8月11日礼拝「主は御救いを行われた」

詩篇講解NO98「主は御救いを行われた」詩篇98篇1~9節
仁井田義政牧師
今日の詩篇は、「新しい歌を歌え」との招きの歌です。この詩も、バビロン捕囚後に書かれたものだろうと言われています。なぜ新しい歌を歌えと書かれているのでしょうか。現代においては、私達ペンテコステ派の中から、新しい歌が続々と作られています。今日の詩篇のように、新しい歌を歌うように奨められているのは、神様が日々奇しい御業を行なってくださっているからです。その奇しい御業とは何かをお話し致しましょう。
★まず1節にある神の「右の御手」とは、神様の全能の力を表わしています。その力は、破壊的な力とは違います。神様の力は、聖なる秩序ある力です。ビックバンという爆発が宇宙の始まりであったとしても、この宇宙は無秩序ではありません。数学的に秩序づけられているのです。数学こそ、神の真理に次ぐ真理だと言われている理由なのです。
★その奇しい御業とは何でしょうか。それは、歴史の中に表わされた「救いの御業」なのです。旧約聖書にあるイスラエルの歴史は、ノアの箱舟やエジプトの奴隷からの解放、バビロンの奴隷からの解放等いくらでもあります。エジプトでは、悪い王の代で過酷な労働の時でした。ノアの箱舟の時は、艪も舵もないものでした。バビロンの時は、巨大化するハビロン帝国で、人間的には解放の希望が全く持てない時でした。その敵にペルシャ王クロスが起こされ「自分達の国に帰って、自分達の神殿を作りなさい」と、お金まで持たせてくれました。これが主の御腕なのです。
★神様は、二千年前に究極的な人々の救いを、キリストの十字架によって開始されました。現在では世界人口の3分の1ほどが、クリスチャンになりました。しかしまだ3分の2はクリスチャンではないのです。地の果て果てに近づいてはいますが、「地の果て果てもが、みな我らの神の救いを見る」はまだ実現していません。
★それゆえに、この詩は、これから起こる預言的なものということも出来るのです。神様の強い「右の御手」の働きによって、「地の果て果てまでも主の救いを見る時」が来るのです。ですからクリスチャンは、古い歌だけではなく、新しい希望の歌を心から主に向かって歌おうではありませんか。

8月4日礼拝「光は種のように」

詩篇講解NO97「光は種のように」詩篇97篇1~12節      

                         仁井田義政牧師

 この詩は「主は王だ」で始まっています。つまり、主は世界を支配しておられると告げているのです。

★この97篇は、おそらくバビロン捕囚期間後と、出エジプト記の荒野での生活が重ね合わされて記されていると思われます。イスラエルの歴史は、その二つの歴史が忘れられない体験として、イスラエル人の心に彫り込まれているのです。神様は初めから歴史の王として君臨していたのですが、イスラエルの民には、その事が明らかには見えませんでした。その原因は、人間の罪と限界の為に見えなかったのです。むしろ「神を見た者は死ぬ」とさえ恐れられていました。1-7節までは、神様は、歴史に自然界を統べ納める支配者なる王として記されています。

★8-9節は、真の偉大な神様が世界の王として君臨されている事を聞いて、シオンの民が喜ぶ姿が記されています。もし捕囚期間後すぐの詩であるとすれば、まだ再建もままならぬ暗い時代でした。しかし、自分達の神様は世界の王の王であるという事を知って、勇気百倍の賛美をしたのです。礼拝とはまさしくそうでなければなりません。どんな問題にとり囲まれていようと、神殿において「主は王だ」と聞いて、勇気に満たされなければなりません。

★神様が王だからこそ、神様を信じる者達は、悪の時代に悪に染まらず、正しい生き方を求めるのです。神様が悪を憎まれるので、神様を信じる私達は悪を憎むのです。そして悪に染まらないのです。11節に「光は、正しいものの為に、種のように蒔かれている」とあります。その「種のように蒔かれている光」とは、御言と考えても良いでしょう。

★太陽の光がなければ、植物は育ちません。また日陰では弱々しい植物となってしまいます。力に満ちた王なる神様は、御言の光を私達の心に種のように蒔かれます。その光を心から信じて受け入れるならば、受け入れた御言は芽を出し成長し、その人の人生を喜びと感謝に満ち溢れさせるのです。光である御言に照らされると「感謝と喜び」に溢れ、生活にも力がみなぎってきます。神様は、全世界の人々に光を種のように蒔くために、世界の王となられました。その王を「こおどりし」(1節、8節)て、礼拝しましょう。

7月14日礼拝「全地よ。主に歌え」

詩篇講解NO96「全地よ。主に歌え」詩篇96篇1~13節

                            仁井田義政牧師

先週は、イスラエルの新年礼拝の御言でした。今日の御言も、新年礼拝の詩篇と言われています。この御言の特徴は、「全地よ。主に歌え」と1節で呼びかけられている点です。旧約の時代は、イスラエル人の選民意識が強く、異邦人が神様を信じて救われるなどとは特殊な考えでした。

★そのような時代に「全世界の国々と人々に、主の栄光を告げ知らせよ」と1~6節で勧められています。そして「主に歌え」「主に歌え」「主に歌え」と、1~2節の間に3回も賛美の奨めがあります。誤解を恐れず言うならば、礼拝は御言を聞くことではありません。祈ることでもありません。礼拝は神様を賛美することなのです。ですから、心からの賛美のない礼拝は、礼拝ではないのです。まさに賛美をもって「御名をほめたたえる」ことが、継続的な宣教でもあるのです。真の神様は、天地を造られた神様です。そして真の神様の力と光栄は、主の聖所を通して礼拝者に与えられているのです。

★真の神様の礼拝者は、真の礼拝者でなければなりません。真の礼拝者とは「主にひれ伏す」(9節)人です。ひれ伏す人とは、自分の弱さや欠点を認め、心が砕かれ、罪深さを認める人です。何事も自分の手柄にせず、神様がそうして下さったと感謝のできる人です。全ては神様からの授かりものだと感謝し、自分自身の人生も神様にお捧げ出来る人です。

★10~13節は、キリストの再臨の預言と言われている所です。国々の中で「主は王であられる」と言えと奨められています。そのことをはっきりと言われたのは、イエス様でした。弟子達は去り、ご自分が殺される十字架を前にして、ローマの総督ピラトが「あなたは王なのか」と質問した時、「そのとおり私は王です」と言われました。(ヨハネ18:37)

★ある学者達が言うように、この詩がバビロン捕囚期後の作であるとすればなおさらのことです。バビロン捕囚によって十部族が失われ、二部族が残っただけでした。その一部族のユダ族から生まれられたキリストが、十字架で殺されようとしていました。そこでイエス様は「私は王である」と宣言されました。今日の御言は「全地よ、主に歌え」と奨めています。私達は全世界に向かって、「主は王であられる」と叫ぼうではありませんか。

7月7日礼拝「今日、御声を聞く」

詩篇講解NO95「今日、御声を聞く」詩篇95篇1~11節

                            仁井田義政牧師

今日の95篇は、賛美にも広く用いられている有名な詩篇です。それは、新しい年を迎えた正月の礼拝の歌と言われています。イスラエルの正月は、日本とは違って9月頃です。しかし新年を迎える巡礼者が神殿の門近く来ますと、「さあ主に向かって喜び歌おう」と神殿内から歌で呼びかけられたのです。長い距離を歩いてきた巡礼者達は、その声を聞いて息を吹き返しました。

★巡礼者たちの住んでいた所は、宗教や習慣が異なる所だったでしょう。たとえ宗教や習慣が違う所であっても、私達の礼拝する神様は、その神々にまさるのです。私達の神様は、世界の創造者であり、世界を支配する王だからです。(3節)

★神様は、天地の創造者という偉大なエネルギーを持った方であるだけではありません。私達の羊飼いでもあられます。(4~6節) 

羊飼いは、自分の牧場の羊の名前を呼び、世話をします。飢えているなら食物を与え、傷ついているならば手当をします。主は、そのような優しいお方なのです。「良き羊飼いは、羊の為に命を捨てる」(ヨハネ10:11)のです。

★そうして詩人は「御声を聞くならば、メリバの時のように心を頑なにしてはならない」(7~11節)と言いました。それは、昨年までどうであろうと関係なく、見声を聴く正月の「今日」です。イスラエル歴史を見ますと、せっかく神様が、羊の群れのようにイスラエル人達をエジプトの奴隷から救い出して下さったのに、メリバで人々の不満が爆発してしまったのです。その結果、不満を言った人達が約束の地に入れず、荒野で死に絶えてしまいました。御言は、今日聞くことが大切なのです。今日御声を聞いた人として、新約聖書にザアカイと言う人が出てきます。(ルカ19:1~)

★しかも彼は、人々から嫌われる仕事をして、人々から除け者にされ、寂しい人生を送っていました。イエス様は、「今日あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われたのです。ザアカイは、イエス様を急いでお迎えしました。そしてザアカイは、喜びに満ちた人となったのです。

今日、あなたも神様のお声を聞いて、神様の力と優しさを信じ、神様を礼拝する幸せな人になりましょう。

6月23日礼拝「主が私の助けでなかったなら」

詩篇講解NO94「主が私の助けでなかったなら詩篇94篇1~14節

                        仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、「復讐の神、主よ。復讐の神よ。」と叫ぶのっぴきならない詩人の祈りから始まっています。その為に、この詩が復讐の詩だと思ってしまう人が多いのです。しかし単なる復讐の詩ではありません。悪に満ち溢れたこの世をどのように生きて行ったら良いのかを、詩人が体験者として教えている詩なのです。

★復讐とは、悪者に対する神様の裁きのことです。裁きのない所に、正しさは存在しません。正に「処罰なくして法律なし」です。政治家が自分達の不正の為の法律を作っても、処罰がなければザル法なのです。神様は、神様であられる故に、教えに従わない者を処罰する権能を持っておられるのです。

★この詩人が見ていた不法に満ちた人々とは、神様の存在を信じない人々のことです。彼らは、神様を信じている者達を馬鹿にし、勝ち誇り「神様を信じていなくてもこうなった」と自慢します。そのような者達は「やもめ」「在留異国人」「みなしご」などを痛めつけます。何をやっても神様は見ていないと思っているからです。しかし詩人は「気づけ。まぬけども」と記しています。神様はひとつも見逃すことなく、不正を処罰されるからです。

★詩人は12節で「主よ、なんという幸いなことでしょう。あなたに戒められ、みおしえを教えられるその人は」と言っています。幸せはヘブル語の「アシュレー」という言葉です。それは詩篇1篇1節にも記されています。イエス様はギリシャ語の「マカリオス」という言葉を、マタイの福音書で8回程語られました。悪のはびこる中で、悪に染まらず生きることが出来るのは、あなたのみおしえのゆえですと言っておられます。

詩人は、神様の民とされているから、私は悪人とは違うと喜んでいるのとは違います。詩人は「もし主の助けがなかったならば、私も彼らと同じように生きていた」と言っています。詩人の実存的体験から出て来た言葉です。

 私達もみな同じであることを認めなければなりません。そこに本当の感謝が溢れるのです。神様は正義の神です。世の中がどんなに悪者で満ちても、私は正しく生きようと決心しましょう。今日も私達の救い主に感謝して、心から祈りましょう。

6月16日礼拝「主は王であられる」

詩篇講解NO93「主は王であられる」詩篇93篇1~5節

                     仁井田義政牧師                             

 主は王であられるか否かが、人類歴史の永遠のテーマです。人間の歴史は、人間を王としようとするものでした。サウル王以前、イスラエルの歴史に王はいませんでした。神様は、人間が王になることを喜ばれないのです。

★しかしイスラエルの民は「外国のように人間の王が欲しいと騒ぎ立てました」そのことは、第一サムエル記8章1~12節に記されています。その結果次々に王が立てられました。三代目のソロモンは、外国に倣って兵器として軍馬を導入しました。馬屋四千と騎兵一万二千という数です。そのことは第第二歴代誌9章25節に記されています。彼は、神様よりも軍事力に頼ったのです。彼は王国を拡大し、モーセの教え(申命記の17章16~17節)を破り、多くの馬と700人の王妃と300人のそばめ持ちました。その女性の多くは、外国人でした。その結果、彼女らの持ってきた外国の宗教に染まってしまいました。そのことは第一列王記11章1~8節に記されています。

★ソロモンが死んだ後に王国は分裂し、やがて両方とも壊滅してしまうのです。キリストが来られる前の400年間は、最悪の時代で、預言者さえも存在しませんでした。その暗黒時代の終わりに、王なるイエス様がお生まれになったのです。その時、東方の博士達が長い旅をしてエルサレムに着き、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方を・・・拝みに来ました」と言いました。そのことはマタイ2章1~2節に記されています。

★今日の詩篇には「王はみいつをまとっておられます」と記されています。「みいつ」とは、威厳のことです。ヨハネ18章37節にローマの総督ピラトがイエス様に「それではあなたは王なのですか」と問うたシーンがあります。イエス様はハッキリと「私が王である」と言われました。

★詩篇の93篇3~4節に川が出てきます。バビロンにはチグリス、ユーフラテス川が、南にはエジプトのナイル川が流れています。また4節の「海の力強い波」は、海を渡ってくるローマのことかもしれません。しかし世界情勢がどうあろうとも、王の王であられる神様の威厳は微動たりとしないのです。人間を王としようとする世の中の流れに、クリスチャンは騙されてはなりません。イエス様を王の王として、我が家にしっかりとお迎えしましょう。

6月9日礼拝「草のように、木のように」

詩篇講解NO92「草のように、木のように」詩篇92篇1~15節

                     仁井田義政牧師                             

 今日の92篇は「安息日のための歌」という表題が付いています。つまり安息日と言われている礼拝の日に歌われた詩なので、安息日に主を礼拝する人と、そうでない人の対比が記されています。

★92篇1~5節まで、礼拝とは何かを教えています。それは「主に感謝すること」です。「主」はアドナイと言う言葉で、私のご主人様の意味です。他宗教の言う宇宙法則や宇宙の生命などという、非人格的なものとは全く違うのです。私のご主人様という存在の神様です。礼拝とは、私達の主人として恵みと祝福を毎日注いで下さっている神様への感謝なのです。

★6~9節では、「この神を知らない者達は草のようだ」と記されています。地上の生物の中で、人間だけが神様を礼拝することができる存在です。その特権を放棄して生きている人達がいます。そのような人も、みるみるうちに栄えることがあると聖書は言っています。しかしそれは「草のようで一瞬の栄えである」と言っています。

★しかし神様を礼拝する者は、「ナツメヤシの木のように栄え、レバノン杉のように育ちます。」(12節)と記されています。この詩篇に記されているナツメヤシもレバノン杉も、役に立つには数年かかります。草のように、数か月で成長するというわけにはいかないのです。しかし、神様は私達を主の家の木として、主の庭に植えて下さいました。それは世話をし、育てて下さるためにです。

★教会の庭にも、いろいろな植物が植えられています。最近では桑の実が沢山なり、皆さんがジャムを作ると言って積んでいかれました。なぜ桑の実などがなるのでしょうか。私が植えて世話をしているからです。しかし大きなレモンの木の世話を失敗し、害虫によって枯らしてしまいました。神様は失敗されません。ですから「彼らは年老いても、なお実を実らせ、みずみずしく、生い茂っていましょう」(14節)と記されているのです。神様は「礼拝者が年老いても、ナツメヤシやレバノン杉のように栄えさせてくださる」のです。神の家の庭に植えられた木のように、礼拝を大切にし、神様の庭にしっかりと根を下ろし、感謝の礼拝を捧げましょう。

6月2日礼拝「私の救いを彼に見せよう」

詩篇講解NO91「私の救いを彼に見せよう」詩篇91篇1~16節

                     仁井田義政牧師

 6月に入り、一年の半ばにさしかかっています。さて、人生にはいろいろな戦いがあるものです。今日のメッセージは、詩篇91篇の最後の言葉から「私の救いを彼に見せよう」という題でお話し致します。

★この91篇の作者は、誰であるかがわかりません。詩の表題もないのですが、この詩人は大きな困難に直面しています。3節や6節を見ると、病気かもしれません。あるいは3節の「狩人の罠」は命を狙う敵かもしれません。私達の回りには、様々な問題や困難が際限なくあります。それが心配や不安を生み出すのです。

★この詩人は、神様を信じることを「いと高き方の隠れ場に住む」(1節)と言っています。また「全能者の陰に宿る」とも言っています。それは神様の守りに包まれることを意味しています。詩人は、神様を信じることをそのように表現しています。日本人の「信じる」という感覚とは違う表現です。つまり、神様に心に入って頂くのではなく、神様の守りの中に入れて頂くのです。

旧約時代には、その家の客となった人に対して、主人は命をかけて守る習慣がありました。親鳥がひな鳥を守るように、客人を守るのです。病人であればなおさらです。「それは、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである」と、9節に記しています。

★どうして神様は、無名なこの詩人を1~13節にあるように次々と守って下さるのでしょう。それは「彼がわたしを愛しているから」(14節)と神様の言葉が記されている通りです。これが神様を愛する者への約束なのです。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と申命記6章5節にも記されています。イエス様もマタイ22章36~38節でこの言葉を引用しておられます。

★今日の詩篇の作者は、病気かあるいは敵という、命に係わる問題に直面していました。その詩人に神様は「私の救いを彼に見せよう」と言われたのです。それは、詩人が神様の守りの中に住んで、神様を愛する人だったからです。私達も主の守りの中に住み、神様を愛する生活を開始しましょう。

  

2024年ペンテコステ礼拝「聖霊の力と教会の誕生」

2024年ペンテコステ礼拝聖霊の力と教会の誕生」使徒2章1~4節

                           仁井田義政牧師                                                

今日は、教会が誕生した記念日のペンテコステ礼拝です。使徒の働き2章を中心に「聖霊の力と教会の誕生」について話します。

★使徒の働き2章1節には「五旬節の日になって」と記されています。それは、過越の祭から50日目になったことを表わしています。イエス様は、そうしようと思えば復活されたその日に聖霊のバプテスマを与えて教会を誕生させることも出来たはずです。弟子達が待たされたのは、50日目に「ペンテコステの祭」が来るからです。それは麦の初穂の奉献の祭でした。

★使徒の働き1章8節には「聖霊を受けると力を受ける」とのイエス様の約束の言葉が記されています。「力」はギリシャ語の「デュナミン」という言葉が用いられています。それは「ダイナミック」とか「ダイナマイト」と言う言葉の語源にもなった言葉です。爆発するような力、ダイナミックな力を持った教会の誕生なのです。

★聖霊のバプテスマには「異言を語る」というしるしが伴いました。しかし、「彼らは甘い葡萄酒に酔っているのだ」(使徒2:13)と言う人達もいました。教会誕生に最重要であった聖霊のバプテスマを受けた人と、気持ち悪いと思う人が起こったのです。

★現代でも「異言ならばやみます」(第一コリント13:8)を開いて反対する人もいますが、パウロ自身が「私は、あなたがたの誰よりも多くの異言を話すことを神に感謝しています」(第一コリント14:18)と言っています。

★世界で最初にエルサレムに誕生した教会と初代教会は、聖霊のバプテスマを受け、異言を語り、聖霊のダイナミックな力を受けた教会でした。アッセンブリー教団は、いち早くイエス様の教えに戻りました。その結果、世界の大きな教会の多くは、アッセンブリー教会となったのです。

★私達日本の教会も、聖書の示す聖霊によるバプテスマを受け、大いに異言で祈り、聖霊のダイナミックスに満たされて成長しましょう。

5月12日礼拝「人の子らよ、帰れ」

詩篇講解NO90「人の子らよ、帰れ」90篇1~12節

                        仁井田義政 牧師                              

 詩篇の講解メッセージも、第四巻の90篇に入りました。あと60回話しますと、詩篇の全てをお話しすることになります。詩篇は詩文であるだけに、作者は大きなテーマも、言葉を短縮して記しています。90篇の内容も「人間の死とは何か。人間の手のわざとは何か」を、わずかな文字数でシンプルに記しています。それだけにストレートで、読む者の心に刺さるのです。

★私達人間は、永遠の神の前に草のような存在だと、3節~12節で述べています。人間は、数百年も生きることのある木でもなく、草のような存在なのです。草は、春に芽を出しても秋には枯れてしまう短い命です。創世記6章3節にあるように、人間が長生きしても120歳を超えるとニュースになる程難しいのです。その一生は「労苦と災い」に満ちていると言っています。

★詩人は「自分の日を数えることを教え、手のわざを確かなものにしてください」と12~17節の中に記しています。「自分の日」とは、平均寿命から見て、あと何年かのことです。多くの人は死を考えないようにして生きています。17節の「手のわざ」とは、この人生で成して来た行ないのことです。「確かなものにしてください」は、私達が死んでも神様の前に価値あるものと認められる行いのことです。

★私達人間は、生まれながらにして神様と断絶した状態にあります。多くの人は、自分がどのような存在なのか、何をこの人生で成すべきなのか、どこに向かっているのかを見失ってしまっています。それは、7~9節にあるように「神の怒り」の中に生きている証拠なのです。

★ですから人間は、誰でも神様によって、神様の世界に生まれ直さなければなりません。それが新生と言われるものです。神様のもとを離れた人間の姿を、イエス様は「放蕩息子」の譬えによって教えられました。その人は父親の家を飛び出して、餓死寸前にまでなったのです。その時「はっと我に返り」父親のもとへ帰ろうと決断をしました。今日の詩篇にも「人の子らよ、帰れ」という神様の声があります。それは、あなたへの神様の呼び掛けなのです。あなたも神様のもとに帰り、新しい人となりましょう。