3月19日礼拝「主に感謝を捧げよ」

詩篇NO50「主に感謝を捧げよ」50篇7~15節       

仁井田義政 牧師                              

この詩篇は、感謝の奨めです。主は、何にもまして感謝を喜ばれるのです。しかし私達は主の最も喜ばれる感謝を忘れがちなのです。

★前の49篇は、お金や富に執着して神様を忘れて生きる人間の愚かさに対する警告でした。今日の50篇は、献金をしていればそれで良しとしてしまう私達への警告なのです。神様が私達に望まれている最高の捧げものは、感謝なのです。

★7節の「聞け」は、へブル語の「シェマ」です。それは強い言葉で、聞くことの命令です。8節に、捧げもののことであなたを責めるのではないと記されています。つまりすべての物は神様の所有物なのです。厳密には全ての物は神の物なので、人間から捧げてもらう必要がないと言っておられるのです。神様は「雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか」と言っておられます。

★それらは、神様への感謝を現わす為にするのです。ですから「感謝のいけにえを神に捧げよ」(14節,23節)と言われているのです。神様は私達の罪の身代わりとして、御子イエス様を十字架につけて下さいました。その御方を賛美することを忘れた生活をしているとすれば、それは異常なことなのです。

★神様は、感謝を捧げることを最も喜んでくださいます。私達もそうでしょう。子供達に「お父さん!お母さん!ありがとう。お父さんとお母さんの子供で良かった!」等と感謝されたら、すべての苦労がその一言で吹っ飛んでしまうのではないでしょうか。私達人間も神様に似せて造られているので、感謝を必要としているのです。猫や犬を飼うのも、そのためなのです。もし猫が飼い主の顔を見る度に、背中を山のようにして「シャー」と威嚇したり、犬が飼い主の帰宅する度に、凄い声をあげて吠えたり、嚙みついたりするようだったら、飼い主の心に喜びも安らぎもありません。扉を開けると、犬がしっぽをちぎれるほど振って迎えてくれたら、私達は嬉しいのです。その行動を通して、感謝を受け取っているのです。

ですから私達も、心から神様に感謝のいけにえを捧げる人になりましょう。

3月12日礼拝「悟りがなければ獣に等しい」

詩篇NO49「悟りがなければ獣に等しい」49篇16~20節       

仁井田義政 牧師                              

 詩篇49篇は、1節に記されているように全人類への勧めです。国や民族が違い、考え方が違っても、人間は49篇に示されている3つの錯覚に陥って生きている人が大半なのです。それはどのような錯覚なでしょうか。

★第一の錯覚は、「富が、幸せの一番の保証となる」という錯覚です。創世記の3章17~19節を見て下さい。そこには、世界の資源の乏しさが記されています。そこで砂漠の旅人が水の乏しさに幻覚を見てしまうように、富が幸せに至ると錯覚してしまうのです。その錯覚を利用して、詐欺師が横行します。

★第二の錯覚は「自分が死ぬべき存在である」ということを見ないようにして生きる人生の錯覚です。自分が死ぬべき存在であることは誰もが知っていますが、それを見ないようにして生きているのです。それは特に日本人に多い特色です。それは日本人が死を「穢れ」と見ているからです。死の話などすると「縁起でもない」と叱られてしまうようなことが起きるのは、そのような日本の文化的な要素があるのです。しかし自分が死ぬべき存在であるということを悟って初めて、それではどう生きるかということを考えることが出来るのです。

★第三の錯覚は「聖書の真理などを知らなくても私は幸せになれる」(20節)という錯覚です。聖書の真理によって見えてくる人間の本当の姿を「そのとおりです」という確信がなければ、「富が幸せの全て」と思い込み「自分が死ぬ存在である」ことからも目を背けて生きる人生になってしまうのです。死から目をそむければ、当然死後のことも考えなくなります。それが「悟りがなければ」という意味なのです。

★もちろん神様は、私達人間が全て貧しくあるべきで豊かになることは罪であると言っておられるのではありません。「人はその栄華の中にあっても滅びうる獣に等しい」(20節)と言っておられるのです。貧しくあっても豊かであっても、悟りがなければまさに獣に等しいのです。詩篇49篇は全人類に向けて「悟りを得よ。悟りがなければすべてが虚しい」と叫び、宣言し、宣告しているのです。私達は聖書の言葉によって、ますます真理を悟っていく者になりましょう。真理の神様への信仰を強くしましょう。

3月5日礼拝「宮の中で神の恵みを思う」

詩篇NO48「宮の中で神の恵みを思う」48篇9~14節       

仁井田義政 牧師                              

 今日の詩篇は、神の家であるエルサレムの神殿賛歌です。今日は、メッセージ題となった「神よ。私たちは、あなたの宮の中で、あなたの恵みを思い巡らしました」という御言を中心に、お話ししたいと思います。

★「シオン」と言う名は、ダビデが「エルサレム」と呼び名を変更する以前の地名です。シオンは清いという意味で、エルサレムは平和という意味だと考えられています。その神の都に、他国の王達が攻めてきても、恐怖のあまり逃げ去ったと記しました。タルシシュはスペインのことで、スペインが攻めて来た時には、嵐でその船団が海に沈んでしまったと記しています。

★12~14節には、シオンを巡り歩きそのやぐらを数えよと言っています。エルサレムに行ってみると、その大きさよりもその小さなことに驚きます。エルサレムは、周囲がわずか5キロしかありません。「シオンを巡り歩け。そのやぐらを数えよ」と命じられています。それは、神様の守りを語り継ぐためにです。今の壁は、オスマントルコ、つまりイスラム教徒が作りました。かろうじて神殿の壁として残っているのが、現在の「嘆きの壁」と言われている所なのです。教会の始まりは、エルサレム教会から始まりました。

★イエス様の弟子達が、神殿の素晴らしさをほめたたえた時、イエス様はエルサレムの崩壊を預言しました。(マルコ13:1~2) その預言のように、今エルサレムに神殿はありません。しかしイエス様によって、新しい神殿がたてられました。それが教会です。イエス様は「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまでわたしの証人となるであろう」(使徒1:8)と言われました。

★現代のエルサレム神殿は、キリスト教会です。聖書の神を信じる人は、教会において神様の「恵みを思い巡らすべき」です。私達人間は、お金に思いを巡らし、健康に思いを巡らし、不安に満ちてしまうのです。そうではなく「神様の宮」である教会で、神様の恵みに思いを巡らし、恵みでいっぱいに満たされることが大切なのです。

私達も、教会で神様の恵みを深く思いめぐらすことを大切にするクリスチャンになりましょう。

2月26日礼拝「神にほめうたを歌え」

詩篇NO47神にほめうたを歌え」47篇1~10節       

仁井田義政 牧師                              

 今日の御言には「神にほめ歌を歌え」と何度も繰り返されています。キリスト教会と賛美歌は、切り離せないものです。今日は、神様をほめたたえる素晴らしさをお話しいたしましょう。

★大々的に主を賛美する姿は、紅海の奇跡の直後(出エジプト15章1~21節)に出てきます。賛美歌を一般大衆と結びつけたのは、ダビデ王でした。そして詩篇は、旧約時代の礼拝賛美集なのです。新約時代も賛美は一般の人々のものでした。イエス様と弟子達は、最後の晩餐の後に賛美をしました。またパウロとシラスがピリピの牢獄(使徒16章24~25節)で賛美した時に、奇跡が起こったことが記されています。コロサイ3章16節、エペソ5章18~19節には、「詩と賛美と霊の歌」による賛美が推奨されています。

★しかし先週も話しましたが、教会の賛美はローマ皇帝の迫害によって禁止されてしまいました。約300年間です。ローマが313年にキリスト教を公認すると、今度は367年のラオデキヤの教会会議で、一般大衆が賛美することが禁じられてしまいました。教会の礼拝で賛美できるのは、聖職者と音楽の専門家だけと決められてしまったのです。聖書も賛美も教会で聞くだけになってしまいました。しかも賛美はラテン語(ローマ語)だったのです。人々は教会で賛美歌を聞いても、歌詞の意味も分からない状態でした。

★そのような賛美の暗黒時代は、1517年のルターによる宗教改革まで続きました。実に約1200年間も、教会に会衆賛美はなかったのです。それに異議を唱えて宗教改革者のルターは、自ら賛美歌を作り自国語で歌うことを推奨しました。ルターの約200年後に、現代音楽の父と言われるセバスチャン・バッハがプロテスタントから出ました。その後、イギリスで多くの賛美歌が作られました。その後アメリカで黒人霊歌、ゴスペルが生まれました。今では、誰でも賛美歌を作り、歌うことの出来る時代になったのです。

★今日の詩篇47篇6~7節には「ほめ歌を歌え」が5回も繰り返し奨められています。私達は、コロナ禍で礼拝賛美の面でもだいぶ圧迫された数年を過ごしました。コロナも世界的に収束に向かっているようです。私達も「手を叩き喜びの声を上げて神に向かって叫ぶ」賛美の回復を目指しましょう。

2月19日礼拝「主は苦しむ時の助け」

詩篇NO46主は苦しむ時の助け46篇1~11節       

仁井田義政 牧師                              

 この46篇は、宗教改革者として有名なマルチン・ルターがこよなく愛した詩篇です。彼はこの詩篇をもとに聖歌233番「御神は城なり」を作曲しました。この歌を作曲した時は宗教改革の激務の中にあり、痛風、不眠症、痔、便秘、結石、激しい耳鳴り等の病気に苦しんでいました。ルターは多くの苦しみの中で、この曲を生涯の愛唱歌としていたと言われています。この詩の表題には「アラモナに合わせて」という言葉があります。それは高い声でと大きな声でという意味があるそうです。

★1~3節は、天変地変のことです。最近もトルコやシリアに地震が起きました。死者数は3万人を超えています。東日本大震災の死者数と行方不明者を合わせると、20,960人ですから、既にその数を超えています。

★4~7節には、人災の戦争のことが記されています。6節の「国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ」とはそのことです。現代も、独裁主義の国家と民主主義の国家が多数衝突しています。民主主義国家も、指導者が憲法をいじり始めると独裁国家となっていくこと多いのです。

★人間が戦争を止める日は、いつ来るのでしょうか。9節の「弓をへしおり、槍を断ち切り、戦車は火で焼かれ、地の果てまでも戦争をやめさせる」日は、いつ来るのでしょうか。残念なことに、それはキリストの再臨の時まで続くでしょう。それまで人間の愚かさが、戦争を起こし軍備に次ぐ軍備を続けるのです。日本も決して例外ではありません。聖書によると、キリストの再臨の日まで戦争はなくなりません。

★人間の愚かさが最高点に達した時、キリストは人間を裁くために再臨されます。その時イエス様は、神様を信じる者達を救ってくださいます。4~5節の「川の流れがある神の都」で表わされています。この神の都は、礼拝所のあるエルサレムでした。しかしエルサレムは、神の御子イエス様を信じることなく、十字架に付けて殺してしまったのです。ルカ19章41~44節を見て下さい。オリーブ山からエルサレムの町が見えた時、号泣されたことが記されています。現代のエルサレムは、神様を礼拝する教会と考えられます。ですから10~11節にあるように、「私こそ神であることを知れ。万軍の主はわれらと共におられる」という確信に満ちることが出来るのです。礼拝者にとって、神様は「私達が苦しむ時にそこにある助け」なのです。

2月12日礼拝「愛の歌」詩篇45篇1~7節

詩篇NO45「愛の歌」45篇1~7節       

仁井田義政 牧師

 詩篇の第二巻に入って、42篇・43篇・44篇と、暗く重苦しい詩篇が続きました。しかし今日の45篇は、突然長いトンネルから抜け出た時のように、明るさと喜びに満ちた詩篇となっています。この詩は、150篇ある詩篇の中で唯一の恋愛詩なのです。その内容は、若き王が異国の地から花嫁を迎える様子が書かれています。その王が誰であったかは特定できません。しかしこの詩は、私達クリスチャンにとって関係深い詩なのです。

★「私の心は素晴らしい言葉で沸き立っている」と記されています。それは若き王に対する花嫁の賛美の言葉です。その若き王の口からは、優しさが流れ出ています。その根源は「神様があなたを祝福しているから」と記されています。この若き王は優しいだけではなく、どの国もこの若き王に立ち向かえば、みな倒れると記されているように、力に溢れた王でした。

★この王の支配は、6節に「世々限りなく」と記されています。このような王は、今までの世界歴史の中に存在しません。7節に「喜びの油を注がれた」と記されています。油注がれた方と言えば、まさしくキリストです。それは、ヘブル書1章8~9節にこの御言が引用されていることで明らかです。唯一キリストこそ、神に油注がれた方であり、世々にわたる力にあふれた王なのです。

★不思議なことに、詩篇45篇の「神に油注がれた方の花嫁」は異邦人でした。そのために「あなたの民と父を忘れよ」と記されています。この花嫁は外国のツロから来たかもしれません。それは12節に「ツロの娘は贈り物を携えて来」と記されているからです。新約聖書には、キリストが花婿で私達はキリストの花嫁と記されています。

★今日の詩篇の最後には、花嫁となった者たちの子孫による祝福も記されています。そこには「あなたは彼らを全地の君主に任じよう」と約束されています。マタイ15章21~28節には、ツロの女性とイエス様との出会いが記されています。イエス様は、ツロの女性の信仰に感動して「あなたの信仰は立派です。あなたの願いどおりになりますように」と祝福して下さいました。私達も民族的には異邦人です。しかし信仰のゆえにクリスチャンと認められたのです。ですから私達も表題にあったように、キリストへの「愛の歌」を心から捧げるクリスチャンになろうではありませんか。

2月5日礼拝「主よ。立ち上がってください」

詩篇NO44「主よ。立ち上がってください」44篇1~9節

                      仁井田義政 牧師

 今日の第二礼拝後は、2023年度の大切な教会会議が行なわれます。コロナに対する意識もだいぶ変わってきました。教会も三年に亘る自粛的な活動から、積極的な活動へと変化していかなければならない年となってきました。今日の御言はそれにふさわしく、教会が何を中心としていかなければならないかを教えています。

★この詩は、詩篇の中で最も暗い内容であると言われています。26節中の17節は暗い内容であり、比較的に明るい内容は9節のみです。その内容は、敵に支配されている状況です。しかしその中で詩人は信仰を守り、主の助けを祈っています。しかし神は眠っているかのように何の助けもないのです。

★詩人は「そのような神は、私達が聞いていた神とは違う」と言っています。先祖たちが語ってくれた神は、敵である国々を追い払う神でした。その通り親達は子供達に、出エジプト記の紅海の奇跡や、ヨシュア記のヨルダン川の奇跡などの「奇跡の神」を語り聞かせたのです。すべての事は、人間の力(弓や剣)や能力ではなく、神の御力によってなされることを教えたのです。

★9節には「それなのに」と言う深い絶望の言葉が記されています。それなのに、私達の国を敵に渡されたと言うのです。11~13節を見ると、奴隷となったのかもしれません。そのような絶望的な中でも、彼らは「あなたを忘れませんでした。契約を無にしませんでした。あなたの道からそれませんでした」(17~18節)と記されています。どんなに祈っても神様に無視され捨てられているように見える時にも、神様を裏切らなかったのです。

★それは、神様の「愛」(3節)と、「恵み」(26節)を信じているからに他なりません。どんなに天候が悪く嵐が襲っている時でも、太陽がなくなっているわけではありません。雲の上には、いつもと変わらない輝く太陽があるのです。詩人はその暗い状況にあっても、闇の上には光り輝く神様がおられることを信じ、その神様に祈っているのです。私達も、たとえどのような状況にあっても、神様を信じて祈りましょう。必ず神様は、その祈りに御心を示し栄光を現わして下さるのです。

1月29日礼拝「なぜうなだれいるのか」

詩篇NO43「なぜうなだれいるのか」43篇1~5節

                      仁井田義政 牧師

今日の43篇と前の42篇とは、非常に似ています。それゆえにこの二つの詩は、本来ひとつの詩であったのではないかと言われています。ともに最後の節などは、全く同じなのです。その内容は、どちらも深い悩みに満ちています。その悩みの中での神様への問いと、自分自身への問いがなされています。そういう意味で、困難の中に生きる私達の詩なのです。

★1~2節で、詩人は「不正の人から助けてください」と神様に訴えています。そして「あなたは私の力の神であられるからです」と祈っています。す。そう信じれば信じるほど、詩人は良くならない現状のために苦しみが増しているのです。神が力の神であるなら、私は神から拒まれ捨てられているとしか考えられないと言っています。

★ダビデは、エルサレムから遠く離れた所から、エルサレムの神の家を慕い、祈っているのです。それは3~4節に「聖なる山、あなたのお住まい」と記されていることでわかります。私達はなんと幸いなことでしょう。神の家である教会が、悩みの時の「祈りの家」として、いつでも行ける距離にあるのです。ダビデにとって最も喜びとすることは、神の御許に行って礼拝することでした。

★ダビデは、辛さでくじけそうになった時「わがたましいよ。なぜおまえはうなだれているのか。なぜ思いが乱れているのか」と、自分の深部に語り掛けました。ダビデは、自分に問いかけたのです。実生活の中で、何が起ころうとも、何が起こらなくとも、神様が神様であられることに変わりはありません。ですからダビデは「神を待ち望め。なおも神をほめたたえる」と言って、その信仰を深めたのです。

★ダビデのような困難や苦難に遭うことを、進んで望む人はいません。しかし困難や苦難は、私達が望むと望まざるとにかかわらず、私達の人生には起こるのです。ですからダビデは「神を待ち望め。なおも神をほめたたえる。私の神を」と、自分に言い聞かせて信仰を強くしたのです。

私達も苦難や困難に遭う時に、ダビデのようにもう一度信仰をジャンプさせましょう。

1月22日礼拝「生ける神を求めて」

詩篇NO42「生ける神を求めて」42篇1~11節

                      仁井田義政 牧師

 42篇は、詩篇第二巻の最初の詩篇で、それにふさわしく霊的なものです。またコラの子ら(合唱隊)のマスキール(教訓の意味)」との説明が記されています。実はコラの士族は、民数記16章32~33節で、モーセとアロンに、「私達も民の指導者になりたい」と言って、逆らった歴史が記されています。この詩自体は、ダビデがその子アブシャロムに命を狙われ、イスラエルの北方に逃げた時の詩であろうと言われています。

★この詩には有名な「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように」との御言が1節に記されています。この鹿は、喉も体も渇ききっている状態です。その渇いた状態を「あえぐ」という言葉で表わしているのです。詩人は絶対に必要な水に例えて、私は「生ける神」を求めているのだと言っているのです。「生ける神」とは、死んでいる神の反対語です。

★生ける神を求めるダビデに、人々は「お前の神はどこにいるのか」と言ってあざ笑います。この礼拝のメッセージを聞いている人の中にも、キリストへの信仰を反対され涙を流している人がおられるかもしれません。しかし、イエス様も十字架上で反対され、血を流されたのです。詩人は、そのような激しい攻撃の中で、かつての礼拝の様子を思い起こし「我が魂よ、なぜうなだれているのか、神を待ち望め」と自分を励ましているのです。

★次に、ダビデが書いた「ヨルダン。ヘルモンの地。ミツァールの山から私はあなたを思い起こします。」という言葉に目を向けましょう。ヨルダンはヨルダン渓谷のことであり、ヘルモンは万年雪のある高山。ミツァールは低い山の意味です。それは、どんな水の豊かな地にあろうとも、私の魂は生ける水である生ける神を慕い求めると言っているのです。

★ダビデは自分の子供アブシャロムに王位を狙われ、神の都エルサレムから逃げて、イスラエルの最北端にまで逃げて来たのだと思われます。悩みの中でダビデは「わがたましいよ・・なぜお前は、私の前で思い乱れているのか」と語り掛けています。私達もうなだれ、思い乱れることがあるでしょう。そのような時には、ダビデのように、自分を励まし信仰を貫く道を前進しましょう。どんな時にも、死んだ神ではなく、生ける神を求めましょう。

1月15日礼拝「アーメン。アーメン。その通り。その通り」

詩篇NO41「アーメン。アーメン。その通り。その通り」41篇5~13節

                       仁井田義政 牧師

 今日の詩篇は、ダビデの第一巻の終わりのところです。この詩は、キリストの十字架にまで預言的に言及されています。そういう意味で非常に興味深く、ダビデの詩篇第1巻の終わりの詩として、最もふさわしいものです。

★1~2節で、ダビデは日常の「弱っている人」に心を配ってきた人生を振り返っています。「神はそのような人を必ず助け出される」という、現代においても一般的な因果応報的な理解を述べています。しかし現実は、彼の病気によって弱ってきていることを喜ぶ「敵」(2節)がいたのです。

★貧しい人に心を配ってきたからと言って、私に罪がないということではなく、罪はあるとダビデは告白して、神様の前にどこまでも真実であろうとしています。しかし見舞いに来た友人が「邪悪なものが、彼にとりついている」(8節)とダビデの悪口を言いました。

★9節では、キリストの十字架についての預言がされています。イエス様が、最後の晩餐でこの言葉を引用されているので分かります。それはユダの裏切りのことです。イエス様は、ダビデの体験した親しい者からの裏切りは、私において究極的に実現したと言われているのです。つまり詩篇41篇は、キリストの受難において成就したのです。

★10節に「仕返しができます」とあります。しかしそれは病気から立ち上がることによってです。ユダや人々の裏切りに遭い、十字架で殺されたことはイエス様の敗北ではありません。イエス様は復活によって勝利されたのです。その事実は、真の神にしか出来ない逆転勝利でした。

★まさに最後の言葉にあるように、「ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで」なのです。イエス様の敗北に見えた十字架の死があったからこそ、復活という勝利につながったのです。

あなたにも、イエス様の十字架のような苦しみがあるかもしれません。しかし十字架には、逆転の勝利があるのです。それで41篇は「アーメン。アーメン」と、第一巻が閉じられるにふさわしい言葉が記されています。それは「その通り。その通り」という意味です。私達もそれに倣って、「アーメン。アーメン。その通り。その通り」と心から信じて祈りましょう。