Monthly Archives: 4月 2025

(礼拝メッセージ)「あなたがたが命を得るため」

(礼拝メッセージ)「あなたがたが命を得るため」ヨハネ20章24~31節

                         仁井田義政牧師

 先週は主の復活祭でした。弟子達はイエス様の御復活にふれ、喜びに溢れました。しかし弟子のトマは、弟子達と一緒にいませんでした。トマスは「私は見て触ってからでないと信じない」と言いました。その為に「不信仰なトマス」と言われることが多いのです。トマスは不信仰なのでしょうか。今日は、少し違った角度からトマスを見て、イエス様の復活後の第一週メッセージとしたいと思います。

★トマスが「私は信じない」と言ったのは、復活のイエス様が弟子達の所に来られた時、トマスはそこにいなかったからとあります。イエス様が来られた時に弟子達と一緒にいたならば、復活のイエス様を信じたでしょう。「弟子達の知らせを聞いたのに信じなかったのは、トマスの不信仰だ」と言う人もいるでしょう。しかし弟子達も「復活の主を見て」信じたのです。

★しかしトマスは「私は見て、触ってでなければ信じないと」と言いました。つまり、私は他の弟子達のように簡単には信じない。否私は信じられないと言ったのです。それは、間違った自己認識でした。「他の人達のように簡単には信じられない人間だ」と思い込んだのです。次の日曜日にイエス様が再度現れると、トマスは他の弟子達と全く同じように「見て信じたのです」それ以上のことでも、それ以下のことでもありませんでした。

★しかしトマスは、自分で「私は他のクリスチャンと違って、単純な人間ではない。疑い深い人間だ」と思い込んでしまっていたのです。しかしそうではありませんでした。他の弟子達と同じように、イエス様を信じました。そればかりか、他の弟子達よりも明確な信仰告白をしたのです。それは「私の主。私の神」というものでした。教会は、この信仰告白を完璧な信仰告白として受け継いで、今日まで来ているのです。

★ヨハネ20章31節には「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」と記されています。主は、あなたを愛してくださっています。その主を「我が主よ。我が神よ」と、今日信じようではありませんか。

4月20日イースター礼拝「主はよみがえられた」

(イースター)「主はよみがえられた」マタイ27章62節~28章6節

                         仁井田義政牧師

みなさん、イースターおめでとうございます。私達の信仰は、キリストの復活にかかっています。キリスト教の信仰を覆すためには、イエス様の骨の一片でも発見されれば良いのです。「もしキリストがよみがえられなかったならば、あなたがたの信仰は虚しい」(Ⅰコリント15:17)と聖書に記されています。かつてキリスト教への迫害者だったパウロが書いているのです。

★「復活」の言葉を最初に口にしたのは、キリストを殺害した側の祭司長やパリサイ人達でした。マタイ27章63節に「閣下、あの人を騙す男がまだ生きていた時に『自分は3日の後によみがえる』と言っていたのを思い出しました」とローマの総督ピラトに言って、墓を守る兵を出して貰いました。確かにイエス様は、何度もその事を弟子達に話していたのです。(マタイ16:21)

★弟子達は、キリストの裁判後の鞭打ちや、ローマの兵隊の暴力、そして十字架を見て、心底失望してしまっていました。イエス様は絶対に強い方だと思っていたのに、あまりに弱く、成す術もない姿に絶望してしまいました。しかしそのイエス様の姿こそ、強力な人類救済の意志だったのです。(マタイ16:21~23)それこそが、誰にも賞賛されないみじめな十字架に身を捧げるという強い意志を、人類史の中に記したのです。

★マタイ28章には、早朝に女性達がイエス様の墓に向かった事が記されています。この女性達も、キリストの甦りなどと言う希望は全くありませんでした。金曜日に死体に塗る油が足りなかったのを見ていたので、油を塗りに行ったのでした。

★女性達は、金曜日にイエス様の葬られた場所も見て知っていました。そして兵隊達が、自分達を大目に見てくれると思っていたかも知れません。そこで思いもよらず、甦りの主に会うのです。「女たちは恐ろしくはあったが大喜びで」イエス様のご復活に感動したのです。最初に、キリスト教会を潰すにはキリストの骨の一片でも見つかれば良いのだと言いましたが、二千年経っても見つかってはいません。そのはずです。イエス様は甦られたのです。私達は、主のご復活を心より感謝し、喜びお祝いしましょう。

(受難週)「弟子達もそれを知らなかった」

(受難週)「弟子達もそれを知らなかった」ヨハネ12章12~16節

                           仁井田義政牧師

今日は、受難週の最初の日「棕櫚の日曜日」です。棕櫚の葉は、古代のギリシャやローマ社会で、王様や勝利者を迎える時に用いたものでした。彼らは、熱狂的にイエス様を迎えました。しかし数日間で、彼らは「イエスを殺せ」という熱狂的反対者に変わってしまったのです。それは群衆が求めていたことと、イエス様が求めておられたことには、大きなずれがあったからでした。

★群衆がひたすら求めていたものは、ローマからの解放でした。ローマが自分達の国を占領していることが面白くなかったのです。人々はローマの重税に苦しめられていました。弟子のマタイの前職業は、その取税人だったのです。イエス様がイスラエルの王となってくれれば、神の子だから絶対にローマに勝つと信じたのです。「緑濃き棕櫚の葉かざす感激を。ああ栄冠は君に輝く」(高校野球のテーマ曲の歌詞)のはずでした。

★しかしイエス様は、ローマからの解放の為に来られたのではなかったので、王としての軍事的な行動を何もされませんでした。エルサレムに入ってからのイエス様は、「ローマ皇帝への税金はローマ皇帝へ。神様へのものは神様に返しなさい」(マタイ22:18-22)と言われました。それを聞いて、彼らは「イエスを残して立ち去った」と記されています。

★イエス様は、人々を「罪から救う救い主」としてエルサレムに来られたのです。もちろん政治や経済はどうでも良いと言うのではありません。「まず神の国と神の義を求めよ。そうすれば全てが与えられる」(マタイ6:31-34)と言われるのです。イエス様は、私達人間が「神様を信じない」という自己中心の罪の支配から私達を救うために来て下さったのです。それなのに、英雄として迎えようとしたのです。一般の人々ならまだしも「弟子達さえも、イエス様が子ロバに乗って来られた意味が分からなかった」(ヨハネ12:16)のです。あなたも、イエス様を追い出し捨ててしまってはいませんか。もしそうなら、悔い改めてイエス様を正しくお迎えしましょう。

4月6日礼拝「家族みんなの幸せ」

詩篇講解NO128「家族みんなの幸せ」128篇1~6節

                         仁井田義政牧師

先週は、溝の口教会の50周年記念礼拝でした。素晴らしい記念会になりました。神様の祝福を感謝いたします。さて今日の128篇も、巡礼者の詩篇です。巡礼者が神殿に参拝し「主にある家庭の幸せ」の歌です。

★まずこの詩篇は「幸いなことよ=アッシュレー」から始まります。それは「ああー、なんと幸せなことだろう」という意味です。詩人が、家族そろって礼拝に来ることが出来たことに幸福を感じているのでしょう。イエス様の家族も、毎年「過ぎ越しの祭」には、エルサレムに礼拝に行きました。12歳のイエス様も、家族と一緒に礼拝に行かれました。(ルカ2:41)

★さらに「あなたは自分の手の勤労の実を食べる時、あなたは幸いだ」と記されています。自分の手の「勤労の実」とは収入のことです。そして「勤労の実」の原語の意味は、「苦労する」でもあるのです。神様を知らない人は「勤労の実」(収入)をどのように楽に得るかを考え、全て自分の為に使うということが普通です。しかし、そのような生活に幸福を感じているかと言うと、虚無的で、満たされずに生きているのが現実です。

★次には「妻は家の奥にいて、ぶどうの木のよう、若木に囲まれたオリーブの木のようだ」と記されています。妻が奥にいて等との言葉には「そんなバカな」と怒られそうですが、この言葉は男性にはなかなかできない優れた母親の働きの領域を言っているのです。それは、ぶどうとオリーブ木の譬えで明らかです。子供達に命の栄養を与えてひとつの家族にするのは、母親の特別な働きです。特にオリーブの木は常緑樹なので、いつも子供達が母親と正しい関係にあると幸せで、青々と命に溢れて強くなるのです。

★詩人は、家庭の幸せはシオンから来ると言っています。この詩篇は巡礼者の歌です。何でも自分の幸せの為という生き方が現代では横行しています。それで人間は幸せになっているでしょうか。2024年の厚生労働省の発表によると、全国の精神疾患患者は 620 万人を超えていて、「過去20年間に2倍の増加率」だと記しています。大変な数ですね。クリスチャンは、家族が救われるように祈りましょう。そして家族が救われるために、本気で家族を愛してゆきましょう。