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7月5日礼拝「あなたの聖なる真珠を守れ」

マタイ講解NO25「あなたの聖なる真珠を守れ」マタイ7章1~6節

                          仁井田義政牧師

今日の御言は、私達クリスチャンにとってとても大切なことです。クリスチャンには、クリスチャンの誇りがあります。信仰に熱心であればあるほど、一歩退いて今日の御言を聞く必要があります。なぜなら、聖さを求めるあまり、裁き合うことがあるからです。

★山の上でイエス様から教えを聞いた群衆は、みな不完全な人々でした。しかし郊外の山の上にまで、イエス様についていくほど熱心な人々でもありました。その数は男性だけで五千人と言われています。一方から見れば、宣教の大成功に見えるのではないでしょうか。イエス様は、その人達にクリスチャンとなって教会を形成するために大切な教えをされました。

★教会の中で大切なことは、裁き合わないことです。イエス様は、譬え話をされました。目のちりと梁の譬えです。梁とは丸太のことです。イエス様は自分の目に丸太が刺さっている人が、他の人の目の塵を取ってあげようと言えるだろうか、他人の塵が気になって仕方のない人は、自分の目には丸太が刺さっていることを覚えなさいと言われたのです。

★教会が「私は聖い」と言う人ばかりだったらどうなるでしょう。教会は、裁き合う所となり、イエス様が一番大切にされた「神を愛し、人を愛する」という教えはどうなるでしょう。続いてイエス様は「豚に真珠を投げて与えるな」と教えられました。真珠とは、聖書の真理や信仰と考えることができるでしょう。それを豚に投げ与えることは、あなたもその真理や信仰の価値を知らなかったことになります。信仰の価値を相手に教えようとして、踏みにじられ、失望し、信仰を失うことになったら元もこもありません。

★まず、自分自身の信仰を真珠のように大切にしなければならないのです。人の目に塵がみえて「なぜそのままにしておく、私が取ってあげるよ」という思いが沸き上がってきたら、聖なる真珠を投げて与えるのではなく、その人の為に祈ってあげるのです。そうすれば「向き直ってあなたがたを引き裂く」ことはないでしょう。あなたの真珠を大切にしましょう。何があっても失わないようにしましょう。

6月28日礼拝「今は恵みの時、救いの日」

(特別合同礼拝)「今は恵みの時、救いの日」            仁井田義政牧師

出エジプト記3章1~5節  第二コリント6章1~2節

 今日は合同礼拝です。集会企画部より「特別なメッセージをしてください」と依頼されました。佐藤達彦兄による特別な賛美も用意されました。特別なメッセージを聞くためには、聞き手にも特別な覚悟が必要です。モーセも「あなたの足の靴を脱ぎなさい」と言われたのです。

★靴を脱ぐとは、自分の足で歩いてきた過去を脱ぎ去ることです。人はみな過去を引きずって生きています。モーセは、40歳までエジプトの王子として自信に満ちて生きていました。しかし40歳の時に自己過信で失敗し、80歳まで荒野で義父イテロの羊を飼っていました。彼は、華やかな時と失敗の時を引きずって生きていたのです。その時「モーセ、モーセ」と呼ぶ神の声を聞きました。

★第二コリント6章1~2節見ると、「時計の時間」と「神様の時間」がギリシャ語ではっきりと区別されています。時計の時間は「クロノス」で、神様の時間は「カイロス」なのです。ここでは「今は恵み時、今は救いの日」と、カイロスという言葉が2回繰り返されています。それは、神様のあなたに対する「恵みの時」の接近です。カイロスの接近です。

★その「カイロス」ゆえに、使徒パウロは「神の恵みを無駄にしないで下さい」と懇願しています。そして ἰδού (イドゥ)見よ。νῦν (ニュン)今。まさにこの時と二度繰り返し、今がその時、今日がその時と言っているのです。決断の時が今であり、あなたの前にイエス様の救いの門は、今日最高に開かれているという意味なのです。

★神様がなぜ懇願しておられるのでしょう。それは100%あなたの為であって、0.1%も御自分の為ではありません。あなたを過去の全てから救うために懇願し、語り掛け、救いの門を開いて下さっているのです。神様の愛の前に、靴を抜いで、イエス様を信じましょう。

6月21日礼拝「遣わされた者として生きる」

(礼拝メッセージ) 「遣わされた者として生きる」ルカ4章42節~44節

                            高間智浩師

クリスチャンの生活は祝福もありますが、多くのことに向き合う生活でもあります。その中で私たちは時に、「自分は何のためにここにいるのか」「どこへ向かっているのか」を見失いそうに、また見えなくなることがあります。しかし今日の箇所でイエス様は、ご自身が“何のために遣わされたのか”を、非常に明確に語っておられます。この御言葉から、「遣わされた者として生きる」とは何かを共に考えたいと思います。

★「朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。」とあります。前章の3章では、多くの癒しと悪霊追放が行われていました。その時人々は熱狂していましたが、イエス様はその流れに飲み込まれることなく、祈りの場へ退かれました。忙しさの中でも、父なる神との交わりを優先されたとみることができます。生活の中で私たちに必要なのは“主との交わり”です。

★「イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。」とあります。イエス様は、“求められること”より“遣わされた目的”を優先されました。人から必要とされることと、神から遣わされていることは、必ずしも同じではない時があります。例えばパウロの例では、使徒の働き16章で、パウロはアジアで伝道したかったのですが、聖霊によって禁じられた箇所があります。その結果、主の導きにより家族が救われる事が起きました。

★イエス様には“どうしても”がありました。「どうしても宣べ伝えなければならない」と。イエス様には使命への確信と従順がありました。感情や状況ではなく、父なる神の御心に生きておられました。では私たちはどうでしょうか?イエス様は癒しも奇跡もなされました。しかし中心は、「神の国の福音を宣べ伝えること」でした。教会は知識取得の場所だけでなく、福音に生きる者同士が共に支えあう場所です。そしてさらに、福音を伝える者として整えられていく場所でもあります。

★主は、目的なく私たちをここへ置かれたのではありません。イエス様が、「そのために遣わされたのです」と語られたように、私たちもまた、「主によって遣わされた者」として、これからの歩みを続けていきたいと思います。

6月14日礼拝「不安に打ち勝つ方法」

マタイ講解NO24「不安に打ち勝つ方法」6章31~34節

                                              仁井田義政 牧師

 現代は不安に満ちています。イエス様は「不安に打ち勝つ決定的な方法」を教えておられます。それが今日の御言です。

★多くの人達は、先週話しましたように「衣食住」の心配で心がいっぱいになっています。そのことをイエス様は「異邦人の生き方」と言われました。それは神様を知らせない人のことです。明日のことが不安なのです。神様を知らない人は、なぜ不安なのでしょう。「天の父=アバ」を知らないからです。天の父とは「私達を愛して下さっている」唯一の神様です。その御方が私達の必要を知っておられるのです。

★イエス様は、不安に勝利する方法を教えられました。その方法とは、「神の国と神の義を第一に求めなさい」ということです。「神の国」とは、神様の御支配のことです。「神の義」とは、神様の正しさに添った生き方を求めることです。そして、明日のことまで引きずり込む「取り越し苦労」をやめて、まず神様との関係をしっかり建て上げなさいと教えておられるのです。

★ロシアの文豪トルストイは五十歳の頃、小説「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」を書き終え、有名人となっていました。しかしその名声や富も、決して心を満たすものではないことを知ってしまったのです。五十歳以後のトルストイは、子供たちにそのことを教えなければと考えて「民話集(童話集)」を書きました。その中には「愛のある所に神あり」という短編もあります。日本では「靴屋のマルチン」という題名の方が有名でしょう。

★その民話集には、神様を第一に愛し、そして人々を愛する人々が記されています。彼は、イエス様が教えられたマタイの6章を実践する人こそが、本当の幸せになれると確信したのです。私達も、神様を知らない人のように生きるのではなく「神の国と神の義を第一に求めて生きる」人になりましょう。それが不安に打ち勝つ唯一の方法なのです。現代は、いろいろな不安に満ちています。その不安に心が分散されてはなりません。「神の国と神の義」に集中しましょう。「そうすればそれ以外のものは添えて与えられます」とイエス様は言われました。

6月7日礼拝「心配から解放されなさい」

マタイ講解NO23「心配から解放されなさい」6章25~30節

                                                 仁井田義政 牧師

今日の御言葉を見ると、二千年前の人々も、現代の私達と同じように心配ごとで潰されそうになっていたのだなと思います。イエス様は「あなたがたが毎日見ているものから目を離して、もっと違うものを見るようにしなさい」と言われました。そこに心配事から解放される秘訣があるからです。

★あなたは毎日何を見ていますか。危険なことですが、歩いても、自転車の上でも、車を運転中でさえスマホを見ている人がいます。良い情報はないかと探して目を離せないのです。スマホの情報に安心があると信じ込んでしまっているのです。しかし不安は消えません。

★イエス様は「野の花や空の鳥を見なさい」と教えられました。空の鳥は蔵を持っていなくても。野の花も何を着ようかと心配しないと教えられました。現代的に言うならば「スマホから目を離して、鳥や花を見てごらんなさい、小さな世界で悩む自分が馬鹿らしく見えますよ」との教えではないでしょうか。神様があなたを空の鳥よりも野の花よりも大切な存在として、守って下さっているのですと教えられました。

★さらにイエス様はその不安からの解決として、天の父であられる神様を信じて生きることを教えられました。「天の」という言葉は、人間をはるかに超えた力と能力を持っておられる神様を意味します。さらに父はアラム語の「アバ」で、最も私達を愛してくださっている方を表わします。その方があなたの「父=パパ」なのですと教えられたのです。旧約時代には、神様の名は恐れ多くて口にすることさえ出来ませんでした。それをイエス様は「神様はあなたを愛しておられるパパなのです」と教えてくださったのです。その御方が私達を愛し、私達に良くして下さろうとしておられるのです。

★イエス様は、あなたが恐れ凝視し不安を感じているものから目を離しなさいと教えられました。あなたは何を見て、恐れたり不安になったりしていますか。イエス様の言われるように、私達を愛しておられる「天のお父様」に目を向けましょう。今は恐れと心配の満ちている時代です。

イエス様の御言を信じて、心配事から解放されましょう。

5月31日礼拝「見えるようになるまでの恵み」

(礼拝メッセージ)「見えるようになるまでの恵み」マルコ8章22 ~26節

                            高間智浩師

★マルコ7章31節~8章30節の区切りは、イエスが盲人の耳を開き、舌のもつれを解かれた記事と、盲人の目を開かれた記事が出てきます。2つの感覚器官のいやしの記事に挟まれるように、目がありながら見えず、耳がありながら聞えない、パリサイ人と弟子たちの姿が描かれています。マルコは8章にもう1つ、「パン」という題材をからめました。ヨハネでパンと言えば命のパンであるキリストを、ルカでパンと言えば共に食する主の愛餐を連想させます。マルコでは、パンという題材は、イエスが誰であるかをなかなか悟らない弟子たちの霊的に鈍いことと関係しています。

★人の目は聖書の中で、無法状態を表していたり深い悲しみを表していたりします。霊的に無力であったり、鈍い状態である事も表現されます。〈目〉は身体に光を取り入れるような働きをします。身体全体が目を通して光の恩恵を受ける事ができます。だから目が健やかであれば、全身が光を享受して明るいが、もし悪いなら全身も光を失うことになります。なので、地上の宝によって心の目が曇らされ、内なる光が暗くなるなら、その暗さは致命的なものとなると教えてくれています。盲人の目を開くことには、救い主のあかしとして特別な意味が込められていて、マルコ8章11節でパリサイ人が求めた「天からのしるし」が表されました。またこの記事は、18節の「目がありながら見えない……耳がありながら聞こえない」と言われた、弟子たちの霊的な目も開かれねばならないこと、そして開かれる希望があることを示しています。キリスト自身が御自分を指して「世の光」と言われました。

★26節で「村に入って行かないように」と命じられました。これは、以前の価値観・理解に戻るな、古い「見えない世界」に戻るなと訴えているのではないでしょうか?古い生き方から脱却し、キリストを「命のパン」として受け取る決断が求められます。キリストが見えているかが問題です。私達もこのように、まだ盲人である人、失われていく魂をイエス様の元へ連れていき、癒され、解放され、救われ、人生に真の光が入るように、祈り、証言し、伝えていきましょう。

5月24日(日)ペンテコステ礼拝「聖霊は教会の原動力」

ペンテコステ礼拝「聖霊は教会の原動力」使徒2章12~18節 

                        仁井田義政牧師

この日にイエス様が約束してくださった聖霊が注がれ、世界最初の教会がエルサレムに誕生しました。復活のイエス様は「聖霊があなたがたの上に臨まれる時、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで私の証人となります。」(使徒1章8節)と言われ天に帰られました。まさに「聖霊は教会誕生の原動力」なのです。

★聖霊に満たされた弟子達の口からは、理解不可能な言葉が祈りとなって出てきました。弟子達にとっても初めての体験でした。しかし弟子達は驚きませんでした。イエス様を信じて求めていたからです。イエス様は、聖霊が与えられたことが誰にでもわかるように、異言という印を与えられたのです。

★弟子達ではない人々は、その現象を見て「人々はみな驚き惑って、これはいったいどうしたことかと言った」と聖書は記しています。また他の人達は「彼らは甘い葡萄酒に酔っているのだと言ってあざける者たちもいた」とも記しています。聖霊を受けた弟子のペテロは、聖霊の力に満ちて「今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人達は酒に酔っているのではありません」と、声を張り上げて聖霊降臨の証言をしました。

★ペテロは、この聖霊のバプテスマは突然起こったのではなく、旧約聖書の預言者ヨエルによって預言され、約束されたことであると説明しました。その旧約聖書は、ヨエル書2章28~29節の所です。ペテロは、この預言が今日成就したと証言したのです。しかも旧約時代には、祭司、預言者王、指導者しか与えられていなかった聖霊が「娘や息子・青年・老人・僕にも・はしため」にも与えられる時代になったと証言したのです。

★今や世界の教会は、聖霊のバプテスマによって息を吹き返しています。聖霊によって教会は伝道の熱意に燃やされて、聖霊派が世界のプロテスタント教会の第一の人数となりました。聖霊は、あなたを神様の力と祝福で満たしてくださる力です。あなたも、聖霊を受けましょう。

5月17日礼拝「二人の主人」

マタイ講解NO22「二人の主人」マタイ6章19~24節

                          仁井田義政牧師

 今日のイエス様の御言は「あなたは何のために生きるのか」という究極的な問がされている所です。私達はそのイエス様の問いに「私は今まで何のために生きて来たのか。これから何のために生きようとしているのか」と自分に問いつつ聞かなければなりません。イエス様は今日の御言の最初で「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。自分の宝を天にたくわえなさい」と言っておられます。それは「富に仕えるのか、神に仕えるのか」という人生の究極的な選択を迫られているのです。

★私達の人生には、その人なりの人生の目的があります。多くの人は自分の為に生きているのです。それが物質主義の現実です。しかしイエス様は、そのような生き方に対して「神の為に生きる」道を示されました。

★イエス様は「富の為に生きる人は富の僕となり、神の為に生きる人は神の僕となる。」と言われました。イエス様が用いられた「富」と言う言葉は、アラム語由来の偶像を表わす「マモン」という言葉です。「マモン」を用いたのは、富は偶像に成り得るからです。神様を信じて生きる人生か、富を神として生きる人生か、の二者択一が迫られているのです。

★ルカによる福音書19章には、エリコの町に神様よりもお金を愛したザアカイという人が出てきます。大金持ちでしたが、彼は嫌われ者でした。しかしイエス様が「ザアカイ、今日わたしはあなたの家に泊まることにしているよ」と言われた時、お金では得られない喜びを感じ、イエス様を家に迎えました。私達も、ザアカイのように「あなたにお仕えする者になります」と決心して、人生を歩みましょう。

5月10日礼拝「凛として生きるクリスチャン」

マタイ講解NO21「凛として生きるクリスチャン」マタイ6章16~18節

                          仁井田義政牧師

 今日は、イエス様が山上で教えられた教えの第10回目です。今日の教えは「断食して祈る時の教え」です。旧約聖書には「大贖罪日に断食の祈りをするように」記されています。その日は、イスラエルの民全体の罪を贖う(あがなう)神聖な日でした。しかしパリサイ派の人々は、週に二度も断食を行なっていたのです。(ルカ18;9~14)

★パリサイ派の断食は、人に強いられてしていたわけではなく、パリサイ派の自主的なものでした。しかし自主的なものであっても、それは人々に信仰深さ見せるためのものでした。そのために、断食の日にはやつれた顔をし、髪もバサバサにして、人に見せていたのです。

★イエス様は、人からの賞賛を目的にした信仰行為は、全て偽善的行為であると教えられました。6章1~4節では「施し」について。6章5~15節では「祈り」について。そして今日の6章16~18節では「断食」について、人に見せるために行なう行為は偽善ですと教えられました。

★「人に認めてもらいたい」という卑しい目的ではなく、人には隠して神様に受け入れて頂くために行う善行、祈り、断食は全て父なる神様に届いていると教えられました。「人には見られない隠れた所」はある意味孤独な所です。その孤独な所に「アバ父」が最も近くおられるのです。そこはあなたの罪を裁く神がおられる所ではなく、あなたと親子となられた「アバ父」がおられる所なのです。

★人に見られない善行、祈り、断食を行なうことの出来るクリスチャンになりましょう。それこそが、凛としたクリスチャンの生き方です。人の賞賛と愛を求め続けなければならないような偽善的な生き方ではなく、人の賞賛を受けようが受けまいが、人々の為に善行と祈りと断食ができるクリスチャンになりましょう。それが「凛として生きるクリスチャン」なのです。