Monthly Archives: 3月 2024

3月24日受難週「あざ笑われた十字架」

受難週「あざ笑われた十字架」ルカ23章32~43節

                         仁井田義政牧師

今日から受難週が始まります。今週は、イエス様が私達を罪から救うために、エルサレムにおいて過ごされた一週間を思い巡らし、感謝する一週間です。イエス様は、ゴルゴタの丘で十字架につけられました。

★イスラエルに王様のいない時代が、イエス様の時代です。イスラエルのヘロデ大王が死んで後、ヘロデの三人の息子は王ではなく、領主としてローマから命名されていました。しかもヘロデ家はイドマヤ人で、血統の重んじるユダヤ人ではなかったのです。そこにイエス様が現われました。イエス様は、ダビデ王の血統につながる御方でした。イエス様がエルサレムに入られる時、人々がイエス様に王様になって欲しいと期待したのも無理のないことでした。しかしイエス様は、病気の人・経済的な弱者・外国人・精神障害者・取税人等、当時差別された人々を救う為に活動されました。人々は、そのようなイエス様に失望し、十字架につけたのです。

★人々は、十字架についたイエス様をあざ笑いました。一番目は、指導者たち(35節)でした。二番目は、ローマの兵士たち(37節)でした。「ユダヤ人の王なら自分を救え」と言って、あざ笑ったのです。三番目は、十字架につけられていた犯罪人(39節)でした。「あなたはキリストではないか、自分と私たちを救え」と悪口を言い、あざ笑ったのです。イエス様をキリスト「油注がれた王」とは、信じられなかったのです。

★しかし、犯罪人の一人は「おまえは神をも恐れないのか・・・この方は悪いことは何もしなかったのだ」と言いました。そして「イエス様、あなたの御国の位におつきになる時には、私を思い出して下さい」と祈ったのです。イエス様は「あなたは今日、私と共にパラダイスにいます」と言われました。イエス様を信じたこの犯罪人は、自分の「罪」を認めたところに、他の人達とは全く異なるところがあったのです。

★今日の聖書には、三種類の人々が出てきました。その人々は、十字架につけられたイエス様を見てあざ笑ったのです。一人だけがイエス様を信じたのです。

あなたはどうでしょうか。あざ笑う立場に立ちますか。それとも十字架のイエス様を信じる人になりますか。

3月17日礼拝「神の葛藤と救い」

詩篇講解NO85「神の葛藤と救い」詩篇85篇1~13節

                         仁井田義政牧師

 今日のメッセージに「神の葛藤と救い」という題を付けさせていただきました。そもそも完全なる神様に、葛藤などあるのだろうかという疑問が残ります。しかし聖書に示されている真の神は、葛藤されるのです。それは10節にあるように、神は「恵みとまこと」の神だからです。この詩篇には、神様の葛藤の姿が見えるのです。

★そもそもこの詩篇には、詩文であるがゆえに矛盾があります。その矛盾を埋める解釈学的な解決法として、いくつか考えられます。そのひとつは、詩人から見て1~3節までを、未来に関する預言的な言葉と見ることです。

また4~7節を、詩人が現在体験している苦しみの状況と見ることです。そして8~13節を、現在の苦しみからの解放と見ることです。

★1節に出てくるヤコブの繁栄を一個人のことではなく、イスラエル民族のことであり、その希望であるとすれば、まだ実現していない希望のことと考えることが出来ます。その繁栄の妨げになっているのは、民の「咎と罪である」と詩人は2節で言っています。イスラエルの歴史の中で、罪を犯したイスラエルが栄えたことは一度もありません。

★10節から神様の葛藤が記されます。それは神様が「恵みとまこと」に満ちた御方だからです。罪の為に苦しむ人々を「まことの神」は、罪の裁きなしでは赦すことが出来ません。しかしその正義の神様は、同時に「恵みに満ちた赦しの神」なのです。神様はその矛盾する心で、葛藤されるのです。日本語の「葛藤」とは、つる性の「(くず)」と「(ふじ)」のことです。そのつるが、がんじがらめに絡まってしまう(さま)です。その解決法は、人間の考えには全くないのです。ですから「神の仰せを聞きたい」(8節)と詩人は言うのです。

★神様は「神の葛藤」の究極的な解決法として、イエス様を遣わされました。それは、ヨハネ1章14節に「この方は恵みとまことに満ちておられた」と記されている通りです。詩篇85篇10節に「恵みとまこととは互いに出会い、互いに口づけしています」と預言されています。ですからあなたもイエス様を信じ、神様の祝福を受ける人となりましょう。

3月10日礼拝「なんという幸せ」

詩篇講解 NO84「なんという幸せ」詩篇 84 篇 1~12 節
仁井田義政牧師
今日の詩篇は、神様を信じる者の幸せについて記しています。この詩人は
神殿から遠い所に住んでいる人のように感じます。何らかの理由で、外国に
住んでいる人かもしれません。この詩は、読む者をはっとさせ、純粋な信仰
へと目覚めさせる力に満ちています。
★詩人は「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは」(4 節)
「雀や燕さえも住家を見つけました」(3 節)と言っています。彼は神殿の大
庭を恋い慕っています。(2節) そこにおられる神は、生ける神で偶像等と
は全く違う神であることを現わしています。そして雀と燕の譬えで、人間の
心の平安がそこにあることを示しています。ここで、詩人は第一回目の「な
んと幸いなことでしょう」という感嘆に満ち溢れた言葉を記しています。
★5 節では「なんと幸いなことでしょう。・・シオンへの大路のある人は」と
二度目の感嘆文を記しています。「シオンへの大路にある人」とは、詩人の
エルサレムを目指しての巡礼時のことかも知れません。礼拝に行くためには
長い道のりと、その道での困難や危険がありました。「彼らは涙の谷を過ぎ
る時も、そこを泉の湧く所とします」(6 節)とあるのは、そのことなので
す。これは文字通りの巡礼の道だけではありません。私達の人生であり、実
生活の中でのことです。それを乗り越えて礼拝に向かい、集うのです。
★詩人は「あなたの大庭の一日は、悪の天幕の千日にまさる」(10 節)と言
い、「神の宮の門口に立てるだけでも良い」と言っています。あらゆる困難
を乗り越えて行く神殿には、異教の宮のような神様の見える姿はありませ
ん。ですから 12 節で「なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその
人は」と、第三回目の感嘆文を記しています。目には見えないけれども、生
きておられる真の神に信頼することこそが大切なのです。それが、真の神を
信じる信仰者であることの幸せなのです。
★私達も、神の宮である教会を大切にしましょう。またどんな困難があって
も、日曜日の礼拝を大切にしましょう。そして何にもまして、見えない神様
を信じていることを最高の幸せとし、見えないからこそ、生きておられる神
様に全信頼を置く信仰の幸せを得ようではありませんか。

3月3日礼拝メッセージ「勝利するのは誰か」

詩篇講解NO83「勝利するのは誰か」詩篇83篇1~18節

                         仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、戦いの祈りの詩です。私達にも様々な戦いがあります。そのような時に、次々に神様が指導して下さり、神様の奇跡的な御力によって敵に勝利することが出来れば、それほど力強いことはありません。

★今日の詩篇には10の民族の連合との戦いが記されていますが、そのような戦争は聖書の歴史にはありません。そのことから、実際に起きた戦争ではなく、時代が違う戦争をまとめたものと考えられます。詩人は、この詩篇で真の神を信じる者の国に、度々戦いを挑んでくる者達を「滅ぼしてください」と祈りました。

★しかし神様は、その祈りに沈黙されたのです。私達も、祈ってもいのっても、神様が沈黙され行動して下さらないと感じることがあります。この詩人は「私達が攻撃されているのは、あなたが攻撃されているのですよ」と苛立っています。イエス様も、ゲッセマネの園で、裁判で、十字架で、神様の沈黙を体験されました。しかしイエス様は、はためには敗北に見える十字架において、神様の沈黙の中、勝利を信じて前進されたのです。

★この詩人の究極的な願いは、16節や18節にあるように、「彼らも神を知ること」にありました。詩人が言うように、時には神様が「沈黙」され、「その活動が見えず」何の力もないように見えても、結果は勝利するのです。それは、聖書全体のメッセージです。黙示録も、力強くその事を記しています。まさに「全地の上にいますいと高き方」(18節)なのです。

★先ほど、イエス様が十字架につけられる時「ゲッセマネの園や、裁判、十字架でも神様は沈黙しておられた」と言いました。その時には、同胞のユダヤ人たちからは嘘の証言を立てられ、ローマ兵からは唾をかけられ、平手やこぶしで叩かれ、いばらの冠をかぶらされ、葦の棒を持たされたのです。しかし、神様は黙しておられました。十字架につけられた時も、そうでした。しかし、神様のお働きは、その沈黙の中で始まっていたのです。黙示録にあるように、イエス様こそ最終的な勝利者なる神様なのです。「小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば小羊は主の主、王の王だからです。」(黙17:14)

私達はそのことを信じて、あらゆる戦いに挑んでいきましょう。