詩篇講解NO96「全地よ。主に歌え」詩篇96篇1~13節
仁井田義政牧師
先週は、イスラエルの新年礼拝の御言でした。今日の御言も、新年礼拝の詩篇と言われています。この御言の特徴は、「全地よ。主に歌え」と1節で呼びかけられている点です。旧約の時代は、イスラエル人の選民意識が強く、異邦人が神様を信じて救われるなどとは特殊な考えでした。
★そのような時代に「全世界の国々と人々に、主の栄光を告げ知らせよ」と1~6節で勧められています。そして「主に歌え」「主に歌え」「主に歌え」と、1~2節の間に3回も賛美の奨めがあります。誤解を恐れず言うならば、礼拝は御言を聞くことではありません。祈ることでもありません。礼拝は神様を賛美することなのです。ですから、心からの賛美のない礼拝は、礼拝ではないのです。まさに賛美をもって「御名をほめたたえる」ことが、継続的な宣教でもあるのです。真の神様は、天地を造られた神様です。そして真の神様の力と光栄は、主の聖所を通して礼拝者に与えられているのです。
★真の神様の礼拝者は、真の礼拝者でなければなりません。真の礼拝者とは「主にひれ伏す」(9節)人です。ひれ伏す人とは、自分の弱さや欠点を認め、心が砕かれ、罪深さを認める人です。何事も自分の手柄にせず、神様がそうして下さったと感謝のできる人です。全ては神様からの授かりものだと感謝し、自分自身の人生も神様にお捧げ出来る人です。
★10~13節は、キリストの再臨の預言と言われている所です。国々の中で「主は王であられる」と言えと奨められています。そのことをはっきりと言われたのは、イエス様でした。弟子達は去り、ご自分が殺される十字架を前にして、ローマの総督ピラトが「あなたは王なのか」と質問した時、「そのとおり私は王です」と言われました。(ヨハネ18:37)
★ある学者達が言うように、この詩がバビロン捕囚期後の作であるとすればなおさらのことです。バビロン捕囚によって十部族が失われ、二部族が残っただけでした。その一部族のユダ族から生まれられたキリストが、十字架で殺されようとしていました。そこでイエス様は「私は王である」と宣言されました。今日の御言は「全地よ、主に歌え」と奨めています。私達は全世界に向かって、「主は王であられる」と叫ぼうではありませんか。