詩篇講解NO127「主が家を建てるのでなければ」127篇1~5節
仁井田義政 牧師
日は、私達の教会の50周年記念礼拝です。50年前に信仰のみによってこの教会は開始されました。教会と言っても、家内の実家の8畳間一室を借りての始まりでした。しかし50年の年月が経って、今日の詩篇127篇1~2節が身に染みて聞こえてきます。
★1節には「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きは虚しい」と記されています。この詩がソロモンの詩だとすれば、神の家とは神殿のことです。ソロモンは、神殿を建てた後にこの詩を書いたのでしょう。主が建てたのでなければ、立派な神殿もそれは虚しいという意味です。
★私達の教会も、50年の間に4回も礼拝場所が変わりました。家内の実家から一年後に一軒家。その2年後に第一回目の会堂が建てられ、それから12年後に、第二回目のこの会堂が建てられました。その主導権は全て神様にありました。「50年間私達はこうしました」と言いたくなりますが、「主は、その愛する者には、眠っている間にこのように備えてくださる」と2節に記されています。
★ソロモンは「子供たちは主の賜物である」と記しました。昔は子供の多さは、その家の祝福の象徴とされていました。しかしこれは、主の宮への巡礼者の詩なので、単なる子供の多さのことではなく、礼拝のためにエルサレムの神殿に上って来た人々のことであろうと思われます。溝の口教会も、50年経って、このように礼拝者が集っています。そして多摩にも株分け教会ができています。私達の教会は、もはや50年前の二人ではありません。神の教会としても「この子らは勇士の手にある矢」(4節)「彼らは門で、敵と語る時にも恥を見ることがない」(5節)と記されています。
★私達は50周年記念のこの時点で、力が与えられています。その戦いは武器を手にしての戦いではありません。それは、人々を愛する霊的な戦いです。私達は矢筒の中に収められている矢のように、ひとつとなっていなければなりません。50周年を迎えた溝の口教会は、いよいよひとつになって、次の50年に向かって、力強く前進して行きましょう。