Monthly Archives: 1月 2025

1月26日「御言の戸が開くと」

詩篇講解(NO.119)「御言の戸が開くと」119篇130節

                       仁井田義政 牧師                                        

今日の御言の詩篇119篇は、詩篇の中で最も長い詩篇です。そのとてつもなく長い詩篇を、ギュっと凝縮してお話ししたいと思います。読む箇所も130節だけにし、この詩篇の言おうとしている所をお話ししたいと思います。

★この詩篇は「幸いなことよ」という感嘆文で始まっています。幸いなのは「主の御教えによって歩む人々です。」と言っています。別の言い方をすれば、聖書の御言通りに生きる人は何と幸いなことでしょうと言う意味です。しかし、御言を実行して生きるということは、決して簡単なことではではありません。人間には、それを妨げる欲望があるからです。

★9節には、若い人のことが出てきます。若い人にはいろいろな欲望があります。芸能界のスキャンダルが後をたちません。しかし若くない人にも欲望はあります。127節の「金や純金」の魅力です。その為に銀行の内部でさえ盗みが起るのです。またこの世には「御言に信頼して生きる者達を迫害する」ことさえあります。大切なのは決して御言を捨てないことです。

人生には、話したような問題と、それ以外の何百もの問題と失敗と苦しみがあります。その失敗や苦しみを体験したことも、御言に触れるきっかけとなり、71~72節にあるように幸せのきっかけとなります。

★130節の「あなたの御言の戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」との御言ですが、「わきまえのない者」とは、他の訳では「浅はかな者」「無知な者」「無学な者」と訳されています。私がこの130節に強く感動したのは、神学生1年の1学期が終わった時でした。その成績不振で完全に自信を喪失し、チャペルで祈っていた時です。この御言が突然私の心に飛び込んできました。この御言によって、俄然聖書研究の熱意が燃え上がりました。聖書だけではなく、一般哲学、宗教哲学、教育学に心が燃え上がりました。まさに御言が私を救い、助け、立ち上がらせたのです。あなたも今、何らかの悩みの中にあるなら御言の戸を開きましょう。そこから光が差して来るのです。 

1月19日礼拝「暗闇の中の歌」

詩篇講解(NO.118)「暗闇の中の歌」118篇10~29節

                       仁井田義政 牧師                                        

 この118篇は、宗教改革者マルチン・ルターがこよなく愛した詩篇です。しかし、今日はルターのことを話そうとしているのではなく、もっと激しい迫害を受けられたイエス様をお話しするのです。この詩は、イエス様がゲデロンの谷で読まれたものと言われているのです。

★最後の晩餐の後、イエス様と弟子達は、祈るためにオリーブ山に向かわれました。そこはいつもの祈りの場所だったので、イエス様はそこにユダが敵を連れて来ることも知っておられました。イエス様は、そこで捕えられ、なぶり者にされ、殺されることも知っておられました。

★イエス様は、エルサレムの町を出たゲデロンの谷の辺りで、この詩篇を歌われました。その歌は「主に感謝せよ」で始まり、「主の恵みはとこしえまで」と、しかも3回も繰り返される歌でした。「主は私の味方。・・・主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりも良い」(6~9節)と、ルターも自分と重ねてこの詩篇を読んだのです。この詩篇には、その強力な悪に「私は主の御名によって断ち切ろう」と3回も出てきます。イエス様が「私の名によって祈りなさい」と教えています。

さらに18節には「主は私をきびしく懲らしめられた。しかし私を死に渡されなかった」と記されています。それは十字架と甦りの預言です。それは人々が捨てた石、それが「礎の石となった」(22~24節)と記されている事から見ても明らかです。イエス様ご自身が、マタイ21章42節でこの言葉をご自身のこととして引用しておられます。さらには、25節の「ああ、主よ。どうぞ救ってください」との言葉は、イエス様がエルサレムに入られる時に、人々が叫んだヘブル語の「ホサナ」と言う言葉なのです。

★イエス様は、十字架に向かう暗闇の道を歩みつつ、この歌を歌われたのです。私達にも、イエス様が通られた「ゲデロンの谷の暗闇」のような時があるかもしれません。そのような時にも「あなたは、私の神。私はあなたに感謝します。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と歌うようなクリスチャンとなりましょう。

1月12日礼拝「世界の救い」

詩篇講解(NO.117)「世界の救い」117篇1~2節

                       仁井田義政 牧師                                        

 今日の詩篇は、詩篇の中でいちばん短い詩篇ですが、最も大きな内容が記されています。それは「全ての国々よ、主をほめたたえよ。全ての民よ、主をほめたたえよ」と記されているからです。キリスト教会の究極目的は、この一節にすべて込められています。私達、溝の口キリスト教会も、今日の御言によって、キリストの教会の偉大なるビジョンに連帯する自覚を持つものとなりましょう。

★今日の詩篇の内容は、単純明快で何ら説明などはいらない御言です。 「全世界の人々よ、主をほめたたえよ」とは、全ての国々への神様の招きです。「全ての民よ、主をほめたたえよ」とは、一人残らずと言う神様の招きです。神様には、イスラエル人とパレスチナ人の差別はありません。ウクライナ人とロシア人の差別もありません。それを乗り越えられずに戦争があるのです。「この土地は私達民族のものだ」と争っているのです。

★イエス様は、この詩篇を最後の晩餐の後に弟子達と歌い (マタイ26:30・マルコ14:26)オリーブ山に向かわれました。キリストの十字架こそ、世界の救いと全ての民の救いが実現するのです。弟子達の誰も、この事を知りませんでした。その中で初代教会が始まったのです。

★その事を知ったのは、パウロでした。ですがパウロが新しい教えを作り出したのではありません。旧約聖書にそう約束されていたのです。弟子達はみなユダヤ人であったために、ユダヤの選民思想に溺れ、キリストの救いが全世界の為であることを理解することが出来なかったのです。パウロは、ロマ書15章11節で、この117篇1節を引用しています。

★イエス様にとっても十字架は苦しみでしたが、十字架を越えた向こうに、世界の人々の救いの希望がありました。それは、アブラハムと神様との約束(創世記12:1~3)でした。そこの「地上の全ての民族は、あなたによって祝福される」との約束の実現です。世界宣教は教会のゴールです。ゴールばかりを見て足元を忘れてはなりません。また、足元ばかり見てゴールを忘れてはなりません。しっかりと計画を立てましょう。それが教会会議なのです。

 

2025年1月5日礼拝「私は主を愛する」

詩篇講解(NO.116)「私は主を愛する」116篇1~8節

                       仁井田義政 牧師                                        

 皆さん、あけましておめでとうございます。今年最初の日曜礼拝です。皆さんにとって、2025年が素晴らしい年となりますようお祈り致します。今日のメッセージは、新年初めの礼拝にふさわしい詩篇116篇の御言です。

★詩篇116篇1節は「私は主を愛する」で始まっています。この御言ほど、新年にふさわしい御言はありません。詩人は今、途轍もない困難に遭っています。3節は、死を感じさせるほどの病気なのか、敵との戦いなのか、経済的なことなのか、そのいずれかでしょう。

★詩人は、その中で「主は情け深く、憐れみ深い」(5節)と記しました。どのように「情け深く、憐れみ深い」のでしょうか。それは6節の「主はわきまえのない者を守られる」と記されています。信仰の完全な人の祈りだけが聞かれるのではありません。たとえ不完全であっても、祈る者の祈りを主は聞いて下さるのです。そこに、主を信じる者の「全き憩い」(7節)があるのです。

その神様に「私は主を愛する」(1節)とは、どのようにして愛すると言っているのでしょうか。それは17節の「感謝のいけにえ」を捧げることです。この詩篇で言われている「感謝のいけにえ」とは、公けの礼拝での賛美であり、感謝です。

★あなたは新しい年に何をすると決意されましたか。もう決められた方も、まだ決めておられない方も、はっきりとした目標を設定しましょう。それは今日の御言にある「私は主を愛する」と言う決意であり、「私は、自分の誓を主に果たす」(18節)という信仰の実践です。それ以外の事は、「これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。」(マタイ6:32~33)とイエス様が教えておられます。第一の事を第一にする時に、全てが添えて与えられるのです。

2025年の今年は、私達の教会にとっても開拓から50年という記念の年です。私達は主を愛する年、主を愛することを実践する年として、団結して前進しましょう。