Monthly Archives: 10月 2024

10月27日礼拝「もう私の心は揺るがない」

詩篇講解NO.108「もう私の心は揺るがない」詩篇108篇1~13節

                    仁井田義政牧師

 この詩篇は表題に「歌。ダビデの賛歌」と記されています。しかしこの詩は、詩篇57篇7~11節と60篇5~12節の合成であると言われています。おそらくダビデ王から五百年くらい後に、ダビデと同じような体験をした人が合成したものと思われます。その体験とは「神様に私は捨てられたのではないか」と言う苦しい体験です。そのような体験を私達もすることがあります。ですからこの詩は、私達にも迫ってくるのです。

★この詩の重要な所は「私達は神様に拒まれたのではないか」(10~11節)と言っている所です。味方がどんなに多くいても、神様が一緒に行ってくださって初めて勝利があると言っているのです。

★ですから詩人は「どうか、敵から私達を助けてください」(12節)と祈りました。神様はその祈りに応えて「聖所から告げられた」と記されています。人間の力や考えではなく、神様の御言です。その神様の御言は、勝利の約束でした。その御言に、詩人は勇気づけられ勝利を確信したのです。

★神様の御言によって、不安定だった詩人の心は不動のものとなりました。詩人は「神よ、あなたは私達を拒まれたのではありませんか」と、不安で揺れ動く心が定まったのです。そうすると、詩人の心に喜びと感謝があふれてきたのです。竪琴を鳴らして神様を賛美するのに、朝まで待てない程でした。そして「あなたの恵みは大きく、天にまで及び、全世界であがめられますように」(4~5節)と賛美したのです。

★今しがたまで、「神様は私達を拒まれた」と不安と恐れが彼の心を支配し、心の安定を失い、不安に揺れ動いていたのではなかったでしょうか。しかし聖所からの神様の声を聞いた時に、彼の心は定まったのです。「神様は私を愛して下さっている」という確信が、神様の言葉によって与えられたからです。「御言をすなおに受け入れなさい。御言は、あなたがたのたましいを救うことができます。」(ヤコブ 1:21)と記されています。御言には、あなたの不安な心に平安を与え、希望の朝を引き寄せる力があります。

神様と神様の御言を信じ、私達も神様の素晴らしさが、世界に届けとばかりに、神様を賛美し力強く生きる人となりましょう。

10月20日礼拝「この苦しみの時に」

詩篇講解NO.107「この苦しみの時に」詩篇107篇1~9節

                  仁井田義政 牧師

この詩は、3節に記されているように、礼拝者が礼拝のために四方の国々から集まって来た時の賛美です。その中には、色々な職業や生活状況の中にある人達もいました。それは、現代の教会のようでもあります。集まった人達には、共通した体験がありました。それは、神様による「苦しみからの救い」でした。

★ある人は「荒野や荒れ地をさまよって」いたと言います。「さまよう」は文字通りではなく、目的がなく虚しさを現わしています。ある人は「闇と死の陰に座す者」だったと記されています。死に向かって屈服している姿です。ある人は「病気の為に、食欲を失い、死」の一歩手前にまで来ていたのです。またある人は、海で嵐に遭って「船が天に上り、深みに下った」のです。そして「彼らのたましいは溶け去った」と絶望的だったことが記されています。

★彼らは、その「苦しみの時に祈ると、主は苦悩から彼らを救われた」と言っています。それが礼拝者の共通体験だったのです。人の悩みは、人の数ほど種類があることでしょう。四方の国々に住んでいた人々は、習慣や文化の違いでなおさらのことでしょう。しかし「苦しみの時に、主に叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された」のです。ですから「主の恵みと、奇しいわざを主に感謝」するという礼拝に集まって、ひとつ心で礼拝することができるのです。

人生は、必ずしも勝者が勝者であり続けることは出来ません。41節に「しかし」と記されている逆転が起こるのです。主に祈る人は、その逆転を体験することが出来ます。「知恵のある者は誰か」と詩篇の作者はそう問うています。そして、その人は「主の恵みを悟る者だ」と結論しています。

★今も、多くの人が多くの悩みを持って、苦しみつつ生きています。私達は、その悩みから解放される道を知っています。それを体験しました。その体験とは「苦しみの時に、主に叫ぶと、主は苦悩から救ってくださった」という体験です。あなたも、諦めて絶望的な人生を送っていてはなりません。あなたを助け、あなたを救って下さる神様を信じて生きましょう。

10月13日礼拝「神に逆らい続けた民」

詩篇講解NO.106「神に逆らい続けた民」詩篇106篇1~15節

                    仁井田義政牧師

106篇は、前の105篇と同じ出エジプト記を背景にしています。105篇はその時の神様の驚くべき救いの御業が記されていました。今日の106篇は、その時のイスラエルの民が、神様を何度も裏切ったことを記しています。

★この詩の作者は、イスラエルの民の裏切りの歴史を書きました。総論的に言えば、イスラエルの民は出エジプト時に荒野で何度も神様を裏切りました。そして約束の地に入ってからも、何度も神様を裏切り続けたのです。

★最初の裏切りは、「私達はエジプトの奴隷の方が良かった」(出14章)と神様への叫びとして出てきます。そうかと思えば、紅海を渡った直後には「感謝の踊り」(出15:20)をしたりしています。詩篇106篇13~14節に「しかし、彼らはすぐに、御業を忘れ・・激しい欲望にかられ」と記されています。その欲望とは「われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも」(民11:5) との叫びです。また十戒で有名なシナイ山のふもとでは「金の子牛」(19節)を作って偶像礼拝をしました。さらには「異教の偶像に仕え、自分の子供たちを悪霊の生贄として捧げた」(37節)というおぞましい事すらしたのです。

★それでも「主は彼らの苦しみに目を留められ」(44節)彼らを助けられました。しかし神様は、愛する民達に何度裏切られたことでしょう。私達は一人に裏切られても、心が激しく痛むのです。神様の心に、裏切られる度に激痛が走ったことでしょう。私達は、神様の心を痛めてはなりません。この詩人は6節で「私達は先祖と同じく・・罪を犯し」と言っています。自分も神様の心を痛めたことがあると言っているのです。

★今日、私達は自分の心を深く顧みましょう。「私は神様の心を痛めたことが有るか無いか」を振り返ってみましょう。無い人はいないと思います。私達は悔い改めて「これからは信仰にしっかりと立って歩んでいきます」と祈ろうではありませんか。そうして48節の「ほむべきかな、イスラエルの神」と勝利の宣言をして、新たに信仰から信仰へと進んで行きましょう。

10月6日礼拝「神様の約束」

詩篇講解NO.105「神様の約束」詩篇105篇1~21節

                    仁井田義政牧師

 詩篇105篇は、紀元前2000年前のアブラハムへの神様の契約から始まっています。聖書は、まさしく契約文化の始まりなのです。聖書全体が、神様が人間に与えられた契約書なのです。ゆえに聖書は旧約聖書、新約聖書と言われるのです。恵みに溢れた私達に対する神様の契約、つまり「神様の約束」が記されています。

★アブラハムは、今から4000年前、メソポタミヤのカルデヤのウルに住んでいました。その時の彼は「アブラム=高められた父」という名前でした。しかし神様から「アブラハム=多くの者の父」という名前が与えられました。神様は「アブラハムの子孫が、世界を祝福するようになる」と約束されました。(創世記22:15~18)

★イスラエル民族は「神様とアブラハム契約」のゆえに、苦難から守られました。その事が記されているのが、今日の詩篇105篇16~41節です。その苦難のひとつが、大飢饉でした。神様の数奇な導きで、ヨセフの家族とイスラエル民族が、飢餓から救われました。

★しかしエジプトでの生活が数世代に及び、ヨセフのことも知らない王が、イスラエル民族を迫害しました。そのためモーセが神様によって立てられ、エジプト脱出が起こりました。その時には、紅海の奇跡も起こりました。それは、神様とアブラハムとの契約があったからです。しかし、民族としての祝福は、彼らがキリストを殺害することによって終わりました。

★ただアブラハムに「世界はあなたの子孫によって祝福される」と言われた約束は、神様によって守られ続けました。それが新契約である新約聖書なのです。(マタイ1:1)

★神様は「アブラハムの子孫によって世界を祝福する」と言われた約束を、今もなお実行しておられるのです。アブラハムの祝福は、アブラハムの子孫イエス・キリストによって実行され続けています。そして私達クリスチャンに「全世界に福音を伝えよ」(マタイ 28:19~20)と言っておられます。まさに今日の詩篇105篇1~7節の中でも、全世界への宣教を命じておられます。私達は、約束を守られる神様を心から信頼し、ほめたたえましょう。