Monthly Archives: 2月 2022

2月27日礼拝「正しい者と悪者の道」

詩篇講解(NO.1)「正しい者と悪者の道」1篇1~6節

          仁井田義政牧師

 今日から旧約聖書の詩篇の講解メッセージを開始します。詩篇は150篇ありますから、これから一回の礼拝で一篇のスピードでお話していきたいと思います。詩篇からのメッセージを通して、神様が私達を霊的に成長させて下さることを信じます。

★「詩篇」と言いますと、詩集と思う方がいらっしゃると思いますが、ヘブル語のテヒリムは、「賛美」あるいは「賛美の歌」と言う意味です。その題から見ても、昔の讃美歌集であったことが分かります。しかし今から三千年以上も前の讃美歌なので、楽譜が無かった時代でもありメロディは喪失してしまいました。

★詩篇一篇は、「幸いなことよ」で始まっています。それは感嘆文です。それから見ても、詩篇は感情豊かな文章であることが分かります。何が幸いなのでしょうか。「それは不信仰者の側に立たず、神様や信仰者をあざけるような人と一緒にいない」人だと言っています。さらに「昼も夜も主のおしえを口ずさむ人。その人は水路のそばに植わった木のようだ」と言っています。この所の水路は「複数形」で、そのそばに植わった木は「植えられた木」の意味です。つまり神様が農園主のように、私達を植えてくださったというのです。農園主である神様は、私達に実がなるようにと愛を込めて世話をして下さいます。ですから当然、神様の恵みによって実がなり、また栄えるのです。

★悪者はそれとは違い実がないので、風に吹き飛ばされてしまうと作者は言います。また悪者は、正しい者の集いに立てないとも言います。つまり天国の礼拝には入れないのです。悪者はどんな生き方をしても滅びるのです。

★今日の詩篇の内容は、神様を信じて生きて行く人は、水路のそばに植わった木のように実を結び、不信仰な人は神様が祝福されないので必ず滅びていく。このシンプル極まりない信仰の秘訣を、しっかりと自分の人生に当てはめることが出来る人は幸いです。信仰生活をシンプルにしましょう。神様を信頼する人は何をしても栄え、神様を信じない人は何をしても滅びるのです。ですから私達は「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさみ、水路のそばに植わった木のよう」に生きて行きますと決心し、心から祈りましょう。

2月20日礼拝「恵みがあるように」

コロサイ書講解(NO.20)「恵みがあるように」4章14~18節

           仁井田義政牧師

コロサイ人への手紙も今日が最終回です。私達はこの手紙を通して、初代教会の様子を垣間見ることが出来ました。それは壮絶な時代でした。

★今日の所にも挨拶を言付ける人々の名が出てきます。当時は、手紙を持って行く人に挨拶を言付けたのです。今日の所には、ルカの名が出てきます。ルカは十二弟子ではありませんでしたが、「ルカによる福音書」と「使徒の働き」を書いた人です。ルカは医者で、パウロといつも一緒に行動していました。次に出てくる人はデマスです。ピレモン24節には「同労者」と記されているのに、ここでは称賛する言葉は何も記されていません。それはパウロが彼の信仰の変化に気付いていたのだと思われます。第二テモテ4章10節でデマスは「世を愛し」と教会を離れたことが記されています。

★次に出てくるのは、ヌンパという名の女性です。初代教会において、女性信徒の働きは大きかったのです。この女性は自分の家を開放して、礼拝の場所つまり教会としたのです。教会と言っても、十字架の付いた会堂ではありません。ギリシャ語で教会は「エクレシア」と言います。それは「集まる」という意味です。当時、迫害下にあったクリスチャン達の集まる場所として家を開放することは危険でした。しかしヌンパはそれをしたのです。

★パウロは、この手紙の最後の行になって、自分でペンを取りました。それは、この手紙がパウロの手紙であることを証明するサインのような働きをしました。パウロは「牢に繋がれていることを覚えていて下さい」と記しました。クリスチャン達を殺していた者が、キリストの為に命をかける者になり、手紙をかいていることを、異端の人達にも示そうとしているのです。そして「恵みがありますように」と、最後に祈りでこの手紙を終わるのです。

★私達はコロサイ人への手紙を通して、初代教会の様子を垣間見ることができました。初代教会にも、デマスのように信仰を捨て世の中に戻って行ってしまった人までいました。しかし教会には、マルコやルカのような忠実な信徒達もいました。ヌンパのように、迫害下において自分の家を教会(集まる所)として開放する女性もいました。パウロは「どうか恵みがあなたがたと共にありますように」と祝福の祈りを捧げています。教会とクリスチャン達には、どのような状況でも神様の「恵み」が注がれているのです。

私達はそのことを信じ、感謝して生きようではありませんか。

2月13日「命がけの宣教」

      コロサイ書講解(NO.19)「命がけの宣教」4章7~13節

                         仁井田義政牧師

今日の部分は、コロサイ書の終わりの挨拶文になっています。既に本論は終わっていますが、今日からの挨拶文を二回に分けて話したいと思います。

★まず挨拶文は、この手紙を持って行く人のことが記されています。その人の名は、テキコです。彼はパウロの書いた「エペソ人への手紙」「コロサイ人への手紙」そして「ピレモンへの手紙」も届けた人と言われています。パウロは、彼を「忠実な奉仕者」「同労者の(しもべ)」と紹介しています。彼は使徒ではありませんでしたが、福音の為に働くパウロの同労者となって、献身的に奉仕していました。

★次にオネシモという人のことが記されています。彼は脱走奴隷で、逃走先でパウロと出会ってクリスチャンになった人でした。今はパウロの主にある兄弟として、主人のピレモンのもとに帰るのです。教会は彼を脱走奴隷としてではなく、「兄弟として迎えて欲しい」と記しました。

★次にアリスタルコの名が出てきます。パウロは彼を「私と同じ囚人となっている」と紹介しています。彼はパウロの第三伝道旅行に同行し、そしてローマにも同行し囚人となったのでしょう。

★次にマルコの名も出てきます。マルコはラテン語です。へブル名はヨハネです。十二弟子ではありませんが、マルコの福音書を書いた人です。ここにはユダヤ人三人のアリスタルコ、マルコ、ユストの名が出てきます。それは、律法主義を押さえる為に書かれたと思われます。

★次にはコロサイ教会の開拓者エパフラスの名も出てきます。彼は、パウロの伝道によってクリスチャンになった人と思われます。しかしコロサイ教会に異端問題が起こると、約1260キロも離れたローマまで、パウロの意見を聞きに旅をしてきたのです。命がけの旅だったでしょう。ローマに着いてパウロを訪ねると、彼も捕えられ、パウロと同じ牢獄に入れられました。そのために帰れないのです。牢獄の中で、コロサイ教会の人々が正しいキリストの救いを守り続けられるように、祈り続けていました。

★このような命がけの人々の宣教によって、福音は正しく現代にまで継承されて来たのです。今日の御言で、神様は「生ぬるい信仰から目を覚まして、命をかけた信仰者になりなさい」と語りかけておられます。その御言に従って霊的な目を覚まそうではありませんか。

2月6日礼拝「目を覚まして祈る」

                         仁井田義政牧師

コロサイ人への手紙は、今日の所で内容としては終わりで、7節からは、最後の挨拶となります。パウロは、コロサイ教会が様々な問題の渦巻く中で、クリスチャンはどのように生きるべきかを記しています。

★それらの問題の解決法が、結論として記されています。それは「目を覚ましてたゆみなく祈る」と言うことです。「目を覚まして」は、信仰の目であり、霊的な目です。聖書の御言を通して見ると言っても良いでしょう。それは、「感謝をもって祈る」祈りなのです。たとえ家族の中に問題があったとしても、感謝をもって祈るべきなのです。それは1章16~17節にあるようにキリストが万物の主であり、全てを支配しておられるからです。

★教会全体が目を覚まして祈る具体的な内容についても記しています。それは、教会が困難な中においても、福音宣教の為に祈ることです。この祈りを忘れると、クリスチャンの霊的目が閉じられるのです。パウロは獄中で、「この奥義の為に祈って下さい」とコロサイ教会の人々に祈りの依頼をしました。「奥義」とは、キリストの救いや恵みのことで、素晴らしい事実でありながら、謙遜でないと見えないのです。ですから「隠されている」という意味の「奥義」という言葉が使われているのです。

★奥義が人々に伝わって行く大切な方法があります。それをパウロは「あなたがたも外部の人に対して、親切で塩味のきいた言葉を使うよういつも心掛けなさい」と教えています。クリスチャンが、伝道と証の立つ生き方を謙遜の限りを尽くして祈り生きる時、人々もその謙遜に触れ、謙遜にさせられるのです。その時、聖霊によって周りの人々も謙遜が与えられるのです。

★パウロの時代は、迫害の連続でした。パウロは、その福音の為に捕らえられ、ローマの牢獄からこの手紙を書いているのです。福音は、普通の人には見えないのです。もし見えたならば、パウロも捕えられることがなかったでしょう。私もクリスチャンになったばかりの時は、キリストが見える姿で現れて下されば、宣教が何と手取り早いことかと思いました。しかしキリストの救いは「奥義」で、謙遜になった人にしか見えないのです。信者でない人ならまだしも、目を覚まして祈っていなければクリスチャンでさえ、見えなくなってしまうのです。私達は霊的に「目を覚まして、感謝をもって、たゆみなく祈り」ましょう。「証の立つ生き方」をしましょう。