Monthly Archives: 8月 2023

8月20日礼拝「自滅と救い」

詩篇講解NO64「自滅と救い」詩篇64篇1~10節

                       仁井田義政 牧師

 今日の御言の表題には「指揮者の為に、ダビデの賛歌」とあります。それは、この詩が公的な礼拝の場で賛美されたものであることがわかります。つまり一人で祈る時に、指揮者の率いる聖歌隊はいないからです。そうしてみると、礼拝者全体に語り掛ける内容であることがわかります。つまり私達にも「このような教会となるように」と、語り掛けている詩篇なのです。

★この詩篇で、ダビデは「私の嘆く時」と記していますが、王として代表して祈っていると考えて良いのです。「恐るべき敵」「悪を行なうもの」とは、神を神と思わず不信仰な人々のことです。彼らは目に見える武器ではなく「舌の剣」「苦い言葉の矢」で攻撃してくるのでした。蔭口です。しかも彼らは、それを悪いことだと思っていないのです。

★5節~6節に「悪者たちは悪事に凝っています」と記されています。現代のネット社会も、詐欺に満ちています。私の所にも毎日最低でも10通は詐欺メールが届きます。詐欺者達は頭が良いのでしょう。凝った内容のメールが届くのです。しかしダビデの受けている「苦い言葉の矢」は、そのような詐欺とは種類が違います。信仰の共同体を破壊するように企む集団からの攻撃でした。その攻撃は巧みで、「誰が見破ることが出来よう」と確信し、「うまくいった」と勝ち誇っているのです。

★それに対して、ダビデは「私が嘆く時、私の声を聞いてください」(1節)と祈る以外、手の打ちようがありませんでした。しかし、神様による「しかし」があるのです。7節に、悪者達が不意に神様によって裁かれ、悪者達の攻撃の言葉が、悪者達の命取りとなるのです。

  ★そして9節~10節には、こうして神様の正しさに生きる信仰者達は、誇りに満ちて生活するようになることが記されています。神様は正義者に勝利を与えられ、人々は正義の神がおられることを知るのです。また礼拝者たちは「主にあって喜び、主に身を避ける」礼拝をするのです。 

★どんな悪者の策略にも、神様は勝利され、礼拝者たちは喜び礼拝をすることが書かれています。クリスチャンには、悪の世に生きる勇気が必要です。神様が悪に勝利されるからです。私達も神様の勝利を信じて、神様をほめたたえる礼拝をする教会となりましょう。

8月13日礼拝「神への渇き」

詩篇講解NO63「神への渇き」詩篇63篇1~8節

                       仁井田義政 牧師

この詩篇は、ダビデが我が子アブシャロムに命を狙われて、荒野に逃げていた時の詩であろうと言われています。自分の愛する子に命を狙われるということほど、辛いことはないでしょう。それが1節に記されている「神への渇き」なのです。

★砂漠では水が一番必要です。人は苦難の中で、人生で一番必要なものを見つけることがあります。ダビデは、アブシャロムとの親子の家庭問題で、荒野にいます。現代も、多くの人が家庭問題で潤いを失った砂漠にいるような体験をしているのではないでしょうか。砂漠の中では、水だけが必要になります。それと同じように、ダビデは苦しみの中で、イスラエルの神としてではなく「私の神」として、神を渇き求めました。それは、ダビデと神様との強いつながりを表わしているのです。

★砂漠の水のように、ダビデが求めていたものは、神様の「力と栄光と恵み」でした。砂漠に「聖所」などあるはずがないのに、ダビデは「聖所」と言っています。粗末なテントの中での苦しみ「神に渇く」所が、神様の臨在する聖所になるのです。ダビデは祈りの中で、「あなたの恵みは命にもまさるゆえ」と言っています。命に優る恵みなどあるのでしょうか。しかし人間は、その命を粗末にすることがあります。ですから神様の恵みは、命に優るのです。苦しみのゆえに死さえ願うようなその時にも、神様の存在と恵みを知ったダビデは、神様を賛美するのです。

★それは、どんな厳しい砂漠のような家庭問題の苦しみの中にも、ダビデは祈りの中で「私の神」を感じました。ダビデは「生きている限りあなたをほめたたえる」と神様を賛美しました。これは、ダビデの信仰と同時に決心です。ダビデは、祈りの中で「私の神」に「両手を上げて祈った」のです。しかし現実には、アブシャロム問題はひとつも解決していませんでした。ですから6節に「眠れない夜」と記しているのです。

★ダビデの詩篇は、机上の空論ではありません。生身の人間が、家庭問題で苦しんでいるのです。ダビデは祈りの結果、この家庭問題は生ける神様の守りによって、私の勝利に終わると確信したのです。あなたも人生を放り投げたりしないで、ダビデのように「私の神」を求めて祈りましょう。

8月6日礼拝「私はただ神を待ち望む」

詩篇講解NO62「私はただ神を待ち望む」詩篇62篇1~12節

                       仁井田義政 牧師

 今日の詩篇の中心聖句は「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」という御言です。ダビデは信頼していた友人に裏切られ、命を狙われています。ダビデはその辛い体験の中で、揺るぎない信仰の道を見出しました。私達も、信頼していた人に裏切られて辛い体験をすることがあります。ですからこの詩篇が、私達に強く迫ってくるのです。

★ダビデは、その解決に私達が陥りがちな人に頼って解決しようとしました。そして身分の低い人に頼って傷を舐め合おうとしても、解決になりませんでした。また身分の高い人に頼って助けてもらおうとしても、助けにはなりませんでした。結果は、かえって失望と不安が増すばかりだったのです。むしろ人に頼ろうとするそのような姿勢こそが、友に裏切られる結果になっていると気付かされるのです。(そのことは、9~10節に記されています。)

★ダビデは、「人に頼る生き方が虚しいことだと知りなさい」と、神様が「一度告げられた。私はそれを二度聞いた」と言っています。それは、神様が一度教えて下さった言葉を、私は反復したということでしょう。神様に頼ることが確実なのだという考えは、決して人間からは出ないのです。人間から出る考えは、「人に頼れ!富に頼れ!」ということが多いのです。しかし神様は、新しい生き方を天から啓示されたのです。

★ダビデは、ついに揺るぐことのない信仰の境地に立ちました。それは、「私のたましいは、ただ黙って神を待ち望む」という境地です。それは、希望は神から来るからです。神こそ、敵や問題から身を守る「岩」、泥沼から救う「救い」、敵から身を守る「やぐら」だと言っています。私達の問題を解決する力は、人間からは決して来ないのです。

★今日の中心的な御言は、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」であると最初にお伝えしました。この「ただ」は、何もしないことではありません。ダビデは一度聞いたことを、二度聞くという信仰の大切なことを苦難の中でしたのです。「神様が私を愛し、守り、私の遭遇しているこの困難の中から必ず助け出して下さる」と信じ、心の隅々にまで、魂の隅々にまで、こだまさせたのです。そして襲い掛かる不安から、主にあって脱出したのです。私達も、御言を魂の奥底まで響かせて強くなりましょう。