詩篇講解NO94「主が私の助けでなかったなら」詩篇94篇1~14節
仁井田義政牧師
今日の詩篇は、「復讐の神、主よ。復讐の神よ。」と叫ぶのっぴきならない詩人の祈りから始まっています。その為に、この詩が復讐の詩だと思ってしまう人が多いのです。しかし単なる復讐の詩ではありません。悪に満ち溢れたこの世をどのように生きて行ったら良いのかを、詩人が体験者として教えている詩なのです。
★復讐とは、悪者に対する神様の裁きのことです。裁きのない所に、正しさは存在しません。正に「処罰なくして法律なし」です。政治家が自分達の不正の為の法律を作っても、処罰がなければザル法なのです。神様は、神様であられる故に、教えに従わない者を処罰する権能を持っておられるのです。
★この詩人が見ていた不法に満ちた人々とは、神様の存在を信じない人々のことです。彼らは、神様を信じている者達を馬鹿にし、勝ち誇り「神様を信じていなくてもこうなった」と自慢します。そのような者達は「やもめ」「在留異国人」「みなしご」などを痛めつけます。何をやっても神様は見ていないと思っているからです。しかし詩人は「気づけ。まぬけども」と記しています。神様はひとつも見逃すことなく、不正を処罰されるからです。
★詩人は12節で「主よ、なんという幸いなことでしょう。あなたに戒められ、みおしえを教えられるその人は」と言っています。幸せはヘブル語の「アシュレー」という言葉です。それは詩篇1篇1節にも記されています。イエス様はギリシャ語の「マカリオス」という言葉を、マタイの福音書で8回程語られました。悪のはびこる中で、悪に染まらず生きることが出来るのは、あなたのみおしえのゆえですと言っておられます。
★詩人は、神様の民とされているから、私は悪人とは違うと喜んでいるのとは違います。詩人は「もし主の助けがなかったならば、私も彼らと同じように生きていた」と言っています。詩人の実存的体験から出て来た言葉です。
私達もみな同じであることを認めなければなりません。そこに本当の感謝が溢れるのです。神様は正義の神です。世の中がどんなに悪者で満ちても、私は正しく生きようと決心しましょう。今日も私達の救い主に感謝して、心から祈りましょう。