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2月1日「ガリラヤの弟子達」

マタイ講解NO10「ガリラヤの弟子達」4章18~22節 

                        仁井田義政 牧師

 今日は、溝の口キリスト教会の教会会議が行なわれ、新年度の活動が開始されます。今日の聖書箇所も、イエス様がガリラヤ湖の漁師達から最初の弟子達を選ばれたという感動的な所です。

★先週お話ししましたように、ガリラヤ地方は「異邦人の町。暗闇の町。死の地と死の陰の町」と言われて、差別されていた所でした。そのような軽蔑や差別された町にも、教育を受けた人はいました。「ユダヤ人会堂」があったことからも推測できます。しかし、イエス様の弟子選びの目は、無学な漁師達に向けられたのです。

★漁師達は、突然イエス様に声をかけられたかのように見る人もいます。 しかしヨハネ1章を見ますと、彼らはバプテスマのヨハネの所で出会っているのです。そのことから、彼らはバプテスマのヨハネの紹介で、イエス様を知ったことがわかります。つまり漁師でありながらも、救い主を迎える準備をしていた人達と見ることが出来ます。

★イエス様は、イエス様に従う準備をしていた者達に、弟子への招きをされたのです。イエス様の召しの条件は、罪の悔い改めと、イエス様の呼びかけに応えることが条件でした。それ以外は、問題とされないのです。イエス様の召しに応える人を、イエス様は「人間を獲る漁師」として下さるのです。イエス様は、今も働き人を求めておられます。日本の人々と世界の人々を救われる働きを開始されるのです。

★今までガリラヤの漁師達は、自分の生活の為に仕事を続けて来ました。しかし今「救い主」に召されたのです。彼らは即座に網を捨てて弟子となりました。あなたも、主から召しの声を聞いているなら、その声に従って、網を捨ててイエス様の弟子となりましょう。

★もちろん網を捨てた人だけが主の召しに従うことではありません。ルカ10章を見ますと、イエス様は70人を宣教に遣わされたことが記されています。全てのクリスチャンは主の弟子なのです。ですから私達は、イエス様を先頭に、主の弟子集団となって2026年を宣教に前進しましょう。

1月25日礼拝「異邦人のガリラヤに光が上った」

マタイ講解NO9「異邦人のガリラヤに光が上った」4章12~17節 

                        仁井田義政 牧師

イエス様は荒野の試練の後「バプテスマのヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤへと立ちのかれた」と、今日の御言に記されています。イエス様は、活動開始の地とするためにガリラヤへと向かわれたのです。

★イエス様は、ガリラヤ湖北端のカペナウムに住まわれました。そこを活動の拠点としたのです。世で名を挙げようとする者ならば、誰もガリラヤなどに住む者はいませんでした。そこは「異邦人のガリラヤ」と言われて軽蔑された地だったからです。ましてや宗教家として名を挙げたいと思う者は、神の神殿があるエルサレムに住むことを望んだのです。

★そこはイスラエルの国でありながら、前述のように「異邦人のガリラヤ」と敬遠された地方なのです。しかしそこは、当時の世界の十字路でもあり、商業と漁業の町でもあって、経済的には栄えていた地方でもありました。間もなく弟子になる漁師ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの家がありました。またその豊かな経済から徴収する取税人マタイの家もありました。このマタイが、マタイによる福音書の著者です。

★そこは経済的に豊かであっても、霊的には何も見えない暗闇にありました。イエス様は、霊的には何も見えない人達の光となって、霊的な救いを与えるために、ガリラヤ地方に来られたのです。イエス様は「悔い改めなさい。(メタノイア)天の御国が近づいたから」と宣教を開始されました。

★私達もカペナウムの人達と同じく、世界的に見るならば、経済的に豊かな国に住んでいます。カペナウムのように、どうしたら良いかを知らずに、衣食住にのみ心を向けている人々に、イエス様は「向きを変えよ、天の御国が近づいたのだから」と言われたのです。光の方に向きを変えるのです。そうする時「暗闇の中に座っていた民は、偉大な光を見るのです。その光は偉大な光なので、ユダヤ人とか外国人とかの区別なく照らす光なのです。そして死の地と死の陰に座っていた人々」に希望が与えられるのです。

1月18日礼拝「苦しみの中での御言」

マタイ講解NO8「苦しみの中での御言」4章1~11節 

                        仁井田義政 牧師

イエス様は洗礼を受けられた後に、聖霊によって荒野に導かれました。イエス様が荒野であわれた試みは、私達クリスチャンにも襲いかかるサタンの罠なのです。その罠に私達がどのように勝利するかを、イエス様に学びましょう。

★荒野の40日間は、イスラエルの荒野における40年の不信仰と失敗を意味していました。イスラエルは、エジプトから救出された後、40年間も荒野をさまよったのです。イエス様は、人間の代表として40日間断食を、マナもなく、岩から水もなく、極限の空腹を体験されたのです。その中でサタンは

「奇跡を使い、その苦しみから逃れたらどうか」と誘惑しました。

★最初の誘惑は「神の子なら、石をパンに」するというものでした。イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神のことばによって生きると聖書に書いてある」と誘惑を退けました。その言葉の通り、パン(経済)の豊かな国の方が、むしろ自殺者が多いのも事実なのです。

★次に「あなたが神の子なら、神殿の屋根から飛びおりてみなさい。」とサタンは誘惑しました。するとイエス様は「神様を試してはならないと聖書に書いてある」とサタンの誘惑を退けました。

★最後にサタンは、イエス様に世界の栄華を見せて「ひれ伏して私を拝むなら、これらを全てあなたに上げます」と誘惑してきました。しかしそのサタンの声に屈服するなら、全てを失うのです。イエス様は「主にだけ仕えよと書いてある」とサタンの誘惑を退けました。 ★ある哲学青年が「先生、人間は自分の心に忠実に生きることが正しいのではないでしょうか」と論争を仕掛けてきました。私は「そうですか、そうならば私が今あなたを殴っても、あなたは抗議できませんよ」と言いました。さらに続けて「私はあなたを殴りたいと思っても殴りません。聖書に「仕返しをしてはならない」という御言があるからです。殴るのと殴らないのと、どちらが正しいですか。私は自分の心に忠実にではなく、聖書の御言に忠実に生きたいと思っているのです」と話しました。私達は自分の心に忠実にではなく、神様の御言つまり聖書の御言に忠実に、新しい年を生きましょう。

1月11日礼拝「天の窓が開いた」3章13~17節

マタイ講解NO7「天の窓が開いた」3章13~17節 

                        仁井田義政 牧師

新しい時代が近づいているのを感じていた洗礼者ヨハネは、新しい時代を生きるようにと、人々に悔い改めの洗礼を授けていました。するとイエス様が、洗礼を受けるために故郷のナザレからヨハネの所に出て来られたのです。そのことにヨハネは驚き、戸惑いました。

★ヨハネは、洗礼を受けようされるイエス様に洗礼を授けることをためらいました。それはヨハネの洗礼の目的は「悔い改めの洗礼」(3章2節)だったからです。イエス様は罪のない御方であるから、私こそイエス様から悔い改めの洗礼を授けて頂くのが正しいと思ったのです。たとえば、子供達に習字を教える先生の所に、世界的な習字の先生が来て「私に習字を教えて下さい」と言ったとしたらどうでしょう。恐縮し必死に止めようとするでしょう。

★イエス様は罪のない御方です。ですから洗礼が必要ないのです。その御方が、罪人と一緒の列に並び、洗礼を受けようとされたのです。それは、私達罪ある人間と、イエス様の連帯を示しています。それこそがイエス様の使命に「正しい」のです。ヨハネはそれを聞いて承知し、洗礼を授けました。

★すると「天が開けて、聖霊が鳩のように下り、これは私の愛する子」と父なる神の声が聞こえたと聖書に記されています。それはまさに「父・子・聖霊」なる神が、イエス様の「罪人との連帯」を喜ばれたことを表わしています。つまり、イエス様が罪人との連帯を喜ばれたことを示しています。

★イエス様が罪人の列に加わり洗礼を受けられると、「天が開け」ました。四百年も閉ざされていた天との交流が、開始される新しい時代が始まったのです。それはノアの洪水の時に、放たれた鳩がオリーブの葉をくわえて来た時のようでした。イエス様が水から上がられると「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」との声が聞こえました。それは私達もイエス様に習って洗礼を受ける時「神の愛する子」とされることを示しています。

★イエス様が、私達の代表となって人間の列に並んで洗礼を受けられたように、ここに集まっている皆が洗礼を受けて、クリスチャンになりましょう。

2026年1月4日「実を結ぶクリスチャン」

マタイ講解NO6「実を結ぶクリスチャン」3章7~12節 

                        仁井田義政 牧師

 今年最初の礼拝メッセージは、昨年11月16日から始まりましたマタイの福音書の講解より、イエス様のご生涯から順を追って祝福の御言を取り次ぎます。

★今日出てくるバプテスマのヨハネは、1400年以上続いてきた祭司の家系の息子でした。家系的に見ても、当時のエリートでした。そのままで、神殿で仕える祭司となり、衣食住に心配のない立場にありました。しかしヨハネは、救い主の先駆者となるために、それらの全てを捨てたのです。それは預言者イザヤが750年前に預言した「荒野に叫ぶ声」は、自分のことだと確信したからです。

★一方イエス様は、ナザレの大工の家系でした。祭司の家系とは雲泥の差がありました。考古学では、当時のナザレの家々は、半洞窟であったということがわかっています。イエス様は、30歳の時に突然、世にご自分を表わされました。格式ある家に生まれたヨハネは、イエス様を迎えるために、大工より低いラクダの毛衣を身にまとっていたと見ることも出来るのです。

★バプテスマのヨハネは、人々に「自分は優れた血筋だ等と思っていてはならない。神は能力のない石ころからでもアブラハムの子孫を起こす時代が来たのだ」と叫びました。それは、何の価値もない者からも世の中を祝福する者を起こすことができるという意味です。そのためには「悔い改める」ことが必要であると教えました。それは「向きを変える」という意味です。そのために「聖霊と火とによる洗礼」が大切なのです。彼は、集まってきた人々に「実を結ぶ」人となるように勧めました。

★イエス様も、この新しい年に、「実を結ぶクリスチャン」になるように私達に近づいて下さっているのです。私達がたとえ「石ころ」のような存在であっても、「多くの実を結ぶクリスチャン」となるのです。

2026年元旦礼拝「年の初めから終わりまで」

        仁井田義政 牧師

今年の溝の口キリスト教会の御言                             

「そこは、あなたの神、主が目を留めておられる地であり、年の初めから年の終

わりまで、あなたの神、主の目が絶えずその上にある。」(共同訳 申命記 十一 章 十二 節)

 皆さん、あけましておめでとうございます。溝の口キリスト教会は、申命記の御言で二〇二六年が始まりました。申命記は、イスラエルがエジプトの奴隷状態から解放されて、神様の約束の地に入る前に、モーセによって語られた説教集です。その内容は、新しい地に入っていったなら、どのように生活して神様の祝福を受け、幸せな生活をするかの教えです。それは、そのまま私達が新しい年を迎えて、どのようにして祝福された生活をするかの教えにもなります。今日の御言の前後関係から、新年二〇二六年が、皆さんにとって素晴らしい年となりますよう、この御言を新年礼拝のメッセージとしたいと思います。

★まず新しい年を祝福に満ちた年とするための条件は、八~九節にあるように、神様の命令を守ることです。神様の命令と言いますと、堅苦しく感じる人がいるかもしれません。しかし、それは神様の優しさなのです。新しい機械等を購入して、その取扱い説明書がないと困ります。それと同じように、神様は私達が新しい年に迷い、無駄な日や時間を使うことのないように、説明書を下さったのです。それは、イスラエルの民達が、エジプトからイスラエルにひと月もあれば来られるのに、四十年もかかってしまったからです。さらに悲劇的なのは、エジプトを出る時に二十歳以上だった人々は、四十年の間に全て荒野で死んでしまいました。それこそ無駄死をしたのです。

★さて申命記は、エジプトの地と新しい約束の地の違いについて、記しています。エジプトの地には大きなナイル川がありましたが、その利益を受けるためには、自分の力で川から水をくみ上げて動植物に与えなければなりませんでした。しかし新しい地イスラエルには、山があり谷があり、そこは雲が湧き出て雨が天から降ってくる地なのでした。人力によってではなく、前の雨と後の雨が地を潤し、農作物を育てたのです。前の雨は、十月~十一月頃にあり、その時が種蒔きの季節となりました。後の雨は、三月~四月頃で、それは収穫前の大切な雨なのです。その二度の雨季は。今もなお変わることがありません。

★そのように、天から雨の降る新しい地で、神様からの祝福を受ける方法は「主を愛すること」ですと二十二節に記されています。そうする時、主が新しい年に於いて、あなたを祝福してくださるのです。しかし無視すれば、新しい地での生活も「呪われたもの」になってしまうと二十六節に記されています。

★神様はイスラエルの民が、新しい約束の地に入っていくにあたり、イスラエルのために「年の初めから、年の終わりまで、絶えずその上に目をとめておられる地である」(十一節)と言っておられます。イスラエルの民は、エジプトから約束の地まで一ヵ月もあれば十分に行けた距離なのに、不信仰のために四十年も荒野をさまよい続け、苦しい生活をすることになってしまいました。モーセは、イスラエルの民が約束の地で不信仰のゆえに無駄死にすることがないように、この申命記の一大説教をしたのです。

★私達は、新しい年を「強く主を愛する年」と致しましょう。そして強い信仰の告白をもって、神様からの祝福に満ちた新しい年を受け取り、二〇二六年を希望に満ちて出発いたしましょう。

2025年最後の礼拝「神が全てを益として下さる」

2025年最後の礼拝「神が全てを益として下さる」ローマ8章28節

                        仁井田義政 牧師

 皆さん、いよいよ今年最後の礼拝です。2025年は皆さんにとって素晴らしい年でしたか。それとも失敗ばかりの年でしたか。どちらにせよ過ぎ去ってゆく2025年は、取り戻すことが出来ません。今日の御言には「神が全てのことを働かせて益として下さる」とあります。

★しかし「全ての人の失敗が益とされる」とは言っていません。「神を愛する人々、すなわち召された人々には」と記されているのです。それは、今、神様を愛する人となっているかどうかが大切なのです。

★私達の人生には、自分から招いた失敗や、他人から与えられた苦しみなど沢山あります。旧約聖書の中には、試練の人としてヨセフが出てきます。彼は「みんな私に礼拝する」等と言って、兄弟達から恨まれてしまいました。そして17歳で、奴隷商人に売られてしまいました。(創世記37:2)

★しかしヨセフは失敗続きの中でも、神様を信じ続け、決して不平を言いませんでした。ヨセフは、ポテパルの妻に罪を着せられ、牢獄に10年くらいいた時も、不平を言いませんでした。彼が総理大臣になったのは、13年後の30歳の時でした(創世記 41:46)

★ヨセフは、自分の失敗も、人々からのひどい仕打ちも許すことが出来ました。自分を奴隷に売った兄弟達さえも、許すことが出来たのです。それは、ヨセフが寛容な人だったから出来たのではありません。神様を愛する人だったから、神様は全てを益にして下さると信じることが出来のです。

★あなたも、いま全てのことを神様にゆだねて、神様を愛しましょう。そうする時、2025年の全てが、オセロのようにみるみるうちに逆転し、あなたの勝利となるのです。

クリスマス記念礼拝「まことの光が来られた」ヨハネ1章9~13節

クリスマス記念礼拝「まことの光が来られた」ヨハネ1章9~13節

                        仁井田義政 牧師

 皆さん、クリスマスおめでとうございます。十二弟子の一人のヨハネは、クリスマスの出来事を「まことの光の到来」として紹介しています。二千年前の世界は、光の見えない時代でした。当時、ヨハネを初めとして人々を取り巻く世界は、暗闇に包まれていたのです。

★それではどのような暗闇でしょうか。ます宗教が形骸化していました。613の戒律が人々を縛っていたのです。その中でユダヤ教の一派であるパリサイ派は、それを完全に守っていると豪語し、威張っていました。

次にローマが世界を支配し、ローマに逆らう外国人は、十字架刑にされました。しかも見せしめのために、街道際に処刑場があったのです。

ローマにおもねる者達が優遇され。金持ちになっていました。

★そのような「闇を照らすまことの光」として、イエス様は誕生されたのです。まことの光の証拠は「全ての人を照らす」ことです。イエス様は、人種、民族、国家を超えて、全ての人を照らす光なのです。まさに賛美歌にある「諸人こぞりてたたえまつれ。久しく待ちにし主は来ませり」です。

★その光の恩恵を受けるためには、人間的な優秀さは一切必要がありません。また「血筋にもよらない」と聖書に記されています。ユダヤ人は、血筋を重んじる民族でしたが、血筋にもよらないのです。また「肉の欲求によらない」とも記されています。それは、人間の情熱的な努力にもよらないのです。つまり神の子となろうと、難行苦行する必要もないのです。

★あなたが「神の子」とされるためには「全ての人を照らすまことの光」として来て下さったイエス様を信じるだけで良いのです。イエス様はあなたを闇から救い出して、平安と喜びを与えるために来て下さったのです。それがクリスマスなのです。あなたも、全ての人を照らすまことの光として来て下さったイエス様をお迎えしましょう。

(待降節2)12月7日礼拝「幼子イエス様の御受難」

(待降節2)マタイ講解NO4「幼子イエス様の御受難」2章11~15節

                        仁井田義政 牧師

 今日の聖書には、マリヤとヨセフが幼子イエス様とエジプトに避難したことが記されています。こうして受難の御生涯が始まるのです。

★この時はイエス様誕生から二年後くらいで、馬小屋から家(オイカン)に移っています。もし誕生の夜ならば、イエス様の献児式の時に「貧しい者の鳩のささげ物」をしたことに矛盾が生まれます。東方の博士達から、黄金・乳香・没薬が捧げられているからです。

★誕生から二年後くらいに、博士達からの捧げられたものが、エジプトへの避難の費用となったことは明らかです。貧しい彼らにとって、東方の博士達の捧げ物は、エジプトへの旅費と滞在費となったのです。異教の地で、星占いという迷信に導かれてきた博士達でしたが、イエス様を礼拝してからは、星占いではなく神様の御言によって、帰ったことが記されています。イエス様を礼拝した博士達は、ヘロデ大王さえも恐れない人達となったのです。

★イエス様のご家族のエジプトへの避難も、偶然ではありません。それは、預言者ホセアが預言していることだったのです。(ホセア11:1)

昔イスラエルは、モーセによるエジプト脱出を実行しました。しかし、徒歩で一ケ月もかからない距離だったのに、不信仰で四十年もかかったのです。イスラエルは帰って来てからも不信仰が続き、イエス様の時代には、ローマの傀儡(かいらい)政権として、エドム人ヘロデ大王がイスラエルを支配していました。

★イエス様は、イスラエルの不信仰による四十年の荒野の旅を拭い去るために、エジプトに渡りエジプトから帰って来られたと記されています。イエス様のエジプトからの帰還は、まさに世界の王・世界の救い主であることの宣言なのです。この幼子の誕生によって、新しい人類の歴史が始まったのです。そして誰でもイエス様の招きによって、その神の国に入ることが出来るのです。あなたもイエス様を信じて神の国の人とされ、祝福された人生を歩みましょう。

11月30日待降礼拝1「異教の地にある人達には星の光を」

(待降節1)マタイ講解NO3「異教の地にある人達には星の光を」2章1~10節

                        仁井田義政 牧師

 世界の教会は、今日からクリスマス前の待降節(アドベント)に入ります。私達の教会はイルミネーションが飾り付けられます。それは今日の聖書記事のように、キリストが誕生されたことを世の人々に伝えるために飾るものです。聖書を知らない異教社会に住んでいた博士達(マギー)を、星の光がキリスト誕生の地ベツレヘムに導きました。

★実は、博士達は星占い師でした。二千年前も異教の地では、占いがとても盛んでした。日本においては今なお占いが盛んです。マギーを博士達と訳してあるのは、その道において精通し成功した人達として、表わそうとしたからかもしれません。しかし、異郷の地で成功し地位や名誉や富を得ても、西に輝く星の下に生まれた御方を求めて、長い旅をして来たのです。

★博士達は、どれくらいの日数を旅して来たのでしょうか。二年という説が有力です。それは星の輝いた時から二年です。イエス様は、この時すでに馬小屋から「家」(11節)に移り、二歳くらいになっていたと思われます。彼らは、星の導きによってエルサレムまで来ることができました。しかし、それだけではキリストに会うことはできませんでした。キリスト誕生の地がベツレヘムであることを、聖書から初めて知ったのです。それは今も同じです。

★キリスト誕生を博士達から聞いて、ヘロデ大王は恐れました。ヘロデ大王は、自分の王位を狙っているという疑いで、妻子も殺している残酷な人でした。ですから博士達が「ユダヤにお生まれになられた王を拝みに来ました」と言った時、ヘロデ大王は恐れたのです。しかし博士達は「この上もなく喜んだ」(9節)のでした。「この上もなく」とは、最高の喜びです。

★異教の地に於いて、博士達をキリストに導いたのは、夜空に輝いた大きな星の光でした。私達も異教の地に住んでいます。星の光が異教徒の博士達をキリストに導いたように、私達も教会にクリスマスイルミネーションを飾り、キリストのご降誕を知らせましょう。できるだけ綺麗に飾り付けましょう。異教の地にある人達には、星の光がキリストにお会いするきっかけともなるのです。