Monthly Archives: 1月 2023

1月29日礼拝「なぜうなだれいるのか」

詩篇NO43「なぜうなだれいるのか」43篇1~5節

                      仁井田義政 牧師

今日の43篇と前の42篇とは、非常に似ています。それゆえにこの二つの詩は、本来ひとつの詩であったのではないかと言われています。ともに最後の節などは、全く同じなのです。その内容は、どちらも深い悩みに満ちています。その悩みの中での神様への問いと、自分自身への問いがなされています。そういう意味で、困難の中に生きる私達の詩なのです。

★1~2節で、詩人は「不正の人から助けてください」と神様に訴えています。そして「あなたは私の力の神であられるからです」と祈っています。す。そう信じれば信じるほど、詩人は良くならない現状のために苦しみが増しているのです。神が力の神であるなら、私は神から拒まれ捨てられているとしか考えられないと言っています。

★ダビデは、エルサレムから遠く離れた所から、エルサレムの神の家を慕い、祈っているのです。それは3~4節に「聖なる山、あなたのお住まい」と記されていることでわかります。私達はなんと幸いなことでしょう。神の家である教会が、悩みの時の「祈りの家」として、いつでも行ける距離にあるのです。ダビデにとって最も喜びとすることは、神の御許に行って礼拝することでした。

★ダビデは、辛さでくじけそうになった時「わがたましいよ。なぜおまえはうなだれているのか。なぜ思いが乱れているのか」と、自分の深部に語り掛けました。ダビデは、自分に問いかけたのです。実生活の中で、何が起ころうとも、何が起こらなくとも、神様が神様であられることに変わりはありません。ですからダビデは「神を待ち望め。なおも神をほめたたえる」と言って、その信仰を深めたのです。

★ダビデのような困難や苦難に遭うことを、進んで望む人はいません。しかし困難や苦難は、私達が望むと望まざるとにかかわらず、私達の人生には起こるのです。ですからダビデは「神を待ち望め。なおも神をほめたたえる。私の神を」と、自分に言い聞かせて信仰を強くしたのです。

私達も苦難や困難に遭う時に、ダビデのようにもう一度信仰をジャンプさせましょう。

1月22日礼拝「生ける神を求めて」

詩篇NO42「生ける神を求めて」42篇1~11節

                      仁井田義政 牧師

 42篇は、詩篇第二巻の最初の詩篇で、それにふさわしく霊的なものです。またコラの子ら(合唱隊)のマスキール(教訓の意味)」との説明が記されています。実はコラの士族は、民数記16章32~33節で、モーセとアロンに、「私達も民の指導者になりたい」と言って、逆らった歴史が記されています。この詩自体は、ダビデがその子アブシャロムに命を狙われ、イスラエルの北方に逃げた時の詩であろうと言われています。

★この詩には有名な「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように」との御言が1節に記されています。この鹿は、喉も体も渇ききっている状態です。その渇いた状態を「あえぐ」という言葉で表わしているのです。詩人は絶対に必要な水に例えて、私は「生ける神」を求めているのだと言っているのです。「生ける神」とは、死んでいる神の反対語です。

★生ける神を求めるダビデに、人々は「お前の神はどこにいるのか」と言ってあざ笑います。この礼拝のメッセージを聞いている人の中にも、キリストへの信仰を反対され涙を流している人がおられるかもしれません。しかし、イエス様も十字架上で反対され、血を流されたのです。詩人は、そのような激しい攻撃の中で、かつての礼拝の様子を思い起こし「我が魂よ、なぜうなだれているのか、神を待ち望め」と自分を励ましているのです。

★次に、ダビデが書いた「ヨルダン。ヘルモンの地。ミツァールの山から私はあなたを思い起こします。」という言葉に目を向けましょう。ヨルダンはヨルダン渓谷のことであり、ヘルモンは万年雪のある高山。ミツァールは低い山の意味です。それは、どんな水の豊かな地にあろうとも、私の魂は生ける水である生ける神を慕い求めると言っているのです。

★ダビデは自分の子供アブシャロムに王位を狙われ、神の都エルサレムから逃げて、イスラエルの最北端にまで逃げて来たのだと思われます。悩みの中でダビデは「わがたましいよ・・なぜお前は、私の前で思い乱れているのか」と語り掛けています。私達もうなだれ、思い乱れることがあるでしょう。そのような時には、ダビデのように、自分を励まし信仰を貫く道を前進しましょう。どんな時にも、死んだ神ではなく、生ける神を求めましょう。

1月15日礼拝「アーメン。アーメン。その通り。その通り」

詩篇NO41「アーメン。アーメン。その通り。その通り」41篇5~13節

                       仁井田義政 牧師

 今日の詩篇は、ダビデの第一巻の終わりのところです。この詩は、キリストの十字架にまで預言的に言及されています。そういう意味で非常に興味深く、ダビデの詩篇第1巻の終わりの詩として、最もふさわしいものです。

★1~2節で、ダビデは日常の「弱っている人」に心を配ってきた人生を振り返っています。「神はそのような人を必ず助け出される」という、現代においても一般的な因果応報的な理解を述べています。しかし現実は、彼の病気によって弱ってきていることを喜ぶ「敵」(2節)がいたのです。

★貧しい人に心を配ってきたからと言って、私に罪がないということではなく、罪はあるとダビデは告白して、神様の前にどこまでも真実であろうとしています。しかし見舞いに来た友人が「邪悪なものが、彼にとりついている」(8節)とダビデの悪口を言いました。

★9節では、キリストの十字架についての預言がされています。イエス様が、最後の晩餐でこの言葉を引用されているので分かります。それはユダの裏切りのことです。イエス様は、ダビデの体験した親しい者からの裏切りは、私において究極的に実現したと言われているのです。つまり詩篇41篇は、キリストの受難において成就したのです。

★10節に「仕返しができます」とあります。しかしそれは病気から立ち上がることによってです。ユダや人々の裏切りに遭い、十字架で殺されたことはイエス様の敗北ではありません。イエス様は復活によって勝利されたのです。その事実は、真の神にしか出来ない逆転勝利でした。

★まさに最後の言葉にあるように、「ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで」なのです。イエス様の敗北に見えた十字架の死があったからこそ、復活という勝利につながったのです。

あなたにも、イエス様の十字架のような苦しみがあるかもしれません。しかし十字架には、逆転の勝利があるのです。それで41篇は「アーメン。アーメン」と、第一巻が閉じられるにふさわしい言葉が記されています。それは「その通り。その通り」という意味です。私達もそれに倣って、「アーメン。アーメン。その通り。その通り」と心から信じて祈りましょう。

1月15日礼拝「アーメン。アーメン。その通り。その通り

詩篇NO41「アーメン。アーメン。その通り。その通り」41篇5~13節

                       仁井田義政 牧師

 今日の詩篇は、ダビデの第一巻の終わりのところです。この詩は、キリストの十字架にまで預言的に言及されています。そういう意味で非常に興味深く、ダビデの詩篇第1巻の終わりの詩として、最もふさわしいものです。

★1~2節で、ダビデは日常の「弱っている人」に心を配ってきた人生を振り返っています。「神はそのような人を必ず助け出される」という、現代においても一般的な因果応報的な理解を述べています。しかし現実は、彼の病気によって弱ってきていることを喜ぶ「敵」(2節)がいたのです。

★貧しい人に心を配ってきたからと言って、私に罪がないということではなく、罪はあるとダビデは告白して、神様の前にどこまでも真実であろうとしています。しかし見舞いに来た友人が「邪悪なものが、彼にとりついている」(8節)とダビデの悪口を言いました。

★9節では、キリストの十字架についての預言がされています。イエス様が、最後の晩餐でこの言葉を引用されているので分かります。それはユダの裏切りのことです。イエス様は、ダビデの体験した親しい者からの裏切りは、私において究極的に実現したと言われているのです。つまり詩篇41篇は、キリストの受難において成就したのです。

★10節に「仕返しができます」とあります。しかしそれは病気から立ち上がることによってです。ユダや人々の裏切りに遭い、十字架で殺されたことはイエス様の敗北ではありません。イエス様は復活によって勝利されたのです。その事実は、真の神にしか出来ない逆転勝利でした。

★まさに最後の言葉にあるように、「ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで」なのです。イエス様の敗北に見えた十字架の死があったからこそ、復活という勝利につながったのです。

あなたにも、イエス様の十字架のような苦しみがあるかもしれません。しかし十字架には、逆転の勝利があるのです。それで41篇は「アーメン。アーメン」と、第一巻が閉じられるにふさわしい言葉が記されています。それは「その通り。その通り」という意味です。私達もそれに倣って、「アーメン。アーメン。その通り。その通り」と心から信じて祈りましょう。

1月8日礼拝「幸いなことよ、主に信頼する者は」

詩篇NO40「幸いなことよ、主に信頼する者は」40篇1~6節

                       仁井田義政 牧師

新年も第二週に入りました。今日から詩篇の講解メッセージを再開いたします。今日の詩篇は、「指揮者のためのダビデの賛歌」という題がついています。それは、大切な歌として繰り返し正式な礼拝において演奏され歌われたことを意味します。なぜそれほど大切な歌なのでしょうか。

★この詩は、感謝と祈りの二部構成になっています。1~10節は感謝の詩篇で、11~17節は苦しみの中の祈りになっています。逆ですと「悩みから救われた歌」となりますが、前半と後半があまり違うので、別の詩ではとの説さえあります。

★前半は、後半の苦しみの中にいる著者が、かつての神様の救出を思い出し希望を繋いで祈っている歌です。長年の信仰生活においては、信仰の財産として神様の救出の御業が積み上がり、そのことが試練に耐える力となってきます。ですからダビデにも、そのことが財産となり賛美となって、苦難の中のダビデを支えたのです。私達も苦難に強い人になりたいと思います。

★この詩は、キリストを預言した詩とも言われています。それは、 『わたしは、あわれみは好むがいけにえは好まない』(マタイ9:13)とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」とイエス様が引用されているからです。それはまたマタイ12章7節でも引用されています。

★このように、幾度もの神様の救出を体験した人は、11節のように苦しみにあっても絶望することなく、神様に祈ることが出来るのです。もちろん苦しみや悩みなどは無い方が良いのですが、イエス様も「この世においては悩みがある」(ヨハネ16:33)と言われました。イエス様は絵空事のような約束はされません。この世にいる間は様々な苦難や問題が襲ってきますが、その時にも救い主である私が共にいるのだから、そのことを信じて祈り勇敢に生きて行きなさい。と言っておられるのです。

私達もダビデのように、苦難の中にあっても、新しい歌を歌いながら、新しい年を楽しく生きて行きましょう。

2023年主日元旦礼拝「恐れるな。私はあなたと共にいる

2023年主日元旦礼拝「恐れるな。私はあなたと共にいるイザヤ41章10節

                       仁井田義政 牧師

明けましておめでとうございます。今年の御言は、イザヤ書41章10節の預言の言葉を選ばせていただきました。イザヤ書は大きく分けると39章までは、イスラエルの背信の裁きとして敵国の奴隷となるという預言であり、40章からは、その罪が赦され奴隷から解放されるという預言です。

★今年の御言の41章10~14節の間に「恐れるな」という言が3回もあります。その理由は、新しい解放の年が来たからです。バビロン捕囚を見た預言者エレミヤが、「捕囚期間は70年」と預言しました。(エレミヤ25:8~13)

★しかし、バビロンで70年も奴隷生活をしていたイスラエルの民は、神が起こした奇跡を信じられませんでした。突然ペルシャ王クロスが出現し、バビロンを倒し、イスラエル民族を解放すると言ったのです。しかしイスラエルの10部族は、イザヤの言葉もエレミヤの言葉も信じられませんでした。ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族は、神様の祝福の言葉を信じられずにバビロンに残りました。

★自由が与えられたのに帰ってきたのは、何とユダ族とベニヤミン族の2部族だけでした。その2部族だけが、荒れ果てたイスラエルに帰ってきました。そのユダ族の中から、やがてイエス様が生まれました。それは地球の歴史を二分する程の、神様の奇跡であり祝福でした。イエス様の誕生と十字架によって、私達の不信仰の全てを解決し、罪の奴隷から解放して下さったのです。それは、突然出現してバビロンを倒しイスラエルを奴隷から救ったクロス王にまさる御方の出現でした。

★イエス様の誕生は、預言者イザヤによって言われた「恐れるな。私はあなたと共にいる。私はあなたを強め、あなたを助け、私の義の右の手であなたを守る。」という御言の究極的な実現でした。ですから、その祝福の言葉を信じずバビロンに残った10部族のようになってはなりません。神様の祝福の御言を信じて、「神様が私を守り祝福してくださる」と強く信じて、新しい祝福の年である2023年を、希望に満ちて踏み出しましょう。