利」を思いながら、一週間を過ごしましょう。

4月3日礼拝「絶望の中での祈り」

詩篇講解(NO.6)「絶望の中での祈り」6篇1~10節

          仁井田義政 牧師

 今日から会堂での礼拝を再開できますことを感謝いたします。

さて私達の人生には、絶望してしまうような暗い夜を過ごさなければならないことがあります。詩篇6篇の作者ダビデは、まさにそのような絶望的な夜を迎えていました。その夜ダビデは自分の生き方を振り返り、神様の前に悔い改めの祈りをしたのです。

★ダビデは病気でした。「この病気は自分の罪の結果」だと、思っていたのです。このような時に人間は、さらに不信仰になるか、それをとも今までの歩みを振り返り、罪を悔い改めて、さらに信仰へと進むかのどちらかなのです。ダビデは2節で「主よ、あわれんでください」と、神様の赦しを求める信仰へと進みました。

★ダビデの病気は、非常に重かったようです。「衰え。骨は恐れ。たましいは恐れおののき」(2-3節)とその苦痛を記しています。「骨は恐れ」とは、激しい痛みと、精神的苦痛が読み取れます。ダビデは、悔い改めを病気で伏すベッドの上で涙を流して祈りました。しかも「夜ごとに」(6節)と記されているように、その病気は長期にわたるものでした。ダビデは夜ごとにベッドが涙で溢れるほど祈り、寝室が涙で流れてしまう程に悔い改めの祈りをしたというのです。

★ダビデが病気になったことを喜ぶ人達もいました。「私の目は、いらだちで衰え、私のすべての敵のために弱まりました。」(7節)と記しています。8節で「不法を行なう者ども。みな私から離れて行け。主は私の泣く声を聞かれたのだ」と言っています。「不法を行なう者」とは、異教徒のことです。ダビデの敵達は、ダビデは神を信じていると言うが、その神はダビデを守れなかったか、ダビデの罪を罰して殺そうとしているのだと言っていたのです。しかし祈りの中で、神様が祈りを聞いて下さったと確信したダビデは「私の敵は瞬く間に恥を見る」(10節)と確信したのです。

★病気の時には、自分の今までの信仰の在り方を振り返って祈るべきです。元気な時には気付かなかったことが示されるものです。ダビデはその示されたことを悔い改め、涙を流して祈ったのです。そのような祈りをすればこそ「主は私の切なる祈りを聞かれた」と確信することが出来るのです。私達も、このような深い祈りの出来るクリスチャンになりましょう。