Monthly Archives: 3月 2022

3月27日礼拝「自分の心を見張る人」

詩篇講解(NO.5)「自分の心を見張る人」5篇1~12節

          仁井田義政 牧師

 今日の御言のように、私達の人生には苦難があります。苦難は、私達の心を鍛えることもありますが、心を弱らせて絶望的な人生にしてしまうこともあります。日本の昨年の自死者は、21,007人でした。動機の一位は病気で、二位は生活苦でした。私達は、どのように生きて行けば良いのでしょうか。今日の御言はそのことを教えています。

★ダビデの朝の祈りは、祈りと言うよりも「うめき」であり「叫び」でした。今日も敵がダビデの命を狙ってくるのです。私達にとって命を狙うものは、病気も経済的なこともそうです。ダビデはその圧迫によって、祈りが「うめき」「叫び」となっていたのです。

★3節の「備え」は、動物の犠牲のことです。昔は、羊などの群れの中で一番良い羊を祭壇に捧げました。動物犠牲は、自分の罪の身代わりとして捧げたもので、自分の心を省み見張る時でした。当時、羊全てに名前が付いていました。一番良い羊なら尚更のことです。私たち日本人は牧畜民族ではないので、この感覚はわかりにくいかもしれません。しかし愛しているペットを自分の罪の身代わりとして犠牲として捧げなければならないとすれば、どんなに悲しい思いをするでしょうか。その時に、自己中心になりがちな心を見張り、神様に喜ばれる生き方をする決心をしたのです。

★7節でダビデは、自分の心を守る為に「私は、豊かな恵みによって、あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します」と言っています。私は、あなたの豊かな恵みによって神の家に行って祈る」と記しています。この所で大切なのは「神の恵みによって」と記されていることです。誰も自分は正しい人間だからと言って、神のもとに来ることはできません。「神の豊かな恵みによって」なのです。

★この詩は「うめき、叫ぶ」の声で始まっています。苦しみの時にこそ朝ごとに祈り、夕ごとに神の家に来て、自分自身を神に捧げつつ礼拝し祈るという詩です。そのようにして自分の心を見張るのです。主はそのような正しい信仰者を「大盾をもって守られる」(12節)のです。私達も、困難にあった時に「心を見張る」ことを心掛け、いっそう信仰に歩むことを決意し祈りましょう。神様は、必ず大盾をもって守ってくださいます。

3月20日礼拝「苦難の中の喜び」

詩篇講解(NO.4)「苦難の中の喜び」4篇1~8節

          仁井田義政 牧師

 今日の第4篇も、ダビデが我が子アブシャロムから命を狙われている苦難時代の詩篇であると言われています。この詩は、私達がダビデと同じように苦難の中にある時、どのようにして喜びを失わずに生きることが出来るかを学ぶことが出来ます。

★1節の「私が呼ぶとき、答えてください」は、ダビデが苦難の中で主の名を呼んだのです。神様が呼べば応えて下さる方であることを表わしています。私達は、苦難の時に神様の名を呼ぶことさえ、おろそかになってしまうことがあります。「今、困難の中にありますので、落ち着いたらまた教会に行きます。それまでお休みします」等という言葉になって現われます。ダビデは、苦難の夜に祈ったのです。苦難の夜は、一層不安になる時です。病気で入院などしますと、とても夜が不安になり、朝が来て明るくなってくるのをひたすら待つのです。ダビデは、苦しい中で神様の名を呼んで祈りました。その神様は「私の義なる神」です。それは自分が正しい人間だから祈るのではなく、私を義として下さる神様だから祈るのです。

★2節の「人の子たちはいつまでわたしの栄光を恥ずかしめ」は、ダビデに敵対してアブシャロムを担ぎ上げている者たちのことです。「いつまで」は長期に亘っていることを表わしています。「私の栄光」は、神様が王として任じて下さったことです。それに反逆することは、「神の選び」に対して反逆することなのです。神に立てられた王に反逆するということは、空しく無駄な行為なのです。

★3節の「知れ」はとても強い言葉です。何を知らなければならないのでしょうか。「主はご自分の聖徒を特別に扱われる」ということです。苦しみの夜に、主の名を呼ぶ聖徒達の祈りを「特別に扱われる」のです。このことを全てのクリスチャンは知らなければなりません。選ばれていることに感謝して、確信して祈るのです。

★私達は、神様の愛する特別な存在とされた者なのです。ですから神様はその人を特別に扱って下さるのです。祈りの中で神様の名を呼び「神様!私は神様にとって特別な人とされました。」と言いましょう。困難が大きければ大きい程、「私は神様により分けられた特別な人だ」と、祈りの中で告白しましょう。そうすれば苦難の中にあっても、心に喜びが与えられるのです。

3月13日「苦難の中でも平安に生きる」

詩篇講解(NO.3)「苦難の中でも平安に生きる」3篇1~8節

          仁井田義政 牧師

今日の詩篇の表題は、ダビデが我が子アブシャロムに王位を狙われた時のものです。アブシャロムは、「自分が父親の跡を継いで王となるのに最もふさわしい」と思っていました。しかしダビデは、ソロモンを王にしようとしていました。その事に怒ったアブシャロムは、ダビデを殺そうとして仲間を集め、勝手に「私が王である」と宣言し、父ダビデに反逆しました。その事は、第二サムエル記17章~18章に記されています。

★アブシャロムは「私が王になったら、お前達の願いを全部聞き入れてやる」と言って、多くの人々を味方につけました。その事はダビデの耳にも入ってきました。それは「ダビデには神の救いはない」という言葉でした。

★しかしダビデは、人が私を何と言おうと「あなた(神様)は私の回りを囲む楯、そして私のかしらを高くあげて下さる方です」と信仰の告白をしたのです。そのかげには、何度も敵の攻撃や批判に疲れうなだれる夜もあったでしょう。そのような時にも神様に祈ると、遠く離れたエルサレムから神様は応えて下さると言うのです。それが「主に呼ばわると聖なる山から答えて下さる」と言うのです。

★その数を増してきた敵の圧迫を受けながらも、夜眠ることが出来る。そして「また私は目を覚ます」と記しています。その「また」とは、いつもという意味です。一日や二日の苦難ではなかったことを示しています。朝に目を覚ましたタビデは、祈りの中で「私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない」と確信します。そして「主よ!立ち上がって下さい」と祈りました。戦いの勝利は、人の多いことによらないからです。激しい戦いに勝利を与え、窮地から救い出して下さるのは主だからです。まさに「救いは主にあり」です。この確信こそ、信仰者に大切なのです。

★ダビデはそのような時でさえも「あなたの祝福が、あなたの民の上にありますように」と、王としてのとりなしの祈りを忘れませんでした。詩篇は、文学ではありません。信仰の戦いの言葉なのです。ですから私達の信仰生活の模範となるのです。私達もダビデのように、いわれのないことで苦しみ悩むこともあるでしょう。しかし私達も、ダビデのように神様を信頼すれば「苦しみの中でさえも平安」に生きることが出来るのです。ダビデに倣って、私達も主に信頼する信仰者になれるよう祈りましょう。

3月6日礼拝「世界の王キリスト」

詩篇講解(NO.2)「世界の王キリスト」2篇1~12節

          仁井田義政牧師

 詩篇二篇の冒頭は「なぜ国々は騒ぎたち、国民は空しくつぶやくのか」という言葉で始まっています。今から三千年も前の国際状況を現わしています。現代も世界の国々は騒ぎ立っています。ロシアによるウクライナへの侵攻。それに対する西側諸国の牽制。第三次世界大戦に突入してしまうかも知れない事態なのです。聖書は、三千年も前からそのような人間の愚かさを解決する道を示しています。それがこの詩篇二篇なのです。

★ 主の教えに逆らう王達の姿が記されています。「かせを打ち砕き、綱を解き捨てよう」は、神の教えに猛烈な反対行動をする王達の姿です。それは、また国の指導者達の自己神格化の姿なのです。

★自己を神格化した王達は、自分の思い通りに何でも出来るし、人々を幸せに出来ると思い込んでいるのです。それを「天の御座に着いている者」、つまり神様がその愚かさを笑っておられるのです。詩篇は、キリストのことが預言的に書かれています。そのことは、ルカ24章44節でイエス様ご自身が言っておられます。今日の詩篇に出てくる「油注がれた者」とは、聖霊が注がれた者の意味であって、その究極が「イエス様」です。

★7節に記されている「あなたは、わたしの子、わたしがあなたを生んだ」の言葉は、新約聖書に幾度かキリストのこととして引用されています。(へブル書5:5参照)この方に国々の支配を委ねられたのです。世界を支配するために諸国を侵略したギリシャ帝国、ローマ帝国、モンゴル帝国、フランス帝国、日本帝国、等々の帝国は、いま何処にありますか。多くの人々を殺し、殺された歴史だけが残っているのです。この詩篇二篇を通して、いま私達は全歴史を見通す神様の目、キリストの目が与えられているのです。

★イエス様だけが、世界中で二千年以上も、偉大な救い主であり続けているのです。イエス様が十字架につけられた時、そのことを誰も信じることが出来なかったのです。しかし聖書の詩篇に、様々な支配者達が我が物顔に闊歩し、神のように振る舞っても程なく倒れ、キリストの支配のみが全歴史の上に続いていくことが記されているのです。しかも今日の詩篇の最後に「幸いなことよ、すべて主に身を避ける人は」と記されています。

イエス様は世界の王です。信じる全ての者に、幸せを与えて下さる王なのです。