9月15日礼拝「悩む者の祈り」

詩篇講解NO.102「悩む者の祈り」詩篇102篇1~13節

                    仁井田義政牧師

 今日のメッセージ題は、102篇の表題をそのままつけさせていただきました。私達の人生には、悩みと苦しみを体験することがあります。しかもこの詩人は、神様を信じている信仰者なのです。それは信仰者の上にも、悩みや苦しみがあることを現わしています。そのような時、私達はどのように祈ったら良いのでしょうか。

★詩人は、激しい悩みと苦しみを体験しました。その激しい悩みと苦しみは、この人の食欲まで減退させ、体まで痩せ衰えさせたのです。食物を食べても「灰のように。飲み物は涙」のように感じました。(8~9節)しかも、その原因が「あなたの憤りと怒りとのゆえ」と言っています。それは、「私の罪の故に」と言っていることと同じです。

★そのような絶望的な状況で「しかし主よ・・あなたはシオンをあわれんでくださいます」(12~13節)と祈っています。人間的には絶望的な状況にあっても「しかしあなたは」(ヘブル語のブェアター)で、一変するのです。この詩人の悩みと苦しみは、エルサレムの崩壊と関係しています。シオンはエルサレムのことです。エルサレムの崩壊という大きな事件が、一個人の悩みと苦しみの祈りとなっています。しかし神様は、その一個人の窮した者の祈りを「顧みてないがしろに」はされないのです。これこそ、詩人の個人体験なのです。(17節)

★詩人は、その体験を「後の時代の人々の為に書き記」しました。「新しく造られる民が、主を賛美しますように」(18節)との目的が記されています。その「新しく造られる民」とは、キリストの恵みによって救われた私達のことと理解しても良いのです。神様は、旧約の時代も新約の時代も、小さな者の祈りをないがしろにされません。神様は愛と優しさに満ちた御方なのです

★26節に「全てのものは衣のようにすり切れます」とあります。私達の命もはかないものです。しかし神様の恵みといつくしみは、変わることがありません。それゆえに「あなたのしもべらの子孫は住みつき、彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう」と結論付けられています。ですから、どんな時にも絶望せずに「主よ。私の祈りを聞いてください」(1節)と祈りましょう。

9月8日礼拝「全き道に心を留めよ」

詩篇講解NO.101「全き道に心を留めよ」詩篇101篇1~8節

                    仁井田義政牧師

 今日の詩篇101篇は、ダビデの賛歌という表題が付いていますが、ダビデ作かどうかはわかりません。少なくとも王職にあった人の作ということが出来ます。王職にある人は、どのように生きなければならないかを記しています。その人が悪い人だと、その国の民は苦しむことになります。現代の総理大臣や大統領たちにも、是非学んで欲しい詩篇です。

★王職にある人の理想は、まず神様の恵みと裁きを誉め歌う人でなければなりません(1節) つまり、自分を最高権威に置くのではなく、神様が最高権威者であることを認める人であるべきなのです。そして王職にある人は、神様が「恵みと裁きの神」であることを知っていなければなりません。

★2~4節では、王としての個人的な決意が記されています。王様は「全き道」に心を留める人でなければなりません。それは自分の考えにではなく、神様の道を歩むためです。2節に「私は、正しい心で自分の家の中を歩みます」と王の決意が記されています。つまり王たる者は私生活が大切なのです。3節には「私の目の前に卑しいことを置きません」と言っています。ダビデはウリヤの妻バテシェバを家に引き入れて罪を犯しました。この失敗の為に、ダビデ王家が陰り始めました。自分の息子アブシャロムに命を狙われ、後継者ソロモンは、異教徒の多くの妻を家に入れました。その結果、分裂国家となり弱体化してしまったのです。

★王様としての働きは、国中の真実な人達に目を注ぐことです。正しい人が馬鹿を見るような国を作ってはならないのです。正しい人が正しく評価される国作りに励むべきです。王の働きのもう一つは、治安の維持で「悪者を国からなくす」働きです。

★民主国家においては、主権者は私達です。家庭においても、親は子供たちの指導者であり、見本的な存在です。また職場においても、何らかの指導者であることも多いでしょう。私達もたとえ小さな集団の指導者であっても、大切なことは1節にあるように「神様の恵みと裁き」を賛美する人であることです。ですから私達は、自分の生活から主に喜ばれないことは、8節にあるように「朝ごと」に滅ぼす時を持とうではありませんか。

9月1日礼拝「感謝しつつ、賛美しつつ」

詩篇講解NO.100「感謝しつつ、賛美しつつ」詩篇100篇1~5節

                    仁井田義政牧師

 詩篇からのメッセージも、ついに100回となりました。第一回の一篇は、2022年2月27日に始まっていますから、約2年半にわたって詩篇からメッセージを取り次いできたわけです。今日の御言は、100篇の表題にふさわしく「感謝しつつ、賛美しつつ」です。

★まず1節に「全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ」と記されています。聖書は正にこのために書かれました。あるクリスチャンが近くに引っ越して来て、私達の礼拝に出席しました。するとみんなが大声で笑っていたので驚いたというのです。前の教会では、礼拝は厳粛な面持ちで、静かにしているものだと思っていたのです。しかし聖書は「喜びの声をあげよ」「喜びをもって主に仕えよ」「喜び歌いつつ主の御前に来たれ」と記しています。

★3節には「知れ。主こそ神」と記されています。つまり喜びの源は、主を知ることにあるのです。世界にはいろいろな宗教があり、いろいろな神がいると信じている人もいます。しかし本当の神は、唯一なのです。それを知ることが喜びの源なのです。さらには「主が私達を造られた」と記されています。たとえ「お前なんかうちの子でない」と親から捨てられた者であっても、私達のルーツは神様にあるのです。ですから「主が私達を造られた」と詩人は言うのです。親のいない子などはいません。神様が親だからです。

★3節の後半には「私達は主のもの。主の民。その牧場の羊である」と記されています。「私達は主のもの」とは、主の宝物であるということです。横浜港で、大きな船から銀のインゴットを陸揚げしたことがあります。その荷物室の扉は、びっしりと溶接されて守られていました。高価だからです。

また、3節に「私達は主のもの、その牧場の羊である」と記されています。それは羊飼いのいない迷子の羊ではないのです。イエス様が良き羊飼いであり、羊の為に命を捨てて下さったのです。(ヨハネ10:11)

★4節には「感謝しつつ・・賛美しつつ」と記されています。それは形式的になってしまっていた犠牲の捧げ物より、礼拝で最も大切なのは「感謝と賛美」であることを示しています。私たち溝の口教会は、これからも「感謝と賛美に満ちた」喜びの礼拝を主に捧げていきましょう。

8月18日礼拝「主は聖である」

詩篇講解NO99「主は聖である」詩篇99篇1~9節 

                        仁井田義政牧

詩篇99篇の最初に「主は王である」という言葉が記されています。詩篇の中では、何度か出てくる言葉です。それと同時に「主は聖である」という言葉も、99篇の中に3回ほど出てきます。その言葉は「神様は愛である」という言葉の陰に、薄くなってしまっている危険があるのです。神様が聖であることが分からなければ、神様が愛であるということもわからなくなってしまうのです。今日の「主は聖である」という御言を通して、もう一度信仰に燃やされていきましょう。

★主は全人類の「王」です。日本の宗教とか外国の宗教とかではないのです。2節にあるように、神様が世界の王であられ「全ての国々の民の上に高くいます」御方なのです。

★また主は「聖である」と言う言葉が、3回も出てきているのは、完全に聖いということです。この言葉が最も多く出てくるのは、イザヤ書の36回です。聖であられる神様は、汚れている者と交流を持つことが出来ないのです。その為にイザヤは「ああ、私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者で・・・万軍の主である王をこの目で見たのだから」(イザヤ6:5)と恐れました。これが、世界を支配する「聖なる神の聖さ」なのです。

★神様は聖であられる御方であり、罪に汚れた私達人間など、絶対に近づけない御方なのです。しかしその神様は「赦しの神」(詩篇99:8)でもあられます。詩篇作者は、その「絶対的な聖なる御方と、赦しの神」を記しています。イザヤも「神を見たので死ぬ」と恐れましたが、神様がひとつの方法で罪をきよめて下さったことを記しています。それは祭壇の炭火でした。

★祭壇の炭火とは何でしょうか。それは羊等を捧げて燃やした犠牲の火です。その火で、罪人であったイザヤの罪が赦されたのです。そこに、キリスト・イエスの十字架による救いと赦しの原型が見えるのです。洗礼者ヨハネが、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と言ったのは、そのことです。しかもその聖であり愛であられる神は、全世界の王なのです。小さな民族のたった一人も、忘れ去られることはありません。そのように私達を愛される神様に感謝して、献身的な信仰を持ちましょう。

8月11日礼拝「主は御救いを行われた」

詩篇講解NO98「主は御救いを行われた」詩篇98篇1~9節
仁井田義政牧師
今日の詩篇は、「新しい歌を歌え」との招きの歌です。この詩も、バビロン捕囚後に書かれたものだろうと言われています。なぜ新しい歌を歌えと書かれているのでしょうか。現代においては、私達ペンテコステ派の中から、新しい歌が続々と作られています。今日の詩篇のように、新しい歌を歌うように奨められているのは、神様が日々奇しい御業を行なってくださっているからです。その奇しい御業とは何かをお話し致しましょう。
★まず1節にある神の「右の御手」とは、神様の全能の力を表わしています。その力は、破壊的な力とは違います。神様の力は、聖なる秩序ある力です。ビックバンという爆発が宇宙の始まりであったとしても、この宇宙は無秩序ではありません。数学的に秩序づけられているのです。数学こそ、神の真理に次ぐ真理だと言われている理由なのです。
★その奇しい御業とは何でしょうか。それは、歴史の中に表わされた「救いの御業」なのです。旧約聖書にあるイスラエルの歴史は、ノアの箱舟やエジプトの奴隷からの解放、バビロンの奴隷からの解放等いくらでもあります。エジプトでは、悪い王の代で過酷な労働の時でした。ノアの箱舟の時は、艪も舵もないものでした。バビロンの時は、巨大化するハビロン帝国で、人間的には解放の希望が全く持てない時でした。その敵にペルシャ王クロスが起こされ「自分達の国に帰って、自分達の神殿を作りなさい」と、お金まで持たせてくれました。これが主の御腕なのです。
★神様は、二千年前に究極的な人々の救いを、キリストの十字架によって開始されました。現在では世界人口の3分の1ほどが、クリスチャンになりました。しかしまだ3分の2はクリスチャンではないのです。地の果て果てに近づいてはいますが、「地の果て果てもが、みな我らの神の救いを見る」はまだ実現していません。
★それゆえに、この詩は、これから起こる預言的なものということも出来るのです。神様の強い「右の御手」の働きによって、「地の果て果てまでも主の救いを見る時」が来るのです。ですからクリスチャンは、古い歌だけではなく、新しい希望の歌を心から主に向かって歌おうではありませんか。

8月4日礼拝「光は種のように」

詩篇講解NO97「光は種のように」詩篇97篇1~12節      

                         仁井田義政牧師

 この詩は「主は王だ」で始まっています。つまり、主は世界を支配しておられると告げているのです。

★この97篇は、おそらくバビロン捕囚期間後と、出エジプト記の荒野での生活が重ね合わされて記されていると思われます。イスラエルの歴史は、その二つの歴史が忘れられない体験として、イスラエル人の心に彫り込まれているのです。神様は初めから歴史の王として君臨していたのですが、イスラエルの民には、その事が明らかには見えませんでした。その原因は、人間の罪と限界の為に見えなかったのです。むしろ「神を見た者は死ぬ」とさえ恐れられていました。1-7節までは、神様は、歴史に自然界を統べ納める支配者なる王として記されています。

★8-9節は、真の偉大な神様が世界の王として君臨されている事を聞いて、シオンの民が喜ぶ姿が記されています。もし捕囚期間後すぐの詩であるとすれば、まだ再建もままならぬ暗い時代でした。しかし、自分達の神様は世界の王の王であるという事を知って、勇気百倍の賛美をしたのです。礼拝とはまさしくそうでなければなりません。どんな問題にとり囲まれていようと、神殿において「主は王だ」と聞いて、勇気に満たされなければなりません。

★神様が王だからこそ、神様を信じる者達は、悪の時代に悪に染まらず、正しい生き方を求めるのです。神様が悪を憎まれるので、神様を信じる私達は悪を憎むのです。そして悪に染まらないのです。11節に「光は、正しいものの為に、種のように蒔かれている」とあります。その「種のように蒔かれている光」とは、御言と考えても良いでしょう。

★太陽の光がなければ、植物は育ちません。また日陰では弱々しい植物となってしまいます。力に満ちた王なる神様は、御言の光を私達の心に種のように蒔かれます。その光を心から信じて受け入れるならば、受け入れた御言は芽を出し成長し、その人の人生を喜びと感謝に満ち溢れさせるのです。光である御言に照らされると「感謝と喜び」に溢れ、生活にも力がみなぎってきます。神様は、全世界の人々に光を種のように蒔くために、世界の王となられました。その王を「こおどりし」(1節、8節)て、礼拝しましょう。

7月14日礼拝「全地よ。主に歌え」

詩篇講解NO96「全地よ。主に歌え」詩篇96篇1~13節

                            仁井田義政牧師

先週は、イスラエルの新年礼拝の御言でした。今日の御言も、新年礼拝の詩篇と言われています。この御言の特徴は、「全地よ。主に歌え」と1節で呼びかけられている点です。旧約の時代は、イスラエル人の選民意識が強く、異邦人が神様を信じて救われるなどとは特殊な考えでした。

★そのような時代に「全世界の国々と人々に、主の栄光を告げ知らせよ」と1~6節で勧められています。そして「主に歌え」「主に歌え」「主に歌え」と、1~2節の間に3回も賛美の奨めがあります。誤解を恐れず言うならば、礼拝は御言を聞くことではありません。祈ることでもありません。礼拝は神様を賛美することなのです。ですから、心からの賛美のない礼拝は、礼拝ではないのです。まさに賛美をもって「御名をほめたたえる」ことが、継続的な宣教でもあるのです。真の神様は、天地を造られた神様です。そして真の神様の力と光栄は、主の聖所を通して礼拝者に与えられているのです。

★真の神様の礼拝者は、真の礼拝者でなければなりません。真の礼拝者とは「主にひれ伏す」(9節)人です。ひれ伏す人とは、自分の弱さや欠点を認め、心が砕かれ、罪深さを認める人です。何事も自分の手柄にせず、神様がそうして下さったと感謝のできる人です。全ては神様からの授かりものだと感謝し、自分自身の人生も神様にお捧げ出来る人です。

★10~13節は、キリストの再臨の預言と言われている所です。国々の中で「主は王であられる」と言えと奨められています。そのことをはっきりと言われたのは、イエス様でした。弟子達は去り、ご自分が殺される十字架を前にして、ローマの総督ピラトが「あなたは王なのか」と質問した時、「そのとおり私は王です」と言われました。(ヨハネ18:37)

★ある学者達が言うように、この詩がバビロン捕囚期後の作であるとすればなおさらのことです。バビロン捕囚によって十部族が失われ、二部族が残っただけでした。その一部族のユダ族から生まれられたキリストが、十字架で殺されようとしていました。そこでイエス様は「私は王である」と宣言されました。今日の御言は「全地よ、主に歌え」と奨めています。私達は全世界に向かって、「主は王であられる」と叫ぼうではありませんか。

7月7日礼拝「今日、御声を聞く」

詩篇講解NO95「今日、御声を聞く」詩篇95篇1~11節

                            仁井田義政牧師

今日の95篇は、賛美にも広く用いられている有名な詩篇です。それは、新しい年を迎えた正月の礼拝の歌と言われています。イスラエルの正月は、日本とは違って9月頃です。しかし新年を迎える巡礼者が神殿の門近く来ますと、「さあ主に向かって喜び歌おう」と神殿内から歌で呼びかけられたのです。長い距離を歩いてきた巡礼者達は、その声を聞いて息を吹き返しました。

★巡礼者たちの住んでいた所は、宗教や習慣が異なる所だったでしょう。たとえ宗教や習慣が違う所であっても、私達の礼拝する神様は、その神々にまさるのです。私達の神様は、世界の創造者であり、世界を支配する王だからです。(3節)

★神様は、天地の創造者という偉大なエネルギーを持った方であるだけではありません。私達の羊飼いでもあられます。(4~6節) 

羊飼いは、自分の牧場の羊の名前を呼び、世話をします。飢えているなら食物を与え、傷ついているならば手当をします。主は、そのような優しいお方なのです。「良き羊飼いは、羊の為に命を捨てる」(ヨハネ10:11)のです。

★そうして詩人は「御声を聞くならば、メリバの時のように心を頑なにしてはならない」(7~11節)と言いました。それは、昨年までどうであろうと関係なく、見声を聴く正月の「今日」です。イスラエル歴史を見ますと、せっかく神様が、羊の群れのようにイスラエル人達をエジプトの奴隷から救い出して下さったのに、メリバで人々の不満が爆発してしまったのです。その結果、不満を言った人達が約束の地に入れず、荒野で死に絶えてしまいました。御言は、今日聞くことが大切なのです。今日御声を聞いた人として、新約聖書にザアカイと言う人が出てきます。(ルカ19:1~)

★しかも彼は、人々から嫌われる仕事をして、人々から除け者にされ、寂しい人生を送っていました。イエス様は、「今日あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われたのです。ザアカイは、イエス様を急いでお迎えしました。そしてザアカイは、喜びに満ちた人となったのです。

今日、あなたも神様のお声を聞いて、神様の力と優しさを信じ、神様を礼拝する幸せな人になりましょう。

6月23日礼拝「主が私の助けでなかったなら」

詩篇講解NO94「主が私の助けでなかったなら詩篇94篇1~14節

                        仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、「復讐の神、主よ。復讐の神よ。」と叫ぶのっぴきならない詩人の祈りから始まっています。その為に、この詩が復讐の詩だと思ってしまう人が多いのです。しかし単なる復讐の詩ではありません。悪に満ち溢れたこの世をどのように生きて行ったら良いのかを、詩人が体験者として教えている詩なのです。

★復讐とは、悪者に対する神様の裁きのことです。裁きのない所に、正しさは存在しません。正に「処罰なくして法律なし」です。政治家が自分達の不正の為の法律を作っても、処罰がなければザル法なのです。神様は、神様であられる故に、教えに従わない者を処罰する権能を持っておられるのです。

★この詩人が見ていた不法に満ちた人々とは、神様の存在を信じない人々のことです。彼らは、神様を信じている者達を馬鹿にし、勝ち誇り「神様を信じていなくてもこうなった」と自慢します。そのような者達は「やもめ」「在留異国人」「みなしご」などを痛めつけます。何をやっても神様は見ていないと思っているからです。しかし詩人は「気づけ。まぬけども」と記しています。神様はひとつも見逃すことなく、不正を処罰されるからです。

★詩人は12節で「主よ、なんという幸いなことでしょう。あなたに戒められ、みおしえを教えられるその人は」と言っています。幸せはヘブル語の「アシュレー」という言葉です。それは詩篇1篇1節にも記されています。イエス様はギリシャ語の「マカリオス」という言葉を、マタイの福音書で8回程語られました。悪のはびこる中で、悪に染まらず生きることが出来るのは、あなたのみおしえのゆえですと言っておられます。

詩人は、神様の民とされているから、私は悪人とは違うと喜んでいるのとは違います。詩人は「もし主の助けがなかったならば、私も彼らと同じように生きていた」と言っています。詩人の実存的体験から出て来た言葉です。

 私達もみな同じであることを認めなければなりません。そこに本当の感謝が溢れるのです。神様は正義の神です。世の中がどんなに悪者で満ちても、私は正しく生きようと決心しましょう。今日も私達の救い主に感謝して、心から祈りましょう。

6月16日礼拝「主は王であられる」

詩篇講解NO93「主は王であられる」詩篇93篇1~5節

                     仁井田義政牧師                             

 主は王であられるか否かが、人類歴史の永遠のテーマです。人間の歴史は、人間を王としようとするものでした。サウル王以前、イスラエルの歴史に王はいませんでした。神様は、人間が王になることを喜ばれないのです。

★しかしイスラエルの民は「外国のように人間の王が欲しいと騒ぎ立てました」そのことは、第一サムエル記8章1~12節に記されています。その結果次々に王が立てられました。三代目のソロモンは、外国に倣って兵器として軍馬を導入しました。馬屋四千と騎兵一万二千という数です。そのことは第第二歴代誌9章25節に記されています。彼は、神様よりも軍事力に頼ったのです。彼は王国を拡大し、モーセの教え(申命記の17章16~17節)を破り、多くの馬と700人の王妃と300人のそばめ持ちました。その女性の多くは、外国人でした。その結果、彼女らの持ってきた外国の宗教に染まってしまいました。そのことは第一列王記11章1~8節に記されています。

★ソロモンが死んだ後に王国は分裂し、やがて両方とも壊滅してしまうのです。キリストが来られる前の400年間は、最悪の時代で、預言者さえも存在しませんでした。その暗黒時代の終わりに、王なるイエス様がお生まれになったのです。その時、東方の博士達が長い旅をしてエルサレムに着き、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方を・・・拝みに来ました」と言いました。そのことはマタイ2章1~2節に記されています。

★今日の詩篇には「王はみいつをまとっておられます」と記されています。「みいつ」とは、威厳のことです。ヨハネ18章37節にローマの総督ピラトがイエス様に「それではあなたは王なのですか」と問うたシーンがあります。イエス様はハッキリと「私が王である」と言われました。

★詩篇の93篇3~4節に川が出てきます。バビロンにはチグリス、ユーフラテス川が、南にはエジプトのナイル川が流れています。また4節の「海の力強い波」は、海を渡ってくるローマのことかもしれません。しかし世界情勢がどうあろうとも、王の王であられる神様の威厳は微動たりとしないのです。人間を王としようとする世の中の流れに、クリスチャンは騙されてはなりません。イエス様を王の王として、我が家にしっかりとお迎えしましょう。