Monthly Archives: 6月 2024

6月23日礼拝「主が私の助けでなかったなら」

詩篇講解NO94「主が私の助けでなかったなら詩篇94篇1~14節

                        仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、「復讐の神、主よ。復讐の神よ。」と叫ぶのっぴきならない詩人の祈りから始まっています。その為に、この詩が復讐の詩だと思ってしまう人が多いのです。しかし単なる復讐の詩ではありません。悪に満ち溢れたこの世をどのように生きて行ったら良いのかを、詩人が体験者として教えている詩なのです。

★復讐とは、悪者に対する神様の裁きのことです。裁きのない所に、正しさは存在しません。正に「処罰なくして法律なし」です。政治家が自分達の不正の為の法律を作っても、処罰がなければザル法なのです。神様は、神様であられる故に、教えに従わない者を処罰する権能を持っておられるのです。

★この詩人が見ていた不法に満ちた人々とは、神様の存在を信じない人々のことです。彼らは、神様を信じている者達を馬鹿にし、勝ち誇り「神様を信じていなくてもこうなった」と自慢します。そのような者達は「やもめ」「在留異国人」「みなしご」などを痛めつけます。何をやっても神様は見ていないと思っているからです。しかし詩人は「気づけ。まぬけども」と記しています。神様はひとつも見逃すことなく、不正を処罰されるからです。

★詩人は12節で「主よ、なんという幸いなことでしょう。あなたに戒められ、みおしえを教えられるその人は」と言っています。幸せはヘブル語の「アシュレー」という言葉です。それは詩篇1篇1節にも記されています。イエス様はギリシャ語の「マカリオス」という言葉を、マタイの福音書で8回程語られました。悪のはびこる中で、悪に染まらず生きることが出来るのは、あなたのみおしえのゆえですと言っておられます。

詩人は、神様の民とされているから、私は悪人とは違うと喜んでいるのとは違います。詩人は「もし主の助けがなかったならば、私も彼らと同じように生きていた」と言っています。詩人の実存的体験から出て来た言葉です。

 私達もみな同じであることを認めなければなりません。そこに本当の感謝が溢れるのです。神様は正義の神です。世の中がどんなに悪者で満ちても、私は正しく生きようと決心しましょう。今日も私達の救い主に感謝して、心から祈りましょう。

6月16日礼拝「主は王であられる」

詩篇講解NO93「主は王であられる」詩篇93篇1~5節

                     仁井田義政牧師                             

 主は王であられるか否かが、人類歴史の永遠のテーマです。人間の歴史は、人間を王としようとするものでした。サウル王以前、イスラエルの歴史に王はいませんでした。神様は、人間が王になることを喜ばれないのです。

★しかしイスラエルの民は「外国のように人間の王が欲しいと騒ぎ立てました」そのことは、第一サムエル記8章1~12節に記されています。その結果次々に王が立てられました。三代目のソロモンは、外国に倣って兵器として軍馬を導入しました。馬屋四千と騎兵一万二千という数です。そのことは第第二歴代誌9章25節に記されています。彼は、神様よりも軍事力に頼ったのです。彼は王国を拡大し、モーセの教え(申命記の17章16~17節)を破り、多くの馬と700人の王妃と300人のそばめ持ちました。その女性の多くは、外国人でした。その結果、彼女らの持ってきた外国の宗教に染まってしまいました。そのことは第一列王記11章1~8節に記されています。

★ソロモンが死んだ後に王国は分裂し、やがて両方とも壊滅してしまうのです。キリストが来られる前の400年間は、最悪の時代で、預言者さえも存在しませんでした。その暗黒時代の終わりに、王なるイエス様がお生まれになったのです。その時、東方の博士達が長い旅をしてエルサレムに着き、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方を・・・拝みに来ました」と言いました。そのことはマタイ2章1~2節に記されています。

★今日の詩篇には「王はみいつをまとっておられます」と記されています。「みいつ」とは、威厳のことです。ヨハネ18章37節にローマの総督ピラトがイエス様に「それではあなたは王なのですか」と問うたシーンがあります。イエス様はハッキリと「私が王である」と言われました。

★詩篇の93篇3~4節に川が出てきます。バビロンにはチグリス、ユーフラテス川が、南にはエジプトのナイル川が流れています。また4節の「海の力強い波」は、海を渡ってくるローマのことかもしれません。しかし世界情勢がどうあろうとも、王の王であられる神様の威厳は微動たりとしないのです。人間を王としようとする世の中の流れに、クリスチャンは騙されてはなりません。イエス様を王の王として、我が家にしっかりとお迎えしましょう。

6月9日礼拝「草のように、木のように」

詩篇講解NO92「草のように、木のように」詩篇92篇1~15節

                     仁井田義政牧師                             

 今日の92篇は「安息日のための歌」という表題が付いています。つまり安息日と言われている礼拝の日に歌われた詩なので、安息日に主を礼拝する人と、そうでない人の対比が記されています。

★92篇1~5節まで、礼拝とは何かを教えています。それは「主に感謝すること」です。「主」はアドナイと言う言葉で、私のご主人様の意味です。他宗教の言う宇宙法則や宇宙の生命などという、非人格的なものとは全く違うのです。私のご主人様という存在の神様です。礼拝とは、私達の主人として恵みと祝福を毎日注いで下さっている神様への感謝なのです。

★6~9節では、「この神を知らない者達は草のようだ」と記されています。地上の生物の中で、人間だけが神様を礼拝することができる存在です。その特権を放棄して生きている人達がいます。そのような人も、みるみるうちに栄えることがあると聖書は言っています。しかしそれは「草のようで一瞬の栄えである」と言っています。

★しかし神様を礼拝する者は、「ナツメヤシの木のように栄え、レバノン杉のように育ちます。」(12節)と記されています。この詩篇に記されているナツメヤシもレバノン杉も、役に立つには数年かかります。草のように、数か月で成長するというわけにはいかないのです。しかし、神様は私達を主の家の木として、主の庭に植えて下さいました。それは世話をし、育てて下さるためにです。

★教会の庭にも、いろいろな植物が植えられています。最近では桑の実が沢山なり、皆さんがジャムを作ると言って積んでいかれました。なぜ桑の実などがなるのでしょうか。私が植えて世話をしているからです。しかし大きなレモンの木の世話を失敗し、害虫によって枯らしてしまいました。神様は失敗されません。ですから「彼らは年老いても、なお実を実らせ、みずみずしく、生い茂っていましょう」(14節)と記されているのです。神様は「礼拝者が年老いても、ナツメヤシやレバノン杉のように栄えさせてくださる」のです。神の家の庭に植えられた木のように、礼拝を大切にし、神様の庭にしっかりと根を下ろし、感謝の礼拝を捧げましょう。

6月2日礼拝「私の救いを彼に見せよう」

詩篇講解NO91「私の救いを彼に見せよう」詩篇91篇1~16節

                     仁井田義政牧師

 6月に入り、一年の半ばにさしかかっています。さて、人生にはいろいろな戦いがあるものです。今日のメッセージは、詩篇91篇の最後の言葉から「私の救いを彼に見せよう」という題でお話し致します。

★この91篇の作者は、誰であるかがわかりません。詩の表題もないのですが、この詩人は大きな困難に直面しています。3節や6節を見ると、病気かもしれません。あるいは3節の「狩人の罠」は命を狙う敵かもしれません。私達の回りには、様々な問題や困難が際限なくあります。それが心配や不安を生み出すのです。

★この詩人は、神様を信じることを「いと高き方の隠れ場に住む」(1節)と言っています。また「全能者の陰に宿る」とも言っています。それは神様の守りに包まれることを意味しています。詩人は、神様を信じることをそのように表現しています。日本人の「信じる」という感覚とは違う表現です。つまり、神様に心に入って頂くのではなく、神様の守りの中に入れて頂くのです。

旧約時代には、その家の客となった人に対して、主人は命をかけて守る習慣がありました。親鳥がひな鳥を守るように、客人を守るのです。病人であればなおさらです。「それは、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである」と、9節に記しています。

★どうして神様は、無名なこの詩人を1~13節にあるように次々と守って下さるのでしょう。それは「彼がわたしを愛しているから」(14節)と神様の言葉が記されている通りです。これが神様を愛する者への約束なのです。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と申命記6章5節にも記されています。イエス様もマタイ22章36~38節でこの言葉を引用しておられます。

★今日の詩篇の作者は、病気かあるいは敵という、命に係わる問題に直面していました。その詩人に神様は「私の救いを彼に見せよう」と言われたのです。それは、詩人が神様の守りの中に住んで、神様を愛する人だったからです。私達も主の守りの中に住み、神様を愛する生活を開始しましょう。