Monthly Archives: 1月 2026

1月11日礼拝「天の窓が開いた」3章13~17節

マタイ講解NO7「天の窓が開いた」3章13~17節 

                        仁井田義政 牧師

新しい時代が近づいているのを感じていた洗礼者ヨハネは、新しい時代を生きるようにと、人々に悔い改めの洗礼を授けていました。するとイエス様が、洗礼を受けるために故郷のナザレからヨハネの所に出て来られたのです。そのことにヨハネは驚き、戸惑いました。

★ヨハネは、洗礼を受けようされるイエス様に洗礼を授けることをためらいました。それはヨハネの洗礼の目的は「悔い改めの洗礼」(3章2節)だったからです。イエス様は罪のない御方であるから、私こそイエス様から悔い改めの洗礼を授けて頂くのが正しいと思ったのです。たとえば、子供達に習字を教える先生の所に、世界的な習字の先生が来て「私に習字を教えて下さい」と言ったとしたらどうでしょう。恐縮し必死に止めようとするでしょう。

★イエス様は罪のない御方です。ですから洗礼が必要ないのです。その御方が、罪人と一緒の列に並び、洗礼を受けようとされたのです。それは、私達罪ある人間と、イエス様の連帯を示しています。それこそがイエス様の使命に「正しい」のです。ヨハネはそれを聞いて承知し、洗礼を授けました。

★すると「天が開けて、聖霊が鳩のように下り、これは私の愛する子」と父なる神の声が聞こえたと聖書に記されています。それはまさに「父・子・聖霊」なる神が、イエス様の「罪人との連帯」を喜ばれたことを表わしています。つまり、イエス様が罪人との連帯を喜ばれたことを示しています。

★イエス様が罪人の列に加わり洗礼を受けられると、「天が開け」ました。四百年も閉ざされていた天との交流が、開始される新しい時代が始まったのです。それはノアの洪水の時に、放たれた鳩がオリーブの葉をくわえて来た時のようでした。イエス様が水から上がられると「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」との声が聞こえました。それは私達もイエス様に習って洗礼を受ける時「神の愛する子」とされることを示しています。

★イエス様が、私達の代表となって人間の列に並んで洗礼を受けられたように、ここに集まっている皆が洗礼を受けて、クリスチャンになりましょう。

2026年1月4日「実を結ぶクリスチャン」

マタイ講解NO6「実を結ぶクリスチャン」3章7~12節 

                        仁井田義政 牧師

 今年最初の礼拝メッセージは、昨年11月16日から始まりましたマタイの福音書の講解より、イエス様のご生涯から順を追って祝福の御言を取り次ぎます。

★今日出てくるバプテスマのヨハネは、1400年以上続いてきた祭司の家系の息子でした。家系的に見ても、当時のエリートでした。そのままで、神殿で仕える祭司となり、衣食住に心配のない立場にありました。しかしヨハネは、救い主の先駆者となるために、それらの全てを捨てたのです。それは預言者イザヤが750年前に預言した「荒野に叫ぶ声」は、自分のことだと確信したからです。

★一方イエス様は、ナザレの大工の家系でした。祭司の家系とは雲泥の差がありました。考古学では、当時のナザレの家々は、半洞窟であったということがわかっています。イエス様は、30歳の時に突然、世にご自分を表わされました。格式ある家に生まれたヨハネは、イエス様を迎えるために、大工より低いラクダの毛衣を身にまとっていたと見ることも出来るのです。

★バプテスマのヨハネは、人々に「自分は優れた血筋だ等と思っていてはならない。神は能力のない石ころからでもアブラハムの子孫を起こす時代が来たのだ」と叫びました。それは、何の価値もない者からも世の中を祝福する者を起こすことができるという意味です。そのためには「悔い改める」ことが必要であると教えました。それは「向きを変える」という意味です。そのために「聖霊と火とによる洗礼」が大切なのです。彼は、集まってきた人々に「実を結ぶ」人となるように勧めました。

★イエス様も、この新しい年に、「実を結ぶクリスチャン」になるように私達に近づいて下さっているのです。私達がたとえ「石ころ」のような存在であっても、「多くの実を結ぶクリスチャン」となるのです。

2026年元旦礼拝「年の初めから終わりまで」

        仁井田義政 牧師

今年の溝の口キリスト教会の御言                             

「そこは、あなたの神、主が目を留めておられる地であり、年の初めから年の終

わりまで、あなたの神、主の目が絶えずその上にある。」(共同訳 申命記 十一 章 十二 節)

 皆さん、あけましておめでとうございます。溝の口キリスト教会は、申命記の御言で二〇二六年が始まりました。申命記は、イスラエルがエジプトの奴隷状態から解放されて、神様の約束の地に入る前に、モーセによって語られた説教集です。その内容は、新しい地に入っていったなら、どのように生活して神様の祝福を受け、幸せな生活をするかの教えです。それは、そのまま私達が新しい年を迎えて、どのようにして祝福された生活をするかの教えにもなります。今日の御言の前後関係から、新年二〇二六年が、皆さんにとって素晴らしい年となりますよう、この御言を新年礼拝のメッセージとしたいと思います。

★まず新しい年を祝福に満ちた年とするための条件は、八~九節にあるように、神様の命令を守ることです。神様の命令と言いますと、堅苦しく感じる人がいるかもしれません。しかし、それは神様の優しさなのです。新しい機械等を購入して、その取扱い説明書がないと困ります。それと同じように、神様は私達が新しい年に迷い、無駄な日や時間を使うことのないように、説明書を下さったのです。それは、イスラエルの民達が、エジプトからイスラエルにひと月もあれば来られるのに、四十年もかかってしまったからです。さらに悲劇的なのは、エジプトを出る時に二十歳以上だった人々は、四十年の間に全て荒野で死んでしまいました。それこそ無駄死をしたのです。

★さて申命記は、エジプトの地と新しい約束の地の違いについて、記しています。エジプトの地には大きなナイル川がありましたが、その利益を受けるためには、自分の力で川から水をくみ上げて動植物に与えなければなりませんでした。しかし新しい地イスラエルには、山があり谷があり、そこは雲が湧き出て雨が天から降ってくる地なのでした。人力によってではなく、前の雨と後の雨が地を潤し、農作物を育てたのです。前の雨は、十月~十一月頃にあり、その時が種蒔きの季節となりました。後の雨は、三月~四月頃で、それは収穫前の大切な雨なのです。その二度の雨季は。今もなお変わることがありません。

★そのように、天から雨の降る新しい地で、神様からの祝福を受ける方法は「主を愛すること」ですと二十二節に記されています。そうする時、主が新しい年に於いて、あなたを祝福してくださるのです。しかし無視すれば、新しい地での生活も「呪われたもの」になってしまうと二十六節に記されています。

★神様はイスラエルの民が、新しい約束の地に入っていくにあたり、イスラエルのために「年の初めから、年の終わりまで、絶えずその上に目をとめておられる地である」(十一節)と言っておられます。イスラエルの民は、エジプトから約束の地まで一ヵ月もあれば十分に行けた距離なのに、不信仰のために四十年も荒野をさまよい続け、苦しい生活をすることになってしまいました。モーセは、イスラエルの民が約束の地で不信仰のゆえに無駄死にすることがないように、この申命記の一大説教をしたのです。

★私達は、新しい年を「強く主を愛する年」と致しましょう。そして強い信仰の告白をもって、神様からの祝福に満ちた新しい年を受け取り、二〇二六年を希望に満ちて出発いたしましょう。