6月9日礼拝「草のように、木のように」

詩篇講解NO92「草のように、木のように」詩篇92篇1~15節

                     仁井田義政牧師                             

 今日の92篇は「安息日のための歌」という表題が付いています。つまり安息日と言われている礼拝の日に歌われた詩なので、安息日に主を礼拝する人と、そうでない人の対比が記されています。

★92篇1~5節まで、礼拝とは何かを教えています。それは「主に感謝すること」です。「主」はアドナイと言う言葉で、私のご主人様の意味です。他宗教の言う宇宙法則や宇宙の生命などという、非人格的なものとは全く違うのです。私のご主人様という存在の神様です。礼拝とは、私達の主人として恵みと祝福を毎日注いで下さっている神様への感謝なのです。

★6~9節では、「この神を知らない者達は草のようだ」と記されています。地上の生物の中で、人間だけが神様を礼拝することができる存在です。その特権を放棄して生きている人達がいます。そのような人も、みるみるうちに栄えることがあると聖書は言っています。しかしそれは「草のようで一瞬の栄えである」と言っています。

★しかし神様を礼拝する者は、「ナツメヤシの木のように栄え、レバノン杉のように育ちます。」(12節)と記されています。この詩篇に記されているナツメヤシもレバノン杉も、役に立つには数年かかります。草のように、数か月で成長するというわけにはいかないのです。しかし、神様は私達を主の家の木として、主の庭に植えて下さいました。それは世話をし、育てて下さるためにです。

★教会の庭にも、いろいろな植物が植えられています。最近では桑の実が沢山なり、皆さんがジャムを作ると言って積んでいかれました。なぜ桑の実などがなるのでしょうか。私が植えて世話をしているからです。しかし大きなレモンの木の世話を失敗し、害虫によって枯らしてしまいました。神様は失敗されません。ですから「彼らは年老いても、なお実を実らせ、みずみずしく、生い茂っていましょう」(14節)と記されているのです。神様は「礼拝者が年老いても、ナツメヤシやレバノン杉のように栄えさせてくださる」のです。神の家の庭に植えられた木のように、礼拝を大切にし、神様の庭にしっかりと根を下ろし、感謝の礼拝を捧げましょう。

6月2日礼拝「私の救いを彼に見せよう」

詩篇講解NO91「私の救いを彼に見せよう」詩篇91篇1~16節

                     仁井田義政牧師

 6月に入り、一年の半ばにさしかかっています。さて、人生にはいろいろな戦いがあるものです。今日のメッセージは、詩篇91篇の最後の言葉から「私の救いを彼に見せよう」という題でお話し致します。

★この91篇の作者は、誰であるかがわかりません。詩の表題もないのですが、この詩人は大きな困難に直面しています。3節や6節を見ると、病気かもしれません。あるいは3節の「狩人の罠」は命を狙う敵かもしれません。私達の回りには、様々な問題や困難が際限なくあります。それが心配や不安を生み出すのです。

★この詩人は、神様を信じることを「いと高き方の隠れ場に住む」(1節)と言っています。また「全能者の陰に宿る」とも言っています。それは神様の守りに包まれることを意味しています。詩人は、神様を信じることをそのように表現しています。日本人の「信じる」という感覚とは違う表現です。つまり、神様に心に入って頂くのではなく、神様の守りの中に入れて頂くのです。

旧約時代には、その家の客となった人に対して、主人は命をかけて守る習慣がありました。親鳥がひな鳥を守るように、客人を守るのです。病人であればなおさらです。「それは、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである」と、9節に記しています。

★どうして神様は、無名なこの詩人を1~13節にあるように次々と守って下さるのでしょう。それは「彼がわたしを愛しているから」(14節)と神様の言葉が記されている通りです。これが神様を愛する者への約束なのです。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と申命記6章5節にも記されています。イエス様もマタイ22章36~38節でこの言葉を引用しておられます。

★今日の詩篇の作者は、病気かあるいは敵という、命に係わる問題に直面していました。その詩人に神様は「私の救いを彼に見せよう」と言われたのです。それは、詩人が神様の守りの中に住んで、神様を愛する人だったからです。私達も主の守りの中に住み、神様を愛する生活を開始しましょう。

  

2024年ペンテコステ礼拝「聖霊の力と教会の誕生」

2024年ペンテコステ礼拝聖霊の力と教会の誕生」使徒2章1~4節

                           仁井田義政牧師                                                

今日は、教会が誕生した記念日のペンテコステ礼拝です。使徒の働き2章を中心に「聖霊の力と教会の誕生」について話します。

★使徒の働き2章1節には「五旬節の日になって」と記されています。それは、過越の祭から50日目になったことを表わしています。イエス様は、そうしようと思えば復活されたその日に聖霊のバプテスマを与えて教会を誕生させることも出来たはずです。弟子達が待たされたのは、50日目に「ペンテコステの祭」が来るからです。それは麦の初穂の奉献の祭でした。

★使徒の働き1章8節には「聖霊を受けると力を受ける」とのイエス様の約束の言葉が記されています。「力」はギリシャ語の「デュナミン」という言葉が用いられています。それは「ダイナミック」とか「ダイナマイト」と言う言葉の語源にもなった言葉です。爆発するような力、ダイナミックな力を持った教会の誕生なのです。

★聖霊のバプテスマには「異言を語る」というしるしが伴いました。しかし、「彼らは甘い葡萄酒に酔っているのだ」(使徒2:13)と言う人達もいました。教会誕生に最重要であった聖霊のバプテスマを受けた人と、気持ち悪いと思う人が起こったのです。

★現代でも「異言ならばやみます」(第一コリント13:8)を開いて反対する人もいますが、パウロ自身が「私は、あなたがたの誰よりも多くの異言を話すことを神に感謝しています」(第一コリント14:18)と言っています。

★世界で最初にエルサレムに誕生した教会と初代教会は、聖霊のバプテスマを受け、異言を語り、聖霊のダイナミックな力を受けた教会でした。アッセンブリー教団は、いち早くイエス様の教えに戻りました。その結果、世界の大きな教会の多くは、アッセンブリー教会となったのです。

★私達日本の教会も、聖書の示す聖霊によるバプテスマを受け、大いに異言で祈り、聖霊のダイナミックスに満たされて成長しましょう。

5月12日礼拝「人の子らよ、帰れ」

詩篇講解NO90「人の子らよ、帰れ」90篇1~12節

                        仁井田義政 牧師                              

 詩篇の講解メッセージも、第四巻の90篇に入りました。あと60回話しますと、詩篇の全てをお話しすることになります。詩篇は詩文であるだけに、作者は大きなテーマも、言葉を短縮して記しています。90篇の内容も「人間の死とは何か。人間の手のわざとは何か」を、わずかな文字数でシンプルに記しています。それだけにストレートで、読む者の心に刺さるのです。

★私達人間は、永遠の神の前に草のような存在だと、3節~12節で述べています。人間は、数百年も生きることのある木でもなく、草のような存在なのです。草は、春に芽を出しても秋には枯れてしまう短い命です。創世記6章3節にあるように、人間が長生きしても120歳を超えるとニュースになる程難しいのです。その一生は「労苦と災い」に満ちていると言っています。

★詩人は「自分の日を数えることを教え、手のわざを確かなものにしてください」と12~17節の中に記しています。「自分の日」とは、平均寿命から見て、あと何年かのことです。多くの人は死を考えないようにして生きています。17節の「手のわざ」とは、この人生で成して来た行ないのことです。「確かなものにしてください」は、私達が死んでも神様の前に価値あるものと認められる行いのことです。

★私達人間は、生まれながらにして神様と断絶した状態にあります。多くの人は、自分がどのような存在なのか、何をこの人生で成すべきなのか、どこに向かっているのかを見失ってしまっています。それは、7~9節にあるように「神の怒り」の中に生きている証拠なのです。

★ですから人間は、誰でも神様によって、神様の世界に生まれ直さなければなりません。それが新生と言われるものです。神様のもとを離れた人間の姿を、イエス様は「放蕩息子」の譬えによって教えられました。その人は父親の家を飛び出して、餓死寸前にまでなったのです。その時「はっと我に返り」父親のもとへ帰ろうと決断をしました。今日の詩篇にも「人の子らよ、帰れ」という神様の声があります。それは、あなたへの神様の呼び掛けなのです。あなたも神様のもとに帰り、新しい人となりましょう。

5月5日礼拝「神の約束は変わることがない」

詩篇講解NO89「神の約束は変わることがない」89篇25~41節

                        仁井田義政 牧師                              

 神様を定義する言葉にはいろいろありますが、聖書の神様を定義する言葉は「契約の神」です。ですから聖書は、旧約聖書と新約聖書と呼ばれるのです。

★今日の詩篇89篇では、約四百年前のダビデとの契約のことに触れられています。人間の約束は、数時間で変わることもあります。しかし、神様の約束は、何百年たっても変わらないと信じるのがイスラエルの信仰なのです。しかし現実には、永遠の約束のはずのダビデ王国は破れ、今や跡形もないので、詩人は神様が約束を破ったのではと嘆くのです。この詩は、「神様の約束」に対する嘆きの歌なのです。

★神様の約束は変わることがないのに、現実には変わったとしか見えない状態にありました。それは「あなたの先の恵みは、どこにあるのでしょうか」「ダビデに誓われたものです」(49節)という言葉に表わされています。神様は、ダビデの子孫が何をしても赦すとは約束していません。罪と不信仰には裁きがあるのです。ですから、神様をないがしろにし、偶像礼拝をしたり、武力に頼ったりした民を敗北させられたのです。

★ダビデとの約束は、ダビデから約千年後に、イエス様が来られたことによって成就しました。イスラエルの民も弟子達も「主よ、いよいよ今ですか」と期待しました。しかしイエス様は、ダビデの時のような王国を作ろうとされませんでした。

★しかし、イエス様こそ、神様とダビデとの約束の完成でした。福音書の最初のマタイ1章1節に「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と記されているのです。その契約の成就とは、キリストの十字架による救いという、人間の誰も思いつかない方法でした。そのことによって、神様はダビデに誓われた「あなたの子孫をとこしえに堅く立て、あなたの王座を世々限りなく建てる」との約束を実行されました。ですからキリスト誕生から二千年以上も経っている今日まで、その王国は広がり続けているのです。この神様の契約は、あなたの為の契約でもあります。あなたもイエス様を信じて、イエス様の王国の民となりましょう。

4月21日礼拝「悩みに満ちた者の祈り」

詩篇講解NO88「悩みに満ちた者の祈り」88篇1~12節

                         仁井田義政 牧師 

 今日の詩篇には「悩みに満ちた者の祈り」が記されています。私達の人生では6節にあるように「最も深い穴」「深い淵」を体験することがあります。神様はそのような「深い淵」にまで、関わって下さる御方なのです。

★3節に「私の魂は悩みに満ち」「命は黄泉に触れている」と記されています。それは死を感じる病気と思われます。その失望の程は、4~7節の中に「私は穴に下る者」「死人の中でも見放され」「殺された者のように」「最も深い穴」「暗い所」「深い淵」と描写されています。また7節には「親友も忌み嫌う者とされた」と記されています。しかもその苦しみは、15節の「若い時から」なのです。信仰者に最悪な失望感は、7節の「あなたの激しい憤りが」とあるところです。神様の怒りがそうしていると記されているのです。それは14~18節にも記されています。

★激しい苦悩に満ちた詩人の人生に、私達の苦しみなど色あせていくのを感じるほどです。この人と比べたら、私の人生の苦しみなどたいしたことはないと思えてしまうのです。この詩の聖書に残されている意味は、そこにあるのではないでしょうか。

★この詩は、失望的な詩ではありますが、絶望的な詩ではありません。それは1節に「主、私の救いの神。私は昼は叫び、夜はあなたの御前にいます」とあるからです。13節でも、祈ることを諦めず「この私は、あなたに叫んでいます。朝明けに私の祈りはあなたに届きます。」と記されています。失望することがあっても、決して絶望することがあってはならないのです。

★キェルケゴールが「死に至る病とは絶望のことである。」と言っています。詩人のように、悩み苦しみ失望的になることもあるでしょう。しかし人生の「暗い所」「深い淵」からでも祈るのです。それが信仰です。あなたも神様を信じて、暗い所や悩みの深い淵から祈ろうではありませんか。

4月14日礼拝「天に国籍を持つ天国人」

詩篇講解NO87「天に国籍を持つ天国人」87篇1~7節

                         仁井田義政 牧師 

 今日の詩篇は、旧約時代の御言としては画期的なものです。それは、異邦人の全てを神の民とするという思想が記されているからです。弟子のペテロでさえ、使徒の働き10章の中で初めて知るのです。

★もちろん旧約聖書の選民思想の中でも、全人類・全民族が救われるという思想が無かったわけではありません。創世記12章3節に「アブラハムの子孫によって、地上の全ての民族は祝福される」と記されていますし、イザヤ書65章1節に「私に問わなかった民」の救いが記されています。パウロはローマ書10章19~20節で、この御言を引用して異邦人の救いを示しています。

今日の詩篇には「ラハブ、バビロン、ペリシテ、ツロ、クシュ」の名があげられています。これらはみなユダヤ人から見れば、異国人であり異教徒です。もちろん日本人も、イスラエル民族から見れば、異邦人であり異教徒です。それを「神の国民とする」ということが預言的に記されているのです。

★この預言は、イエス様のエルサレムでの十字架を信じる者の上に成就しました。エマオの途上で、クレオパが「エルサレムで起こったことを知らないのですか」(ルカ24:18)と言っています。それは、エルサレムで起こったキリストの十字架のことです。エルサレムで現れた神なるキリストを礼拝する者は、みな神の国で生まれた者として認められ、その国民となるのです。

★どの国の異民族、異教徒であろうと、ひとつの国籍が、神様によって与えられる時が来ると預言されているのです。そこには一切の差別や区別はありません。ただひとつ、神様に愛され、神様によって天国の民として国籍を持つようにされたのです。それが、キリストによって創られた神の国の民であるクリスチャン達なのです。つまりあなたも「天に国籍を持つ天国人」のひとりなのです。

その事を感謝しましょう。私達は天国人としてひとつになりましょう。

4月7日礼拝「私の心を一つにして下さい」

詩篇講解NO86「私の心を一つにして下さい」86篇11節

                         仁井田義政 牧師 

 今日の詩篇には「ダビデの祈り」という題が付いています。この詩は後の時代に編集された詩であろうという人もいます。たとえ後の時代の編集だったとしても、今日はダビデの心に立って、メッセージをお伝えします。

★ダビデは1節で「私は悩み、そして貧しいのです」と言っています。この貧しさは、金銭的なものではありません。敵への対処能力のことです。あるいは、心の力を意味します。その悩みは「たましいを守って下さい」とあるように、たましいが破壊されるほど激しい心配なのです。皆さんにとって、たましいを破壊するほどの敵は何でしょうか。

★たましいを破壊するほどの苦難に、一日中ダビデはあきらめずに祈りました。そのことは3節に記されています。なぜそのような祈りをすることが出来たのでしょうか。それは5節にあるように「神は恵み豊か」だからです。この詩篇には、苦難の中にありながら、感謝の言葉があふれています。まさに苦難の中における感謝の祈りです。

★それでは、それほどの苦難の中で、たましいが破壊されなかった秘訣はどこにあったのでしょうか。それは、11節の「主よ、あなたの道を教えてください。私は真理のうちを歩みます」と記されている通りです。神様の御言、聖書の御言に「聞く」こと。そしてそれだけではなく「歩む」こと。つまり御言を実践し、生活することです。悩みの中で、いろいろなことを思い煩い、心が分裂しまとまらないことがあります。ダビデはそのようにならないように、「心を一つにする」(11節)ことを祈ったのです。そうして「御名を恐れるように」と祈りました。

★「御名を恐れる」とは、神様を怖いと思うこととは全く違います。この所に出で来る「恐れ」とは、神様はどんな問題でも解決し、助けてくださる唯一の御方であると信頼することなのです。ですからダビデは、たましいを破壊してしまうほどの苦難の中にあっても、「まことに主よ、あなたは私を助け、私を慰めてくださいます。」と、祈りを終えることが出来きました。

あなたも苦難の中にあるならば、心が心配事で分裂することを許さず、徹底して神様の愛を信じることに集中し、「心を一つ」にしましょう。

3月24日受難週「あざ笑われた十字架」

受難週「あざ笑われた十字架」ルカ23章32~43節

                         仁井田義政牧師

今日から受難週が始まります。今週は、イエス様が私達を罪から救うために、エルサレムにおいて過ごされた一週間を思い巡らし、感謝する一週間です。イエス様は、ゴルゴタの丘で十字架につけられました。

★イスラエルに王様のいない時代が、イエス様の時代です。イスラエルのヘロデ大王が死んで後、ヘロデの三人の息子は王ではなく、領主としてローマから命名されていました。しかもヘロデ家はイドマヤ人で、血統の重んじるユダヤ人ではなかったのです。そこにイエス様が現われました。イエス様は、ダビデ王の血統につながる御方でした。イエス様がエルサレムに入られる時、人々がイエス様に王様になって欲しいと期待したのも無理のないことでした。しかしイエス様は、病気の人・経済的な弱者・外国人・精神障害者・取税人等、当時差別された人々を救う為に活動されました。人々は、そのようなイエス様に失望し、十字架につけたのです。

★人々は、十字架についたイエス様をあざ笑いました。一番目は、指導者たち(35節)でした。二番目は、ローマの兵士たち(37節)でした。「ユダヤ人の王なら自分を救え」と言って、あざ笑ったのです。三番目は、十字架につけられていた犯罪人(39節)でした。「あなたはキリストではないか、自分と私たちを救え」と悪口を言い、あざ笑ったのです。イエス様をキリスト「油注がれた王」とは、信じられなかったのです。

★しかし、犯罪人の一人は「おまえは神をも恐れないのか・・・この方は悪いことは何もしなかったのだ」と言いました。そして「イエス様、あなたの御国の位におつきになる時には、私を思い出して下さい」と祈ったのです。イエス様は「あなたは今日、私と共にパラダイスにいます」と言われました。イエス様を信じたこの犯罪人は、自分の「罪」を認めたところに、他の人達とは全く異なるところがあったのです。

★今日の聖書には、三種類の人々が出てきました。その人々は、十字架につけられたイエス様を見てあざ笑ったのです。一人だけがイエス様を信じたのです。

あなたはどうでしょうか。あざ笑う立場に立ちますか。それとも十字架のイエス様を信じる人になりますか。

3月17日礼拝「神の葛藤と救い」

詩篇講解NO85「神の葛藤と救い」詩篇85篇1~13節

                         仁井田義政牧師

 今日のメッセージに「神の葛藤と救い」という題を付けさせていただきました。そもそも完全なる神様に、葛藤などあるのだろうかという疑問が残ります。しかし聖書に示されている真の神は、葛藤されるのです。それは10節にあるように、神は「恵みとまこと」の神だからです。この詩篇には、神様の葛藤の姿が見えるのです。

★そもそもこの詩篇には、詩文であるがゆえに矛盾があります。その矛盾を埋める解釈学的な解決法として、いくつか考えられます。そのひとつは、詩人から見て1~3節までを、未来に関する預言的な言葉と見ることです。

また4~7節を、詩人が現在体験している苦しみの状況と見ることです。そして8~13節を、現在の苦しみからの解放と見ることです。

★1節に出てくるヤコブの繁栄を一個人のことではなく、イスラエル民族のことであり、その希望であるとすれば、まだ実現していない希望のことと考えることが出来ます。その繁栄の妨げになっているのは、民の「咎と罪である」と詩人は2節で言っています。イスラエルの歴史の中で、罪を犯したイスラエルが栄えたことは一度もありません。

★10節から神様の葛藤が記されます。それは神様が「恵みとまこと」に満ちた御方だからです。罪の為に苦しむ人々を「まことの神」は、罪の裁きなしでは赦すことが出来ません。しかしその正義の神様は、同時に「恵みに満ちた赦しの神」なのです。神様はその矛盾する心で、葛藤されるのです。日本語の「葛藤」とは、つる性の「(くず)」と「(ふじ)」のことです。そのつるが、がんじがらめに絡まってしまう(さま)です。その解決法は、人間の考えには全くないのです。ですから「神の仰せを聞きたい」(8節)と詩人は言うのです。

★神様は「神の葛藤」の究極的な解決法として、イエス様を遣わされました。それは、ヨハネ1章14節に「この方は恵みとまことに満ちておられた」と記されている通りです。詩篇85篇10節に「恵みとまこととは互いに出会い、互いに口づけしています」と預言されています。ですからあなたもイエス様を信じ、神様の祝福を受ける人となりましょう。