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5月17日礼拝「二人の主人」

マタイ講解NO22「二人の主人」マタイ6章19~24節

                          仁井田義政牧師

 今日のイエス様の御言は「あなたは何のために生きるのか」という究極的な問がされている所です。私達はそのイエス様の問いに「私は今まで何のために生きて来たのか。これから何のために生きようとしているのか」と自分に問いつつ聞かなければなりません。イエス様は今日の御言の最初で「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。自分の宝を天にたくわえなさい」と言っておられます。それは「富に仕えるのか、神に仕えるのか」という人生の究極的な選択を迫られているのです。

★私達の人生には、その人なりの人生の目的があります。多くの人は自分の為に生きているのです。それが物質主義の現実です。しかしイエス様は、そのような生き方に対して「神の為に生きる」道を示されました。

★イエス様は「富の為に生きる人は富の僕となり、神の為に生きる人は神の僕となる。」と言われました。イエス様が用いられた「富」と言う言葉は、アラム語由来の偶像を表わす「マモン」という言葉です。「マモン」を用いたのは、富は偶像に成り得るからです。神様を信じて生きる人生か、富を神として生きる人生か、の二者択一が迫られているのです。

★ルカによる福音書19章には、エリコの町に神様よりもお金を愛したザアカイという人が出てきます。大金持ちでしたが、彼は嫌われ者でした。しかしイエス様が「ザアカイ、今日わたしはあなたの家に泊まることにしているよ」と言われた時、お金では得られない喜びを感じ、イエス様を家に迎えました。私達も、ザアカイのように「あなたにお仕えする者になります」と決心して、人生を歩みましょう。

5月10日礼拝「凛として生きるクリスチャン」

マタイ講解NO21「凛として生きるクリスチャン」マタイ6章16~18節

                          仁井田義政牧師

 今日は、イエス様が山上で教えられた教えの第10回目です。今日の教えは「断食して祈る時の教え」です。旧約聖書には「大贖罪日に断食の祈りをするように」記されています。その日は、イスラエルの民全体の罪を贖う(あがなう)神聖な日でした。しかしパリサイ派の人々は、週に二度も断食を行なっていたのです。(ルカ18;9~14)

★パリサイ派の断食は、人に強いられてしていたわけではなく、パリサイ派の自主的なものでした。しかし自主的なものであっても、それは人々に信仰深さ見せるためのものでした。そのために、断食の日にはやつれた顔をし、髪もバサバサにして、人に見せていたのです。

★イエス様は、人からの賞賛を目的にした信仰行為は、全て偽善的行為であると教えられました。6章1~4節では「施し」について。6章5~15節では「祈り」について。そして今日の6章16~18節では「断食」について、人に見せるために行なう行為は偽善ですと教えられました。

★「人に認めてもらいたい」という卑しい目的ではなく、人には隠して神様に受け入れて頂くために行う善行、祈り、断食は全て父なる神様に届いていると教えられました。「人には見られない隠れた所」はある意味孤独な所です。その孤独な所に「アバ父」が最も近くおられるのです。そこはあなたの罪を裁く神がおられる所ではなく、あなたと親子となられた「アバ父」がおられる所なのです。

★人に見られない善行、祈り、断食を行なうことの出来るクリスチャンになりましょう。それこそが、凛としたクリスチャンの生き方です。人の賞賛と愛を求め続けなければならないような偽善的な生き方ではなく、人の賞賛を受けようが受けまいが、人々の為に善行と祈りと断食ができるクリスチャンになりましょう。それが「凛として生きるクリスチャン」なのです。

5月3日礼拝「一人でみんなの為に祈る」

マタイ講解NO20「一人でみんなの為に祈る」マタイ6章7~15節

                          仁井田義政牧師

明日から3日間、全国聖会が行われます。そのテーマは「祈りと叫び・祈りと断食」です。日本のクリスチャン人口1パーセントの壁を破るような祈りが求められている聖会だと思います。今日の御言も、イエス様が教えて下さった「神様に聞いていただける祈り」についての教えです。クリスチャンの間では「主の祈り」として有名なところです。

★主は、私達が祈る前から祈りをかなえようと待ってくださっています。そして一人で祈る時も、「アバ」と祈る祈りに孤独はありません。さらに「私達の」と祈る祈りに、孤独はないのです。主の祈りには「私の」という祈りはひとつもなく、「私達の」が6回も繰り返されています。自分のことばかりではなく、教会のこと、世界の人々のことを愛して祈るのです。

★イエス様が教えられた聞かれる祈りの中で、大切なことは二つあります。一つは「主の御名が崇められるように」とある祈りです。それは、自分のことより神様の栄光の為に祈るということです。二つ目は「私達の負い目をお許しください。私達も負い目のある人を許しました」という祈りです。これは特に大切なので、イエス様は14節でも教えておられます。

★1800年代の人で、ジョージ・ミュラーという人がいました。主の祈りをいつもした人として有名です。ドイツ生まれの彼は孤児の父と言われ、一万人以上の身寄りのない子供達を育てた人でした。ある時は子供達に与える食物がなく、空の食器を前にして子供達と祈ったと言います。すると馬車の音が聞こえ、扉を開けると沢山の食料が届けられていたのでした。

イエス様の教えられた祈りは完璧です。私達も、一人で祈る時にもみんなの為の祈りを実践しようではありませんか。

4月26日「ともに苦しまれる神」

主日礼拝メッセージ「ともに苦しまれる神」イザヤ63章7~9節 

                           高間智浩師 

 皆さんに問いかけがあります。人生の苦しみの中で、「神は本当に分かってくれている」と思ったことはないでしょうか。誰にも理解されない悩みを抱えた経験はありますか?御言葉で「彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれる(苦しまれる)」と教えてくれています。今日の題は「ともに苦しまれる神」です。神は「無関心な観察者」ではありません。神は民の苦しみを「知っている」だけでなく、その苦しみに関わっておられます。

★神は感情だけで終わりません。神は「同情するだけ」ではなく、救いの行動を起こされる神です。主は、聖書の中で救いの具体性をもって、旧約聖書時代は主の使いによる救出をし、新約聖書時代はひとり子のイエス・キリストを遣わし、救いを表わされました。

★救いの動機は「愛とあわれみ」によってであり、行いによらない、努力によらない、資格によりません。神の救いの出発点は、人間の善さではなく、神の愛によってです。

「あがない」の意味は、代価を払って買い戻す、失われた者を取り戻すということです。

神は、あなたを「手放してよい存在」とは決して思っておられません。

もし今、重荷を一人で背負っているなら、今日、その重荷を主にゆだねてみませんか。

4月19日礼拝「キリスト教の美学」

マタイ講解NO19「キリスト教の美学」マタイ6章1~6節

                      仁井田義政 牧師 

 イエス様は、信仰の行いでも人に見せるための善い行いと、神様と人とを愛しての善い行いとでは全く違うと教えておられます。イエス様はまさに、美しいキリスト信仰を教えて下さっています。

★今日の聖書の御言には、神様に喜ばれる善い行いのことが教えられています。人に喜ばれることを目指すのか、神様に喜ばれることを目指すのかということです。クリスチャンにも、気を付けないと落とし穴があります。それは、人から称賛されることを求めてしまいやすいことです。イエス様は、そのような行いは神様には喜ばれないと教えられました。

★どうしてイエス様は、このような教えを人々にされたのでしょうか。それは、人に喜ばれようとすることは、自分を神様の位置につけてしまっているようなものだからです。教会の奉仕は、人から賞賛されることが少ないでしょう。ですから気を付けなければなりません。神様にお仕えするよりも、人に賞賛される奉仕を選んでしまう落とし穴があるからです。

★イエス様は、祈りについても同じであることを教えられました。人に見せたり聞かせたりするための祈りは、偽善者のすることだと教えられました。それは、心が神様に向かっていないで、聴衆に向かっているからです。隠れた所での祈りは、真摯な祈りです。神様は、そのような隠れた祈りを聞くために、そこに待っていて下さるのです。

★今日の御言には、人に知られない行ないと、人の目に見えない所での祈りが記されています。両方とも人の関心を買おうとするのは「偽善です」と教えられました。偽善とはギリシャ語の「ヒュポクリシス」で、「演技する。ふりをする」という意味です。イエス様が教えられた「キリスト教の美学」は、人の目には見えなくても、神様に喜ばれるように善い行いをすることです。私達は、イエス様の教えられた美しい生き方をしていく人になりましょう。

4月12日礼拝「敵をも愛しなさい」

マタイ講解NO18敵をも愛しなさい」マタイ5章38~48節

                      仁井田義政 牧師 

 主イエス様の教えには、それを実践したならば世の中はどうなってしまうのだろうと思える御言が沢山あります。42節「求める者には与え、借りようとする者はことわらないように」等もそのひとつでしょう。イエス様はそのような実践不可能な事を私達に求めておられるのでしょうか。そうではありません。イエス様のこの教えは「愛」というテーマに包まれているのです。今日は「敵をも愛しなさい」という題でお話し致します。

★まず今日の御言に「目には目を、歯には歯を」が出てきます。この言葉は「やられたらやり返せ」という報復の勧めとして用いられることがあります。しかしこれは「目を傷つけられたら、同等の目までにしなさいよ」との「同態復讐法」であり、これだけでも十分寛容な教えなのです。それによって「復讐の連鎖を断ち切って、平和を求めなさい」という教えなのです。

★人間の本能は、徹底的に仕返しをすることです。しかし主は平和を作るために「悪者に歯向かうな」と言われました。また「一ミリオン行けと言う者には、二ミリオン行きなさい」とも言われました。平和の為に、愛でその人の上に立ちなさいという教えなのです。「敵をも愛しなさい」という教えも同じです。つまり支配されるのではなく、愛によってその人の上に立つのです

★私達は、職場でも学校でも、心に「敵か、味方」を作ってしまいます。しかし神様は「良い人の上にも、悪い人の上にも」太陽も雨も与えて生かしておられるのです。そのような愛の神様に倣って、心の広い人になって愛を実践し、平和を作っていくべきなのです。

★それを実践した「マハトマ・ガンジー」「キング牧師」「ネルソン・マンデラ」などの人々は「非暴力」という愛の力の哲学を確立したのです。愛は正義よりも強いのです。ですからイエス様は、正義で私達を裁きませんでした。罪人である私達のために、十字架に着いて下さったのです。

私達も、正義よりもイエス様の教えに従って、「私は敵をも愛する」と決心し、自由になりましょう。

イースター「主はこの山の上で死を滅ぼされる」

2026イースター「主はこの山の上で死を滅ぼされる」イザヤ25章6~9節 

                         仁井田義政 牧師 

 イースターおめでとうございます。今日は例年とは違い、旧約聖書のイザヤ書から、イースターのメッセージをお届けしたいと思います。そこには、イエス様の御復活とイエス様と私達との関係まで、素晴らしく預言として記されています。イザヤは、キリストが誕生される750年も前の預言者です。そんな前に、イエス様の御復活を預言していました。

★イザヤは、イエス様が復活される場所は「この山の上である」と預言しました。「この山の上」とは、エルサレムのことです。イエス様の主な活動地はガリラヤ地方でした。しかし預言者イザヤは、140~150㎞も離れた(徒歩5~6日の)距離のエルサレムで勝利をとると預言したのです。そこで起こる大きな喜びを「宴会」という表現で3回も記し、エルサレムでのこの勝利を万民・万国のものだと記しているのです。

★それではその喜びにつながる勝利は、いったい何に対する勝利なのでしょうか。それは、死に対しての勝利です。「万国の万民の無知の覆いを取り除き、すべての顔の涙をぬぐい取って下さる」と記されています。覆いかぶさっているとは、本当のことが見えないということです。つまり死後の世界の事が分からずに生きている人。あるいは死は他の生き物と同じだと割り切って考えている人。そのような唯物論的な考えに勝利するのです。

★イエス様は、万国・万民の上に掛かっている死後の世界の無知という覆いを取り去って下さる方として、イザヤは預言したのです。そうして預言のように「この山の上=エルサレム」で起こりました。エルサレムで十字架につけられて殺されたイエス様が、三日目の朝早く墓から甦られたのです。そのことによって、人類の最大の悲しみである「死を永久に滅ぼされた」のです。

近年フランスで、イースターに驚きの人数が洗礼を受けるとニュースになっています。その数は教会も予想できなかったと言います。あなたも主の御復活を喜び楽しむ者となり、喜びにあふれた生涯を送る人となろうではありませんか。

受難週礼拝「父よ、彼らを赦したまえ」ルカ23章33~38節

受難週礼拝「父よ、彼らを赦したまえ」ルカ23章33~38節 

                         仁井田義政 牧師 

 今日は、受難週の始まりの日です。今日からクリスチャン達は、御受難のイエス様と共に一週間を歩むのです。今日はイエス様が十字架で話された7つの言葉の中から、「父よ。彼らを赦したまえ」という祈りの言葉を中心にお話し致しましょう。

★十字架の前に集まった人々の中には、イスラエルの指導者や一般民衆、犯罪者、ローマの兵隊もいました。日曜日にイエス様が城門を入られた時には「ホサナ!主よ、いま救って下さい」と叫んだ人々も、「イエスを殺せ」と言う人に変っていました。イエス様と同じ民族の指導者達は、イエス殺害が確定したことを喜んでいました。またローマの兵隊は、植民地さえ平和になれば、イエスの生き死になどどうでも良い!と思っていました。

★十字架の前にいた人々は「イエスなど必要ない」「私達に百害あって一利なし」と思って、十字架の前でイエス様に罵声を浴びせていました。人々にはイエス様がなんと不甲斐ない人のように見えたことでしょう。ローマの兵隊には十字架刑など日常のことなので、イエス様の死を待つ時間に飽きて、くじ遊びをしていたくらいなのです。

そこには神様からも捨てられたイエス様の姿がありました。

★ここであなたが十字架に付けられているとします。そのあなたに、群衆の容赦ない嘲りが続いているとします。私達はその群衆を呪わないでしょうか。イエス様は「父よ。彼らを赦したまえ」と祈られたのです。自分の為ではなく、自分を殺そうとしている人々の為に祈られたのです。ここに、イエス様の偉大な愛があります。

★かつてイエス様は、弟子達に「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえと祈りなさい」と教えられました。イエス様は私達に教えられた祈りを、十字架の上で祈っておられるのです。この祈りを聞いた群衆は、自分には関係のないことだと思って去って行きました。あなたも、去っていくその一人になりますか。あなたはこのイエス様の祈りに、イエス様の十字架の愛を知って、イエス様を信じる人になりましょう。

3月22日礼拝「真実を話す日常生活」5章33~37節 

マタイ講解NO17「真実を話す日常生活」5章33~37節 

                         仁井田義政 牧師 

 今日のイエス様の御言は、禅問答のようで、何を言われているのか、わかったようでわからない所です。わかったように思うのは、「誓ってはいけません。」との言葉です。しかし誓わないで約束が成立するのでしょうか。読み直してみると、約束が必要ないと言っているのではなさそうです。

★ここでの「誓」とは、そのあとの文の続きによって、神様の名にかけて誓うことであることがわかります。「私は潔白です。天地神明にかけて私はやっておりません」という人がいます。日常会話で「天地神明にかけて」という言葉が出る時には、相手に疑われている状況があるわけです。

★その薄い信用度を神の名を使って補強し誓ってはならないという教えなのです。「天を指して誓ってはならない。そこは神の御座だから。地を指して誓ってはならない。そこは神の足台だから。エルサレムを指して誓ってはならない。そこは偉大な王の都だから。頭を指して誓ってはならない。髪の毛一本すら自分の思うままには出来ないのだから」とイエス様は言われました。それは軽々しく神の名を出して誓ってはならないということなのです。

★この教えは、マタイ5章20節の「あなたがたは、律法学者、パリサイ人の教えに優るものとならなければなりません」の教えの続きなのです。律法学者やパリサイ人は、神の名でよく誓うが、あなたがたはそうであってはいけませんということです。それは、モーセの十戒の「神の名をみだりに唱えてはならない」との言葉につながる注意でもあるのです。

★来週から受難週が始まります。イエス様は、ローマ総督ピラトの前で尋問を受けられました。ピラトは、イエス様の答え如何によっては、イエス様の十字架刑を許そうと考えたのです。そしてイエス様に「あなたはユダヤ人の王なのか」と尋ねました。イエス様は「あなたの言うとおりです」(マタイ27:11)と応えられました。言葉を濁されれば良かったのです。しかしイエス様は、はっきりと「はい、そうです」と言われました。その為に十字架刑が決定しました。私達もイエス様に倣って、日常生活の中で真実を話す人になりましょう。

3月15日礼拝「罪は心の中から始まる」

マタイ講解NO16罪は心の中から始まる」5章27~32節 

                         仁井田義政 牧師 

 今日の御言は、読む人をギョッとさせます。「あなたの右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。あなたの右の手があなたをつまずかせるなら切って捨ててしまいなさい」と記されています。その言葉の真意は、何なのでしょうか。

★イエス様は「姦淫してはならない」と異性問題について教えられました。姦淫とは結婚以外の性のことです。「情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」とは、欲望を満たすために凝視し続けることのことです。

★そのようなことは、相手の人に対して罪である以前に、神様の前に罪なのです。「つまずかせる」という言葉がそれを表わしています。あなたが信仰の道に石ころを置いたとします。その石ころにあなたが躓いて転び、真っ直ぐに歩けなくなってしまうという意味なのです。

★「ゲヘナに投げ込まれる」は、ヘブル語の「ガイ・ヒノム=ガイは谷」を訳した言葉です。その谷は、むかし異教の神モレクに子供を焼き殺して捧げた凄惨な儀式が行われていた所です。紀元前666年頃に、ユダ王国の第16代ヨシヤ王によって「汚れた場所」とされました。それからは病死した動物や身内のない死体、エルサレムの生ごみが捨てられる場所となったのです。そこから地獄のイメージとなりました。

★31~32節は、弱い立場にあった女性達を離婚から守るための教えでした。男性が女性を気に入らなければ、離婚状を書けばすぐに離婚ができた時代です。しかし女性からは離婚の申し立ては出来ませんでした。日本も「三行(みくだり)半」が廃止されたのは、153年前の明治6年なのです。法律に「協議離婚」と「裁判離婚」の制度が取り入れられました。明治の西洋化の波に乗ってのことでした。西洋化とは、聖書の教え化でした。

★イエス様は「罪は心の中にある」と言われました。パワハラ・セクハラは相手に対しては勿論のこと、神様に対しての罪なのです。私達は、イエス様が山上で教えて下さった男女平等の優れた教えを大切にしましょう。