Monthly Archives: 6月 2022

6月26日「愚か者の愚かさ」

詩篇NO14 「愚か者の愚かさ」14篇1~7節

         仁井田義政 牧師

 今日の御言には、神様の目から見た愚かさが書かれています。本当の愚かさは「神はいない」と言うことだとはっきりと言っています。

★神がいないとすれば、私達の生まれるのも死ぬのも、偶然の出来事になってしまいます。なぜなら私達は、自分の意志で生まれたのでもなく、自分の意志で死ぬのでもないからです。初めと終わりが偶然なのに、どうしてその真ん中の人生に意味があるでしょうか。刹那的で不安な人生となってしまうのです。

★「心の中で神はいないと言っている」とは、神を信じていると言っている人でも「心の中で神はいないと言っている」という意味です。そのようなことは可能なのでしょうか。それは可能です。イエス様はパリサイ人・律法学者達を「白く塗った墓」と叱責されました。彼らは「私達は誰よりも神を信じている」と公言する人達でした。ですからクリスチャンも気をつけなければなりません。

★4~5節は、出エジプト記にあるイスラエルの奴隷の姿を背景にしていると言われています。そこには、神の民を奴隷として食い物にしていたエジプトのパロ王がいました。彼は、力こそ善だと神の民を奴隷として支配したのです。しかし、神は正しい人(真の神を信じる人)と共にいて下さいました。エジプトの王は「神はいない」と言っていましたが、主が神様を信じるヘブル人の「避けどころ」であったのです。

★今日の詩篇で、ダビデは回復の時を祈りました。それは真の神への信仰の回復です。シオンはエルサレムのことです。そしてこの祈りの通り、キリストの救いはエルサレムから始まったのです。そして今、私達の所まで伝えられ、私達は今まで「神はいない」と言っていた愚かな生活に終止符を打ってクリスチャンになったのです。私達は、偶然に生まれて来たのではありません。また死ぬのも、何の目的もなく死ぬのではありません。天国に迎えられるために死ぬのです。生まれるのも、生きるのも、そうして死ぬのも、神様の愛が満ちているという人生に変えられたのです。そのことに感謝して、心から主の御名をほめたたえ、讃美しましょう。

6月19日礼拝「神の沈黙と祈り」

詩篇NO13「神の沈黙と祈り」13篇1~6節

         仁井田義政 牧師

 今日の詩篇13篇は、ダビデの孤独の祈りです。祈っても、祈っても、神の祈りに答えがないのです。しかもダビデは、いま重い病気にかかっていて、死ぬかもしれないと思っているのです。神様は私を捨て去られたのだろうか。神様は私を忘れてしまわれたのだろうかと、深い孤独がダビデを包み込みました。私達もクリスチャンとして生きてゆく中で、誰でも一度や二度はそのような体験するものです。今日のダビデの体験を自分のこととし、そのような時にうろたえることのないようにしておきましょう。

★ダビデは「主よ、いつ迄ですか」と祈っています。それはいつまで祈れば良いのですかという質問です。この詩の中には、「一日中悲しみがある」とも記されています。おそらく祈り始めてから数日は経っていたと思います。いや数か月かも知れません。それなのに神様は一向に祈りに答えて下さらない。その中で「あなたは私を永久にお忘れになるのですか」と祈っています。ダビデは、祈っても癒されない病気のゆえに孤独でした。

★それでもダビデは「私に目を注ぎ、私に答えて下さい」と祈っています。「目を注ぎ」は、「あなたの祈る姿を私は見ているよ」という神様の確証のことです。「答えて下さい」は、神様の声として「私は祈りを聞いた。私は必ず癒す」との言葉のことです。しかし神様は沈黙し、見て下さっているのか、聞いて下さっているのか全く分からないので、ダビデは孤独でした。

★祈っても、祈っても、神様はダビデの祈りに沈黙しています。それなのに5節を境に「私は、あなたの恵みにより頼みました」と、突然信仰と喜びと賛美に満たされます。それは、ダビデの気付きにありました。その気付きとは「私は、あなたの恵みにより頼みます」という言葉に現わされています。ここでの「恵み」とは、神様の約束、つまり「契約」のことを意味しています。ダビデは、たとえ神様の声が聞こえなくても、何ひとつ変わることなく、私には神様との契約があるという信仰です。

★ダビデの時代には、神様との契約、モーセの律法がありました。私達の時代には、完成した旧約聖書と新約聖書があります。ダビデは絶望的な中の祈りで、さらに強い信仰に到達したのです。私達もいつも変わることのない神様との契約があると告白し、逆境に強いクリスチャンになりましょう。

6月12日礼拝「主の御言に混じりけなし」

詩篇NO12「主の御言に混じりけなし」12篇1~8節

         仁井田義政 牧師

メールを開きますと、迷惑メールが多くその内容は詐偽です。また訪ねてくる人の中にも、「屋根の一部が壊れているので、修理させて下さい。」等と嘘をつく人もいました。今日の御言は、そのような嘘の多い時代をどのように生きて行けば良いかを教えています。

★「主よ、救って下さい」で始まるこの詩篇は、ダビデの祈りです。ダビデは、「聖徒も誠実な人も一人もいなくなってしまった」と訴えています。それは、神様を信じている人がいなくなったという意味です。ダビデはそう感じたのです。つまり社会倫理、道徳の堕落してしまっている世の中を嘆き、祈っているのです。

★うそ、へつらい、二心、傲慢な言葉が氾濫する中で、主の御言は唯一混じりけのない言葉です。現代は、嘘の言葉が氾濫している時代です。その中でも、祈る人の為に主は立ち上がり救われるというのです。どのようにしてでしょうか。それは、「純粋な、主のみことば」によってです。6節に「炉で7回もためされた」完全純粋な御言ですと記しています。 

★ダビデは祈りの中で、どんなに社会の状況が悪化しても、神様の真実な御言が諸悪から守って下さると確信するのです。世の中や自分の環境を、悪くなったと嘆くだけの人となってはなりません。たとえどのような劣悪な状況にあっても、神様は御言を信じ祈る人を、必ず守って下さるのです。

★第二テモテ3章1~5節に「終わりの日には自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、 情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、  裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです」と記されています。

今がその時代です。そのような時代から守られるために、混じりけのない、完全な御言を信じて、実行しましょう。神様はそのようなあなたを必ず守って下さいます。

6月5日ペンテコステ礼拝「キリストの力」

ペンテコステ礼拝「キリストの力」使徒1章3~9節

         仁井田義政 牧師

 今日はペンテコステの日です。それは、旧約時代からのイスラエルの祭です。「ペンテコステ」の意味は、五十日目という意味です。何から五十日目なのかと言いますと、「過越しの祭」から数えてです。過越しの祭も旧約時代からのイスラエルの祭りで、イエス様が十字架につかれましたのも過越しの祭の時でした。ですから、イエス様の十字架から数えても、およそ五十日目と言うことになります。

★イエス様が天に帰って行かれた後に、弟子達のしたことは、教会組織の立て直しでした。ユダがいなくなり、一人弟子が欠けていたからです。くじ引きでマッテヤが選ばれました。使徒1章26節に記されています。これで教会組織は完全に整えられたように見えました。しかしイエス様が言われたことは、組織を整えることではなく、聖霊による洗礼を受けることでした。

★聖霊のバプテスマ(洗礼)には、イエス様の約束が伴っていました。聖霊を受けると「力を受ける」との約束です。「力」とはギリシャ語でデュナミスという言葉で、ダイナマイト、ダイナミックなどの語源です。もうひとつは「エルサレムから始まり、地の果てにまで、私の証人となる」という約束でした。その約束を信じて、弟子達は十日間も祈りに専念していました。その祈りに専念していた120名に聖霊のバプテスマが下ったのです。

★聖霊を受けた人々は、イエス様の約束通りに聖霊の力を受ました。使徒4章13節では「ペテロとヨハネが無学な普通の人」なのに、大胆に御言を伝えているのに、人々が驚いた」と記されています。すぐに教会に対しての迫害が起こりました。しかし教会は、「聖霊に満たされ大胆に神のことばを語りだした。」と使徒4章29~31節に記されています。

★今日のメッセージは、教会にとって重要なことです。教会は組織を強くすることも軽んじてはならないことですが、それだけでは教会は強くなって行かないのです。聖霊のバプテスマに満ち溢れることが大切なのです。聖霊に満たされると、ペテロやヨハネのように無学な普通の人であっても、神様にお仕えし大胆に伝道し御言を語る者となるのです。聖霊の力に満たされて、強い教会、強いクリスチャンになりましょう。