6月11日礼拝「人生の暗闇に暁を呼び込む」

詩篇講解NO58「人生の暗闇に暁を呼び込む」57篇1~11節

仁井田義政 牧師

 今日の御言も、表題に「ダビデがサウル王から逃れて洞窟にいた時に」と記されています。ダビデにとって、神様の救いが強烈な体験となり、生涯にわたる信仰体験となったのです。このような生涯を貫くような体験は、信仰を強めます。

★洞窟のような体験とは何でしょうか。洞窟は、入り口からしか光が入って来ません。その入り口に人が立つと、大きく見えるのです。そして入り口に立ちふさがれると、もはや逃げ場がない状態になります。逃げ場のない体験それが洞窟体験であると言えるでしょう。

★その中で、ダビデは「滅びが過ぎ去るまで神の御翼の陰に身を避ける」(1節)しかありませんでした。洞窟の中にあっても、信仰者ダビデは「いと高き方、神に呼ばわります」(2節)と言っています。いと高きはこれ以上ない方の意であり、「呼ばわる」は祈りのことです。ダビデは「ライオンの穴に入れられているようだ」と言っています。ライオンは、情け容赦なく獲物をむさぼり食うのです。何一つ守るものがない状態、声に出して祈れない状態です。しかし神様は「天から救いを送ってくださった」(3節)のです。「神は恵みとまこととを送られるのです」と3節後半に記されています。神様の「恵みとまこと」は、ヨハネ1章14節にも出てきます。

★真っ暗な洞窟の中で、ダビデは「私の心は揺るぎません」と2回繰り返しています。それは絶対的確信です。ダビデはついに「私は歌い、ほめ歌を歌います」と神様に感謝しています。そして「私は暁を呼び起こしたい」と言いました。それは朝日の光を待つ姿です。どんなに暗い夜にも朝が来ることを意味し、真っ暗な中であっても希望を失わないことを意味しています。

★ダビデは、9~11節の中で、神様を心からほめたたえています。神様が、必ず洞窟の真っ暗な中から救い出してくださると確信しているからです。神様は、神様を信じ信頼する者の祈りを聞いて下さいます。その人が真っ暗な洞窟に追い込まれていようとも、朝日のように希望を与えてくださるのです。

あなたは、今、光の見えない洞窟のような悩みの中にいませんか。もしそうなら、主に祈って朝の光(暁)をあなたの人生に呼び込みましょう。

6月4日礼拝「神の力の内に生きよう」

主日礼拝「神の力の内に生きよう」使徒の働き9章36~42節

                                       吉原博克師

先週は祝されたペンテコステの礼拝でした。今週は先週の続編、応用編のお話となります。ペンテコステの日、エルサレムには当時のギリシア・ローマ世界にして「世界中」からの人々が集まっており、その日だけで三千人の人々が主イエスを信じる者とされました。

★主イエスの教えは、聖霊のバプテスマを受けると「力を受け」、「エルサレムからユダヤ、サマリヤの全土まで」主の証人と」なる、というものでした。エルサレムとユダヤとは、いわばなじみの町と地域、サマリヤとは、文化的に似ていながらも少し違う地域、地の果てとは大きな違いのある地域、という意味でもあります。地理的な意味に加え、文化的・社会的な意味を含んでいるわけです。あなたも、出身の地域・文化と現時点の地域・文化、そして遣わされ(てい)る先の地域・文化というものについて、少し思い巡らし、祈ってみましょう。

★今日はさらに「力」というものについて考えてみます。「力」という言葉は、聖書の原語では「デュナミス」といいます。英語の「ダイナマイト」という言葉はここから作られました。しかし、聖書の語る「デュナミス」には、様々な意味が含まれています。代表的なものは、言葉で証しする力であり、「しるしと不思議」なる奇跡を行う力です。主イエスの福音は私たちを罪から解放し、死から命に移してくれる力です。

★一方、今日のテキストのドルカス(タビタ)は、ある特技で豊かに用いられたとあります。裁縫です。彼女は一針一針、縫いものをし、下着や上着を作ることで他の女性たちを励まし、支えていたのです。ルカは、このドルカスを生き返らせた神の究極の力について証しつつも、この「女の弟子」がこつこつと積み上げてきた「良いわざと施し」についても少し詳細に紹介し、さらに豊かな証しとしているのです。

★この章の前半に出てくるアナニアは、主の語りかけを受け、回心したといわれる迫害者サウロを、恐れを乗り越えて訪問し、主の務めを全うしました(9:10-19)。神の「力」は派手なものばかりではありません。日々の努力や忍耐、忠実な歩みの中に顕れる静かな力でもあるのです。あなたに必要な「力」を祈り求め、いただいていきましょう。

ペンテコステ礼拝「聖霊のバプテスマ、神の力」

ペンテコステ礼拝「聖霊のバプテスマ、神の力」使徒の働き2章1~4節

     吉原博克師

今日は教会暦で「五旬節/ペンテコステ」と呼ばれる日です。これは、ユダヤ教の「初穂の祭」キリスト教の「復活節」から50日目で、ユダヤ教では「七週の祭」とも呼ばれます。旧約聖書ではレビ記23:15-16などに定められています。

★「使徒の働き」では2章全般にわたり、神の霊である聖霊が弟子達に、人々にわかる形で注がれた様子とその結果が記されています。私達ペンテコステ派を含む諸教派の中には、ヨハネ19:20-23から、弟子達には既に復活の日の晩に聖霊が与えられており(内住)、使徒2章ではさらに、誰にもわかる顕著な奇跡として注がれたのだ(バプテスマ)、と考える立場もあります。使徒2章の日に主を信じた三千人(の多く)には、この「内住」と「バプテスマ」の二つが同時に起こったのだ、というわけです。

★いずれにせよ、現代を生きる私達の場合、イエス様を信じているならば聖霊は既に与えられています。ご安心ください。パウロはこれを「証印を押され」「御国を受け継ぐことの保証」(エペソ1:13, 14)と呼び、これにより私達は神の子どもとされているのだと教えています(ガラテヤ4:6)。

★その上で、私達ペンテコステ派は、加えてこの使徒2章の異言を伴う「聖霊のバプテスマ」が、今の時代にも頂けると信じる教派であり、多くの兄姉がこれを体験しています。そして、これを初めて体験した日を、通例「受霊日」と呼んでいます。ただし、上の「内住」の教えとの関連で、特にこの「バプテスマ」を信じない人々との対話では注意が必要です。

★異言は、「御霊が語らせるままに」(4節)とあるように、不思議な音のつながりとして顕れますが、怖がったり、不審に思うことはありません。「他国の」(同)いわゆる「○○語」であることは、事例としては報告されているものの稀です。体験の形も様々です。この午後の待望会のような特別な場で頂けることも多いですが、日々の祈りや讃美の中で頂く人もいます。リラックスし、主に悔い改めと感謝を捧げつつ、委ねて求めてみましょう。

★異言で祈れることは、ただただ恵み、賜物です。信仰の大小優劣とは無関係です。そしてイエス様がおっしゃったように、「力」(使徒1:8)です。信仰生活、奉仕、証の力です。期待しつつ、求め続けていきましょう。

5月21日礼拝「苦難の中のみことば」

詩篇講解NO56「苦難の中のみことば」詩篇56篇1~13節

                              仁井田義政牧師

ダビデの苦難の詩篇が続きます。ダビデの命を狙うサウル王は、非常にしつこい人でした。ダビデの逃亡生活の中で、最悪の事態に陥ったことがありました。それが表題に記されている「ペリシテ人がガテでダビデを捕らえた時」のことです。

★それは、第一サムエル21章10~15節にあります。ダビデはサウル王から逃げて、ペリシテ領ガテの王アキシュの所に行ってしまいました。その時ダビデは、かつて倒したペリシテの英雄ゴリアテの剣を持っていたのです。ダビデが来たことが、アキシュ王に伝わったことを聞いて、ダビデは、殺されると思って非常に恐れました。その時ダビデは、精神病のふりをしてよだれを流し、その町を脱出するのです。

★この詩篇には、恐れと信仰が交互に記されています。つまり恐れが来るごとに、祈っていたということです。祈る相手は、聖書の神です。まだ旧約聖書が完成していなかった時です。そのような時にもかかわらず、ダビデは祈りの中で、御言により頼みました。

★そうすると、いつも不安が消え去っていきました。神様の御言に目を留めると、どんな苦難の中でも神様は私を守って下さるとの約束があるのを見たのです。ダビデは、ゆえに「神様の御言をほめたたえた」のです。そうすると、あれほど恐れていたアキシュ王を、単なる「人」と言えるようになったのです。

★私達が苦難の中で恐れおののく時、ダビデのようにその苦しみを祈りによって、神様に知って頂くことが大切なのです。そして知って頂くだけではなく、御言に目を向けるのです。御言には、私達への神様の約束が満ちているのです。苦難の中で、初めて御言が自分のものとなり、自分への神様の約束として聞こえて来るのです。まさに御言によって、ダビデのように挫折から立ち上がることが出来るのです。

苦難の時に、あなたを愛しておられる神様に祈り、あなたへの御言の約束をつかみましょう。

5月14日礼拝「あなたの重荷を主にゆだねよ」

詩篇講解NO55「あなたの重荷を主にゆだねよ」詩篇55篇16~22節

                                 仁井田義政牧師

 私達の人生には、様々なことが起こるものです。今日の詩篇は、荒野の中のことではなく、イスラエル最大の都市エルサレムでのことです。それゆえ荒野の逃亡生活から帰って、王様になった後の詩と思われます。人間はどこに住もうと、どんな地位につこうと、問題が付いて回るものです。私達は、どのようにして生きていけば良いのでしょうか。

★ダビデは、2節で苦しみに泣きわめいています。その苦しみは、同輩、友達、親友の裏切りでした。しかも彼らは一緒に神を礼拝する仲間でした。ようやく荒野から町に帰って来たのに、ダビデには命の危険がありました。

★ダビデは苦しみから「鳩」のように逃げ、人のいない「荒野の中」に宿りたいと言っています。荒野の逃亡生活ではエルサレム「シオン」に戻りたいと祈ったのではなかったでしょうか。私達は苦難に遭うと、現状から逃避したくなるのです。しかし町には町の、荒野には荒野の苦しみがあるのです。

★16節でダビデは苦しみの中で「神」(エロヒーム)に祈ると「主」(アドナイ)が救ってくださると記しました。町にも、荒野にも苦難のない所などありません。ですからこの苦しみの場で「夕、朝、真昼」祈るのです。「救ってくださる」「聞いて下さる」は、完了形ではありません。祈りのたびに続いているのです。

★ダビデは22節で「あなたの重荷を主にゆだねよ」と奨めています。それは、ダビデの体験から出た言葉でした。私達が苦しみに遭う時、私達のなすべきことは、そこから逃げることではありません。またただ耐えることでもありません。「あなたの重荷を主にゆだねる」ことです。主が「あなたを心配してくださる」のからです。イエス様も「重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」(マタイ11:28)と言われました。主が苦しむあなたを招いておられるのです。

★イエス様ほど、苦しみにあわれた御方はおられません。そのイエス様が、苦しみにあるあなたを招いておられるのです。

あなたの重荷をあなたのことを心配して下さっている主にゆだねましょう。主は必ずその祈りに応えて、あなたを苦しみから救ってくださいます。

5月7日礼拝「苦難に強い人になる」

詩篇講解NO54「苦難に強い人になる」詩篇54篇1~7節

 仁井田義政牧師

 ダビデが荒野の逃亡生活という苦難の中で記したこの詩篇は、私達が苦難にあっている時に、力強い信仰のヒントを与えてくれます。私達の人生にも、様々な苦難が起こり、私達を取り囲みます。そのような時に、苦難に負けない強いクリスチャンになりたいと思います。

★ダビデは、3節でサウル王もジフの人達も「自分の前に神を置いていない人」と言っています。それは、神様がどのように思われるかではなく、常に自分の考えを優先する人のことです。サウル王は、ダビデに対して嫉妬し、恐れを優先しました。

★それに対して、ダビデは自分と敵の間にいつも神様を置く人でした。ダビデはどんな時にも、怒りや恐れに自分を任せることはありませんでした。ダビデは、どんな困難な時も神様を前に置いて祈りました。祈りは、神様を前に置くことなのです。1~3節は、そのようなダビデの祈りです。ダビデは、逃亡中に2回程サウル王の命をとるチャンスがありましたが、それをしませんでした。神様がそれをお喜びにならないと思ったからです。神様にその裁きをゆだねたのです。

★ダビデは、祈りの中で強い確信を持ちました。4節の「まことに」との新改訳聖書の訳は、正確さに欠けると思われます。口語訳も共同訳も「見よ」と訳しています。現状がまだ好転していない時に、ダビデは祈りの中で勝利の確信を得たのです。祈りによって恐れから解放されたのです。ですから、最後の節に「神は全ての苦難から私を救い出し」と記されているのです。それに続いて「私の目が私の敵をながめるようになったからです」と記されています。敵を脅威に見るのではなく、問題から抜け出て下に見ているのです。

★私達は大きな苦難にあった時に、なぜ悩むのでしょうか。敵である問題をとてつもなく巨大化して見るからです。ロマ書8章31節に「神が私達の味方であるなら、だれが私達に敵対できるでしょう」とあります。苦難にあった時、苦難と自分が一対一になってはなりません。その間に神様に入って頂くのです。そのようにすることによって、ダビデのように苦難を見下ろすことのできる人となるのです。私達も苦難に強い人になりましょう。

4月30日礼拝「救いがシオンから来る」

詩篇講解NO53「救いがシオンから来る」詩篇53篇1~6節

 仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、14篇とほぼ同じ内容です。違いといえば、神様の名前が14篇では数か所「主」で、53篇では「神」となっているくらいです。14篇は個人的な詩であり、53篇は神殿などで公式に朗読された詩篇だろうと言われています。14篇は個人にとって、53篇は人間共同体として、何が一番大切なことかを教えています。

★聖書は、本当の愚かな者とは知恵や能力のない者とは違うとはっきり教えています。どんなに知能が優れていても、どんなに社会貢献をしていても、「神はいない」と言う人は愚か者であるとダビデは言っているのです。神様を信じない自己中心の人間社会では、全ての人間が腐ってしまうのです。ローマ人への手紙3章10節に「義人はいない、一人もいない」と、詩篇53篇3節から引用されている通りです。

★「少年よ、大志を抱け」の言葉で有名なクラーク博士が、聖書30冊をカバンに入れて北海道開拓長官の黒田清隆と、北海道に向かう船の中にいました。黒田が「生徒達に聖書を教えてはならない」と言いましたが、クラークは「私は聖書なくして生徒を教育することができない。聖書を教えてはならないというならば、私はアメリカに帰る」と言ったのです。ついに黒田が折れました。クラークは札幌農学校「現、北海道大学」の教師となり、わずか8か月の滞在でしたが、その間にクラス全員の生徒がクリスチャンになったのです。その二期生に、内村鑑三・新渡戸稲造等がいました。

★今日の詩篇には、「イスラエルの救いがシオンから来るように」(6節)と記されています。シオンとはエルサレムのことです。イエス様はエルサレムで十字架に着けられました。そこから「エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、さらに地の果てまで」(使徒1:8)、つまり世界の果てまで「主を知る知識」が広がったのです。

★今日の詩篇は、神様を忘れた民が背景となっています。ですからダビデは「シオンから救いが来るように」と祈っているのです。聖書は、人間の本当の愚かさとは何か、それは「神はいないということである」と、はっきり言っています。私達も愚か者にならず、シオンから来られたイエス様をしっかりと信じて、生きる人となりましょう。

4月23日「私は神の家にあるオリーブの木」

詩篇講解NO52「私は神の家にあるオリーブの木」詩篇52篇1~9節

 仁井田義政牧師

私達クリスチャンにとって、自分をどのように見ているかは大切なことです。私には主の愛と祝福が豊かに注がれていると見ることの出来る人は幸いです。それと反対に自分がみじめに見えてしまう人がいるならば、今日の御言によって、自分の本当の姿に気付いてほしいと思います。

★表題は、ダビデの置かれた最悪な状況を表わしています。そのことは、第一サムエル記21章にあります。ダビデはサウル王に命を狙われて、ノブの祭司アビメレクの所に逃げてきました。その時ダビデには食べ物もなく、祭司から神様に供えたパンのお下がりを頂いて食べました。ダビデは、サウル王が死ぬまでの9~10年間の逃亡生活を送りました。

★何もなかった逃亡者のダビデの目には、サウル王は巨大な富と権力を持った人としてうつりました。祭司アビメレクから、パンとゴリアテの剣をもらったダビデが、次にペリシテの町ガテに逃げて行きましたが、ダビデと闘って戦死したペリシテ人のゴリアテの剣を持っていたので、そこで殺されると思い、よだれを流すという演技までして、その場を逃れました。

★ダビデは、神様を信じない「悪の勇者」(1節)達を羨ましいとは思いませんでした。神様が「根こぎにされる」(5節)からです。ダビデは自分を「神の家にあるオリーブの木のようだ」(8節)と言っています。オリーブは、冬も夏も常に葉の繁る常緑樹なのです。しかも神様の家の庭にある木なので、神様が毎日愛し世話をしてくださるのです。

★この詩を書いた時、ダビデは生涯中最も困難な時期にありました。命の危険すら感じる毎日だったのです。しかしダビデのセルフイメージは、神様に可愛がられ、神様の庭で大切に育てられているオリーブの木のイメージだったのです。ダビデは「私は神様を信じてきたのに、サウル王から汚名を着せられ、命まで狙われている。さらにイスラエルの宿敵ペリシテの町に入り込んでしまった。最悪だ」とは言わなかったのです。それどころか「私は、神の家にあるオリーブの木のようだ、世々に限りなく神の恵みにより頼む」と言ったのです。あなたはいま困難の中にあるかもしれません。たとえ困難の中にあっても、ダビデのようなセルフイメージを持ちましょう。「私は神の家にあるオリーブの木ようだ」と信仰の告白をして心を明るくしましょう。

復活祭後の主日礼拝「人を恐れてはならない」

復活祭後の主日礼拝「人を恐れてはならない」マタイ10章28~33節

 仁井田義政 牧師

受難週、復活祭、復活祭後の本日の三回ほど、詩篇の連続メッセージを中断しております。来週からはまた詩篇へ戻ります。さて今日の御言を復活祭後のメッセージとして選んだ理由は、イエス様の十字架とご復活に見る勇敢な生き方に感動したからです。人からどんな評価を受けようとも恐れない、揺るぐことのない生き方という意味での勇敢さです。

★イエス様は弱い人たちばかりを相手にし、罪の問題「神様との関係」ばかりを教えて回られました。人々は、そのようなイエス様に失望しました。人々は、イエス様に戦争で手柄を立てる人のような勇敢さを求めていたのです。イエス様の十字架の上には、ローマ総督ピラトの命令で「ヘブル語・ラテン語・ギリシャ語」で罪状が書いてありました。ローマの総督ピラトも「十字架につけよ」と叫ぶ大衆を恐れて、無罪と知りつつイエス様を処刑しました。

★しかしイエス様は、人の目を気にされませんでした。もしイエス様が人々の目を恐れる方であれば、「私はイスラエル人の王となります」と言って大衆の力を手中に収めることが出来たのです。しかしイエス様は、人の目を恐れるような御方ではありませんでした。神様を裏切って命を永らえようとはされませんでした。人の目よりも、神様の目を畏れ敬う御方だったのです。

★イエス様は「体を殺しても、魂を殺せない者を恐れてはなりません・・魂も体も、ともにゲヘナで殺すことのできる方を恐れなさい」と教えられました。内村鑑三は、第一高等中学校の教師だった時(明治24年)1月9日に教育勅語に敬礼をしなかったという事で、教師の職を追われました。イエス様は「魂を殺すことができないものを恐れてはなりません」と言われました。

★また「人の前で、私を認める者は、私も天におられる父の前で、その人を認めます。しかし人の前で私を知らないというような者なら、わたしも天の父の前で、そんな者は知らないといいます」と私達に迫られます。人々の前で、私達は信仰に誇りをもって生きているでしょうか。「私はクリスチャンです」と証言して生きているでしょうか。それとも人々の目や、批判を恐れて、クリスチャンであることを隠して生きてはいないでしょうか。人を恐れず「私はクリスチャンです」と、キリストを表わしていきましょう

4月9日復活祭「立ちはだかった大きな石」

復活祭「立ちはだかった大きな石」マルコ16章1~8節

 仁井田義政 牧師

今日は復活祭イースターです。もう一つ特別なことは、第二礼拝の中で吉原博克先生の就任式があります。まずイースターのメッセージをお届けしたいと思います。今日の聖書には、イエス様の墓に向かう女性達と、墓の「大きな石」が出てきます。

★なぜ女性達は墓に向かったのでしょう。それは、イエス様を愛していたからに他なりません。その女性達の一人は、イエス様に7つの悪霊から解放して頂いたというマグダラのマリヤでした。女性達はその生前のイエス様に感謝し、そのお体に香油を塗ろうとして墓に向かったのです。

★しかし女性達は、その墓が大きな石の戸でふさがれていることに気が付き、自分達の力ではその石の戸を開けることが出来ず、途方に暮れてしまいました。数トンもあったからです。そして「あの石を転がしてくれる人が誰かいるでしょうか」と言いました。この言葉に目を向けましょう。この女性達のように、イエス様の教えや力に感動したクリスチャンでも、復活の主を信じないうちは、自分の前に立ちはだかる大きな石に途方にくれるのです。そればかりかその解決を「あの石を転がしてくれる人が誰かいるでしょうか」と人に頼るのです。そこに解決などありませんでした。

★しかし、女性達の前に立ちはだかっていた大きな石は、復活されたイエス様ご自身が転がして下さったのです。人に頼る必要などありませんでした。そのことによって女性達は、亡くなられたけれど復活され、生きておられるイエス様をキリスト(救い主の意味)と信じるのです。それが、初代教会から現代のクリスチャンの信仰なのです。女性達は、「復活の事実を弟子達に伝えよ」と宣教命令を受けました。昨年の統計で、クリスチャンは25億6千万人となりました。そこに宣教の希望があります。復活のキリストを信じる本当のクリスチャンによって、人々の救いは力を増すのです。

★私達、溝の口教会のクリスチャンも、自分や人に頼るのではなく、復活のキリストが私達の人生に立ちはだかる大きな石を取り除いてくださると信じましょう。復活の主に感謝し祈りましょう。