Monthly Archives: 9月 2024

9月8日礼拝「全き道に心を留めよ」

詩篇講解NO.101「全き道に心を留めよ」詩篇101篇1~8節

                    仁井田義政牧師

 今日の詩篇101篇は、ダビデの賛歌という表題が付いていますが、ダビデ作かどうかはわかりません。少なくとも王職にあった人の作ということが出来ます。王職にある人は、どのように生きなければならないかを記しています。その人が悪い人だと、その国の民は苦しむことになります。現代の総理大臣や大統領たちにも、是非学んで欲しい詩篇です。

★王職にある人の理想は、まず神様の恵みと裁きを誉め歌う人でなければなりません(1節) つまり、自分を最高権威に置くのではなく、神様が最高権威者であることを認める人であるべきなのです。そして王職にある人は、神様が「恵みと裁きの神」であることを知っていなければなりません。

★2~4節では、王としての個人的な決意が記されています。王様は「全き道」に心を留める人でなければなりません。それは自分の考えにではなく、神様の道を歩むためです。2節に「私は、正しい心で自分の家の中を歩みます」と王の決意が記されています。つまり王たる者は私生活が大切なのです。3節には「私の目の前に卑しいことを置きません」と言っています。ダビデはウリヤの妻バテシェバを家に引き入れて罪を犯しました。この失敗の為に、ダビデ王家が陰り始めました。自分の息子アブシャロムに命を狙われ、後継者ソロモンは、異教徒の多くの妻を家に入れました。その結果、分裂国家となり弱体化してしまったのです。

★王様としての働きは、国中の真実な人達に目を注ぐことです。正しい人が馬鹿を見るような国を作ってはならないのです。正しい人が正しく評価される国作りに励むべきです。王の働きのもう一つは、治安の維持で「悪者を国からなくす」働きです。

★民主国家においては、主権者は私達です。家庭においても、親は子供たちの指導者であり、見本的な存在です。また職場においても、何らかの指導者であることも多いでしょう。私達もたとえ小さな集団の指導者であっても、大切なことは1節にあるように「神様の恵みと裁き」を賛美する人であることです。ですから私達は、自分の生活から主に喜ばれないことは、8節にあるように「朝ごと」に滅ぼす時を持とうではありませんか。

9月1日礼拝「感謝しつつ、賛美しつつ」

詩篇講解NO.100「感謝しつつ、賛美しつつ」詩篇100篇1~5節

                    仁井田義政牧師

 詩篇からのメッセージも、ついに100回となりました。第一回の一篇は、2022年2月27日に始まっていますから、約2年半にわたって詩篇からメッセージを取り次いできたわけです。今日の御言は、100篇の表題にふさわしく「感謝しつつ、賛美しつつ」です。

★まず1節に「全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ」と記されています。聖書は正にこのために書かれました。あるクリスチャンが近くに引っ越して来て、私達の礼拝に出席しました。するとみんなが大声で笑っていたので驚いたというのです。前の教会では、礼拝は厳粛な面持ちで、静かにしているものだと思っていたのです。しかし聖書は「喜びの声をあげよ」「喜びをもって主に仕えよ」「喜び歌いつつ主の御前に来たれ」と記しています。

★3節には「知れ。主こそ神」と記されています。つまり喜びの源は、主を知ることにあるのです。世界にはいろいろな宗教があり、いろいろな神がいると信じている人もいます。しかし本当の神は、唯一なのです。それを知ることが喜びの源なのです。さらには「主が私達を造られた」と記されています。たとえ「お前なんかうちの子でない」と親から捨てられた者であっても、私達のルーツは神様にあるのです。ですから「主が私達を造られた」と詩人は言うのです。親のいない子などはいません。神様が親だからです。

★3節の後半には「私達は主のもの。主の民。その牧場の羊である」と記されています。「私達は主のもの」とは、主の宝物であるということです。横浜港で、大きな船から銀のインゴットを陸揚げしたことがあります。その荷物室の扉は、びっしりと溶接されて守られていました。高価だからです。

また、3節に「私達は主のもの、その牧場の羊である」と記されています。それは羊飼いのいない迷子の羊ではないのです。イエス様が良き羊飼いであり、羊の為に命を捨てて下さったのです。(ヨハネ10:11)

★4節には「感謝しつつ・・賛美しつつ」と記されています。それは形式的になってしまっていた犠牲の捧げ物より、礼拝で最も大切なのは「感謝と賛美」であることを示しています。私たち溝の口教会は、これからも「感謝と賛美に満ちた」喜びの礼拝を主に捧げていきましょう。