11月23日礼拝「恐れないで」

マタイ講解NO2「恐れないで」1章18~25節

                        仁井田義政 牧師

その時、マリヤは13歳の頃でヨセフは18歳の頃でした。若い二人は、いいなづけであり、結婚を控えてどんなに希望に溢れていたことでしょう。しかしその二人が、突然「恐れ」(1章20節)に包まれたのです。

★マリヤとヨセフを襲った恐れとは何でしょう。それは二人にとって身に覚えのない子がマリヤに宿ってしまったことです。マリヤが「この子は神の聖霊によって身ごもったのです」といくら説明しても、ヨセフが納得するはずがありません。そのような女性は夫に不貞の罪で訴えられ、処刑されることもありました。ヨセフはどうすれば良いかと思い悩みました。そうして出した結論は、マリヤと離縁し遠くに逃がすことでした。

★しかし御使いは、ヨセフの夢の中に現れて別の方法を示しました。マリヤが身ごもった男の子は「聖霊」によるということで、しかもその子の名前を「イエスとつけなさい」との指示でした。その名前は「主は救い」という意味です。さらには「この方こそ、ご自分の民を罪から救ってくださる方です。だから恐れないでマリヤを妻として迎えなさい」と言われたのです。

★御使いはさらに、この事はイザヤが預言したことの成就であると言われました。その預言には「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(イザヤ7:14)と記されていました。それは「神は私達と共におられる」という意味でした。そのことによって、ヨセフはマリヤを妻として迎えました。ヨセフから恐れは消え去り、マリヤとその子を命がけで守ることを決意したのです。

★このようにヨセフとマリヤにとって、結婚前に描いていた二人の幸せの計画通りにはなりませんでした。その時に二人は、「恐れ」に包まれてしまったのです。

私達の人生にも、思い通りにならないで恐れに包まれてしまうことはいくらでもあります。あなたは今、どんなことに悩んだり恐れたりしていますか。あなたも、ヨセフやマリヤのようにイエス様をお迎えして、あらゆる恐れや心配ごとから救って頂きましょう。

2025年11月16日礼拝「過去に何があっても」

マタイ講解NO1「過去に何があっても」1章1~17節

                      仁井田義政 牧師

先週で3年8カ月にわたった旧約聖書の詩篇からのメッセージが終わり、今日から新約聖書のマタイによる福音書から話していきます。福音書は、イエス様の御生涯にスポットを当てて書かれていますので、教会に来られたばかりの人にもわかりやすいところだと思います。このマタイによる福音書を通して、キリストの偉大な生涯を知って頂きたいと思います。第一回目は、キリストの系図から「過去に何があっても」という題で、聖書の喜ばしいメッセージをお伝えいたします。

★「福音書はイエス様にスポットを当てて書かれているので分かりやすい」と言いましたが、どうも私達には分かりにくい系図から開始しているのです。しかしこの系図は、ユダヤ人にとっては大切で分かりやすい部分なのです。キリストは「アブラハム」「ダビデ」の子孫であると記されていますが、それは神様の約束「契約」の成就のことでした。

★この系図の中には、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻(バテ・シェバ)という女性達の名が記されています。タマルとバテシェバは道徳的に問題がある女性でした。そしてラハブとルツは、外国人というユダヤ人は自分の家系図に入れたくない人たちでした。罪ある女性や外国人がキリストの系図に入れられているのは、誰でも神の家族になれることを表わしています。

★さらにこの系図は、男性の系図から突然、女性マリヤに系図が変わっています。マリヤもアブラハムの子孫、ダビデの子孫であることはわかっています。しかしその夫ヨセフの男性系図から、突如マリヤとい女性系図に変わっています。しかもマリヤもヨセフもダビデ王家の子孫とはいえ、既に昔にダビデ王家は衰退してしまっているのです。

★キリストの系図には、実は大きなメッセージが記されています。一つは、神様の前に男女の差別はないということです。第二は、私達の家系にどんな犯罪者やその血筋の者がいたとしても、神様の私たちに対する祝福はには関係がないということです。福音書とは「良い知らせの書」という意味です。あなたもこの福音を信じて、過去に支配されない人生を歩き出しましょう。

11月9日礼拝「最高峰の賛美とは」

詩篇講解NO150 「最高峰の賛美とは」150篇1~6節

                         仁井田義政牧師

 今日は詩篇の最後、150篇からのメッセージです。2022年2月27日から開始された詩篇からのメッセージは、3年8カ月続きました。ついに最後の詩篇になりました。その内容も、詩篇全体の結論となっています。

★詩篇全体の結論であるこの詩篇は、まずどこで神様をほめたたえるかを記しています。それは神の聖所です。聖所は、神様を礼拝する場所のことで、現代で言えば教会のことです。そして「大空で」とも記されています。それは、宇宙万物の創造者としての偉大な神を賛美せよということです。そして「タンバリン、立て琴、踊りをもって賛美せよ」と勧められています。

★なぜ、そのように神様を賛美する必要があるのでしょうか。それは、2節に記されています。「大能の御業のゆえ」です。「大」とは優れていることを現し「能」とは能力を現します。神様が私たちにしてくださった最大のことは、イエス様の十字架の実行です。十字架こそが神様の英知でした。それによって救われた私達が、神様を心からほめたたえることができるのです。

★最後に「息のある全てのものは主をほめたたえよ。」とあります。「ほめたたえよ」とは賛美のことです。私たちは感謝することと、ほめたたえることは同じように思ってしまいますが、その意味は大きく違います。「感謝」には自分のことが含まれており、「ほめたたえる」という言葉には自分が入っていなのです。

★詩篇中の感謝は、ヘブル語の「トーダー。ヤーダ」で40回近く出てきます。しかし「主をほめよ」のヘブル語「ハレル・ハレルヤ」は、80回以上出てきます。そして今日の御言には「息のあるものはみな主をほめたたえよ」と記されているのです。賛美の最高峰は自分を忘れることです。自分の全ての問題も悩みも忘れて、神様の大能と偉大さのゆえに、神様を賛美することが、私達の行える最高峰の賛美なのです。

★詩篇は賛美のために書かれました。私達はそれを3年8カ月以上も聞いて来ました。その詩篇を終えるにあたって、詩篇の最終目的として書かれた最高峰の賛美を主に捧げて、詩篇の学びを終わりましょう。

10月19日礼拝「思い煩いからの解放」

「思い煩いからの解放」ビリピ4章4~7節 第一ペテロ5章7節                       

                                                  仁井田幸子師

 先月の婦人集会で、ある姉が「私は悩まない。悩む前に祈る」と証されました。そのあまりにも明快な言葉に、みんなから歓声が上がりました。素晴らしいことです。今日の御言もそのことを教えています。

★ビリピ書は、パウロが獄中からピリピの教会のクリスチャンに宛てた書簡です。苦しく辛い環境であるはずなのに「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(4節)と強くすすめています。では、どうしたらそのような中で喜ぶことが出来るのでしょうか。この喜びは、嬉しいことがあって自然に出てくるものとは違います。自らの意志をもって、苦しい中でも、イエス様の愛を思い感謝することから、注がれてくる喜びです。

★次に6節で「何も思い煩わないで・・・祈り」とすすめています。では思い煩わないで良いその根拠はなんでしょうか。それは7節の「そうすれば、人の全ての考えにまさる神の平安があなたがたの心と思いをキリストイエスにあって守ってくれます。」です。また第一ペテロ5章7節には「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたを心配してくださるからです。」とあります。私達は、自分でいろいろ考えて心配し、悩みに入っていってしまいます。しかし神様は、私達の悩みを引き受けて下さるというのです。いっさいを委ねなさいとまで言って下さるのです。

★イエス様はヨハネ14章27節で、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるものは、世が与えるものとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」と言われています。イエス様は、私達人間が悩み多き者であることをご存知で、このように言って下さっているのです。私達は、その御配慮に応えるべきではないでしょうか。

★6節にあるように、まず自らの意志をもって、思い煩わないと決断すること。次に感謝をもって祈ること。その結果、神様の平安と喜びが与えられるのです。私達も御言を信じて、実践していきましょう。

10月12日礼拝「壮大な賛美への招待」

詩篇講解NO148「壮大な賛美への招待」148篇1~14節

                           仁井田義政牧師

人間は決して孤独ではありません。天と地の大賛美へと招待されているのです。その賛美は、世界の片隅でこっそりとされている賛美とは違います。誰にはばかることなく、大宇宙の悠久の歴史の中で行なわれている「ハレルヤ」への招待なのです。

★1〜2節で、私達の目を主が造られた霊的世界へと向けさせます。そこには、天における全ての御使達の大合唱が見えます。

3~6節は、「日よ、月よ、星よ」という神様の創造物である大宇宙の賛美です。6節に「主は彼らを世々限りなく立てられた」と記されています。それは、永久に亘って創造主の素晴らしい御業を賛美し続けている姿です。

★私達の目を天に向けさせていた詩人は、次に私達の目を地上に向けさせます。それは、動物の世界から植物の世界まで、全ての被造物の世界です。その世界も、創造主である神様の知恵に満ちているのです。生まれた乳飲み子が、何の体験もないのに、なぜ母親にはオッパイがあると知っているのでしょうか。それが本能だと一言で片づけてしまうのは、あまりにも雑すぎる結論です。それはあらかじめ神様が教えておられるのです。

★創世記によれば、人間は神様に似せて造られた神様に最も近い存在です。しかしその人間が、神様の素晴らしさを最も知らない存在になってしまっているのです。そこに、人間の悲惨の全てがあるのです。ですから私たち人間は、老若男女を問わず人間の本性を取り戻さなければなりません。それは神様の発見であり、神様への大賛美、壮大なハレルヤへの参加なのです。

★この詩人は、「神様の創造の御業はなんと素晴らしいことか」と賛美しています。年末に世界でよく歌われる歌は、ヘンデルの「ハレルヤコーラス」とベートーベンの「第九」です。日本では「第九」が多く歌われますが、世界ではヘンデルの「ハレルヤコーラス」が断然トップです。どちらも神様をほめたたえる素晴らしい賛美です。私達も、大勢の天使達、大宇宙、大自然とひとつとなって、その「ハレルヤ」に加わり、私達の神様をほめたたえる大合唱の賛美に加わりましょう。

10月5日礼拝「神様に喜ばれること」

詩篇講解NO147「神様に喜ばれること」147篇1~11節

                           仁井田義政牧師

今日の詩篇147篇2~3節を見ると、この詩篇は、イスラエルの歴史中の屈辱的なことの後に書かれたと思われます。それは、バビロンでの奴隷体験です。その反省の上に立って、この詩人は「神様に喜ばれることは何か」を記しています。

★「ハレルヤ!」という言葉でこの詩は始まっています。それは「主をほめたたえよ」という礼拝での賛美の招きです。賛美は「良い」「楽しい」「麗しい」と、主への賛美が勧められています。賛美する理由は「追い散らされた者を集め」「心の打ち砕かれた者を癒し」「彼らの傷を包んで下さる」という神様の救いの御業をほめたたえることです。

★4節には「追い散らされた者を集め」「心の打ち砕かれた者を癒し」「彼らの傷を包んで下さる」神様が記されています。さらに「その偉大さは全宇宙の星の数を数え、その全てに名を付けられる。」と記されます。「名を付ける」とは支配のことです。私達人間社会でも、新しい星や動植物が発見されると、まず名を付けます。それを分類し支配するためです。その偉大な神は6節で「心の貧しい者を支えて」下さり「悪者を地面に引き下ろす」方なのです。また「悪者」とは、自分の力を誇って神様を信じない人のことです。

★神様は全ての人の為に恵みの雨を降らせ「カラスの子」にまでも、食物を与えられると記されています。「カラスの子」とは、カラスが忌み嫌われた鳥だったからです。イエス様も、ルカ12章24節で「烏」のことを記しています。全ての星に名前を付け支配しておられる神様が、「烏の子」にさえ目を留め支えて下さっていると言うのです。ましてや人間であるあなたを見捨てておられるはずがないと、今日の詩篇は言っているのです。

★そして11~12節には、神様が嫌われることと喜ばれることが書いてあります。まず神様が嫌われることですが、神様は「馬の力」を喜ばれません。それは軍事力のことです。それでは神様のお喜びになられることは何でしょうか。それは「主をおそれ、主の恵みを待ち望む者を喜ばれる」のです。私達はそのような神様に感謝し、心からの祈りと賛美をささげましょう。

9月28日「我が魂よ、主をほめよ」

詩篇講解NO146 「我が魂よ、主をほめよ」146篇1~10節                       

                                               仁井田義政 牧師

 ダビデの詩篇が終わり、146篇から150篇の5篇は、ハレルヤ詩篇と言われる所です。この最後の5篇の特徴は、最初と最後に「ハレルヤ!」という言葉が記されていることです。「ハレルヤ!」とはヘブル語の「主をほめたたえよ」という言葉です。この言葉は、世界のクリスチャンの共通語です。

★この詩人は、1節で「ハレルヤ!」「主をたたえよ」と言っています。そして「我が魂よ」と自分自身に魂からの賛美を命じています。口先のハレルヤではなく、2節にあるように「生きている限り」「命ある限り」主を賛美するのです。

★3節には「君主たちに頼ってはならない」と記されています。君主たちとは、王様や当時の政治家たちのことです。昨年選ばれた日本の最高権力者も今年まもなくその権力を失います。

しかし5節に「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は」と記されています。神様は、弱いヤコブを神の子「イスラエル」としてくださいました。

★主は、弱い立場にある人「しいたげられる人」を守り助けられる御方であることが7-8節に記されています。そこに記されている聖書の神は、弱い立場にある人を守られる神様です。

9節の終わりには「しかし主は悪者の道を曲げられる」とあります。それは犯罪者のことではありません。自分は正しく力があると思っている人のことなのです。そして10節で「その神様はとこしえまでも統べ治められる」と記されています。

★そして146篇の最後の言葉として「シオンよ」と呼び掛けています。シオンは文字的には地名であり、土地が神様をほめたたえることは出来ません。それは「シオン=エルサレム」に集まる礼拝者達への呼びかけなのです。そして最後にも「ハレルヤ!」と信仰に満ちた賛美を薦めています。

私達も主なる神を「たましい」の底から、ほめたたえて礼拝しましょう。

9月14日礼拝「人とは何者なのでしょう」

詩篇講解NO144 「人とは何者なのでしょう」144篇1節~8節                       

                                                    仁井田義政牧師

 この144篇も「ダビデによる」という表題がついています。その内容は、ダビデが人生の様々な戦いの中を生きて行くものです。70人訳聖書には「ゴリアテと戦う」という表題が付け加えられています。巨人ゴリアテとの戦いの時のことです。私達にも人生の戦いは数多くあります。今日は、そのダビデの信仰の真髄を見て行きましょう。

★1節に「主は、戦いの為に私の手と指を鍛えられる。」と記されています。ダビデがこの詩を書いた時、既に王様となっていたと思われます。ダビデがここに至るまでには、幾度もの戦いがありました。そしてこの詩を書いている時にも、外国人と戦っています。ダビデはそのような中で、少年の頃のゴリアテとの戦いを思い出しています。その時に用いたのは、小さな武器の石投げ器でした。それによって勝利したのです。

★その時の事を思い出しつつ、ダビデは「こんな息に等しい自分を、なぜ愛し守って下さるのだろう」と記しています。自分の弱さ、はかなさを自覚する者にとって、「神様の愛の不思議」なのです。それはどう考えてもわからない愛なのです。神様の愛の深いミステリーなのです。

★1~11節までは、「私」という言葉だけが13回出てきます。ダビデ自身が神様を信頼している証拠です。その信頼があればこそ、12節からの「私達」という祈りに移っていけるのです。「私の」そして「私達の」と祈れる者が「幸いなことよ、主をおのれの神とする民」と祈れるのです。

★ダビデは幾度も襲い掛かる人生の戦いの中で「ほむべきかな、我が岩である主。主は戦いの為に私の手を、いくさの為に私の指を鍛えられる」と祈り出しています。「手」「指」は、明らかに巨人ゴリアテとの戦いの思い出であると思われます。神様は、少年ダビデの小さな手と細い指を用いて、3メートル近くのゴリアテに勝利を与えられたのです。「人はなに者なのでしょうそして「私は何者なのでしょう。私を主が顧みられるとは」と、ただ驚くばかりなのです。それが信仰です。

私達も、息のような存在でも人生の戦いに勝利しましょう。

8月31日「絶望の中での希望」

詩篇講解NO143「絶望の中での希望」143篇1~6節

                        仁井田義政牧師

 この詩篇には「ダビデの賛歌」という表題がついていますが、70人訳ギリシャ語聖書には「息子が彼を追跡したとき」という副題がついています。それに従えば、自分の息子アブシャロムに王位を狙われ、命を狙われた時に書かれた詩であることがわかります。この詩は、彼が「絶望の中で希望」を見出したことを記しています。それは、どのような希望なのでしょうか。

★ダビデの生涯の中で最大の罪は、家来のウリヤの妻バテシェバを奪ったことでした。しかも自分では直接手を下さず、ウリヤを激戦地に遣わして戦死させたのです。バデシェバは夫のいない寡婦となり、ダビデ王の妻にしたのです。それは、神様の前でダビデの最大の罪でした。神様はその罪を預言者ナタンによって指摘させました。その時、ダビデは悔い改めました。

★やがてダビデ家の子供達に、王位継承をめぐっていざこざが始まりました。長男のアムノンはアブシャロムに殺害され、アブシャロムは次の王は自分だと思っていました。しかし父親のダビデは、彼はふさわしくないと思っていたのです。その為にダビデは三男のアプシャロムに命を狙われました。この詩は、その時の詩だろうと言われています。

★ダビデは、この事を自分の罪の結果であると思っていました。それは自業自得で神様に助けを求めて祈る資格がないと思っていたようです。それがダビデの絶望でした。しかし、ダビデは神様に「しもべを裁きにかけないでください。生ける者に義人はひとりもいません」と神様に詰め寄りました。この言葉は、使徒パウロがローマ書3章10節で引用しています。

★私達も、自分の至らなさのゆえに落ち込むことや、悩み苦しむことがあるでしょう。自業自得ゆえの悩みです。しかしダビデは自分の正しさにではなく、神様の正しさに「神の義」に希望をつないだのです。神様が「私が許すと言って下されは、どんな罪人でも許されます」という祈りです。またそれは「あなたの名のゆえに」(11節)という言葉でも表わされる祈りです。それは、絶望の中からの希望を引き寄せる祈りです。

私達もたとえ絶望的な中にあっても、神の義と神の名によって、希望と救いを得ましょう。

8月24日礼拝「八方ふさがりの時の祈り」

詩篇講解NO142「八方ふさがりの時の祈り」142篇1~7節

                        仁井田義政牧師

この詩は、表題には「ダビデのマスキール。彼が洞穴にいた時に。祈り」とあります。ダビデはサウル王に追われて洞穴に身を隠しました。そこでは、漆黒の闇に身を隠す以外に一本のろうそくさえも灯すことが出来ないのです。光を灯すならば直ぐに敵に見つかってしまうでしょう。まさにどん詰まりの暗い体験でした。どこにも抜け道の見出せない暗黒の体験でした。

★そのような洞窟でダビデがしたことは、洞窟の岩をも通過する神様への祈りでした。ダビデの命を取ろうとして、追ってきたサウル王とその最強軍に対して、ダビデは暗闇に身を隠しているしかないのです。しかしダビデは洞窟で震えているだけの人ではありませんでした。ダビデの心は、厚い岩山を通過して、天におられる神様に向いていたのです。

★ダビデは、しっかりと「主に向かって」(1節)祈り始めました。その祈りは「神様に、声をあげて叫ぶ祈り」でした。その祈りは「神様に嘆きを注ぎ出す」祈りでした。その祈りは「自分の苦しみを言い現す」祈りでした。

★ダビデは、神様を信じていることが、この地上での最高の財産であると祈っています。ダビデは「自分が苦しみから逃れられればそれで良い」との祈りをしませんでした。ダビデは「私があなたの御名に感謝するようにしてください」と祈ったのです。私の救われた体験で「人々が私の回りに集まるでしょう」と、神様への礼拝が始まることを予想して、祈っているのです。

★私達もダビデと同じように「抜け道も見つけられず、真っ暗な洞窟に閉じ込められてしまったような体験をするかもしれません。孤独と絶望に震えうずくまって、一歩も動けないような体験をするかもしれません。たとえそのような八方ふさがりの暗闇の中にあっても、ダビデのように神様に信仰の目を向けましょう。神様は、その祈る人に目を注いで助け出されるのです。助け出された後はどうするのでしょうか。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」人になってはなりません。神様を礼拝し賛美する人になりましょう。誰が何と言おうと、神様を信じる人になりましょう。