詩篇講解NO92「草のように、木のように」詩篇92篇1~15節
仁井田義政牧師
今日の92篇は「安息日のための歌」という表題が付いています。つまり安息日と言われている礼拝の日に歌われた詩なので、安息日に主を礼拝する人と、そうでない人の対比が記されています。
★92篇1~5節まで、礼拝とは何かを教えています。それは「主に感謝すること」です。「主」はアドナイと言う言葉で、私のご主人様の意味です。他宗教の言う宇宙法則や宇宙の生命などという、非人格的なものとは全く違うのです。私のご主人様という存在の神様です。礼拝とは、私達の主人として恵みと祝福を毎日注いで下さっている神様への感謝なのです。
★6~9節では、「この神を知らない者達は草のようだ」と記されています。地上の生物の中で、人間だけが神様を礼拝することができる存在です。その特権を放棄して生きている人達がいます。そのような人も、みるみるうちに栄えることがあると聖書は言っています。しかしそれは「草のようで一瞬の栄えである」と言っています。
★しかし神様を礼拝する者は、「ナツメヤシの木のように栄え、レバノン杉のように育ちます。」(12節)と記されています。この詩篇に記されているナツメヤシもレバノン杉も、役に立つには数年かかります。草のように、数か月で成長するというわけにはいかないのです。しかし、神様は私達を主の家の木として、主の庭に植えて下さいました。それは世話をし、育てて下さるためにです。
★教会の庭にも、いろいろな植物が植えられています。最近では桑の実が沢山なり、皆さんがジャムを作ると言って積んでいかれました。なぜ桑の実などがなるのでしょうか。私が植えて世話をしているからです。しかし大きなレモンの木の世話を失敗し、害虫によって枯らしてしまいました。神様は失敗されません。ですから「彼らは年老いても、なお実を実らせ、みずみずしく、生い茂っていましょう」(14節)と記されているのです。神様は「礼拝者が年老いても、ナツメヤシやレバノン杉のように栄えさせてくださる」のです。神の家の庭に植えられた木のように、礼拝を大切にし、神様の庭にしっかりと根を下ろし、感謝の礼拝を捧げましょう。