Monthly Archives: 8月 2024

8月18日礼拝「主は聖である」

詩篇講解NO99「主は聖である」詩篇99篇1~9節 

                        仁井田義政牧

詩篇99篇の最初に「主は王である」という言葉が記されています。詩篇の中では、何度か出てくる言葉です。それと同時に「主は聖である」という言葉も、99篇の中に3回ほど出てきます。その言葉は「神様は愛である」という言葉の陰に、薄くなってしまっている危険があるのです。神様が聖であることが分からなければ、神様が愛であるということもわからなくなってしまうのです。今日の「主は聖である」という御言を通して、もう一度信仰に燃やされていきましょう。

★主は全人類の「王」です。日本の宗教とか外国の宗教とかではないのです。2節にあるように、神様が世界の王であられ「全ての国々の民の上に高くいます」御方なのです。

★また主は「聖である」と言う言葉が、3回も出てきているのは、完全に聖いということです。この言葉が最も多く出てくるのは、イザヤ書の36回です。聖であられる神様は、汚れている者と交流を持つことが出来ないのです。その為にイザヤは「ああ、私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者で・・・万軍の主である王をこの目で見たのだから」(イザヤ6:5)と恐れました。これが、世界を支配する「聖なる神の聖さ」なのです。

★神様は聖であられる御方であり、罪に汚れた私達人間など、絶対に近づけない御方なのです。しかしその神様は「赦しの神」(詩篇99:8)でもあられます。詩篇作者は、その「絶対的な聖なる御方と、赦しの神」を記しています。イザヤも「神を見たので死ぬ」と恐れましたが、神様がひとつの方法で罪をきよめて下さったことを記しています。それは祭壇の炭火でした。

★祭壇の炭火とは何でしょうか。それは羊等を捧げて燃やした犠牲の火です。その火で、罪人であったイザヤの罪が赦されたのです。そこに、キリスト・イエスの十字架による救いと赦しの原型が見えるのです。洗礼者ヨハネが、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と言ったのは、そのことです。しかもその聖であり愛であられる神は、全世界の王なのです。小さな民族のたった一人も、忘れ去られることはありません。そのように私達を愛される神様に感謝して、献身的な信仰を持ちましょう。

8月11日礼拝「主は御救いを行われた」

詩篇講解NO98「主は御救いを行われた」詩篇98篇1~9節
仁井田義政牧師
今日の詩篇は、「新しい歌を歌え」との招きの歌です。この詩も、バビロン捕囚後に書かれたものだろうと言われています。なぜ新しい歌を歌えと書かれているのでしょうか。現代においては、私達ペンテコステ派の中から、新しい歌が続々と作られています。今日の詩篇のように、新しい歌を歌うように奨められているのは、神様が日々奇しい御業を行なってくださっているからです。その奇しい御業とは何かをお話し致しましょう。
★まず1節にある神の「右の御手」とは、神様の全能の力を表わしています。その力は、破壊的な力とは違います。神様の力は、聖なる秩序ある力です。ビックバンという爆発が宇宙の始まりであったとしても、この宇宙は無秩序ではありません。数学的に秩序づけられているのです。数学こそ、神の真理に次ぐ真理だと言われている理由なのです。
★その奇しい御業とは何でしょうか。それは、歴史の中に表わされた「救いの御業」なのです。旧約聖書にあるイスラエルの歴史は、ノアの箱舟やエジプトの奴隷からの解放、バビロンの奴隷からの解放等いくらでもあります。エジプトでは、悪い王の代で過酷な労働の時でした。ノアの箱舟の時は、艪も舵もないものでした。バビロンの時は、巨大化するハビロン帝国で、人間的には解放の希望が全く持てない時でした。その敵にペルシャ王クロスが起こされ「自分達の国に帰って、自分達の神殿を作りなさい」と、お金まで持たせてくれました。これが主の御腕なのです。
★神様は、二千年前に究極的な人々の救いを、キリストの十字架によって開始されました。現在では世界人口の3分の1ほどが、クリスチャンになりました。しかしまだ3分の2はクリスチャンではないのです。地の果て果てに近づいてはいますが、「地の果て果てもが、みな我らの神の救いを見る」はまだ実現していません。
★それゆえに、この詩は、これから起こる預言的なものということも出来るのです。神様の強い「右の御手」の働きによって、「地の果て果てまでも主の救いを見る時」が来るのです。ですからクリスチャンは、古い歌だけではなく、新しい希望の歌を心から主に向かって歌おうではありませんか。

8月4日礼拝「光は種のように」

詩篇講解NO97「光は種のように」詩篇97篇1~12節      

                         仁井田義政牧師

 この詩は「主は王だ」で始まっています。つまり、主は世界を支配しておられると告げているのです。

★この97篇は、おそらくバビロン捕囚期間後と、出エジプト記の荒野での生活が重ね合わされて記されていると思われます。イスラエルの歴史は、その二つの歴史が忘れられない体験として、イスラエル人の心に彫り込まれているのです。神様は初めから歴史の王として君臨していたのですが、イスラエルの民には、その事が明らかには見えませんでした。その原因は、人間の罪と限界の為に見えなかったのです。むしろ「神を見た者は死ぬ」とさえ恐れられていました。1-7節までは、神様は、歴史に自然界を統べ納める支配者なる王として記されています。

★8-9節は、真の偉大な神様が世界の王として君臨されている事を聞いて、シオンの民が喜ぶ姿が記されています。もし捕囚期間後すぐの詩であるとすれば、まだ再建もままならぬ暗い時代でした。しかし、自分達の神様は世界の王の王であるという事を知って、勇気百倍の賛美をしたのです。礼拝とはまさしくそうでなければなりません。どんな問題にとり囲まれていようと、神殿において「主は王だ」と聞いて、勇気に満たされなければなりません。

★神様が王だからこそ、神様を信じる者達は、悪の時代に悪に染まらず、正しい生き方を求めるのです。神様が悪を憎まれるので、神様を信じる私達は悪を憎むのです。そして悪に染まらないのです。11節に「光は、正しいものの為に、種のように蒔かれている」とあります。その「種のように蒔かれている光」とは、御言と考えても良いでしょう。

★太陽の光がなければ、植物は育ちません。また日陰では弱々しい植物となってしまいます。力に満ちた王なる神様は、御言の光を私達の心に種のように蒔かれます。その光を心から信じて受け入れるならば、受け入れた御言は芽を出し成長し、その人の人生を喜びと感謝に満ち溢れさせるのです。光である御言に照らされると「感謝と喜び」に溢れ、生活にも力がみなぎってきます。神様は、全世界の人々に光を種のように蒔くために、世界の王となられました。その王を「こおどりし」(1節、8節)て、礼拝しましょう。