2025年最後の礼拝「神が全てを益として下さる」

2025年最後の礼拝「神が全てを益として下さる」ローマ8章28節

                        仁井田義政 牧師

 皆さん、いよいよ今年最後の礼拝です。2025年は皆さんにとって素晴らしい年でしたか。それとも失敗ばかりの年でしたか。どちらにせよ過ぎ去ってゆく2025年は、取り戻すことが出来ません。今日の御言には「神が全てのことを働かせて益として下さる」とあります。

★しかし「全ての人の失敗が益とされる」とは言っていません。「神を愛する人々、すなわち召された人々には」と記されているのです。それは、今、神様を愛する人となっているかどうかが大切なのです。

★私達の人生には、自分から招いた失敗や、他人から与えられた苦しみなど沢山あります。旧約聖書の中には、試練の人としてヨセフが出てきます。彼は「みんな私に礼拝する」等と言って、兄弟達から恨まれてしまいました。そして17歳で、奴隷商人に売られてしまいました。(創世記37:2)

★しかしヨセフは失敗続きの中でも、神様を信じ続け、決して不平を言いませんでした。ヨセフは、ポテパルの妻に罪を着せられ、牢獄に10年くらいいた時も、不平を言いませんでした。彼が総理大臣になったのは、13年後の30歳の時でした(創世記 41:46)

★ヨセフは、自分の失敗も、人々からのひどい仕打ちも許すことが出来ました。自分を奴隷に売った兄弟達さえも、許すことが出来たのです。それは、ヨセフが寛容な人だったから出来たのではありません。神様を愛する人だったから、神様は全てを益にして下さると信じることが出来のです。

★あなたも、いま全てのことを神様にゆだねて、神様を愛しましょう。そうする時、2025年の全てが、オセロのようにみるみるうちに逆転し、あなたの勝利となるのです。

クリスマス記念礼拝「まことの光が来られた」ヨハネ1章9~13節

クリスマス記念礼拝「まことの光が来られた」ヨハネ1章9~13節

                        仁井田義政 牧師

 皆さん、クリスマスおめでとうございます。十二弟子の一人のヨハネは、クリスマスの出来事を「まことの光の到来」として紹介しています。二千年前の世界は、光の見えない時代でした。当時、ヨハネを初めとして人々を取り巻く世界は、暗闇に包まれていたのです。

★それではどのような暗闇でしょうか。ます宗教が形骸化していました。613の戒律が人々を縛っていたのです。その中でユダヤ教の一派であるパリサイ派は、それを完全に守っていると豪語し、威張っていました。

次にローマが世界を支配し、ローマに逆らう外国人は、十字架刑にされました。しかも見せしめのために、街道際に処刑場があったのです。

ローマにおもねる者達が優遇され。金持ちになっていました。

★そのような「闇を照らすまことの光」として、イエス様は誕生されたのです。まことの光の証拠は「全ての人を照らす」ことです。イエス様は、人種、民族、国家を超えて、全ての人を照らす光なのです。まさに賛美歌にある「諸人こぞりてたたえまつれ。久しく待ちにし主は来ませり」です。

★その光の恩恵を受けるためには、人間的な優秀さは一切必要がありません。また「血筋にもよらない」と聖書に記されています。ユダヤ人は、血筋を重んじる民族でしたが、血筋にもよらないのです。また「肉の欲求によらない」とも記されています。それは、人間の情熱的な努力にもよらないのです。つまり神の子となろうと、難行苦行する必要もないのです。

★あなたが「神の子」とされるためには「全ての人を照らすまことの光」として来て下さったイエス様を信じるだけで良いのです。イエス様はあなたを闇から救い出して、平安と喜びを与えるために来て下さったのです。それがクリスマスなのです。あなたも、全ての人を照らすまことの光として来て下さったイエス様をお迎えしましょう。

(待降節2)12月7日礼拝「幼子イエス様の御受難」

(待降節2)マタイ講解NO4「幼子イエス様の御受難」2章11~15節

                        仁井田義政 牧師

 今日の聖書には、マリヤとヨセフが幼子イエス様とエジプトに避難したことが記されています。こうして受難の御生涯が始まるのです。

★この時はイエス様誕生から二年後くらいで、馬小屋から家(オイカン)に移っています。もし誕生の夜ならば、イエス様の献児式の時に「貧しい者の鳩のささげ物」をしたことに矛盾が生まれます。東方の博士達から、黄金・乳香・没薬が捧げられているからです。

★誕生から二年後くらいに、博士達からの捧げられたものが、エジプトへの避難の費用となったことは明らかです。貧しい彼らにとって、東方の博士達の捧げ物は、エジプトへの旅費と滞在費となったのです。異教の地で、星占いという迷信に導かれてきた博士達でしたが、イエス様を礼拝してからは、星占いではなく神様の御言によって、帰ったことが記されています。イエス様を礼拝した博士達は、ヘロデ大王さえも恐れない人達となったのです。

★イエス様のご家族のエジプトへの避難も、偶然ではありません。それは、預言者ホセアが預言していることだったのです。(ホセア11:1)

昔イスラエルは、モーセによるエジプト脱出を実行しました。しかし、徒歩で一ケ月もかからない距離だったのに、不信仰で四十年もかかったのです。イスラエルは帰って来てからも不信仰が続き、イエス様の時代には、ローマの傀儡(かいらい)政権として、エドム人ヘロデ大王がイスラエルを支配していました。

★イエス様は、イスラエルの不信仰による四十年の荒野の旅を拭い去るために、エジプトに渡りエジプトから帰って来られたと記されています。イエス様のエジプトからの帰還は、まさに世界の王・世界の救い主であることの宣言なのです。この幼子の誕生によって、新しい人類の歴史が始まったのです。そして誰でもイエス様の招きによって、その神の国に入ることが出来るのです。あなたもイエス様を信じて神の国の人とされ、祝福された人生を歩みましょう。

11月30日待降礼拝1「異教の地にある人達には星の光を」

(待降節1)マタイ講解NO3「異教の地にある人達には星の光を」2章1~10節

                        仁井田義政 牧師

 世界の教会は、今日からクリスマス前の待降節(アドベント)に入ります。私達の教会はイルミネーションが飾り付けられます。それは今日の聖書記事のように、キリストが誕生されたことを世の人々に伝えるために飾るものです。聖書を知らない異教社会に住んでいた博士達(マギー)を、星の光がキリスト誕生の地ベツレヘムに導きました。

★実は、博士達は星占い師でした。二千年前も異教の地では、占いがとても盛んでした。日本においては今なお占いが盛んです。マギーを博士達と訳してあるのは、その道において精通し成功した人達として、表わそうとしたからかもしれません。しかし、異郷の地で成功し地位や名誉や富を得ても、西に輝く星の下に生まれた御方を求めて、長い旅をして来たのです。

★博士達は、どれくらいの日数を旅して来たのでしょうか。二年という説が有力です。それは星の輝いた時から二年です。イエス様は、この時すでに馬小屋から「家」(11節)に移り、二歳くらいになっていたと思われます。彼らは、星の導きによってエルサレムまで来ることができました。しかし、それだけではキリストに会うことはできませんでした。キリスト誕生の地がベツレヘムであることを、聖書から初めて知ったのです。それは今も同じです。

★キリスト誕生を博士達から聞いて、ヘロデ大王は恐れました。ヘロデ大王は、自分の王位を狙っているという疑いで、妻子も殺している残酷な人でした。ですから博士達が「ユダヤにお生まれになられた王を拝みに来ました」と言った時、ヘロデ大王は恐れたのです。しかし博士達は「この上もなく喜んだ」(9節)のでした。「この上もなく」とは、最高の喜びです。

★異教の地に於いて、博士達をキリストに導いたのは、夜空に輝いた大きな星の光でした。私達も異教の地に住んでいます。星の光が異教徒の博士達をキリストに導いたように、私達も教会にクリスマスイルミネーションを飾り、キリストのご降誕を知らせましょう。できるだけ綺麗に飾り付けましょう。異教の地にある人達には、星の光がキリストにお会いするきっかけともなるのです。

11月23日礼拝「恐れないで」

マタイ講解NO2「恐れないで」1章18~25節

                        仁井田義政 牧師

その時、マリヤは13歳の頃でヨセフは18歳の頃でした。若い二人は、いいなづけであり、結婚を控えてどんなに希望に溢れていたことでしょう。しかしその二人が、突然「恐れ」(1章20節)に包まれたのです。

★マリヤとヨセフを襲った恐れとは何でしょう。それは二人にとって身に覚えのない子がマリヤに宿ってしまったことです。マリヤが「この子は神の聖霊によって身ごもったのです」といくら説明しても、ヨセフが納得するはずがありません。そのような女性は夫に不貞の罪で訴えられ、処刑されることもありました。ヨセフはどうすれば良いかと思い悩みました。そうして出した結論は、マリヤと離縁し遠くに逃がすことでした。

★しかし御使いは、ヨセフの夢の中に現れて別の方法を示しました。マリヤが身ごもった男の子は「聖霊」によるということで、しかもその子の名前を「イエスとつけなさい」との指示でした。その名前は「主は救い」という意味です。さらには「この方こそ、ご自分の民を罪から救ってくださる方です。だから恐れないでマリヤを妻として迎えなさい」と言われたのです。

★御使いはさらに、この事はイザヤが預言したことの成就であると言われました。その預言には「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(イザヤ7:14)と記されていました。それは「神は私達と共におられる」という意味でした。そのことによって、ヨセフはマリヤを妻として迎えました。ヨセフから恐れは消え去り、マリヤとその子を命がけで守ることを決意したのです。

★このようにヨセフとマリヤにとって、結婚前に描いていた二人の幸せの計画通りにはなりませんでした。その時に二人は、「恐れ」に包まれてしまったのです。

私達の人生にも、思い通りにならないで恐れに包まれてしまうことはいくらでもあります。あなたは今、どんなことに悩んだり恐れたりしていますか。あなたも、ヨセフやマリヤのようにイエス様をお迎えして、あらゆる恐れや心配ごとから救って頂きましょう。

2025年11月16日礼拝「過去に何があっても」

マタイ講解NO1「過去に何があっても」1章1~17節

                      仁井田義政 牧師

先週で3年8カ月にわたった旧約聖書の詩篇からのメッセージが終わり、今日から新約聖書のマタイによる福音書から話していきます。福音書は、イエス様の御生涯にスポットを当てて書かれていますので、教会に来られたばかりの人にもわかりやすいところだと思います。このマタイによる福音書を通して、キリストの偉大な生涯を知って頂きたいと思います。第一回目は、キリストの系図から「過去に何があっても」という題で、聖書の喜ばしいメッセージをお伝えいたします。

★「福音書はイエス様にスポットを当てて書かれているので分かりやすい」と言いましたが、どうも私達には分かりにくい系図から開始しているのです。しかしこの系図は、ユダヤ人にとっては大切で分かりやすい部分なのです。キリストは「アブラハム」「ダビデ」の子孫であると記されていますが、それは神様の約束「契約」の成就のことでした。

★この系図の中には、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻(バテ・シェバ)という女性達の名が記されています。タマルとバテシェバは道徳的に問題がある女性でした。そしてラハブとルツは、外国人というユダヤ人は自分の家系図に入れたくない人たちでした。罪ある女性や外国人がキリストの系図に入れられているのは、誰でも神の家族になれることを表わしています。

★さらにこの系図は、男性の系図から突然、女性マリヤに系図が変わっています。マリヤもアブラハムの子孫、ダビデの子孫であることはわかっています。しかしその夫ヨセフの男性系図から、突如マリヤとい女性系図に変わっています。しかもマリヤもヨセフもダビデ王家の子孫とはいえ、既に昔にダビデ王家は衰退してしまっているのです。

★キリストの系図には、実は大きなメッセージが記されています。一つは、神様の前に男女の差別はないということです。第二は、私達の家系にどんな犯罪者やその血筋の者がいたとしても、神様の私たちに対する祝福はには関係がないということです。福音書とは「良い知らせの書」という意味です。あなたもこの福音を信じて、過去に支配されない人生を歩き出しましょう。

11月9日礼拝「最高峰の賛美とは」

詩篇講解NO150 「最高峰の賛美とは」150篇1~6節

                         仁井田義政牧師

 今日は詩篇の最後、150篇からのメッセージです。2022年2月27日から開始された詩篇からのメッセージは、3年8カ月続きました。ついに最後の詩篇になりました。その内容も、詩篇全体の結論となっています。

★詩篇全体の結論であるこの詩篇は、まずどこで神様をほめたたえるかを記しています。それは神の聖所です。聖所は、神様を礼拝する場所のことで、現代で言えば教会のことです。そして「大空で」とも記されています。それは、宇宙万物の創造者としての偉大な神を賛美せよということです。そして「タンバリン、立て琴、踊りをもって賛美せよ」と勧められています。

★なぜ、そのように神様を賛美する必要があるのでしょうか。それは、2節に記されています。「大能の御業のゆえ」です。「大」とは優れていることを現し「能」とは能力を現します。神様が私たちにしてくださった最大のことは、イエス様の十字架の実行です。十字架こそが神様の英知でした。それによって救われた私達が、神様を心からほめたたえることができるのです。

★最後に「息のある全てのものは主をほめたたえよ。」とあります。「ほめたたえよ」とは賛美のことです。私たちは感謝することと、ほめたたえることは同じように思ってしまいますが、その意味は大きく違います。「感謝」には自分のことが含まれており、「ほめたたえる」という言葉には自分が入っていなのです。

★詩篇中の感謝は、ヘブル語の「トーダー。ヤーダ」で40回近く出てきます。しかし「主をほめよ」のヘブル語「ハレル・ハレルヤ」は、80回以上出てきます。そして今日の御言には「息のあるものはみな主をほめたたえよ」と記されているのです。賛美の最高峰は自分を忘れることです。自分の全ての問題も悩みも忘れて、神様の大能と偉大さのゆえに、神様を賛美することが、私達の行える最高峰の賛美なのです。

★詩篇は賛美のために書かれました。私達はそれを3年8カ月以上も聞いて来ました。その詩篇を終えるにあたって、詩篇の最終目的として書かれた最高峰の賛美を主に捧げて、詩篇の学びを終わりましょう。

10月19日礼拝「思い煩いからの解放」

「思い煩いからの解放」ビリピ4章4~7節 第一ペテロ5章7節                       

                                                  仁井田幸子師

 先月の婦人集会で、ある姉が「私は悩まない。悩む前に祈る」と証されました。そのあまりにも明快な言葉に、みんなから歓声が上がりました。素晴らしいことです。今日の御言もそのことを教えています。

★ビリピ書は、パウロが獄中からピリピの教会のクリスチャンに宛てた書簡です。苦しく辛い環境であるはずなのに「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(4節)と強くすすめています。では、どうしたらそのような中で喜ぶことが出来るのでしょうか。この喜びは、嬉しいことがあって自然に出てくるものとは違います。自らの意志をもって、苦しい中でも、イエス様の愛を思い感謝することから、注がれてくる喜びです。

★次に6節で「何も思い煩わないで・・・祈り」とすすめています。では思い煩わないで良いその根拠はなんでしょうか。それは7節の「そうすれば、人の全ての考えにまさる神の平安があなたがたの心と思いをキリストイエスにあって守ってくれます。」です。また第一ペテロ5章7節には「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたを心配してくださるからです。」とあります。私達は、自分でいろいろ考えて心配し、悩みに入っていってしまいます。しかし神様は、私達の悩みを引き受けて下さるというのです。いっさいを委ねなさいとまで言って下さるのです。

★イエス様はヨハネ14章27節で、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるものは、世が与えるものとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」と言われています。イエス様は、私達人間が悩み多き者であることをご存知で、このように言って下さっているのです。私達は、その御配慮に応えるべきではないでしょうか。

★6節にあるように、まず自らの意志をもって、思い煩わないと決断すること。次に感謝をもって祈ること。その結果、神様の平安と喜びが与えられるのです。私達も御言を信じて、実践していきましょう。

10月12日礼拝「壮大な賛美への招待」

詩篇講解NO148「壮大な賛美への招待」148篇1~14節

                           仁井田義政牧師

人間は決して孤独ではありません。天と地の大賛美へと招待されているのです。その賛美は、世界の片隅でこっそりとされている賛美とは違います。誰にはばかることなく、大宇宙の悠久の歴史の中で行なわれている「ハレルヤ」への招待なのです。

★1〜2節で、私達の目を主が造られた霊的世界へと向けさせます。そこには、天における全ての御使達の大合唱が見えます。

3~6節は、「日よ、月よ、星よ」という神様の創造物である大宇宙の賛美です。6節に「主は彼らを世々限りなく立てられた」と記されています。それは、永久に亘って創造主の素晴らしい御業を賛美し続けている姿です。

★私達の目を天に向けさせていた詩人は、次に私達の目を地上に向けさせます。それは、動物の世界から植物の世界まで、全ての被造物の世界です。その世界も、創造主である神様の知恵に満ちているのです。生まれた乳飲み子が、何の体験もないのに、なぜ母親にはオッパイがあると知っているのでしょうか。それが本能だと一言で片づけてしまうのは、あまりにも雑すぎる結論です。それはあらかじめ神様が教えておられるのです。

★創世記によれば、人間は神様に似せて造られた神様に最も近い存在です。しかしその人間が、神様の素晴らしさを最も知らない存在になってしまっているのです。そこに、人間の悲惨の全てがあるのです。ですから私たち人間は、老若男女を問わず人間の本性を取り戻さなければなりません。それは神様の発見であり、神様への大賛美、壮大なハレルヤへの参加なのです。

★この詩人は、「神様の創造の御業はなんと素晴らしいことか」と賛美しています。年末に世界でよく歌われる歌は、ヘンデルの「ハレルヤコーラス」とベートーベンの「第九」です。日本では「第九」が多く歌われますが、世界ではヘンデルの「ハレルヤコーラス」が断然トップです。どちらも神様をほめたたえる素晴らしい賛美です。私達も、大勢の天使達、大宇宙、大自然とひとつとなって、その「ハレルヤ」に加わり、私達の神様をほめたたえる大合唱の賛美に加わりましょう。

10月5日礼拝「神様に喜ばれること」

詩篇講解NO147「神様に喜ばれること」147篇1~11節

                           仁井田義政牧師

今日の詩篇147篇2~3節を見ると、この詩篇は、イスラエルの歴史中の屈辱的なことの後に書かれたと思われます。それは、バビロンでの奴隷体験です。その反省の上に立って、この詩人は「神様に喜ばれることは何か」を記しています。

★「ハレルヤ!」という言葉でこの詩は始まっています。それは「主をほめたたえよ」という礼拝での賛美の招きです。賛美は「良い」「楽しい」「麗しい」と、主への賛美が勧められています。賛美する理由は「追い散らされた者を集め」「心の打ち砕かれた者を癒し」「彼らの傷を包んで下さる」という神様の救いの御業をほめたたえることです。

★4節には「追い散らされた者を集め」「心の打ち砕かれた者を癒し」「彼らの傷を包んで下さる」神様が記されています。さらに「その偉大さは全宇宙の星の数を数え、その全てに名を付けられる。」と記されます。「名を付ける」とは支配のことです。私達人間社会でも、新しい星や動植物が発見されると、まず名を付けます。それを分類し支配するためです。その偉大な神は6節で「心の貧しい者を支えて」下さり「悪者を地面に引き下ろす」方なのです。また「悪者」とは、自分の力を誇って神様を信じない人のことです。

★神様は全ての人の為に恵みの雨を降らせ「カラスの子」にまでも、食物を与えられると記されています。「カラスの子」とは、カラスが忌み嫌われた鳥だったからです。イエス様も、ルカ12章24節で「烏」のことを記しています。全ての星に名前を付け支配しておられる神様が、「烏の子」にさえ目を留め支えて下さっていると言うのです。ましてや人間であるあなたを見捨てておられるはずがないと、今日の詩篇は言っているのです。

★そして11~12節には、神様が嫌われることと喜ばれることが書いてあります。まず神様が嫌われることですが、神様は「馬の力」を喜ばれません。それは軍事力のことです。それでは神様のお喜びになられることは何でしょうか。それは「主をおそれ、主の恵みを待ち望む者を喜ばれる」のです。私達はそのような神様に感謝し、心からの祈りと賛美をささげましょう。