Monthly Archives: 7月 2022

7月31日礼拝「天は神の栄光を語り告げる」

詩篇NO19「天は神の栄光を語り告げる19篇1~6節

                        仁井田義政牧師 

 なんと雄大な詩篇でしょうか。人生の数えきれないほどの苦労を、まるで風が霧を払うように、吹き飛ばしてしまうような詩です。人類の最も素晴らしい発明の一つは、夜をも明るくする照明です。しかしその発明によって、夜空から聞こえてくる声が聞こえなくなってしまったのです。今や、天、大空という異次元世界からの声が聞こえなくなってしまいました。そのため「何を飲もうか、何を食べようか」という日常の悩みにうずもれて、窒息してしまいそうなのです。今日は御言によって、雄大な宇宙に目を注ぎましょう。

★1節に「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」とあります。天は、夜に輝く星の世界です。昼は、万物にその恵みを与える太陽の世界です。ハワイのマウイ島にあるハレアカラでの星と朝日は素晴らしいものです。

★夜の星、昼の太陽からの言葉が全地に響いているとありますが、その声を正しく聞くためには、7節からの「主のみおしえ」(聖書)が必要です。人間は、ありがたさを感じると神として崇めてしまうからです。古代の日本人も「お日様」「お星様」と言って崇拝していました。ダビデは「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせる」と言っています。

★完全な「みおしえ」(聖書)によって信仰が整えられる時、私達の良心も清められます。その結果「数々のあやまち」(12節)を悟ることができるでしょう。自分が正しいと言うならば、それは傲慢なのです。神様を信じなくても正しく生きて行けると言う人は、人間の弱さや罪深さを知らないのです。神様は、私を守ってくださる「岩」であり、「贖い主」です。天地万物を創造された偉大な神様は、私達の贖い主でもあると、この詩篇は教えています。

★贖い主とは、私達の負債(罪)を代わりに払ってくださる御方のことです。つまり神様が私達の罪の身代わりになってくださったということです。ですからイエス様を「贖い主」というのです。広大な宇宙を造られた神様が、地球の小さな存在である私達の為に、贖い主となって下さったと言うのです。なんという恵み、なんという愛、なんという祝福でしょうか。その神様の愛に、私達は心から感謝して礼拝する者となりましょう。

7月24日礼拝「主はわが力なり」

詩篇NO18「主はわが力なり18篇1~8節

                        仁井田義政牧師 

 この詩は、表題に記されているように、ダビデが敵とサウル王に命を狙われていた時の歌であることが分かります。ダビデの生涯の前半は、毎日が戦いの日々でした。今、戦争下にあるウクライナの市民のように、毎日、死の危険に身をさらして生きなければならない状況でした。そのダビデの姿勢が

1節の「主はわが力」に記されています。

★ダビデは、困難な時にいつも「主を慕い」祈りました。「慕う」と言う言葉は、非常に強い言葉です。それは、通常、神様の強い愛を現わす「ラハーム」というヘブル語だからです。ダビデはその言葉を用いて、困難に遭って祈る自分の信仰の姿を「慕う」という語で現わしたのです。

★困難の中でダビデが祈ると、「神様がこうして下さった」という体験が与えられました。それは神様が巨大な巌のように、敵の矢から身を守る砦のように、あるいは盾となって守って下さったという体験です。つまりダビデは敵の攻撃により死を予感し、主に祈ったのです。

★その祈りは、「主を呼び求め」「叫んだ」というものでした。それは必死な祈りでした。ダビデは、「主はその宮で私の声を聞かれた」という体験をしました。ダビデは、その祈りに神様が「主は、天を押し曲げて降りて」救いに来られたと言っています。「天を押し曲げて」という意味は、どのようなことなのでしょうか。それは、絶対的聖であられる神様が、私の祈りにその常識を押し曲げて来て下さったということです。

★その究極的な神様の降臨は、イエスキリストによってはっきりと歴史の中に刻まれました。それは、地球歴史上最大の出来事でした。その為に歴史は二分されました。キリスト誕生以前BCと、キリスト誕生以後ADです。イエスキリストは、罪人を救うために天を押し曲げて人間の世界に誕生して下さったのです。そして私達を罪から救うために、ご自分の命さえ十字架の上で与えて下さったのです。それ程までに私達を愛して下さっている神様は、私達が助けを求め祈る時、その祈りを聞いて下さるのです。「それゆえ、主よ。私は国々の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌います。」とダビデは賛美しました。主は、主を信じて祈る人の祈りを聞いて下さいます。そのことを信じて祈りましょう。

7月17日礼拝「主は瞳を守るように」

詩篇NO17「主は瞳を守るように」17篇6~13節

                     仁井田義政 牧師

ダビデは戦いの人でしたので、窮地に陥ることも度々ありました。今日の詩篇は、そのような窮地の中の祈りです。
★詩篇17篇を概略しますと、1~5節までは「自分は神様の前に正しい」ことを、祈りの中で訴えています。6~9節までは「神様に、私を守って下さい」との祈りです。10~14節までは「敵がいかに豊かで強い力を持っているか」を、神様に訴えています。

★ダビデ軍の陣地が取り囲まれて逃げる道もなく、八方ふさがりの状態です。しかも、敵は力強く待ち伏せしているライオンのようだと言っています。13節の「主よ立ち上がって下さい」は、もう神様による奇跡的な救出以外に、助かる見込みがない状態であることを現わしています。

★その祈りに、神様は「瞳を守るように私を守る」方であると言っています。目は体の中の小さな器官ですが、眉毛で守られ、瞼で守られ、いつも清潔に保つために涙で洗われ守られているのです。またその目を洗った後の汚れた涙が、目の中に残ったままで細菌が繁殖したりしないように、涙の排管まで配置されているのです。また、神様は「親鳥が雛鳥をかくまうように」安全な御翼の陰にかくまって下さっているのです。

★ダビデは、「あなたの奇しい恵みをお示しください」(7節)と祈っています。神様は、神様の愛を信じて祈る私達の祈りを聞いて下さる御方です。ですからダビデは、続いて「右の手に来るものを救う方」と信仰の宣言をしているのです。神様を信頼し祈る人は、全能者なる神の御業に触れるのです。

★私達の人生にも、幾度か八方ふさがりに感じる状況があります。あなたが今そのような中におられるかも知れません。しかもあなたが、飛び掛かろうとしているライオンに譬えられているような恐怖の中にあっても、神様は祈るあなたを必ず守って下さるのです。「自分の瞳を守るように」「翼の中にひな鳥を守るように」です。ダビデは結論で、「しかし私は・・御顔を仰ぎ見、目覚める時、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」と言っています。神様は祈る人を必ず守って下さいます。

私達も、私達を愛して下さっている神様を信じ、神様を愛し、どんな時にも祈る人になりましょう。

7月10日礼拝「私は私の前に主を置く」

詩篇NO16「私は私の前に主を置く」16篇6~9節

                      仁井田義政 牧師

聖書から真理を見出すことは、宝物を発見するように心がワクワクしてきます。今日は詩篇16篇を通して、ダビデの信仰の秘訣を見ていきましょう。

★ダビデには、困難がなかったわけではありません。私達と同じように、いやそれ以上にありました。彼は、ひとりの少年羊飼いから、神様に選ばれて王様にまでなった人です。その人生は、波乱万丈でした。ダビデは、人生の中で神様の助けを求めてよく祈りました。その祈りが詩篇なのです。その信仰姿勢は「あなたこそ私の主、私の幸せはあなたの他にありません」という言葉に現わされています。

★ダビデは「主は、私へのゆずりの地所です」と言いました。この言葉は5~6節に出て来ます。それは「相続財産」という意味です。ダビデは王様ですから、イスラエル全土の主権者で、外国の王達も多くの貢物を持って来ました。しかし、ダビデは神様に「あなたこそ、私の大切な財産です」と、信仰の告白をしているのです。

★そのダビデの信仰と祝福の秘訣は、8節の「私はいつも、私の前に主を置いた」という言葉にあります。それは「私は優先して主に従っていく」という意味です。人間はいつも自分を優先して、神を後ろにおいてしまいやすいのです。神様を下に置いて、(しもべ)のように利用しようとします。また脇において、自分と同じような人間として扱うようなこともあります。さらには上の天国に追いやって、自分の生活には関係がないかのようにしてしまうのです。ダビデは「私はいつも、私の前に主を置いた」と、信仰者としての秘訣を記したのです。その信仰の結果、8~11節の「私は揺るぐことがない」「私の心は喜び」「私の魂は楽しんでいる」「私の身もまた安らかに住まおう」と確信し、感謝しているのです。

★ダビデが「主を自分の前に置く」ことによって、神様は10~11節にあるように、命の道を知らせて下さるのです。その生き方には「喜びと楽しみが」あります。この16篇の詩篇は、ペンテコステの日、つまり教会設立の日に、聖霊に満たされたペテロが、教会初の説教の中で引用しました。私達も、いつも自分の前に主を置くクリスチャンとなりましょう。

7月3日礼拝「礼拝者への神の祝福」

詩篇NO15 「礼拝者への神の祝福」 15篇1~5節

                      仁井田義政 牧師

この詩篇は、礼拝者の詩篇と言われています。ダビデの時代に、エルサレムの幕屋に礼拝に来た人が、幕屋に入る前に「主よ、どのような人が、神の幕屋に入って礼拝するにふさわしいですか」と、大きな声で問うのが習わしとなっていました。すると天幕の中から、祭司の声が「礼拝者にふさわしい人は、このような人ですよ」と、礼拝者にとって大切な言葉が答えとして返ってきました。それが詩篇15篇なのです。私達も、どのような人が礼拝者としてふさわしいかを見ていきましょう。
★1節に「幕屋に宿る」という言葉が出てきます。それは、砂漠に住む人々が、住居(天幕)に訪れた旅人を徹底してもてなしたことに起因します。そうしないと、旅人が砂漠地帯で死んでしまう危険性があったからです。それは自分達も、砂漠の旅や仕事で天幕に寄った時に、同じようにして頂かないと死んでしまうからです。神様は、イスラエルの人々が出エジプトの荒野での40年間、神の幕屋で祈る人達を徹底してもてなして下さいました。

★幕屋の入口で、礼拝者が「どのような人が神様の天幕に入る人としてふさわしいですか」と呼びかけると、天幕の中から「それは、正しく歩み…嘘のない人。信仰の仲間に対してそしらず、敵意を持たない人…です」という声が聞こえてきました。

★それでは、このような罪のない完璧な人しか神の家の幕屋(教会)で礼拝が出来ないのでしょうか。幕屋に入ると、幕屋の庭に直ぐに祭壇ありました。その祭壇で犠牲を捧げ、罪の赦しをお願いしたのです。つまり、罪の赦しを受けて礼拝したのです。新約時代になりますと、イエス様が私達の罪の為に十字架に犠牲として捧げられました。そのことによって、私達は神の幕屋、「教会」で礼拝を捧げ、神様の祝福を受けることが出来るのです。

★砂漠で生活していた人々が、自分の住まいである幕屋を訪れた人を徹底してもてなし、料理を振る舞ったように、神の幕屋「教会」に、礼拝に来る人達を、神様は徹底して恵みと祝福でもてなして下さるのです。礼拝する人には、神様の祝福が豊かに注がれます。そのことを信じて、15篇の巡礼者のように礼拝を大切にし、集いましょう。