Monthly Archives: 7月 2024

7月14日礼拝「全地よ。主に歌え」

詩篇講解NO96「全地よ。主に歌え」詩篇96篇1~13節

                            仁井田義政牧師

先週は、イスラエルの新年礼拝の御言でした。今日の御言も、新年礼拝の詩篇と言われています。この御言の特徴は、「全地よ。主に歌え」と1節で呼びかけられている点です。旧約の時代は、イスラエル人の選民意識が強く、異邦人が神様を信じて救われるなどとは特殊な考えでした。

★そのような時代に「全世界の国々と人々に、主の栄光を告げ知らせよ」と1~6節で勧められています。そして「主に歌え」「主に歌え」「主に歌え」と、1~2節の間に3回も賛美の奨めがあります。誤解を恐れず言うならば、礼拝は御言を聞くことではありません。祈ることでもありません。礼拝は神様を賛美することなのです。ですから、心からの賛美のない礼拝は、礼拝ではないのです。まさに賛美をもって「御名をほめたたえる」ことが、継続的な宣教でもあるのです。真の神様は、天地を造られた神様です。そして真の神様の力と光栄は、主の聖所を通して礼拝者に与えられているのです。

★真の神様の礼拝者は、真の礼拝者でなければなりません。真の礼拝者とは「主にひれ伏す」(9節)人です。ひれ伏す人とは、自分の弱さや欠点を認め、心が砕かれ、罪深さを認める人です。何事も自分の手柄にせず、神様がそうして下さったと感謝のできる人です。全ては神様からの授かりものだと感謝し、自分自身の人生も神様にお捧げ出来る人です。

★10~13節は、キリストの再臨の預言と言われている所です。国々の中で「主は王であられる」と言えと奨められています。そのことをはっきりと言われたのは、イエス様でした。弟子達は去り、ご自分が殺される十字架を前にして、ローマの総督ピラトが「あなたは王なのか」と質問した時、「そのとおり私は王です」と言われました。(ヨハネ18:37)

★ある学者達が言うように、この詩がバビロン捕囚期後の作であるとすればなおさらのことです。バビロン捕囚によって十部族が失われ、二部族が残っただけでした。その一部族のユダ族から生まれられたキリストが、十字架で殺されようとしていました。そこでイエス様は「私は王である」と宣言されました。今日の御言は「全地よ、主に歌え」と奨めています。私達は全世界に向かって、「主は王であられる」と叫ぼうではありませんか。

7月7日礼拝「今日、御声を聞く」

詩篇講解NO95「今日、御声を聞く」詩篇95篇1~11節

                            仁井田義政牧師

今日の95篇は、賛美にも広く用いられている有名な詩篇です。それは、新しい年を迎えた正月の礼拝の歌と言われています。イスラエルの正月は、日本とは違って9月頃です。しかし新年を迎える巡礼者が神殿の門近く来ますと、「さあ主に向かって喜び歌おう」と神殿内から歌で呼びかけられたのです。長い距離を歩いてきた巡礼者達は、その声を聞いて息を吹き返しました。

★巡礼者たちの住んでいた所は、宗教や習慣が異なる所だったでしょう。たとえ宗教や習慣が違う所であっても、私達の礼拝する神様は、その神々にまさるのです。私達の神様は、世界の創造者であり、世界を支配する王だからです。(3節)

★神様は、天地の創造者という偉大なエネルギーを持った方であるだけではありません。私達の羊飼いでもあられます。(4~6節) 

羊飼いは、自分の牧場の羊の名前を呼び、世話をします。飢えているなら食物を与え、傷ついているならば手当をします。主は、そのような優しいお方なのです。「良き羊飼いは、羊の為に命を捨てる」(ヨハネ10:11)のです。

★そうして詩人は「御声を聞くならば、メリバの時のように心を頑なにしてはならない」(7~11節)と言いました。それは、昨年までどうであろうと関係なく、見声を聴く正月の「今日」です。イスラエル歴史を見ますと、せっかく神様が、羊の群れのようにイスラエル人達をエジプトの奴隷から救い出して下さったのに、メリバで人々の不満が爆発してしまったのです。その結果、不満を言った人達が約束の地に入れず、荒野で死に絶えてしまいました。御言は、今日聞くことが大切なのです。今日御声を聞いた人として、新約聖書にザアカイと言う人が出てきます。(ルカ19:1~)

★しかも彼は、人々から嫌われる仕事をして、人々から除け者にされ、寂しい人生を送っていました。イエス様は、「今日あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われたのです。ザアカイは、イエス様を急いでお迎えしました。そしてザアカイは、喜びに満ちた人となったのです。

今日、あなたも神様のお声を聞いて、神様の力と優しさを信じ、神様を礼拝する幸せな人になりましょう。