Monthly Archives: 12月 2022

2022年クリスマス礼拝「神に栄光、地には平和を」

2022年クリスマス「神に栄光、地には平和をルカ2章8節~14節

                       仁井田義政 牧師

皆さん、クリスマスおめでとうございます。今年もいろいろな事件が起こりましたね。イザヤ書の60章2節に「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には【主】が輝き、その栄光があなたの上に現れる」とあります。クリスマスは、暗闇に住んでいる私達に主が光として来てくださった記念の日なのです。

★聖書には「暗闇に野宿の番をしていた羊飼いたちを主の栄光が照らし出した」ことが記されています。彼らは、文字通り暗闇に包まれていたのです。そこに突然、神様の栄光が現われ、光が彼らを包んだのです。彼らは神様の光に照らされて、主役となったのです。

★聖書には「栄光が神にあるように」と記されています。クリスマスは、神様の素晴らしさが御子の誕生によって現わされた日なのです。またイエス様は「平和を与えるために来られた」ことが記されています。それは「御心にかなう人々に」とあります。イエス様は平和を与える為に来られたのです。

★しかしマタイ10章34~36節を見ますと、その逆の矛盾するような言葉が記されています。そこには「わたしが来たのは、地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです」と記されています。それは「わたしを信じようとする時、家族さえも反対するでしょう」という意味です。反対される覚悟で、イエス様をお迎えすることが大切なのです。そのような人が「御心にかなう人々」であり、そのような人に本当の意味での平和が来るのです。

★イエス様は、真の光としてこの世に来られました。イエス様の光によって、あなたは輝くのです。羊飼いたちは暗闇に包まれていましたが、天からの光が彼らを照らし出しました。雰囲気だけのクリスマスならば、天からの光と天使達の賛美があれば、充分だったでしょう。しかしそれだけでは不十分なのです。ですから御使いは「ダビデの町、ベツレヘムに行って、布にくるまれ、飼葉桶に寝かされている幼子を探しなさい。その子こそあなたがたの救い主です」と言われたのです。私達もロマンチックなクリスマスの雰囲気を超えたところで、強い決意をもってイエス様を受け入れ、信じようではありませんか。

12月18日礼拝「私の望み」

詩篇NO39「私の望み」39篇1~7節

                       仁井田義政 牧師

 今日からアドベント第四週に入りました。来週の日曜日は、いよいよクリスマスです。皆さんアドベントをいかがお過ごしでしたでしょうか。アドベントの目的は、クリスマスを迎える心と魂の準備にあります。今日の御言によって、いよいよクリスマスをお迎えする霊的な準備をしましょう。

★ダビデは「自分を悪く言う者に言い返すと、罪を犯す結果になることが多い」と沈黙を決意しました。人間は字のごとく「間」が大切です。ダビデは罪を犯すことを恐れて、人との「間」を絶った時、心に激しい痛みが起こりました。人間の大切な「間」には、もう一つ大切な「間」があります。それは神様との「間」です。ダビデはそれに気が付きました。

★ダビデはこの詩篇で、「人生は短く、幻のようで、むなしいものである」と言っています。日本人の平均寿命の推移を見ますと、縄文時代15歳。江戸時代34歳。明治時代44歳。現代80歳を超え90歳になろうとしています。しかしどんなに平均寿命が延びたとしても、人生は短いものです。この詩篇はダビデの老齢時の詩篇と思われますが、高齢の人にだけではなく若者にとっても大切な視点です。人生は短いのです。まさに5~6節にあるように、「人はないも同然」であり、その人生は「幻のよう」なのです。

★ダビデは自分の残された短い人生を見つめ、「主よ、今、私は何を望みましょうか。それはあなたです」(7節)と言っています。それは神との関係であり、神との「(あいだ)」のことなのです。さらに「私は、あなたと共にいる旅人です」(12節)と言っています。旅人とは帰る所がある人のことです。13節では「私を見つめないでください」と言っていますが、それは「私の罪に目を留めないでください」という意味です。

★人との「間」に傷ついて生きてきた人生に、生き直すチャンスなどあるのでしょうか。ひとつだけあります。ダビデは「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」と祈りました。私達も「主よ。私は、今何を待ち望みましょうか。私の望み、それはあなたです。」と、イエス様を信じて、信仰をもって祈りましょう。

12月11日礼拝「主よ、私の救いよ」

詩篇NO38「主よ、私の救いよ」38篇18~22節

                       仁井田義政 牧師

アドベントの第三週に入りました。今日の詩篇は、「悔い改めの詩篇」と言われています。この詩篇の作者ダビデは、思い病気の中にありました。その病気のために、家族や友人は去り、近づいてくるのは敵ばかりでした。ダビデは、孤独の中でこの病気と闘っていました。しかし病気は悪くなる一方でした。ダビデはこの詩の表題に「記念のためのダビデの賛歌」と記しました。それはダビデが病の苦しみの中から救われたことを決して忘れないために、記念するための賛歌であることを表わしています。

★ダビデは、この病気は「罪のため」(3節)「咎のため」(4節)と言っています。人間は病気になると突然、神の前の罪を意識するものです。そして「私は何も悪いことをしていないのに」などと言うものです。ダビデの病気は、火傷のように皮膚がただれる病気だったようです。(5節、7節)

★ダビデは、離れ去っていく友人や家族にも、またダビデの病気を悪く言う敵にさえも、反論しませんでした。ただ黙って「耳が聞こえない人のように」「言葉が話せない人のように」黙って耐えと記されています。「それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神主よ、あなたが答えてくださいますように」と祈っています。それは、病気の中でも神様への信仰を貫いていたからです。その信仰は、すさまじく強いものでした。

★ダビデは、「咎」も「罪」も神様の前に原因となっていると思われる全てを告白し、悔い改めました。(18節) それに対して、ダビデの敵はそのようなことは無駄だと罵りました。しかしダビデは「私を見捨てず、遠く離れず、主よ、私の救いよ」(21~22節)と祈っています。

★ダビデは「私の罪と咎の結果、この病気がもたらされた」と思って、罪を悔い改めて祈りました。この病気が罪咎の結果であったかどうかは分かりません。たとえそうであったとしても、「イエスは・・・御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直され」(マタイ4:2)るために来てくださったと記されているからです。イエス様は、病であっても悩みであっても、どんなことであっても、私達を救うために来て下さったのです。私達も状況はどうであっても、ダビデのように神様の救いを信じて祈り求める人となりましょう。

12月4日礼拝「主を待ち望め」

                       仁井田義政牧師

 12月に入りました。世の中を見ますと、様々な問題が渦巻き、津波のように襲い掛かっています。国の指導的な立場にあるはずの国会議員たちは、年間六千万円以上ももらっていながら、脱税までしている人がいるのです。ダビデの時代も、37篇1~23節の中に見られるように、悪者が私利私欲のために動き回っていたことが記されています。1節に「腹を立てるな」とありますが、「これに腹を立てずにいられますか」と反論したいくらいです。

★今日の聖書に記されている悪者は、借りたものも返さない人です。それはお金がないからではなく、もっと欲しいからです。むしろ貧しい人は、貧しさを知っているので、貧しい人に対して優しく、施したり貸したりすると記されています。そのような心の優しい人になりなさいというのです。

★34節には「あなたは悪者が断ち切られるのを見よう」と記されています。そうでしょうか。ダビデの時代も今の時代も、悪者が必ず裁かれて滅びるとは限らず、むしろ栄えていることも多いのです。聖書は、そのようなことを言っているのではありません。終末には必ず裁きがあるのです。この世で悪事を尽くして野生の木のように栄えたとしても、わずか数十年のことなのです。死後にはもう何もないのです。

★ですから聖書は「主を待ち望め」と記しています。37節には「全き人に目を留め、直ぐな人を見よ」「正しい者の救いは、主から来る」と記されています。「全き人、直ぐな人」などいるでしょうか。パウロはローマ3章26節で「全ての人は罪を犯した」と記しています。ですから全き人などいないのです。否、たった一人だけおられます。それはイエス様です。イエス様が私達の模範なのです。間違いのある人を模範とするならば、間違った人となってしまいます。統一教会が問題になっています。間違いのある人を模範とすると、その人々も間違った人になってしまうのです。

★「正しい者の救いは、主から来る」(39節)のです。イエス様は、既に来て下さいました。それと同時に、イエス様は再臨の主として来られるのです。 私達は、地上の欲に惑わされ不信仰や悪に染まることなく、イエス様を模範として、正しいクリスチャンとして生きて行きましょう。