Monthly Archives: 9月 2022

9月25日「私のただひとつの願い」

詩篇NO27「私のただひとつの願い」27篇4~6節,13~14節

                        仁井田義政牧師

 私達は、日常生活の中で時には疲れを感じ、暗闇に取り囲まれているように感じてしまうことがあります。ダビデも戦いの真っただ中で、疲れと闇を感じていました。その中でも、ダビデには揺るがない希望がありました。それは1節の中に出てくる「光」の存在です。それゆえに、力に満ちたこの詩を書くことが出来たのです。

★ダビデにとって、一番大切にし、一番願っていることがありました。それは、主の家に住むことでした。主の家で、生涯にわたって神様を賛美し、礼拝するということでした。イエス様も、ベタニヤのマルタとマリヤの家で「大切なのはひとつだけです」(ルカ10:38~42)と言われました。

★ダビデは、主の家で祈っている時に「あなたに代わってわたしの心が申します。わたしの顔を慕い求めよ」(7~8節)と言う心の声を聞きました。「わたしの顏」とは神様のことです。そして「あなたに代わってわたしの心は申します」とは、主が言われないのに私が言うという意味ではありません。主の言っておられることが魂の中で、本当に分かるということです。

★13節では「生ける者の地で、主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら」と疑問形になっています。それは、苦難の時に主の宮で祈ることが出来ることが、どんなに幸せなことかを意味しています。それゆえに、ダビデは、戦いという日々の命の危険の中でも、主の宮で祈り賛美する礼拝を第一としたのです。ですから人々にも「主を待ち望め。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め、主を。」(14節)と奨めることができたのです。

★現代は、ストレスの多い時代です。そのために日本人の成人20人に1人が、睡眠薬を飲んでいるという報告があります。不眠症になった時には、医者の指導のもとに睡眠薬を服用することもあるでしょう。しかし聖書は、ダビデのように戦争というストレスの多い中においても、平安でいられる道があることを教えています。それが「主の宮に住まう」ということであり、ダビデの「ひとつの願い」(4節)なのです。私達も三千年前のダビデの「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」との奨めに、「アーメン」と心から応えようではありませんか。

9月18日礼拝「誤解されて心が痛む時」

詩篇NO26「誤解されて心が痛む時」26篇1~12節

                        仁井田義政牧師

 この詩は、ダビデが人から誤解された時の祈りです。私達も生きていく中で、誤解されて苦しむ時があります。詩人は誤解されて、それを解くための反論も出来ずに苦しんでいます。私達は人から誤解された時、どうすれば良いでしょうか。

★ダビデは、自分は神様の御前で潔白だという確信がありました。しかしそのことは相手には伝わらず、誤解されたままでした。ですから神様の弁護を求めて祈っているのです。しかし詩人は「私は潔白だ」とどんなに思っても、人間ですから自分の知らない落ち度があるかも知れません。それゆえに「あなたの恵みが私の目の前にあり」(3節)と祈りました。つまり自分の正しさの限度をも、神様の御前に自覚しているのです。

★6~8節に出てくる「祭壇の回り」も「主の家」も、神様の幕屋のことです。現代で言うならば、教会のことです。悩んで家に閉じこもっていては、解決になりません。教会に来て、主を礼拝し、賛美し、主の御業を語ることが大切なのです。イエス様は、人々を愛し完全に正しいお方だったのに、誤解され極悪人として十字架につけられて殺されたのです。そのイエス様が、あなたの誤解されている心の痛みを、必ず理解してくださいます。

★9節の「血を流す」とは、暴力のことです。10節の「両手の放らつ」とは性的な罪のことです。また「右の手のわいろ」は言うまでもなく「賄賂」のことです。11節で、そのような怒りから来る罪の誘惑に身を委ねることなく「しかし私は誠実に歩みます」と告白しているのです。そのようにして12節で「私の足は平らな所に立っています」と、安全な安定した生活をしていることを証言しています。

礼拝において、イエス様が誤解され嘘の証言によって十字架に付けられたことを明かに見ることによって、その心の痛みも消えていくのです。

皆さん、人生においては誤解されたり、悪口を言われたりすることもあるでしょう。しかし、その時に腐るのではなく主に信頼して祈りましょう。その結果、ダビデが12節で「私は数々の集まりの中で、主をほめたたえましょう。」と感謝にかえられたように、私達も人から誤解されることがあっても、主をほめたたえる生活を奪われないようにしましょう。

9月11日礼拝「主よ。御名のために」

詩篇NO25「主よ。御名のために」25篇1~11節

                        仁井田義政牧師

今日の詩篇は、アルファベットの順に書かれています。つまりヘブル語の「アーレフ。ベート。ギメル」という順に作られているのです。作者自身はもとより、この詩篇を読む人々が、すぐに覚えやすく、繰り返し口ずさむことができるように作られたと考えられるのです。それだけに、重要な内容が込められた詩篇ということが出来ます。その内容は、この詩篇に多く出てくる「恥・罪・咎」という言葉に表わされています。その重大な問題を、どのように解決することが出来るかを、この詩篇は教えています。

★恥について。

アメリカ人ルース・ベネデクトは「菊と刀」という本の中で、日本の文化は「恥」の文化であると書いています。武士の世界では、人に切られるよりは切腹を。兵隊では、捕虜になって恥をかくよりは玉砕を美としたのです。この「恥」の文化は、人の目を気にすることです。それが多くの人を生きづらくしてしまっているのです。

★咎と罪について。

咎とは、人に対する悪い行為を指すと言われています。また罪は、神様に対しての不従順のことであると言われています。7節でダビデは「若い時の罪」のことを言っています。聖書では、「咎と罪」は区別されていないことが多いです。順序立てて言うならば、罪が咎を生むということが出来るでしょう。

★11節に「主よ。御名のために、私の罪をお許しください」と記されています。それは「御名によってだけ」と訳せる語です。罪や咎の代償となりうるものは、この世に存在しないのです。解決は、「御名によって」以外はないのです。それは使徒4章12節にも記されています。これが初代教会からの救いの真理なのです。

★恥、咎、罪を持ったまま、自分を騙し、人の目を騙し逃げ続けている人生には、平安がないのです。犯罪者が「逮捕されてほっとした」と言うことが多いのです。人が死ぬ時に一番心配になるのは、人生の罪の問題だと言われます。どんな罪もイエス様が許してくださると信じましょう。

9月4日礼拝「永遠の戸よ。上がれ」

詩篇NO24「永遠の戸よ。上がれ」24篇1~10節

                        仁井田義政牧師

 この詩篇は、ダビデがエブス人の地であったエルサレムを占領し、ダビデの町とした時のことです。そのエルサレムに神の箱を運び入れた時のことが第二サムエル記5~6章に記されています。その時ダビデは、嬉しさのあまり裸になって、喜び踊りながらエルサレムに入ったと記されています。当時、神の箱は神の臨在そのものでした。7節の「門よ、お前たちの頭をあげよ」は、まさにエルサレムの城壁の門なのです。

★ダビデは、「世界とその中に住む者は主のものである」という言葉で、それまでのイスラエル民族の神を世界の神として示しています。その世界の神を礼拝できる人は、「手がきよく、心が清らかな者」と4節に記されています。完全に「聖」人などいません。ですから「その人は、主から祝福を受け、救いの神から義を受ける」人であると記されているのです。

★7節に「門よ、お前たちの頭をあげよ。永遠の戸よ。上がれ」と記されています。イエス様のエルサレム入場の場面が思い浮かびます。しかしイスラエルは、イエス様をエルサレムから排除しました。それと同時に、黙示録3章20節にあるイエス様が私達の心の戸を叩いておられる様子を思い起こします。また、ヨハネ14章1~3節には、私達を天国に迎えるために、天に帰って行かれたイエス様のことも思い起こします。

★「永遠の戸」は「手が汚れ、心が清らかでない人」の為にも、「救いの神」の義によって、聖くされて入ることができるのです。イエス様は心の戸を叩いておられるのです。

★イエス様がエルサレムの門を入られた時、群衆はイエス様を取り囲んで「ホサナ・ホサナ=主よ、いま救ってください」と叫んで迎えました。しかしその群衆は、一週間もたたない内にイエス様を門の外に追い出し、十字架に付けてしまったのです。しかしイエス様は、三日目に復活されて、天国に向かわれました。それは、私達のために救いの扉を永遠に開けて下さるためでした。この救いの扉は、誰も閉じることができません。なぜならこの扉の開放を命じられたのは、「万軍の主」イエス様だからです。イエス様の救いを信じましょう。そして感謝の人生を歩き続けましょう。