11月17日礼拝「永遠の支配者キリスト」

詩篇講解NO.110「永遠の支配者キリスト」110篇1~7節

                         仁井田義政 牧師                                  

 この110篇は、王様の即位式の為の詩篇と言われています。またこの詩篇は、詩篇中で最も多く新約聖書に引用されている有名な詩篇でもあります。なぜ多く引用されている詩篇なのかと言うと、それはキリストの誕生とキリストの働きを預言しているからです。イエス様ご自身も、マタイ23章44節でこの一節を引用しておられます。クリスマスが近づいているこの時期に、この詩篇に思いを馳せることは素晴らしい恵みです。

★最初に話しましたように、この詩篇はダビデ王の時代から王の即位式の時に読まれたと言われています。1節には、ダビデが「主は、私の主に仰せられる」と言ったと記されています。それは、キリストについての預言と同時に、ダビデ王が「私の主」と言うほどの偉大な御方の誕生だと言います。そしてその御方は「私があなたの敵を、あなたの足台とするまで、私の右の座についていよ」と、父なる神に言われた御方であると言っています。

★それは、キリストが十字架の死で終わるのではなく、復活して世界を支配し続けることの預言でした。復活のキリストが神の右の座に着かれると、教会は神の霊に満たされ、世界宣教を開始しました。その支配が2節に「シオン=エルサレム」から始まることも預言されています。その通りに教会はエルサレムで誕生し、そこから世界宣教が始まったのです。

★これは4節の「主の誓い、御心を変えない」という神様の決意なのです。それはまた、神様がアブラハムに「全世界はあなたの子孫よって祝福される」(創世記12:3)と預言された約束の成就なのです。そしてマタイ1章1節にあるように、キリストはアブラハムの子孫から、ダビデ王の子孫から生まれて、全世界の救い主となられるのです。ですからキリストによる世界の救いの戦いは、今日の詩篇110篇にあるように、必ず成功するのです。

★今日の詩篇は、永遠の支配者キリスト誕生の預言でした。キリストが誕生された時には、数人の羊飼い達にしかわかりませんでした。今も、日本人の多くが自分の極近くに救い主キリストがおられるのを知りません。しかしイエス様は、世界の人々を救う戦いをしてくださっています。私達もイエス様と共に、人々を救いに導く伝道の戦いをしましょう。

10月27日礼拝「もう私の心は揺るがない」

詩篇講解NO.108「もう私の心は揺るがない」詩篇108篇1~13節

                    仁井田義政牧師

 この詩篇は表題に「歌。ダビデの賛歌」と記されています。しかしこの詩は、詩篇57篇7~11節と60篇5~12節の合成であると言われています。おそらくダビデ王から五百年くらい後に、ダビデと同じような体験をした人が合成したものと思われます。その体験とは「神様に私は捨てられたのではないか」と言う苦しい体験です。そのような体験を私達もすることがあります。ですからこの詩は、私達にも迫ってくるのです。

★この詩の重要な所は「私達は神様に拒まれたのではないか」(10~11節)と言っている所です。味方がどんなに多くいても、神様が一緒に行ってくださって初めて勝利があると言っているのです。

★ですから詩人は「どうか、敵から私達を助けてください」(12節)と祈りました。神様はその祈りに応えて「聖所から告げられた」と記されています。人間の力や考えではなく、神様の御言です。その神様の御言は、勝利の約束でした。その御言に、詩人は勇気づけられ勝利を確信したのです。

★神様の御言によって、不安定だった詩人の心は不動のものとなりました。詩人は「神よ、あなたは私達を拒まれたのではありませんか」と、不安で揺れ動く心が定まったのです。そうすると、詩人の心に喜びと感謝があふれてきたのです。竪琴を鳴らして神様を賛美するのに、朝まで待てない程でした。そして「あなたの恵みは大きく、天にまで及び、全世界であがめられますように」(4~5節)と賛美したのです。

★今しがたまで、「神様は私達を拒まれた」と不安と恐れが彼の心を支配し、心の安定を失い、不安に揺れ動いていたのではなかったでしょうか。しかし聖所からの神様の声を聞いた時に、彼の心は定まったのです。「神様は私を愛して下さっている」という確信が、神様の言葉によって与えられたからです。「御言をすなおに受け入れなさい。御言は、あなたがたのたましいを救うことができます。」(ヤコブ 1:21)と記されています。御言には、あなたの不安な心に平安を与え、希望の朝を引き寄せる力があります。

神様と神様の御言を信じ、私達も神様の素晴らしさが、世界に届けとばかりに、神様を賛美し力強く生きる人となりましょう。

10月20日礼拝「この苦しみの時に」

詩篇講解NO.107「この苦しみの時に」詩篇107篇1~9節

                  仁井田義政 牧師

この詩は、3節に記されているように、礼拝者が礼拝のために四方の国々から集まって来た時の賛美です。その中には、色々な職業や生活状況の中にある人達もいました。それは、現代の教会のようでもあります。集まった人達には、共通した体験がありました。それは、神様による「苦しみからの救い」でした。

★ある人は「荒野や荒れ地をさまよって」いたと言います。「さまよう」は文字通りではなく、目的がなく虚しさを現わしています。ある人は「闇と死の陰に座す者」だったと記されています。死に向かって屈服している姿です。ある人は「病気の為に、食欲を失い、死」の一歩手前にまで来ていたのです。またある人は、海で嵐に遭って「船が天に上り、深みに下った」のです。そして「彼らのたましいは溶け去った」と絶望的だったことが記されています。

★彼らは、その「苦しみの時に祈ると、主は苦悩から彼らを救われた」と言っています。それが礼拝者の共通体験だったのです。人の悩みは、人の数ほど種類があることでしょう。四方の国々に住んでいた人々は、習慣や文化の違いでなおさらのことでしょう。しかし「苦しみの時に、主に叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された」のです。ですから「主の恵みと、奇しいわざを主に感謝」するという礼拝に集まって、ひとつ心で礼拝することができるのです。

人生は、必ずしも勝者が勝者であり続けることは出来ません。41節に「しかし」と記されている逆転が起こるのです。主に祈る人は、その逆転を体験することが出来ます。「知恵のある者は誰か」と詩篇の作者はそう問うています。そして、その人は「主の恵みを悟る者だ」と結論しています。

★今も、多くの人が多くの悩みを持って、苦しみつつ生きています。私達は、その悩みから解放される道を知っています。それを体験しました。その体験とは「苦しみの時に、主に叫ぶと、主は苦悩から救ってくださった」という体験です。あなたも、諦めて絶望的な人生を送っていてはなりません。あなたを助け、あなたを救って下さる神様を信じて生きましょう。

10月13日礼拝「神に逆らい続けた民」

詩篇講解NO.106「神に逆らい続けた民」詩篇106篇1~15節

                    仁井田義政牧師

106篇は、前の105篇と同じ出エジプト記を背景にしています。105篇はその時の神様の驚くべき救いの御業が記されていました。今日の106篇は、その時のイスラエルの民が、神様を何度も裏切ったことを記しています。

★この詩の作者は、イスラエルの民の裏切りの歴史を書きました。総論的に言えば、イスラエルの民は出エジプト時に荒野で何度も神様を裏切りました。そして約束の地に入ってからも、何度も神様を裏切り続けたのです。

★最初の裏切りは、「私達はエジプトの奴隷の方が良かった」(出14章)と神様への叫びとして出てきます。そうかと思えば、紅海を渡った直後には「感謝の踊り」(出15:20)をしたりしています。詩篇106篇13~14節に「しかし、彼らはすぐに、御業を忘れ・・激しい欲望にかられ」と記されています。その欲望とは「われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも」(民11:5) との叫びです。また十戒で有名なシナイ山のふもとでは「金の子牛」(19節)を作って偶像礼拝をしました。さらには「異教の偶像に仕え、自分の子供たちを悪霊の生贄として捧げた」(37節)というおぞましい事すらしたのです。

★それでも「主は彼らの苦しみに目を留められ」(44節)彼らを助けられました。しかし神様は、愛する民達に何度裏切られたことでしょう。私達は一人に裏切られても、心が激しく痛むのです。神様の心に、裏切られる度に激痛が走ったことでしょう。私達は、神様の心を痛めてはなりません。この詩人は6節で「私達は先祖と同じく・・罪を犯し」と言っています。自分も神様の心を痛めたことがあると言っているのです。

★今日、私達は自分の心を深く顧みましょう。「私は神様の心を痛めたことが有るか無いか」を振り返ってみましょう。無い人はいないと思います。私達は悔い改めて「これからは信仰にしっかりと立って歩んでいきます」と祈ろうではありませんか。そうして48節の「ほむべきかな、イスラエルの神」と勝利の宣言をして、新たに信仰から信仰へと進んで行きましょう。

10月6日礼拝「神様の約束」

詩篇講解NO.105「神様の約束」詩篇105篇1~21節

                    仁井田義政牧師

 詩篇105篇は、紀元前2000年前のアブラハムへの神様の契約から始まっています。聖書は、まさしく契約文化の始まりなのです。聖書全体が、神様が人間に与えられた契約書なのです。ゆえに聖書は旧約聖書、新約聖書と言われるのです。恵みに溢れた私達に対する神様の契約、つまり「神様の約束」が記されています。

★アブラハムは、今から4000年前、メソポタミヤのカルデヤのウルに住んでいました。その時の彼は「アブラム=高められた父」という名前でした。しかし神様から「アブラハム=多くの者の父」という名前が与えられました。神様は「アブラハムの子孫が、世界を祝福するようになる」と約束されました。(創世記22:15~18)

★イスラエル民族は「神様とアブラハム契約」のゆえに、苦難から守られました。その事が記されているのが、今日の詩篇105篇16~41節です。その苦難のひとつが、大飢饉でした。神様の数奇な導きで、ヨセフの家族とイスラエル民族が、飢餓から救われました。

★しかしエジプトでの生活が数世代に及び、ヨセフのことも知らない王が、イスラエル民族を迫害しました。そのためモーセが神様によって立てられ、エジプト脱出が起こりました。その時には、紅海の奇跡も起こりました。それは、神様とアブラハムとの契約があったからです。しかし、民族としての祝福は、彼らがキリストを殺害することによって終わりました。

★ただアブラハムに「世界はあなたの子孫によって祝福される」と言われた約束は、神様によって守られ続けました。それが新契約である新約聖書なのです。(マタイ1:1)

★神様は「アブラハムの子孫によって世界を祝福する」と言われた約束を、今もなお実行しておられるのです。アブラハムの祝福は、アブラハムの子孫イエス・キリストによって実行され続けています。そして私達クリスチャンに「全世界に福音を伝えよ」(マタイ 28:19~20)と言っておられます。まさに今日の詩篇105篇1~7節の中でも、全世界への宣教を命じておられます。私達は、約束を守られる神様を心から信頼し、ほめたたえましょう。

9月29日礼拝「ハレル、ヤハー」

詩篇講解NO.104「ハレル、ヤハー」詩篇104篇24~35節

                    仁井田義政牧師

 この詩は、103篇と同じように「我が魂よ。主をほめたたえよ」で始まり「我が魂よ。主をほめたたえよ」で終わっています。それは、自分の心への語り掛けであり、奨めなのです。104篇は、それに「ハレルヤ」が加えられています。どうしてこのように、自分自身の心に主をほめたたえることを奨めているのでしょうか。

★祈祷会では、ちょうど創世記の1章からお話をしています。創世記1章の壮大なスケールの天地創造には、現代科学も圧倒される記事が記されています。この詩篇のほとんどが、神様による天地万物の創造と、その知恵が賛美されています。

★その通りです。私が動植物を大好きなのは、その中に神様の知恵があふれて見えるからです。赤カンガルーの大人は90キロにもなります。しかしその赤ちゃんは、妊娠から30日で生まれる為に、超未熟児で生まれます。その赤ちゃんの体長は2センチ、体重は1グラム程です。その超未熟児で生まれた子が、生まれると直ぐにお母さんの袋を目指して、自分でお母さんの体をよじ登って、お母さんの袋に入るのです。その袋の中にお母さんのオッパイがあると誰が教えたのでしょう。植物の世界にも、そのような事例が数多くあります。いま私はポインセチアを育てていますが、ポインセチアには脳がないのに季節を認知して花を咲かせるのです。

★詩人は御言で「生きている限り、いのちのある限り」と記しています。詩人は、自然の中の神様の力と知恵に感動し、感極まるように「私は主をほめたたえる」と言っています。そして最後には、もう一度「我が魂よ。主をほめたたえよ。ハレルヤ。」と言っています。

★日本の詩文学の中にも、自然そのものを賛美している詩は数多くあります。しかし聖書は、ただ単に自然の素晴らしさを賛美しているのではありません。自然を造り、自然を神秘的な御業で支配しておられる神様を賛美しているのです。イエス様も、マタイ6章で「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」と弟子達に教えられました。私達も、もう一度「我が魂よ。主をほめよ。ハレルヤ。」と、自分の魂に言い聞かせましょう。

9月22日礼拝「我が魂よ。主をほめたたえよ」

詩篇講解NO.103「我が魂よ。主をほめたたえよ」詩篇103篇1~5節

                    仁井田義政牧師

今日は、詩篇の中で最も素晴らしいと言われている103篇を読んでいただきました。今日のタイトルは「我が魂よ。主をほめたたえよ」で、1節の御言からつけさせていただきました。それでは最も美しい詩とも言われ、私達への5つの祝福が記されている詩篇103篇をお話し致しましょう。

★私達の世界では「感情的になるな。もっと理性的になって」等と言われることが多いです。しかし詩篇は、いや聖書の全体が、感情豊かな世界への招待なのです。感情は、理性や知性より優ると言うのではありませんが、感情が乏しくなると、理性や知性も正しく機能しなくなるのです。

★1節に「我が魂よ。主をほめたたえよ」と記されています。魂の語源は「喉」で、乾き求めることを現わします。喉が渇いていている時、水の分子はどうでも良いのです。感情が枯渇する時、感情がプラスになるために、主をほめたたえ、感謝することが大切なのです。ですから1~2節で「我が魂よ。主をほめたたえよ」と二度も出てくるのです。

★それでは、神様にどのような事を感謝できるでしょうか。もし神様の存在を知らない人がいるなら、それは神様がいないからではありません。ハワイの夜空は、星の輝きが素晴らしいのです。しかし日本の空にも、同じ数の星が輝いているはずです。人間の作った光や大気汚染で、その星の存在が見えないのです。あなたと神様の間を妨げているものを取り払いさえすれば、あなたにも神様の存在が見えるようになるのです。

★神様は、あなたの「病を癒し」「恵みと、憐れみの冠」を与えてくださいます。あなたの一生を「良いもので満たし」将来の不安を取り除いて下さいます。あなたは「鷲のように新しくなり」悠々と空を舞い、風などにびくともしない人になります。むしろ風を利用して上昇する人となるのです。

★15節には、人の一生の短さが記されています。私達の一生は、草や花のように一瞬に過ぎ去ります。そのような短い人生を、悩みに満ちて過ごしてしまうのはもったいないことです。まさに最後の22節にあるように、「全て造られたものたちよ。我が魂よ。主をほめたたえよ」と、心からお奨めしたいのです。あなたも、神様を信じて心から主を賛美する者になりましょう。

9月15日礼拝「悩む者の祈り」

詩篇講解NO.102「悩む者の祈り」詩篇102篇1~13節

                    仁井田義政牧師

 今日のメッセージ題は、102篇の表題をそのままつけさせていただきました。私達の人生には、悩みと苦しみを体験することがあります。しかもこの詩人は、神様を信じている信仰者なのです。それは信仰者の上にも、悩みや苦しみがあることを現わしています。そのような時、私達はどのように祈ったら良いのでしょうか。

★詩人は、激しい悩みと苦しみを体験しました。その激しい悩みと苦しみは、この人の食欲まで減退させ、体まで痩せ衰えさせたのです。食物を食べても「灰のように。飲み物は涙」のように感じました。(8~9節)しかも、その原因が「あなたの憤りと怒りとのゆえ」と言っています。それは、「私の罪の故に」と言っていることと同じです。

★そのような絶望的な状況で「しかし主よ・・あなたはシオンをあわれんでくださいます」(12~13節)と祈っています。人間的には絶望的な状況にあっても「しかしあなたは」(ヘブル語のブェアター)で、一変するのです。この詩人の悩みと苦しみは、エルサレムの崩壊と関係しています。シオンはエルサレムのことです。エルサレムの崩壊という大きな事件が、一個人の悩みと苦しみの祈りとなっています。しかし神様は、その一個人の窮した者の祈りを「顧みてないがしろに」はされないのです。これこそ、詩人の個人体験なのです。(17節)

★詩人は、その体験を「後の時代の人々の為に書き記」しました。「新しく造られる民が、主を賛美しますように」(18節)との目的が記されています。その「新しく造られる民」とは、キリストの恵みによって救われた私達のことと理解しても良いのです。神様は、旧約の時代も新約の時代も、小さな者の祈りをないがしろにされません。神様は愛と優しさに満ちた御方なのです

★26節に「全てのものは衣のようにすり切れます」とあります。私達の命もはかないものです。しかし神様の恵みといつくしみは、変わることがありません。それゆえに「あなたのしもべらの子孫は住みつき、彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう」と結論付けられています。ですから、どんな時にも絶望せずに「主よ。私の祈りを聞いてください」(1節)と祈りましょう。

9月8日礼拝「全き道に心を留めよ」

詩篇講解NO.101「全き道に心を留めよ」詩篇101篇1~8節

                    仁井田義政牧師

 今日の詩篇101篇は、ダビデの賛歌という表題が付いていますが、ダビデ作かどうかはわかりません。少なくとも王職にあった人の作ということが出来ます。王職にある人は、どのように生きなければならないかを記しています。その人が悪い人だと、その国の民は苦しむことになります。現代の総理大臣や大統領たちにも、是非学んで欲しい詩篇です。

★王職にある人の理想は、まず神様の恵みと裁きを誉め歌う人でなければなりません(1節) つまり、自分を最高権威に置くのではなく、神様が最高権威者であることを認める人であるべきなのです。そして王職にある人は、神様が「恵みと裁きの神」であることを知っていなければなりません。

★2~4節では、王としての個人的な決意が記されています。王様は「全き道」に心を留める人でなければなりません。それは自分の考えにではなく、神様の道を歩むためです。2節に「私は、正しい心で自分の家の中を歩みます」と王の決意が記されています。つまり王たる者は私生活が大切なのです。3節には「私の目の前に卑しいことを置きません」と言っています。ダビデはウリヤの妻バテシェバを家に引き入れて罪を犯しました。この失敗の為に、ダビデ王家が陰り始めました。自分の息子アブシャロムに命を狙われ、後継者ソロモンは、異教徒の多くの妻を家に入れました。その結果、分裂国家となり弱体化してしまったのです。

★王様としての働きは、国中の真実な人達に目を注ぐことです。正しい人が馬鹿を見るような国を作ってはならないのです。正しい人が正しく評価される国作りに励むべきです。王の働きのもう一つは、治安の維持で「悪者を国からなくす」働きです。

★民主国家においては、主権者は私達です。家庭においても、親は子供たちの指導者であり、見本的な存在です。また職場においても、何らかの指導者であることも多いでしょう。私達もたとえ小さな集団の指導者であっても、大切なことは1節にあるように「神様の恵みと裁き」を賛美する人であることです。ですから私達は、自分の生活から主に喜ばれないことは、8節にあるように「朝ごと」に滅ぼす時を持とうではありませんか。

9月1日礼拝「感謝しつつ、賛美しつつ」

詩篇講解NO.100「感謝しつつ、賛美しつつ」詩篇100篇1~5節

                    仁井田義政牧師

 詩篇からのメッセージも、ついに100回となりました。第一回の一篇は、2022年2月27日に始まっていますから、約2年半にわたって詩篇からメッセージを取り次いできたわけです。今日の御言は、100篇の表題にふさわしく「感謝しつつ、賛美しつつ」です。

★まず1節に「全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ」と記されています。聖書は正にこのために書かれました。あるクリスチャンが近くに引っ越して来て、私達の礼拝に出席しました。するとみんなが大声で笑っていたので驚いたというのです。前の教会では、礼拝は厳粛な面持ちで、静かにしているものだと思っていたのです。しかし聖書は「喜びの声をあげよ」「喜びをもって主に仕えよ」「喜び歌いつつ主の御前に来たれ」と記しています。

★3節には「知れ。主こそ神」と記されています。つまり喜びの源は、主を知ることにあるのです。世界にはいろいろな宗教があり、いろいろな神がいると信じている人もいます。しかし本当の神は、唯一なのです。それを知ることが喜びの源なのです。さらには「主が私達を造られた」と記されています。たとえ「お前なんかうちの子でない」と親から捨てられた者であっても、私達のルーツは神様にあるのです。ですから「主が私達を造られた」と詩人は言うのです。親のいない子などはいません。神様が親だからです。

★3節の後半には「私達は主のもの。主の民。その牧場の羊である」と記されています。「私達は主のもの」とは、主の宝物であるということです。横浜港で、大きな船から銀のインゴットを陸揚げしたことがあります。その荷物室の扉は、びっしりと溶接されて守られていました。高価だからです。

また、3節に「私達は主のもの、その牧場の羊である」と記されています。それは羊飼いのいない迷子の羊ではないのです。イエス様が良き羊飼いであり、羊の為に命を捨てて下さったのです。(ヨハネ10:11)

★4節には「感謝しつつ・・賛美しつつ」と記されています。それは形式的になってしまっていた犠牲の捧げ物より、礼拝で最も大切なのは「感謝と賛美」であることを示しています。私たち溝の口教会は、これからも「感謝と賛美に満ちた」喜びの礼拝を主に捧げていきましょう。