2月6日礼拝「目を覚まして祈る」

                         仁井田義政牧師

コロサイ人への手紙は、今日の所で内容としては終わりで、7節からは、最後の挨拶となります。パウロは、コロサイ教会が様々な問題の渦巻く中で、クリスチャンはどのように生きるべきかを記しています。

★それらの問題の解決法が、結論として記されています。それは「目を覚ましてたゆみなく祈る」と言うことです。「目を覚まして」は、信仰の目であり、霊的な目です。聖書の御言を通して見ると言っても良いでしょう。それは、「感謝をもって祈る」祈りなのです。たとえ家族の中に問題があったとしても、感謝をもって祈るべきなのです。それは1章16~17節にあるようにキリストが万物の主であり、全てを支配しておられるからです。

★教会全体が目を覚まして祈る具体的な内容についても記しています。それは、教会が困難な中においても、福音宣教の為に祈ることです。この祈りを忘れると、クリスチャンの霊的目が閉じられるのです。パウロは獄中で、「この奥義の為に祈って下さい」とコロサイ教会の人々に祈りの依頼をしました。「奥義」とは、キリストの救いや恵みのことで、素晴らしい事実でありながら、謙遜でないと見えないのです。ですから「隠されている」という意味の「奥義」という言葉が使われているのです。

★奥義が人々に伝わって行く大切な方法があります。それをパウロは「あなたがたも外部の人に対して、親切で塩味のきいた言葉を使うよういつも心掛けなさい」と教えています。クリスチャンが、伝道と証の立つ生き方を謙遜の限りを尽くして祈り生きる時、人々もその謙遜に触れ、謙遜にさせられるのです。その時、聖霊によって周りの人々も謙遜が与えられるのです。

★パウロの時代は、迫害の連続でした。パウロは、その福音の為に捕らえられ、ローマの牢獄からこの手紙を書いているのです。福音は、普通の人には見えないのです。もし見えたならば、パウロも捕えられることがなかったでしょう。私もクリスチャンになったばかりの時は、キリストが見える姿で現れて下されば、宣教が何と手取り早いことかと思いました。しかしキリストの救いは「奥義」で、謙遜になった人にしか見えないのです。信者でない人ならまだしも、目を覚まして祈っていなければクリスチャンでさえ、見えなくなってしまうのです。私達は霊的に「目を覚まして、感謝をもって、たゆみなく祈り」ましょう。「証の立つ生き方」をしましょう。

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