Monthly Archives: 9月 2024

9月29日礼拝「ハレル、ヤハー」

詩篇講解NO.104「ハレル、ヤハー」詩篇104篇24~35節

                    仁井田義政牧師

 この詩は、103篇と同じように「我が魂よ。主をほめたたえよ」で始まり「我が魂よ。主をほめたたえよ」で終わっています。それは、自分の心への語り掛けであり、奨めなのです。104篇は、それに「ハレルヤ」が加えられています。どうしてこのように、自分自身の心に主をほめたたえることを奨めているのでしょうか。

★祈祷会では、ちょうど創世記の1章からお話をしています。創世記1章の壮大なスケールの天地創造には、現代科学も圧倒される記事が記されています。この詩篇のほとんどが、神様による天地万物の創造と、その知恵が賛美されています。

★その通りです。私が動植物を大好きなのは、その中に神様の知恵があふれて見えるからです。赤カンガルーの大人は90キロにもなります。しかしその赤ちゃんは、妊娠から30日で生まれる為に、超未熟児で生まれます。その赤ちゃんの体長は2センチ、体重は1グラム程です。その超未熟児で生まれた子が、生まれると直ぐにお母さんの袋を目指して、自分でお母さんの体をよじ登って、お母さんの袋に入るのです。その袋の中にお母さんのオッパイがあると誰が教えたのでしょう。植物の世界にも、そのような事例が数多くあります。いま私はポインセチアを育てていますが、ポインセチアには脳がないのに季節を認知して花を咲かせるのです。

★詩人は御言で「生きている限り、いのちのある限り」と記しています。詩人は、自然の中の神様の力と知恵に感動し、感極まるように「私は主をほめたたえる」と言っています。そして最後には、もう一度「我が魂よ。主をほめたたえよ。ハレルヤ。」と言っています。

★日本の詩文学の中にも、自然そのものを賛美している詩は数多くあります。しかし聖書は、ただ単に自然の素晴らしさを賛美しているのではありません。自然を造り、自然を神秘的な御業で支配しておられる神様を賛美しているのです。イエス様も、マタイ6章で「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」と弟子達に教えられました。私達も、もう一度「我が魂よ。主をほめよ。ハレルヤ。」と、自分の魂に言い聞かせましょう。

9月22日礼拝「我が魂よ。主をほめたたえよ」

詩篇講解NO.103「我が魂よ。主をほめたたえよ」詩篇103篇1~5節

                    仁井田義政牧師

今日は、詩篇の中で最も素晴らしいと言われている103篇を読んでいただきました。今日のタイトルは「我が魂よ。主をほめたたえよ」で、1節の御言からつけさせていただきました。それでは最も美しい詩とも言われ、私達への5つの祝福が記されている詩篇103篇をお話し致しましょう。

★私達の世界では「感情的になるな。もっと理性的になって」等と言われることが多いです。しかし詩篇は、いや聖書の全体が、感情豊かな世界への招待なのです。感情は、理性や知性より優ると言うのではありませんが、感情が乏しくなると、理性や知性も正しく機能しなくなるのです。

★1節に「我が魂よ。主をほめたたえよ」と記されています。魂の語源は「喉」で、乾き求めることを現わします。喉が渇いていている時、水の分子はどうでも良いのです。感情が枯渇する時、感情がプラスになるために、主をほめたたえ、感謝することが大切なのです。ですから1~2節で「我が魂よ。主をほめたたえよ」と二度も出てくるのです。

★それでは、神様にどのような事を感謝できるでしょうか。もし神様の存在を知らない人がいるなら、それは神様がいないからではありません。ハワイの夜空は、星の輝きが素晴らしいのです。しかし日本の空にも、同じ数の星が輝いているはずです。人間の作った光や大気汚染で、その星の存在が見えないのです。あなたと神様の間を妨げているものを取り払いさえすれば、あなたにも神様の存在が見えるようになるのです。

★神様は、あなたの「病を癒し」「恵みと、憐れみの冠」を与えてくださいます。あなたの一生を「良いもので満たし」将来の不安を取り除いて下さいます。あなたは「鷲のように新しくなり」悠々と空を舞い、風などにびくともしない人になります。むしろ風を利用して上昇する人となるのです。

★15節には、人の一生の短さが記されています。私達の一生は、草や花のように一瞬に過ぎ去ります。そのような短い人生を、悩みに満ちて過ごしてしまうのはもったいないことです。まさに最後の22節にあるように、「全て造られたものたちよ。我が魂よ。主をほめたたえよ」と、心からお奨めしたいのです。あなたも、神様を信じて心から主を賛美する者になりましょう。

9月15日礼拝「悩む者の祈り」

詩篇講解NO.102「悩む者の祈り」詩篇102篇1~13節

                    仁井田義政牧師

 今日のメッセージ題は、102篇の表題をそのままつけさせていただきました。私達の人生には、悩みと苦しみを体験することがあります。しかもこの詩人は、神様を信じている信仰者なのです。それは信仰者の上にも、悩みや苦しみがあることを現わしています。そのような時、私達はどのように祈ったら良いのでしょうか。

★詩人は、激しい悩みと苦しみを体験しました。その激しい悩みと苦しみは、この人の食欲まで減退させ、体まで痩せ衰えさせたのです。食物を食べても「灰のように。飲み物は涙」のように感じました。(8~9節)しかも、その原因が「あなたの憤りと怒りとのゆえ」と言っています。それは、「私の罪の故に」と言っていることと同じです。

★そのような絶望的な状況で「しかし主よ・・あなたはシオンをあわれんでくださいます」(12~13節)と祈っています。人間的には絶望的な状況にあっても「しかしあなたは」(ヘブル語のブェアター)で、一変するのです。この詩人の悩みと苦しみは、エルサレムの崩壊と関係しています。シオンはエルサレムのことです。エルサレムの崩壊という大きな事件が、一個人の悩みと苦しみの祈りとなっています。しかし神様は、その一個人の窮した者の祈りを「顧みてないがしろに」はされないのです。これこそ、詩人の個人体験なのです。(17節)

★詩人は、その体験を「後の時代の人々の為に書き記」しました。「新しく造られる民が、主を賛美しますように」(18節)との目的が記されています。その「新しく造られる民」とは、キリストの恵みによって救われた私達のことと理解しても良いのです。神様は、旧約の時代も新約の時代も、小さな者の祈りをないがしろにされません。神様は愛と優しさに満ちた御方なのです

★26節に「全てのものは衣のようにすり切れます」とあります。私達の命もはかないものです。しかし神様の恵みといつくしみは、変わることがありません。それゆえに「あなたのしもべらの子孫は住みつき、彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう」と結論付けられています。ですから、どんな時にも絶望せずに「主よ。私の祈りを聞いてください」(1節)と祈りましょう。

9月8日礼拝「全き道に心を留めよ」

詩篇講解NO.101「全き道に心を留めよ」詩篇101篇1~8節

                    仁井田義政牧師

 今日の詩篇101篇は、ダビデの賛歌という表題が付いていますが、ダビデ作かどうかはわかりません。少なくとも王職にあった人の作ということが出来ます。王職にある人は、どのように生きなければならないかを記しています。その人が悪い人だと、その国の民は苦しむことになります。現代の総理大臣や大統領たちにも、是非学んで欲しい詩篇です。

★王職にある人の理想は、まず神様の恵みと裁きを誉め歌う人でなければなりません(1節) つまり、自分を最高権威に置くのではなく、神様が最高権威者であることを認める人であるべきなのです。そして王職にある人は、神様が「恵みと裁きの神」であることを知っていなければなりません。

★2~4節では、王としての個人的な決意が記されています。王様は「全き道」に心を留める人でなければなりません。それは自分の考えにではなく、神様の道を歩むためです。2節に「私は、正しい心で自分の家の中を歩みます」と王の決意が記されています。つまり王たる者は私生活が大切なのです。3節には「私の目の前に卑しいことを置きません」と言っています。ダビデはウリヤの妻バテシェバを家に引き入れて罪を犯しました。この失敗の為に、ダビデ王家が陰り始めました。自分の息子アブシャロムに命を狙われ、後継者ソロモンは、異教徒の多くの妻を家に入れました。その結果、分裂国家となり弱体化してしまったのです。

★王様としての働きは、国中の真実な人達に目を注ぐことです。正しい人が馬鹿を見るような国を作ってはならないのです。正しい人が正しく評価される国作りに励むべきです。王の働きのもう一つは、治安の維持で「悪者を国からなくす」働きです。

★民主国家においては、主権者は私達です。家庭においても、親は子供たちの指導者であり、見本的な存在です。また職場においても、何らかの指導者であることも多いでしょう。私達もたとえ小さな集団の指導者であっても、大切なことは1節にあるように「神様の恵みと裁き」を賛美する人であることです。ですから私達は、自分の生活から主に喜ばれないことは、8節にあるように「朝ごと」に滅ぼす時を持とうではありませんか。

9月1日礼拝「感謝しつつ、賛美しつつ」

詩篇講解NO.100「感謝しつつ、賛美しつつ」詩篇100篇1~5節

                    仁井田義政牧師

 詩篇からのメッセージも、ついに100回となりました。第一回の一篇は、2022年2月27日に始まっていますから、約2年半にわたって詩篇からメッセージを取り次いできたわけです。今日の御言は、100篇の表題にふさわしく「感謝しつつ、賛美しつつ」です。

★まず1節に「全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ」と記されています。聖書は正にこのために書かれました。あるクリスチャンが近くに引っ越して来て、私達の礼拝に出席しました。するとみんなが大声で笑っていたので驚いたというのです。前の教会では、礼拝は厳粛な面持ちで、静かにしているものだと思っていたのです。しかし聖書は「喜びの声をあげよ」「喜びをもって主に仕えよ」「喜び歌いつつ主の御前に来たれ」と記しています。

★3節には「知れ。主こそ神」と記されています。つまり喜びの源は、主を知ることにあるのです。世界にはいろいろな宗教があり、いろいろな神がいると信じている人もいます。しかし本当の神は、唯一なのです。それを知ることが喜びの源なのです。さらには「主が私達を造られた」と記されています。たとえ「お前なんかうちの子でない」と親から捨てられた者であっても、私達のルーツは神様にあるのです。ですから「主が私達を造られた」と詩人は言うのです。親のいない子などはいません。神様が親だからです。

★3節の後半には「私達は主のもの。主の民。その牧場の羊である」と記されています。「私達は主のもの」とは、主の宝物であるということです。横浜港で、大きな船から銀のインゴットを陸揚げしたことがあります。その荷物室の扉は、びっしりと溶接されて守られていました。高価だからです。

また、3節に「私達は主のもの、その牧場の羊である」と記されています。それは羊飼いのいない迷子の羊ではないのです。イエス様が良き羊飼いであり、羊の為に命を捨てて下さったのです。(ヨハネ10:11)

★4節には「感謝しつつ・・賛美しつつ」と記されています。それは形式的になってしまっていた犠牲の捧げ物より、礼拝で最も大切なのは「感謝と賛美」であることを示しています。私たち溝の口教会は、これからも「感謝と賛美に満ちた」喜びの礼拝を主に捧げていきましょう。