Monthly Archives: 2月 2025

2月23日礼拝「さあ、主の家に行こう」

詩篇講解(NO.122)「さあ、主の家に行こう」122篇1~9節

                         仁井田義政 牧師 

 この詩篇は、神殿に来た巡礼者がその庭で記したものと思われます。どれくらい長い旅をして、神殿のあるエルサレムに来たのでしょうか。困難を乗り切って、ようやく着いたエルサレム。そうして数日間を礼拝三昧に過ごし、夢を見ているような幸せな気持ちをもって神様の恵みに感謝している光景が、ありありと浮かんできます。

★まず1節で『人々が私に、「さあ、主の家に行こうと言った時」、私は喜んだ』という言葉で始まっています。詩人を巡礼に誘ってくれたのは、友人達でした。遠いエルサレム神殿までの礼拝の旅路を思うと、心のどこかに躊躇する気持ちがあったのかもしれません。友人達の誘いがあったからこそ、いま礼拝に来ることが出来ているのだと感謝しているのです。

★神殿には、多くの人々が来ていました。しかし、その多くはイスラエル人でした。当時は、礼拝場所も異邦人の庭、イスラエル人女性の庭、イスラエル人男性の庭と、分離されていました。教会は、礼拝場所からそのような差別を一切取り払ったのです。

★巡礼者は「主の御名に感謝するために」(4節)エルサレム神殿に来ました。礼拝で最も大切なことは「主の御名に感謝する」ことでした。これは教会の礼拝でも、最も大切なことです。

★6節には「エルサレムの平和の為に祈れ」という言葉があります。エルサレムは、西暦70年にローマ軍によって、西暦637年にはイスラム教徒によって、その支配下におかれました。西暦688年には、今も残るイスラム教の寺院が建てられました。そのドームは、今日まで1337年も建っています。

★ある教会は「エルサレムの平和のために祈れ」というこの御言を、イスラエル人がエルサレムを支配し、神殿を再建することだと信じています。イスラエルがエルサレムを支配しても、ユダヤ教の神殿が建つだけなのです。そこでは異邦人とユダヤ人の差別、男と女の差別が行なわれます。

★イエス様によって、全ての礼拝者を教会は平等な民とされたのです。それが教会の礼拝です。私達も「さあ、主の家に行こう」と言う互いの言葉に励まされて、真の礼拝場所である教会に喜びと感謝を持って集まりましょう。

2月9日礼拝「主はあなたを守る方」

詩篇講解(NO.121)「主はあなたを守る方」121篇1~8節

                       仁井田義政 牧師                                        

 この詩篇には、神殿のあるエルサレムに向かって巡礼の旅をする人の真っ直ぐな心が表わされています。そのためでしょうかこの詩は、詩篇の中でも特に有名な詩篇となっています。

★詩人は最初に「私は山に向かって目を上げる」と記しています。「山」と言うと日本人は「森林」を思い出します。そして森羅万象の創造者を讃える歌だと勘違いしてしまいます。しかしこの詩人の見ている山は、どこを見ても木も草もない山なのです。現代でも、イスラエルを旅行して最初に驚くのは、岩だらけの荒野や山です。

★聖書時代は、山々には偶像の礼拝所がありました。日本の多くの山にも、山頂には祠がありますね。ですから詩人は「私の救いは山からではなく」「天地の創造者から」来るのだと言っているのです。まさに、詩人の助けの確信は、偉大な天地の創造者の守りに置かれています。そして天地万物の創造者である神は、眠ることもまどろむこともなく守って下さると言っているのです。(3-4節)

★さらに詩人は「主はあなたを守る方」と記しています。当時の巡礼の旅はいろいろな危険の伴うものでした。まず自然からの危険です。「昼は日があなたを打つこともなく。夜も月があなたを打つことがない。」とは、巡礼の旅路の自然の厳しさを現わしています。そして「主は、あなたを行くにも帰るにもとこしえまでも守られる。」とは、巡礼の行き帰りの旅が相当な危険が伴ったことが背景となっている言葉なのです。さらに7節の「主はすべてのわざわいから、あなたを守りあなたの命を守られる」の「命」はヘブル語の「ネフェシェ」と言う言葉で、それは単なる生物的命だけではなく、心も体も経済も、生活の全てを守られるという意味なのです。

★人生も旅路に譬えられます。いろいろな事が起こりますが、それらの恐怖心に勝たなければなりません。それは巡礼者が目的としていた礼拝によって与えられます。真の神を礼拝する者が「主は・・とこしえまでも守られる」という信仰を与えられるのです。あなたも真の礼拝者となって、主はとこしえまで私を守られると確信する者になりましょう。

2月2日礼拝「逆境の中の巡礼」

詩篇講解(NO.120)「逆境の中の巡礼」120篇1~7節

                       仁井田義政 牧師                                        

 今日の詩篇120篇~134篇までの15篇は、「都上りの歌」という表題が付いています。つまりエルサレムに礼拝に来る人々が歌った巡礼者の歌なのです。この詩は、詩人がどこからエルサレムに礼拝に来たのかも記しています。その地名を考えないで読んでしまうと、この詩の意図する内容の10%も理解できないでしょう。

★詩人は、礼拝のためにエルサレムに向かっています。詩人がどのような境遇にあったかを記しています。それは苦しみの中にあったのです。その中で主に祈って「主は私に答えられた」という体験を持った人でした。私達の礼拝も、「主に感謝する」という礼拝が大切であることが分かります。

★この詩の作者は、好戦的な異教徒の中にいました。「偽りの唇、欺きの舌」つまり嘘を平気でつく人々の中で生活していたのです。しかも、その人達と比べて、詩人は社会的に地位が低い立場にありました。しかし、4~5節では、必ず神様によって彼らに「鋭い矢と、炭火が加えられる」と信じていました。

★5節には、詩人が今まで住んでいた所の地名が記されています。それは、メシェク(ロシアの黒海地方)とケダル(アラビア地方)です。詩人は寒いロシアに住んでいたり、熱いアラビアに住んでいたりしていたことがあるようです。しかし、なぜそうなったのかはわかりません。戦争で捕虜になって、そのあと奴隷になったのかもしれません。そのような事は、古代においては普通に行われていたからです。

★しかも彼の住んでいる土地の人は、「彼らは戦いを望む」(7節)という好戦的民族でした。1節の「その苦しみのうちに、主に呼ばわると、主は私に答えられた」という言葉から推測すれば、解放され自由人として礼拝に来たのかもしれません。いずれにしても、この詩人は生活に負けていないのです。「苦しみのうちに主に呼ばわると、主は私に答えられた」と言って、遠い道のりを歩き、神様を礼拝しに来ているのです。私達も、このような大変な逆境の時にも、希望を持ち祈り続ける礼拝者となりましょう。