Monthly Archives: 10月 2023

10月22日礼拝「老人ダビデと賛美」

詩篇NO.71「老人ダビデと賛美」71篇9~14節 

                   仁井田義政牧師

この詩も、伝統的には老人ダビデの作と言われています。今から三千年前のイスラエル人の平均寿命は、40歳くらいでした。ダビデは60歳位でこの詩を書き、70歳まで生きました。それから見て、ダビデは相当な老人でした。老化は誰にも避けることが出来ません。この詩は、クリスチャンである私達が、年老いた中どう生きるべきかに、大切な示唆を与えています。

★老人ダビデは、自分の息子アプシャロムに王位を狙われ、反逆されるという苦しみ中にありました。ダビデは荒野へと逃げたのです。老人ダビデにとって、荒野はとてもきつい所でした。アブシャロムは、容赦なくダビデの命を狙いました。しかしダビデは、決して息子アプシャロムの命を取ろうとは思わなかったのです。

★この詩の中には、ダビデの苦難の中での祈りが記されています。ダビデは「母の胎から取り上げたのはあなたです」(6節)と祈っています。ダビデであろうと誰であろうと、神様をそう信じる人の信仰は強いのです。またダビデは「あなたの義によって私を救い出し、私を助け出して下さい」(2節)とも祈っています。これは、キリストを信じる私達にとって大切な祈りです。なぜなら私達も、自分の義ではなく、主の義によって祈る者とされたからです。

★ダビデの生涯は、20節にあるように「多くの苦しみと悩みに会った」ものでした。ダビデはその中で、老人になっても数多くの賛美歌を作詞し、作曲し、演奏し、歌いました。しかも15節で「私の口は一日中、あなたの義とあなたの救いを語り告げましょう。私はその全部を知ってはおりませんが」と言っています。つまり、神様の恵みは無限ですから、これからもどんどんと神様をたたえる賛美を作り歌うと言っているのです。

★老人になって息子に命を狙われる苦難に遭うという、これ以上の苦しみがあるでしょうか。しかしダビデは、はかり知れない神様の義と救いを賛美したのです。これぞ私達が学ぶところです。老人ダビデは、現実には苦難があったとしても、苦難に負けない賛美の人でした。神様の尽きることのない恵みを賛美する人だったのです。私達も、ダビデにならって神様の恵みを心から歌う人になりましょう。

10月15日礼拝「あなたは私の助けです」

                詩篇NO.70「あなたは私の助けです」70篇1~5節 

                   仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、「指揮者の為に」「記念の為に」と書かれていますから、詩は旧約時代に大切な「礼拝」や「記念の集会」で繰り返し歌われ用いられた讃美歌あることがわかります。なぜそのように用いられたのでしょうか。それは、ダビデ王が苦難の中で作った詩だからです。

今日のメッセージは、あなたの苦難と照らし合わせながら聞いていただきたいと思います。

★ダビデ王は、少年時代に巨人ゴリアテに立向かって倒すほど勇敢な人でした。大人になってからは、イスラエルの国民にとって、今でも憧れの偉大な王様です。しかしそのようなダビデにも、幾度もの想像を絶するような苦難があったのです。2節に「私の命を求める者ども」とあるように、その苦難は敵の軍隊なのです。

★ダビデは激しい苦難の中で、いの一番、神様に祈りました。エロヒム「全宇宙の創造者」は、創世記1章1節の天地創造の神「エロヒム」と同じです。苦難の時に誰に頼るのか、ダビデは力の神に祈ったのです。そのような特権を与えられている私達は何と幸いでしょう。

★「エロヒム」は力の神。「アドナイ」は恵みの神。「あなた」は友達のような神と考えられます。ある国から短期で日本伝道に来られた牧師がいました。日本人が、神様に「神様、あなたは」と祈っていると、「神様にあなたと祈るのは失礼です。」と注意しました。「イエス様は、アバ=お父ちゃんと祈りなさいと教えてくださっていますよ」と言いたかったのです。

★ダビデは、少年時代にはライオンと戦って羊を守り、戦争の最前線で3m近くのペリシテ人ゴリアテ(Ⅰサムエル17:4)を石投げ器で倒しました。王様になってからも、イスラエルの国土を凄い勢いで拡大していく勇敢さと知恵に満ちた人でした。また彼は詩人であり、音楽家であり、文字通り文武両道に秀でた人でした。しかし苦難があり、祈ったのです。

★あなたも、苦難の中にある時には、神様と呼び、主と呼び、あなたと呼ぶことの出来る、いや「お父ちゃん」とさえ呼ぶことのできる神様に、救いを求めましょう。

10月8日礼拝「69篇とイエス様の十字架」

詩篇NO.69「69篇とイエス様の十字架」69篇18~21節 

                   仁井田義政牧師

この詩篇は、キリスト誕生のおよそ千年前に書かれたものです。驚くべきことに、その詩篇が千年後のキリスト十字架の大切な部分に、多数引用されているのです。今日は、そのことを中心にお話し致しましょう。

★もちろん第一義的には、ダビデの苦しみの詩篇であることは言うまでもありません。第一義的にとは、ダビデがこの詩を書いた時の理由のことです。この詩の1節にあるように、ダビデが強い敵の攻撃にあって、死さえも予感し苦しんでいます。ダビデはその中で、3節にあるように神様の助けを求めて祈っていますが、その祈りに神様の助けがないと言うのです。しかしダビデはその苦しみの中で、神様に感謝しています。そして「神様は苦しみの中での感謝の祈りを喜ばれる」と自覚し、告白しています。それは、ダビデの素晴らしい信仰でした。

★この詩篇の9節が、ヨハネの福音書2章の「宮清め」の時に引用されています。イエス様は、エルサレム神殿を「神の家」として愛しておられました。しかしイエス様がそこに行かれると、そこは物の売買場所になってしまっていました。イエス様は激しく怒り、商売人を追い出されたのです。その結果、イスラエルの有力者達から迫害されるようになりました。純粋な神様への愛が、人からは憎まれることもあるのです。

★当然、ダビデが千年後のイエス様のことを知ってこの詩を書いたのではありません。それなのに十字架のイエス様の苦しみと、状況が完全に一致したのです。69篇20節のダビデへの「そしり」と、裁判時のイエス様への「そしり」と同じでした。また69篇21節の「渇いた時には酢を与えた」という言葉が四福音書に記されており、キリストの十字架に成就した御言として、全て引用されているのです。

★ダビデもイエス様も、激しい苦しみにあいました。ダビデもイエス様も、その苦しみの中で感謝の祈りをささげたのです。神様はその祈りを「何にもまして喜んでくださる」と、69篇31節に記されています。

私達も、苦しみの中でも感謝の祈りが出来る人になりましょう。神様は、その祈りを最上の祈りとして、喜んでくださるからです。

10月1日礼拝「重荷を担われる主」 

                   仁井田義政牧師

今日の詩篇68篇の内容は、祈りあり、感謝あり、イスラエルの歴史に言及するところありで、多岐にわたっています。そこで68篇の中心的な御言を探し出し、お話しましょう。

★私達の人生には、負い続けなければならない重荷があります。重荷とは、悩みのことだけではなく、責任としての重荷もあります。会社員は仕事に対しての責任があり、親は子に対しての経済や教育に対して責任があります。そしてその重荷からは逃げられません。それに加えて、それらの問題からくる取り越し苦労という重荷もあります。この詩篇では、敵が重荷となっています。

★この詩篇の偉大さは、人間の様々な重荷を担って下さる主(神様)がおられると示しているところです。自分一人で担う重荷は、文字通り重荷ですが、御言のように「主が日々重荷を担って下さる」ことを知れば、重荷も軽くなるはずです。イエス様は、マタイ11章28~30節で「全て疲れた人、重荷を負う人は、私の所に来なさい。私があなたがたを休ませてあげます」と言われました。その条件は、謙遜になってイエス様の言葉を信じることです。

★私達の人生の最大の重荷は、「地上の命の死」と「霊的命の死」です。「地上の命の死」は、寿命による死です。その他には自死があります。

それに加えて、日本人には霊的な死の問題も解決していないで生きている人が多いのです。

★重荷を担われる神様は、私たちの重荷を日々担って下さいます。そればかりか、霊的な命までも救ってくださるのです。まさに「死を免れるのは、私の主、神による」と20節にある通りです。それではどのようにすれば、私達の重荷を主に担っていただけるのでしょうか。それは、謙遜になって神様を信じることです。私は19歳でそのことを知りました。神様はその時からずっと私と一緒に歩いて下さり、重荷を担って下さっています。

神様はあなたの重荷も日々担って下さいます。謙遜になって神様を信じて、平安な人生を歩き出しましょう。