3月17日礼拝「神の葛藤と救い」

詩篇講解NO85「神の葛藤と救い」詩篇85篇1~13節

                         仁井田義政牧師

 今日のメッセージに「神の葛藤と救い」という題を付けさせていただきました。そもそも完全なる神様に、葛藤などあるのだろうかという疑問が残ります。しかし聖書に示されている真の神は、葛藤されるのです。それは10節にあるように、神は「恵みとまこと」の神だからです。この詩篇には、神様の葛藤の姿が見えるのです。

★そもそもこの詩篇には、詩文であるがゆえに矛盾があります。その矛盾を埋める解釈学的な解決法として、いくつか考えられます。そのひとつは、詩人から見て1~3節までを、未来に関する預言的な言葉と見ることです。

また4~7節を、詩人が現在体験している苦しみの状況と見ることです。そして8~13節を、現在の苦しみからの解放と見ることです。

★1節に出てくるヤコブの繁栄を一個人のことではなく、イスラエル民族のことであり、その希望であるとすれば、まだ実現していない希望のことと考えることが出来ます。その繁栄の妨げになっているのは、民の「咎と罪である」と詩人は2節で言っています。イスラエルの歴史の中で、罪を犯したイスラエルが栄えたことは一度もありません。

★10節から神様の葛藤が記されます。それは神様が「恵みとまこと」に満ちた御方だからです。罪の為に苦しむ人々を「まことの神」は、罪の裁きなしでは赦すことが出来ません。しかしその正義の神様は、同時に「恵みに満ちた赦しの神」なのです。神様はその矛盾する心で、葛藤されるのです。日本語の「葛藤」とは、つる性の「(くず)」と「(ふじ)」のことです。そのつるが、がんじがらめに絡まってしまう(さま)です。その解決法は、人間の考えには全くないのです。ですから「神の仰せを聞きたい」(8節)と詩人は言うのです。

★神様は「神の葛藤」の究極的な解決法として、イエス様を遣わされました。それは、ヨハネ1章14節に「この方は恵みとまことに満ちておられた」と記されている通りです。詩篇85篇10節に「恵みとまこととは互いに出会い、互いに口づけしています」と預言されています。ですからあなたもイエス様を信じ、神様の祝福を受ける人となりましょう。

3月10日礼拝「なんという幸せ」

詩篇講解 NO84「なんという幸せ」詩篇 84 篇 1~12 節
仁井田義政牧師
今日の詩篇は、神様を信じる者の幸せについて記しています。この詩人は
神殿から遠い所に住んでいる人のように感じます。何らかの理由で、外国に
住んでいる人かもしれません。この詩は、読む者をはっとさせ、純粋な信仰
へと目覚めさせる力に満ちています。
★詩人は「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは」(4 節)
「雀や燕さえも住家を見つけました」(3 節)と言っています。彼は神殿の大
庭を恋い慕っています。(2節) そこにおられる神は、生ける神で偶像等と
は全く違う神であることを現わしています。そして雀と燕の譬えで、人間の
心の平安がそこにあることを示しています。ここで、詩人は第一回目の「な
んと幸いなことでしょう」という感嘆に満ち溢れた言葉を記しています。
★5 節では「なんと幸いなことでしょう。・・シオンへの大路のある人は」と
二度目の感嘆文を記しています。「シオンへの大路にある人」とは、詩人の
エルサレムを目指しての巡礼時のことかも知れません。礼拝に行くためには
長い道のりと、その道での困難や危険がありました。「彼らは涙の谷を過ぎ
る時も、そこを泉の湧く所とします」(6 節)とあるのは、そのことなので
す。これは文字通りの巡礼の道だけではありません。私達の人生であり、実
生活の中でのことです。それを乗り越えて礼拝に向かい、集うのです。
★詩人は「あなたの大庭の一日は、悪の天幕の千日にまさる」(10 節)と言
い、「神の宮の門口に立てるだけでも良い」と言っています。あらゆる困難
を乗り越えて行く神殿には、異教の宮のような神様の見える姿はありませ
ん。ですから 12 節で「なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその
人は」と、第三回目の感嘆文を記しています。目には見えないけれども、生
きておられる真の神に信頼することこそが大切なのです。それが、真の神を
信じる信仰者であることの幸せなのです。
★私達も、神の宮である教会を大切にしましょう。またどんな困難があって
も、日曜日の礼拝を大切にしましょう。そして何にもまして、見えない神様
を信じていることを最高の幸せとし、見えないからこそ、生きておられる神
様に全信頼を置く信仰の幸せを得ようではありませんか。

3月3日礼拝メッセージ「勝利するのは誰か」

詩篇講解NO83「勝利するのは誰か」詩篇83篇1~18節

                         仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、戦いの祈りの詩です。私達にも様々な戦いがあります。そのような時に、次々に神様が指導して下さり、神様の奇跡的な御力によって敵に勝利することが出来れば、それほど力強いことはありません。

★今日の詩篇には10の民族の連合との戦いが記されていますが、そのような戦争は聖書の歴史にはありません。そのことから、実際に起きた戦争ではなく、時代が違う戦争をまとめたものと考えられます。詩人は、この詩篇で真の神を信じる者の国に、度々戦いを挑んでくる者達を「滅ぼしてください」と祈りました。

★しかし神様は、その祈りに沈黙されたのです。私達も、祈ってもいのっても、神様が沈黙され行動して下さらないと感じることがあります。この詩人は「私達が攻撃されているのは、あなたが攻撃されているのですよ」と苛立っています。イエス様も、ゲッセマネの園で、裁判で、十字架で、神様の沈黙を体験されました。しかしイエス様は、はためには敗北に見える十字架において、神様の沈黙の中、勝利を信じて前進されたのです。

★この詩人の究極的な願いは、16節や18節にあるように、「彼らも神を知ること」にありました。詩人が言うように、時には神様が「沈黙」され、「その活動が見えず」何の力もないように見えても、結果は勝利するのです。それは、聖書全体のメッセージです。黙示録も、力強くその事を記しています。まさに「全地の上にいますいと高き方」(18節)なのです。

★先ほど、イエス様が十字架につけられる時「ゲッセマネの園や、裁判、十字架でも神様は沈黙しておられた」と言いました。その時には、同胞のユダヤ人たちからは嘘の証言を立てられ、ローマ兵からは唾をかけられ、平手やこぶしで叩かれ、いばらの冠をかぶらされ、葦の棒を持たされたのです。しかし、神様は黙しておられました。十字架につけられた時も、そうでした。しかし、神様のお働きは、その沈黙の中で始まっていたのです。黙示録にあるように、イエス様こそ最終的な勝利者なる神様なのです。「小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば小羊は主の主、王の王だからです。」(黙17:14)

私達はそのことを信じて、あらゆる戦いに挑んでいきましょう。

2月18日礼拝「正義の神が見ておられる」

詩篇講解NO82「正義の神が見ておられる」詩篇82篇1~8節

                          仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、悪とは何か、神様の正義とは何かを教えています。聖書は神様の正義だけではなく、悪の存在をいたるところに記しています。

★悪が存在すれば、当然正義も存在します。聖書の正義は、単に人間の決めた決まり事、つまり法律や憲法を守るということ以上のものです。政治家に求められるのも、憲法や法律以上の志の高いものでなければなりません。それは何かというと、2~3節にある「弱い者、みなしご、悩む者、乏しい者を助け出す」ことなのです。

★それを知らない人達の指導する国や社会には、安定がなく希望がなく、見通しが立ちません。現代は、共産主義も民主主義も行き詰っています。世界的には、国際連合も何の決断も出来ない状態です。日本の国会を見ても、居眠り議員や、自分の選挙の為に走りまわる議員や、都合が悪いと突然記憶喪失になる議員や、病院に逃げ込む議員もいます。派閥の権力者になるために、不正なお金をパーティなどで集め、それを部下にばら撒く始末です。

★82篇の詩人は、神の預言者的な目をもって、神の正義とは「弱い者、みなしご、悩む者、乏しい者を助け出すことだ」と記しています。それを見失っている党や個人は、悪魔的な存在なのです。ですから私達は、選挙の時だけではなく、常日頃から見張っていなければなりません。その議員が「弱い者、みなしご、悩む者、乏しい者を助け出す」志を持っているかどうかが、その人を見分ける試金石なのです。

★さて私達は、指導者や政治家などの不正を見る時、途方に暮れてしまいます。しかもその不正は、アダムとエバの時代から何一つ変わっていないのを知ると、さらに途方に暮れるのです。統一教会と政治家の結びつき、車関係の大企業の不正など、何故それらがこうも次々に起こるのでしょう。それは不正を裁かれる神様がおられることを信じていないからです。正義の神様は、私達の全ての生活をいつも見ておられます。

クリスチャンである私達は、しっかりとそのことを心に留めて、正義の神様の御心にかなう生活をしましょう。

2月11日礼拝「メリバの水のほとり」詩篇81篇1~16節

詩篇講解NO81「メリバの水のほとり」詩篇81篇1~16節

                          仁井田義政牧師

 この詩篇は「喜び歌え。喜び叫べ」という礼拝賛美への招きで始まっています。神様は、四百年以上も奴隷となっていたイスラエル民族を、エジプトの国から救出して下さいました。しかし民は不信仰になり、神様に不平ばかりを言っています。ここでは人間の罪深さが示されています。

★メリバは、旧約聖書の2か所に出てきます。第一回目は、出エジプト記17章6~7節に記されています。この時、神様はモーセに岩を杖で打って水を出すように命じました。第二回目は、民数記20章1~13節に記されています。カデシュバルネア近くでこの時、神様は岩に命じて水を出すように命じました。しかしモーセは二度も岩を打ってしまいました。そのため、神様の怒りによって、モーセも約束の地に入れてもらえませんでした。

★この詩が書かれた時、北王国イスラエルは混合宗教となっていました。北王国イスラエルの地は農業にむいており、南は牧畜にむいていました。北王国の王は、国内に外国の神々の礼拝所を作ることも許しました。イエス様の時代にさえも、イスラエルの北方は「異邦人のガリラヤ」(マタイ4:15)として、軽蔑されていました。それはイザヤ9章にも記されています。

★神様は「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」(10節)と記されています。「しかし、わが民はわたしの声を聞かず、従わなかった。それで彼らの思うように歩かせた」(11~12節)と記されています。北はアッシリヤの、南はバビロンの奴隷とされてしまったのです。

★今日の御言のキーワードは、10節の「わたしが、あなたの神、主である。」です。イスラエルの民がメリバで喉が渇く試練に遭った時に、神様はイスラエルの民を試しました。本当はその時にこそ、神様の力を信じて「信仰の口を大きく開ける」(10節)ことが必要だったのです。そうすれば16節に記されているように「主は、最良の小麦をイスラエルに食べさせる。」「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせて」くださるのです。

その神様は、あなたの為にも身を乗り出して「わたしが、あなたの神、主である」と語り掛けてくださっています。私達は、喜びと叫びをもって神様を礼拝し、賛美しようではありませんか。

2月4日礼拝「私達をもとに返して下さい」

詩篇講解NO80「私達をもとに返して下さい」詩篇80篇1~19節

                         仁井田義政 師

 詩篇80篇は、北王国イスラエルが滅亡し、南王国ユダがまだ存続していた時代のものだろうと言われています。南王国滅亡が紀元前722年頃であり、南王国ユダ滅亡が紀元前586年頃ですから、その間の作かもしれません。その証拠は、2節に「エフライム」「ベニヤミン」「マナセ」という北王国イスラエルに住んでいた民族名が出てくるからです。今日の詩篇80篇の中心的な御言は、「私達をもとに返してください」という祈りです。

★その祈りは、三回繰り返されています。一回目は3節の「神よ」。二回目は7節の「万軍の神よ」。三回目は19節の「万軍の神、主よ」ですが、繰り返すごとに神の名が強化されています。それは詩人の信仰が、祈りの中で強められている証拠です。

★1節に「ケルビムの上の御座についておられる方よ」との祈りがあります。このケルビムは、「契約の箱」上につけられた飾りです。ケルビムが聖書に最初に出てくるのは、エデンの園からアダムとエバが追放された所(創世記3:24)です。アダムとエバが、二度とエデンの園に入れないように置いた天的な存在なのです。詩人は、ケルビムの上におられる神様に祈っています。

★「神様の御顔が輝いていた時に」は、詩人が祝福された民と認識しています。「ヨセフを羊のように導かれていた」時は、「ブドウの木のように」勢いがありました。その枝は海にまで伸びました。海は、地中海かも知れません。川は、チグリス・ユーフラテスかも知れません。杉の木は、レバノン杉かも知れません。しかし今は、そのブドウの木も神の手によって切り倒され、神の御顔のとがめによって(16節)悲惨な状態となっているのです。

★イエス様はこのような状態を、父親を捨てて遠い国に行った放蕩息子の譬えで教えて下さっています。マックス・ピカートという哲学者の著書「神よりの逃走」という本の中に、「今や社会全体が神より逃走している。だから誰も、自分が神より逃走しているとは感じなくなってしまった」という文があります。私達は気付こうではありませんか。そして今日の詩人が言っているように、「私達をもとに返してください」と祈ろうではありませんか。しっかりと信仰に立ちましょう。

1月21日礼拝「惨状の中の祈り」

詩篇講解NO79「惨状の中の祈り」詩篇79篇1~13節   仁井田義政牧師

 今日の詩篇は、大変重苦しい内容です。それは、今から約2500年前にイスラエルの民がバビロンに奴隷として連れていかれたことが背景になっているからと考えられています。戦争の光景は、今も昔も破壊された町と、軽視された人の命の惨状です。完全に破壊された虚無的な廃墟の中で、今日の詩人は「嘆きの詩」を記しています。

★神の都エルサレムは、必ず神が守って下さる!神殿は神の家だから絶対に破壊はされない!と人々は考えていました。しかし、バビロン軍によって瞬く間に廃墟とされ、死体さえも埋葬されることなく、空の鳥、野の獣の食い荒らすままに任せる状態でした。その結果、敵達は「お前たちの神様はどこにいるのか」と嘲ったのです。

★このような惨状の原因は、先祖たちと私達の不信仰にあると詩人は認めて祈っています。(5-8節)詩人は、エルサレム壊滅、神殿壊滅、人命軽視の原因を、神様の無力さには置きませんでした。「むしろ力の神の怒り」と理解したのです。神様は何度も預言者を起こして「不信仰の罪を悔い改めるように、このままではエルサレムの町も神殿も滅ぼされてしまう」と語りかけました。しかし人々は、その忠告を軽んじました。

★詩人は、その「先祖と自分達の罪」を認めました。しかし「私達の救いの神よ。御名の栄光のために、私達を助けて下さい」(9節)と祈りました。これは、私達にとっても非常に大切な部分です。私達も、全てを失ったかのような惨状を体験することがあるからです。しかもその惨状の中で、神様の偉大な力に触れることがあるからです。

★マルコの福音書4章35~41節の中には、ガリラヤ湖で嵐に遭った弟子達のことが記されています。「ところがイエスだけは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた」と記されています。弟子達に、イエス様に対する不満が起こりました。イエス様が「さあ、向こう岸に渡ろう」と言われたことを、弟子達は忘れてしまっていたのです。その結果、波に極限の不安を感じたのです。イエス様は、そのような弟子達の不信仰にも「風と波を静められ」ました。彼らを愛しておられたのです。

私達も、どのような状況の中でも、神様の愛を信じて生活しましょう。

1月14日礼拝「歴史の中に神を見る」

詩篇講解NO78「歴史の中に神を見る」詩篇78篇1~8節    1月15日

マタイ13章34~35節 仁井田義政牧師

今日の詩篇78篇が書かれた目的は、歴史の中に神様の姿を見るためです。新年が始まり、私達の歴史にも一年を加え始めました。それは無機質な一年ではありません。歴史は神様の物語なのです。

★私は、9歳の頃に篠笹山に迷ってしまったことがありました。自分がどこにいるのか、分からなくなってしまったのです。その時、熊の歩く足音を聞きました。歴史の中に自分がどこにいるのかが分からなくなってしまうのは、山の中に迷ってしまっている状態と同じです。

★今日の詩篇2節には「私は・・たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう」と記されています。それは、先祖達から聞いたイスラエルの歴史のことでした。歴史には、そのように神様の心が隠されているのです。なぜ隠されているのかと言いますと、それは見ようとしない者に、見ることが出来ないように隠されているのです。この詩篇の目的は、それを明らかにして、自分たちは勿論のこと、その歴史を子々孫々に伝えるためなのです。

★この詩篇には、出エジプト記からの神様の歴史が記されています。「それなのに」(17節)「にもかかわらず」(32節)「神を痛めた」(41節)と、イスラエル民族の不信仰を連続して記しています。それでも神様は、イスラエルに悔い改めのチャンスを与えられました。それは、ダビデの選びによってでした。彼は優れた家の出ではありませんし、優れた学問を得た人でもありません。羊飼いの少年に過ぎなかったのです。それは、神様の選びの素晴らしさです。

★さらに神様は、私達の為に悔い改めのチャンスを与えられました。それは名もなきナザレのマリヤを通して与えられたキリストです。名もなき羊飼いダビデを神様は選ばれたように、名もなきナザレのマリヤを選び、救い主イエス様を世に送られたのです。自分の価値をさえ、見出せないで悩んでいるあなたを、神様は高価で尊いと認め、命をかけて愛して下さっているのです。

そう信じて自分を見て下さい。そこには、神様に愛されている自分が見えるはずです。神様を信じて、しっかりと道筋の見える人生を歩きましょう。

2024 年の御言と標語「主をおのれの喜びとせよ」

2024 年の御言と標語「主をおのれの喜びとせよ」詩篇 37 篇 4 節
仁井田義政 牧師
あけましておめでとうございます。今年は、日曜日と元旦が続いていまし
たので、元旦礼拝がありませんでした。毎年、元旦礼拝で「今年の御言と標
語」からメッセージをとりついでいましたので、今日の礼拝でお話致します。
★今年の御言は、詩篇 37 篇 4 節です。この詩篇はダビデの作で、あいうえ
お順に並べられた詩です。もちろんヘブル語ですから、ヘブル語で「アーレ
フ、ベース、ギーメル、ダーレス」と続きます。どうしてあいうえお順なの
かと言うと、第一には覚えやすいようにとの願いがあったと思われます。ま
た、日本の子供のかるた遊びのような要素もあります。
★この詩篇には「腹を立てるな」という言葉が 3 回も使われています。何に
「腹を立てるな」と言っているかというと、悪を行なう人に対してです。そ
れでは、悪には目をつぶって見ないようにせよと言っているのでしょうか。
そうではありません。「ねたみを起こすな」と言っているのです。ねたむと
は「私もうまくやりたい」という心です。悪を行なう人は、一時的に栄えて
いるように見えても、たちまちにして青草のように枯れると言っています。
★クリスチャンの生き方は「主をおのれの喜びとすること」であると記され
ています。それは主に信頼し善を求め誠実に生きることです。自分のことは
二の次で、主が喜ばれることを「おのれの喜び」とすれば「主があなたの願
いをかなえて下さる」(4 節)と教えています。
★山崎パンは、日本の輸入小麦の10%を使うほどの大企業で、年商9000億円
以上と言われています。その創業者は飯島藤十郎です。創業時に経営方針を
めぐって、弟の一郎との内輪もめが起こりました。仲裁に入った藤十郎の息
子までが、巻き込まれてしまいました。話し合った結果、三人で洗礼を受け
てクリスチャンになるということで、解決しました。しかし洗礼を受けた11
日後に、工場が全焼してしまいました。その時、三人は「これは、今まで私
達があまりにも事業本位で仕事を進めてきたことに対する神様の戒めだ、こ
れからは神様の御心にかなう会社に生まれ変わります」と祈ったのです。そ
の結果、現在の山崎パンがあるのです。
私達も「主をおのれの喜びとして」生きる者の祈りに応えて下さる神様を
信じて、力強く前進しましょう。

2023年クリスマス礼拝「クリスマスの夜の恐れ」

2023年クリスマス礼拝「クリスマスの夜の恐れ」ルカ2章8~20節

                        仁井田義政 牧師

クリスマスおめでとうございます。クリスマスは、世界中がお祝いムードになっていますが、聖書に出てくるクリスマスの光景は、「喜び」と「恐れ」でした。

★その夜も、羊飼い達は羊達に猛獣が襲ってくるのではという恐れがありました。羊を守る為に雇われて、夜も働いていたからです。その時、羊飼い達に全く違った恐れが襲いました。宗教的な恐れです。羊飼い達はユダヤ人達でした。それは、ユダヤ人が大切にしていた律法を守れず、特に安息日も守れない人たちだったからです。彼らは、当時の人々から「アム・ハーレツ」(地の民)と呼ばれ、天に属していない民と言われていたのです。その身なりも羊毛の油で汚れきって、異臭を放っていたはずです。

★羊飼達が野宿していた近くの高台に、ベツレヘムの町がありました。その町は、皇帝アウガストの人口調査の命令で、旅人でごった返していました。そのような町の喧騒からはじき出された羊飼い達が、突然の天使の出現によって、彼らは「ひどく恐れる」こととなりました。不信仰な私達に神様の裁きの時が来たと思ったからでしょう。

★天使は、羊飼い達に「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです」と伝えました。「民全体」とは、身分に関係なく「すべての民に」という意味です。今まで羊飼い達は地の民と言われていましたが、キリストの誕生によって「天の民」となったのです。羊飼い達は「主が私達に知らせてくださったこの出来事を見てこよう」と、ベツレヘムに向かいました。すると羊飼い達よりも、身を低くして「飼い葉桶に」イエス様が寝かされていました。それがキリストの印でした

★クリスマスは、すべての民に与えられる「喜びの訪れ」なのです。しかし、もう一人キリストの誕生を恐れた人がいました。それはヘロデ大王です。イエスが王様になったら自分の立場が危ないと思い、2歳以下の男の子を全て虐殺しました。自分の生き方を変えたくないため、キリストを排除しようとしたのです。あなたはヘロデ王のように、自分の人生が変わることを恐れて、キリストを排除するのではなく、羊飼い達のように、自分の人生を変えるために、イエス様を信じようではありませんか。