詩篇講解NO99「主は聖である」詩篇99篇1~9節
詩篇99篇の最初に「主は王である」という言葉が記されています。詩篇の中では、何度か出てくる言葉です。それと同時に「主は聖である」という言葉も、99篇の中に3回ほど出てきます。その言葉は「神様は愛である」という言葉の陰に、薄くなってしまっている危険があるのです。神様が聖であることが分からなければ、神様が愛であるということもわからなくなってしまうのです。今日の「主は聖である」という御言を通して、もう一度信仰に燃やされていきましょう。
★主は全人類の「王」です。日本の宗教とか外国の宗教とかではないのです。2節にあるように、神様が世界の王であられ「全ての国々の民の上に高くいます」御方なのです。
★また主は「聖である」と言う言葉が、3回も出てきているのは、完全に聖いということです。この言葉が最も多く出てくるのは、イザヤ書の36回です。聖であられる神様は、汚れている者と交流を持つことが出来ないのです。その為にイザヤは「ああ、私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者で・・・万軍の主である王をこの目で見たのだから」(イザヤ6:5)と恐れました。これが、世界を支配する「聖なる神の聖さ」なのです。
★神様は聖であられる御方であり、罪に汚れた私達人間など、絶対に近づけない御方なのです。しかしその神様は「赦しの神」(詩篇99:8)でもあられます。詩篇作者は、その「絶対的な聖なる御方と、赦しの神」を記しています。イザヤも「神を見たので死ぬ」と恐れましたが、神様がひとつの方法で罪をきよめて下さったことを記しています。それは祭壇の炭火でした。
★祭壇の炭火とは何でしょうか。それは羊等を捧げて燃やした犠牲の火です。その火で、罪人であったイザヤの罪が赦されたのです。そこに、キリスト・イエスの十字架による救いと赦しの原型が見えるのです。洗礼者ヨハネが、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と言ったのは、そのことです。しかもその聖であり愛であられる神は、全世界の王なのです。小さな民族のたった一人も、忘れ去られることはありません。そのように私達を愛される神様に感謝して、献身的な信仰を持ちましょう。