3月15日礼拝「罪は心の中から始まる」

マタイ講解NO16罪は心の中から始まる」5章27~32節 

                         仁井田義政 牧師 

 今日の御言は、読む人をギョッとさせます。「あなたの右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。あなたの右の手があなたをつまずかせるなら切って捨ててしまいなさい」と記されています。その言葉の真意は、何なのでしょうか。

★イエス様は「姦淫してはならない」と異性問題について教えられました。姦淫とは結婚以外の性のことです。「情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」とは、欲望を満たすために凝視し続けることのことです。

★そのようなことは、相手の人に対して罪である以前に、神様の前に罪なのです。「つまずかせる」という言葉がそれを表わしています。あなたが信仰の道に石ころを置いたとします。その石ころにあなたが躓いて転び、真っ直ぐに歩けなくなってしまうという意味なのです。

★「ゲヘナに投げ込まれる」は、ヘブル語の「ガイ・ヒノム=ガイは谷」を訳した言葉です。その谷は、むかし異教の神モレクに子供を焼き殺して捧げた凄惨な儀式が行われていた所です。紀元前666年頃に、ユダ王国の第16代ヨシヤ王によって「汚れた場所」とされました。それからは病死した動物や身内のない死体、エルサレムの生ごみが捨てられる場所となったのです。そこから地獄のイメージとなりました。

★31~32節は、弱い立場にあった女性達を離婚から守るための教えでした。男性が女性を気に入らなければ、離婚状を書けばすぐに離婚ができた時代です。しかし女性からは離婚の申し立ては出来ませんでした。日本も「三行(みくだり)半」が廃止されたのは、153年前の明治6年なのです。法律に「協議離婚」と「裁判離婚」の制度が取り入れられました。明治の西洋化の波に乗ってのことでした。西洋化とは、聖書の教え化でした。

★イエス様は「罪は心の中にある」と言われました。パワハラ・セクハラは相手に対しては勿論のこと、神様に対しての罪なのです。私達は、イエス様が山上で教えて下さった男女平等の優れた教えを大切にしましょう。

3月8日礼拝「言葉と思いの殺人」

マタイ講解NO15「言葉と思いの殺人」5章21~26節 

                         仁井田義政 牧師 

 今日のイエス様の教えは、特に現代に生きる私達への大切な教えとなっています。この教えは、先週話しました「律法学者やパリサイ人への教えに優る教え」となっています。

★「殺してはならない」という律法を、パリサイ派の人々は「私は人を殺していないからセーフ」と考えます。しかしイエス様は「兄弟に腹を立てる者」「能なし」「馬鹿者」と言う人は「殺してはならない」という律法に対して違反になると言われています。それは、そのように言う人は、神の作品である人間に対して言っているので、神への反逆となるのです。

★他の人や兄弟や家族と衝突があった場合は、即座に和解に努めることが大切ですということです。イエス様は、礼拝の前に緊急に和解しなさいと教えておられます。

★なぜ、迅速に和解しないといけないのでしょうか。それは、現代的に言うならば「アンガー・マネージメント」です。怒りを自分で支配しなければ、怒りに自分が支配されることになります。まずイエス様は「神と人への愛が律法全体にかかっている」と言われました。それなのに愛と反対の「怒り」に満たされてしまっているならば、相手より自分の心を破壊してしまっているのです。怒りは心だけでなく、心臓や内臓、血圧に悪い影響を与えます。エペソ4章26~27節には「怒ることがあっても罪を犯してはならない。悪魔に機会を与えてはならない」と記されています。

★「殺してはならない」という言葉で始まった今日の御言は、私達人間の言葉の暴力が、直接殺人に手を下さなくても、殺人の罪であると言っています。SNSによって誹謗中傷されて自殺してしまった人が、警察庁発表では過去3年間に101人もいました。イエス様は「怒りや、悪口は人殺しの罪である」と教えて下さっています。悪魔に機会を与えないために、怒りを感じたら、怒りを支配し沈めましょう。何か争いごとになっていたら、急いで和解する人になりましょう。

3月1日礼拝「律法の完成は愛と喜び」5章17~20節 

                         仁井田義政 牧師 

イエス様が宣教を開始されると、直ぐにユダヤ教の指導者達に危険人物とみられるようになりました。律法を守っていない漁師や取税人や病人までを受け入れていたからです。

★今日の聖書の箇所は、5章16節の「良い行い」と繋がっています。当時「良い行い」とは「律法を守ること」だと誰もが直感することでした。その律法は、613箇条もありました。「その律法を守れない罪人達や、律法を全く知らない外国人までを集めるとは何事か!」と批判されたのです。

★その批判に対して、イエス様は「私が来たのは律法を廃棄するためではなく、成就(完成)するために来たのです」と言われました。さらに「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画も決してすたれることはありません」と言われました。また「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に入れません」と言われました。これは律法学者、パリサイ人への強烈な皮肉であり、批判でした。

★それでは「律法の成就(完成)」とは何でしょうか。それをイエス様はマタイ22章34~40節で「神を愛すること。隣人を愛すること」の2つの愛にまとめられました。そして「律法全体はこの2つの戒めにかかっている」と言われました。ギリシャ語では「ぶら下げられている」という意味なのです。つまり「愛」というフックが外れると、バラバラに落ちてしまうのです。

★それではどのようにしたなら「愛による戒め」に変えられるのでしょうか。それは、ヨハネ第一の手紙4章10節の中に「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」と書かれています。つまり神様の愛を知ることです。そこには、恐怖ではなく愛と喜びがあります。

私達は、律法学者やパリサイ人のように恐怖に生きるのではなく、愛と喜びによって生きましょう。

2月22日礼拝「イエス様による山上の宣言」

マタイ講解NO13「イエス様による山上の宣言」5章13~16節 

                         仁井田義政 牧師 

 今日の御言も、有名なイエス様の教えです。教えというよりも宣言です。しかしもこの宣言は、イエス様の活動初期に行なわれたということによって、なお一層強い意味があります。

★その宣言とは、イエス様が「あなたは地の塩、世界の光です」と言われたことです。決して「地の塩、世界の光になりなさい」と言われたのではなく「です」と言われたのです。それは目標ではなく「あなたがたを私はそうしたのですよ」という宣言なのです。しかもその宣言は、個人に向かっての宣言でもありません。「あなたがた」という複数に向かっての宣言なのです。

★イエス様は信仰の初心者達に「あなたがたは地の塩です」と宣言されました。塩は腐敗を防ぎます。なぜ教会は、支持政党を持たないのでしょうか。また政教分離の原則は、なぜあるのでしょうか。それは、良いことには賛成し、悪いことには反対するという「地の塩、世界の光としての働き」を優先するためなのです。

★当時、聖書世界のどの家にも、粗末な灯火皿がありました。しかしその小さな灯火皿のような弟子達を「地の塩、世界の光」としたと宣言されたのです。一人でそうしなければならないのではありません。「あなたがたは」なのです。それはイエス様に召し集められた教会のことです。

★山上に集められた人々は、漁師もいれば嫌われ者だった取税人もいました。またローマを倒そうとするゼロテ党の者も二人程いました。または、癒しを求めて集まって来た病気の人々や貧しい人々もいました。でもイエス様は「あなたがたは地の塩、世界の光です」と宣言されました。

その宣言の目的は「天におられるあなたがた父をあがめるようにしなさい」(5章16節)のことにあります。

教会はその目的に全力を注ぎましょう。

2月15日礼拝「イエス様の逆説幸福論」

マタイ講解NO12「イエス様の逆説幸福論」5章1~12節 

                        仁井田義政 牧師 

 イエス様の奇跡的な御業を伝え聞いた人々が、大勢イエス様の所に集まってきました。イエス様はその人々に「本当の幸福」を教えられました。しかしイエス様は、人々が求める幸福とは真逆な幸福論を話されました。

★イエス様が「お座りになり」と記されています。「お座りになると弟子達がみもとに来た」と続いています。それは「座る」ことが、正式で重要な事を話す(しるし)だったからです。次に「口を開き」と記されています。これは、イエス様の心の奥深くにある教えを話し出されたことを意味するのです。

★人々に教えられた八つの幸福の一番目は、「心の貧しい者の幸せ」についてでした。心が貧しいとは「不足している」ということです。自分の考えは正しい、知識が豊かだと思っている人は、イエス様の心の奥底からの声が聞けないのです。それでは本当の幸福を得ることが出来ないのです。 

★10節の八番目の「義の為に=私のために」迫害されている者の幸せについての教えに目を向けましょう。この迫害は、イエス様への信仰のゆえに迫害される人のことです。日本のクリスチャンも、八十年前の終戦まで国によって迫害されたのです。今、一番の迫害は、家族からの場合が多いのです。「家は仏教だから、キリスト教はやめなさい」等と反対されることが多いのです。しかしそのような迫害を受けるのは、クリスチャンになった印です。イエス様は「天の御国はその人のものです」と教えられました。神様の力がその人を必ず守って、家族をもクリスチャンにしてくださるのです。

★イエス様は、一般的な幸福論とは真逆な「神の国の幸福論」を、心の奥深く、魂の奥深くから「口を開いて」話し出されました。あなたがたに最初に必要なのは、心の貧しさを認めて私の言葉を聞くことですと話されたのです。あなたも、イエス様を信じて幸せな人となりましょう。

2月1日「ガリラヤの弟子達」

マタイ講解NO10「ガリラヤの弟子達」4章18~22節 

                        仁井田義政 牧師

 今日は、溝の口キリスト教会の教会会議が行なわれ、新年度の活動が開始されます。今日の聖書箇所も、イエス様がガリラヤ湖の漁師達から最初の弟子達を選ばれたという感動的な所です。

★先週お話ししましたように、ガリラヤ地方は「異邦人の町。暗闇の町。死の地と死の陰の町」と言われて、差別されていた所でした。そのような軽蔑や差別された町にも、教育を受けた人はいました。「ユダヤ人会堂」があったことからも推測できます。しかし、イエス様の弟子選びの目は、無学な漁師達に向けられたのです。

★漁師達は、突然イエス様に声をかけられたかのように見る人もいます。 しかしヨハネ1章を見ますと、彼らはバプテスマのヨハネの所で出会っているのです。そのことから、彼らはバプテスマのヨハネの紹介で、イエス様を知ったことがわかります。つまり漁師でありながらも、救い主を迎える準備をしていた人達と見ることが出来ます。

★イエス様は、イエス様に従う準備をしていた者達に、弟子への招きをされたのです。イエス様の召しの条件は、罪の悔い改めと、イエス様の呼びかけに応えることが条件でした。それ以外は、問題とされないのです。イエス様の召しに応える人を、イエス様は「人間を獲る漁師」として下さるのです。イエス様は、今も働き人を求めておられます。日本の人々と世界の人々を救われる働きを開始されるのです。

★今までガリラヤの漁師達は、自分の生活の為に仕事を続けて来ました。しかし今「救い主」に召されたのです。彼らは即座に網を捨てて弟子となりました。あなたも、主から召しの声を聞いているなら、その声に従って、網を捨ててイエス様の弟子となりましょう。

★もちろん網を捨てた人だけが主の召しに従うことではありません。ルカ10章を見ますと、イエス様は70人を宣教に遣わされたことが記されています。全てのクリスチャンは主の弟子なのです。ですから私達は、イエス様を先頭に、主の弟子集団となって2026年を宣教に前進しましょう。

1月25日礼拝「異邦人のガリラヤに光が上った」

マタイ講解NO9「異邦人のガリラヤに光が上った」4章12~17節 

                        仁井田義政 牧師

イエス様は荒野の試練の後「バプテスマのヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤへと立ちのかれた」と、今日の御言に記されています。イエス様は、活動開始の地とするためにガリラヤへと向かわれたのです。

★イエス様は、ガリラヤ湖北端のカペナウムに住まわれました。そこを活動の拠点としたのです。世で名を挙げようとする者ならば、誰もガリラヤなどに住む者はいませんでした。そこは「異邦人のガリラヤ」と言われて軽蔑された地だったからです。ましてや宗教家として名を挙げたいと思う者は、神の神殿があるエルサレムに住むことを望んだのです。

★そこはイスラエルの国でありながら、前述のように「異邦人のガリラヤ」と敬遠された地方なのです。しかしそこは、当時の世界の十字路でもあり、商業と漁業の町でもあって、経済的には栄えていた地方でもありました。間もなく弟子になる漁師ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの家がありました。またその豊かな経済から徴収する取税人マタイの家もありました。このマタイが、マタイによる福音書の著者です。

★そこは経済的に豊かであっても、霊的には何も見えない暗闇にありました。イエス様は、霊的には何も見えない人達の光となって、霊的な救いを与えるために、ガリラヤ地方に来られたのです。イエス様は「悔い改めなさい。(メタノイア)天の御国が近づいたから」と宣教を開始されました。

★私達もカペナウムの人達と同じく、世界的に見るならば、経済的に豊かな国に住んでいます。カペナウムのように、どうしたら良いかを知らずに、衣食住にのみ心を向けている人々に、イエス様は「向きを変えよ、天の御国が近づいたのだから」と言われたのです。光の方に向きを変えるのです。そうする時「暗闇の中に座っていた民は、偉大な光を見るのです。その光は偉大な光なので、ユダヤ人とか外国人とかの区別なく照らす光なのです。そして死の地と死の陰に座っていた人々」に希望が与えられるのです。

1月18日礼拝「苦しみの中での御言」

マタイ講解NO8「苦しみの中での御言」4章1~11節 

                        仁井田義政 牧師

イエス様は洗礼を受けられた後に、聖霊によって荒野に導かれました。イエス様が荒野であわれた試みは、私達クリスチャンにも襲いかかるサタンの罠なのです。その罠に私達がどのように勝利するかを、イエス様に学びましょう。

★荒野の40日間は、イスラエルの荒野における40年の不信仰と失敗を意味していました。イスラエルは、エジプトから救出された後、40年間も荒野をさまよったのです。イエス様は、人間の代表として40日間断食を、マナもなく、岩から水もなく、極限の空腹を体験されたのです。その中でサタンは

「奇跡を使い、その苦しみから逃れたらどうか」と誘惑しました。

★最初の誘惑は「神の子なら、石をパンに」するというものでした。イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神のことばによって生きると聖書に書いてある」と誘惑を退けました。その言葉の通り、パン(経済)の豊かな国の方が、むしろ自殺者が多いのも事実なのです。

★次に「あなたが神の子なら、神殿の屋根から飛びおりてみなさい。」とサタンは誘惑しました。するとイエス様は「神様を試してはならないと聖書に書いてある」とサタンの誘惑を退けました。

★最後にサタンは、イエス様に世界の栄華を見せて「ひれ伏して私を拝むなら、これらを全てあなたに上げます」と誘惑してきました。しかしそのサタンの声に屈服するなら、全てを失うのです。イエス様は「主にだけ仕えよと書いてある」とサタンの誘惑を退けました。 ★ある哲学青年が「先生、人間は自分の心に忠実に生きることが正しいのではないでしょうか」と論争を仕掛けてきました。私は「そうですか、そうならば私が今あなたを殴っても、あなたは抗議できませんよ」と言いました。さらに続けて「私はあなたを殴りたいと思っても殴りません。聖書に「仕返しをしてはならない」という御言があるからです。殴るのと殴らないのと、どちらが正しいですか。私は自分の心に忠実にではなく、聖書の御言に忠実に生きたいと思っているのです」と話しました。私達は自分の心に忠実にではなく、神様の御言つまり聖書の御言に忠実に、新しい年を生きましょう。

1月11日礼拝「天の窓が開いた」3章13~17節

マタイ講解NO7「天の窓が開いた」3章13~17節 

                        仁井田義政 牧師

新しい時代が近づいているのを感じていた洗礼者ヨハネは、新しい時代を生きるようにと、人々に悔い改めの洗礼を授けていました。するとイエス様が、洗礼を受けるために故郷のナザレからヨハネの所に出て来られたのです。そのことにヨハネは驚き、戸惑いました。

★ヨハネは、洗礼を受けようされるイエス様に洗礼を授けることをためらいました。それはヨハネの洗礼の目的は「悔い改めの洗礼」(3章2節)だったからです。イエス様は罪のない御方であるから、私こそイエス様から悔い改めの洗礼を授けて頂くのが正しいと思ったのです。たとえば、子供達に習字を教える先生の所に、世界的な習字の先生が来て「私に習字を教えて下さい」と言ったとしたらどうでしょう。恐縮し必死に止めようとするでしょう。

★イエス様は罪のない御方です。ですから洗礼が必要ないのです。その御方が、罪人と一緒の列に並び、洗礼を受けようとされたのです。それは、私達罪ある人間と、イエス様の連帯を示しています。それこそがイエス様の使命に「正しい」のです。ヨハネはそれを聞いて承知し、洗礼を授けました。

★すると「天が開けて、聖霊が鳩のように下り、これは私の愛する子」と父なる神の声が聞こえたと聖書に記されています。それはまさに「父・子・聖霊」なる神が、イエス様の「罪人との連帯」を喜ばれたことを表わしています。つまり、イエス様が罪人との連帯を喜ばれたことを示しています。

★イエス様が罪人の列に加わり洗礼を受けられると、「天が開け」ました。四百年も閉ざされていた天との交流が、開始される新しい時代が始まったのです。それはノアの洪水の時に、放たれた鳩がオリーブの葉をくわえて来た時のようでした。イエス様が水から上がられると「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」との声が聞こえました。それは私達もイエス様に習って洗礼を受ける時「神の愛する子」とされることを示しています。

★イエス様が、私達の代表となって人間の列に並んで洗礼を受けられたように、ここに集まっている皆が洗礼を受けて、クリスチャンになりましょう。

2026年1月4日「実を結ぶクリスチャン」

マタイ講解NO6「実を結ぶクリスチャン」3章7~12節 

                        仁井田義政 牧師

 今年最初の礼拝メッセージは、昨年11月16日から始まりましたマタイの福音書の講解より、イエス様のご生涯から順を追って祝福の御言を取り次ぎます。

★今日出てくるバプテスマのヨハネは、1400年以上続いてきた祭司の家系の息子でした。家系的に見ても、当時のエリートでした。そのままで、神殿で仕える祭司となり、衣食住に心配のない立場にありました。しかしヨハネは、救い主の先駆者となるために、それらの全てを捨てたのです。それは預言者イザヤが750年前に預言した「荒野に叫ぶ声」は、自分のことだと確信したからです。

★一方イエス様は、ナザレの大工の家系でした。祭司の家系とは雲泥の差がありました。考古学では、当時のナザレの家々は、半洞窟であったということがわかっています。イエス様は、30歳の時に突然、世にご自分を表わされました。格式ある家に生まれたヨハネは、イエス様を迎えるために、大工より低いラクダの毛衣を身にまとっていたと見ることも出来るのです。

★バプテスマのヨハネは、人々に「自分は優れた血筋だ等と思っていてはならない。神は能力のない石ころからでもアブラハムの子孫を起こす時代が来たのだ」と叫びました。それは、何の価値もない者からも世の中を祝福する者を起こすことができるという意味です。そのためには「悔い改める」ことが必要であると教えました。それは「向きを変える」という意味です。そのために「聖霊と火とによる洗礼」が大切なのです。彼は、集まってきた人々に「実を結ぶ」人となるように勧めました。

★イエス様も、この新しい年に、「実を結ぶクリスチャン」になるように私達に近づいて下さっているのです。私達がたとえ「石ころ」のような存在であっても、「多くの実を結ぶクリスチャン」となるのです。