8月13日礼拝「神への渇き」

詩篇講解NO63「神への渇き」詩篇63篇1~8節

                       仁井田義政 牧師

この詩篇は、ダビデが我が子アブシャロムに命を狙われて、荒野に逃げていた時の詩であろうと言われています。自分の愛する子に命を狙われるということほど、辛いことはないでしょう。それが1節に記されている「神への渇き」なのです。

★砂漠では水が一番必要です。人は苦難の中で、人生で一番必要なものを見つけることがあります。ダビデは、アブシャロムとの親子の家庭問題で、荒野にいます。現代も、多くの人が家庭問題で潤いを失った砂漠にいるような体験をしているのではないでしょうか。砂漠の中では、水だけが必要になります。それと同じように、ダビデは苦しみの中で、イスラエルの神としてではなく「私の神」として、神を渇き求めました。それは、ダビデと神様との強いつながりを表わしているのです。

★砂漠の水のように、ダビデが求めていたものは、神様の「力と栄光と恵み」でした。砂漠に「聖所」などあるはずがないのに、ダビデは「聖所」と言っています。粗末なテントの中での苦しみ「神に渇く」所が、神様の臨在する聖所になるのです。ダビデは祈りの中で、「あなたの恵みは命にもまさるゆえ」と言っています。命に優る恵みなどあるのでしょうか。しかし人間は、その命を粗末にすることがあります。ですから神様の恵みは、命に優るのです。苦しみのゆえに死さえ願うようなその時にも、神様の存在と恵みを知ったダビデは、神様を賛美するのです。

★それは、どんな厳しい砂漠のような家庭問題の苦しみの中にも、ダビデは祈りの中で「私の神」を感じました。ダビデは「生きている限りあなたをほめたたえる」と神様を賛美しました。これは、ダビデの信仰と同時に決心です。ダビデは、祈りの中で「私の神」に「両手を上げて祈った」のです。しかし現実には、アブシャロム問題はひとつも解決していませんでした。ですから6節に「眠れない夜」と記しているのです。

★ダビデの詩篇は、机上の空論ではありません。生身の人間が、家庭問題で苦しんでいるのです。ダビデは祈りの結果、この家庭問題は生ける神様の守りによって、私の勝利に終わると確信したのです。あなたも人生を放り投げたりしないで、ダビデのように「私の神」を求めて祈りましょう。

8月6日礼拝「私はただ神を待ち望む」

詩篇講解NO62「私はただ神を待ち望む」詩篇62篇1~12節

                       仁井田義政 牧師

 今日の詩篇の中心聖句は「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」という御言です。ダビデは信頼していた友人に裏切られ、命を狙われています。ダビデはその辛い体験の中で、揺るぎない信仰の道を見出しました。私達も、信頼していた人に裏切られて辛い体験をすることがあります。ですからこの詩篇が、私達に強く迫ってくるのです。

★ダビデは、その解決に私達が陥りがちな人に頼って解決しようとしました。そして身分の低い人に頼って傷を舐め合おうとしても、解決になりませんでした。また身分の高い人に頼って助けてもらおうとしても、助けにはなりませんでした。結果は、かえって失望と不安が増すばかりだったのです。むしろ人に頼ろうとするそのような姿勢こそが、友に裏切られる結果になっていると気付かされるのです。(そのことは、9~10節に記されています。)

★ダビデは、「人に頼る生き方が虚しいことだと知りなさい」と、神様が「一度告げられた。私はそれを二度聞いた」と言っています。それは、神様が一度教えて下さった言葉を、私は反復したということでしょう。神様に頼ることが確実なのだという考えは、決して人間からは出ないのです。人間から出る考えは、「人に頼れ!富に頼れ!」ということが多いのです。しかし神様は、新しい生き方を天から啓示されたのです。

★ダビデは、ついに揺るぐことのない信仰の境地に立ちました。それは、「私のたましいは、ただ黙って神を待ち望む」という境地です。それは、希望は神から来るからです。神こそ、敵や問題から身を守る「岩」、泥沼から救う「救い」、敵から身を守る「やぐら」だと言っています。私達の問題を解決する力は、人間からは決して来ないのです。

★今日の中心的な御言は、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」であると最初にお伝えしました。この「ただ」は、何もしないことではありません。ダビデは一度聞いたことを、二度聞くという信仰の大切なことを苦難の中でしたのです。「神様が私を愛し、守り、私の遭遇しているこの困難の中から必ず助け出して下さる」と信じ、心の隅々にまで、魂の隅々にまで、こだまさせたのです。そして襲い掛かる不安から、主にあって脱出したのです。私達も、御言を魂の奥底まで響かせて強くなりましょう。

6月16日礼拝「心が衰え果てる時」

詩篇講解NO61「心が衰え果てる時」61篇1~8節

仁井田義政 牧師

 今日の聖書箇所には、「私の心が衰え果てる時」という言葉があります。それはどういう状態なのでしょうか。それはあまりにも辛くて心が衰弱してしまっている状態で、立ち上がる力を失っている状態です。

★ダビデの祈りは、「叫び」と記されています。また「私は地の果てからあなたに呼ばわります」と記されています。それは、誰も助けに来られない状況を表わしています。

★ダビデは「心が衰え果てるような」状況にありながら、「私の及びがたいほど高い岩の上に私を導いて下さい」と祈りました。私達人間には、自分の力では万策尽きた時にも、天の窓は開かれているのです。ですから神様は私の「避け所」敵に対する「強いやぐら」「神の幕屋」「御翼の陰」と、記されているのです。これが、ダビデの神様への信仰でした。ダビデは、自分が地の果てで「心が衰え果てる状態に」なっていても、神様への信頼を失わず、神様に助けを叫び求めているのです。

★ダビデは、呻き叫ぶほどの苦しみの中で祈っていました。(1~4節)

しかし次の5節からは、神様によって道が開かれ、希望と感謝の体験が記されています。神様は、「心が衰え果てる」程に衰弱してしまった人の祈りも「地の果て」からの祈りも、「苦しみ叫ぶ人」の祈りも、聞き漏らすことなど絶対にありません。

★「白洋舎」の創業者・五十嵐健治さんは、ある従業員の裏切りによって営業停止状態になった時に、猛烈に腹を立てて怒り、復讐心に燃えたそうです。しかし教会の礼拝に行き祈っていると「復讐してはならない。復讐は私のすることである」(ローマ12章19節)と「神が味方であるならば、だれが敵対することができるでしょう」(ローマ8章31節)という聖書の言葉が聞こえてきたのです。五十嵐健治さんは、その神様の言葉に従いました。すると会社が、成功に向かって動き出したのです。

★私達の神様は「心の衰え果てる時」の助けです。「避け所」です。「強いやぐら」です。あなたを守る「御翼の陰」です。

あなたも「心が衰え果てる時」、神様の救いの力を信じましょう。

7月9日礼拝「神には力があり、救いがある」

詩篇講解NO60「神には力があり、救いがある」60篇5~12節

仁井田義政 牧師

今日の詩篇は、第二サムエル記8章などがその背景と言われています。両方に「塩の谷の戦い」が記されているからです。そこには偉大な王であったダビデの戦いが連戦連勝で記されています。しかしこの60篇には、ダビデの敗北とその苦悩が記されています。そこにはダビデ自身が書いた解決の道が記されています。それはまた、私達が苦悩の中からどのようにすれば立ち上がることが出来るかの、神様からの啓示なのです。

★1~4節に、ダビデは戦いに負けて失望状態にある様子が記されています。それはまさに悩みで足に力が入らず、地がぐらついているような感覚でした。2節に、しっかりと立っていられない状態が記されています。それは、神様に信頼しなかった結果であったとダビデは反省しています。

★5~8節には、ダビデの祈りと神様の答えが記されています。ダビデは「あなたの愛する者が助け出されるために、答えてください。」と食い下がる祈りをしました。神様は、ダビデの祈りに聖所から答えられ、東西南北は私のもので「ユダ族は私の杖だ」と言われました。杖は支配権を現わします。神様は、イスラエル12部族の中のユダ族を用いて世界を支配すると言われたのです。ダビデはユダ族です。

★9~12節には、「人の救いや助けはあてにならない。神様の助けによってのみ勝利できる」と記されています。まさに敗北という苦しみの体験の中で到達した信仰の奥義でした。偉大なイスラエルの王であったダビデには、なおさらのことです。

★会社の問題において、家庭の問題において、学校の問題において、経済的な問題において、ありとあらゆる問題に打ち負かされそうになり、地盤が揺れ、基盤が崩壊し、途方に暮れてしまうことがあります。しかし幸いなことに、私達にも聖所から最高の知恵の言葉あります。「神には力があり、救いがある」という言です。私達はダビデのように、神様を信じ、神様を信頼する道を選び、苦悩の中からでも人生の勝利者になりましょう。

7月2日礼拝「私を高く上げてください」

詩篇講解NO59「私を高く上げてください」59篇1~9節

仁井田義政 牧師

表題に「サウルが人々を遣わし、彼らがその家の見張りをしたときに」とあります。この詩は、ダビデがサウル王に命を狙われた初期の頃の詩だと言われています。ダビデは1節で「私に立ち向かう者が届かぬほど、私を高く上げてください」と祈りました。それが今日のキーワードです。

★5節で「すべての国々を罰してください」とあるので、異邦人が敵なのかなと思ってしまいます。しかし「裏切り者」とあり、神を信じていると言いながら、異邦人と同じになった者のことです。その者達は、ダビデに対して、餓えた野良犬のように付きまとい、餌食にしようとしているのでした。

★しかし5節には「イスラエルの神」と記されています。それは契約の神のことです。約束は完全でした。やがてはダビデの家系から救い主キリストがお生まれになるのです。(マタイ1章)ダビデは、どんなに不利な状態にあっても、「この神様との契約がある」と契約にすがって祈っています。そして5節で「あなたは万軍の主・イスラエルの神」と祈っています。8節で「神は彼らを笑う」と記しています。神様は「私の砦」(9節)「私の盾よ」(11節)と、その信仰を記しました。

★ダビデは祈り始めの時は、明らかにおびえていました。前半の1~4節に「救い出してください」が2回。「救ってください」が1回。「助けてください」が1回あります。そのおびえた夜の最初の「わたしに立ち向かう者が届かぬほど、私を高く上げてください」との祈りは聞かれたのです。

★14節を見ると、現状は変わっていません。敵は、同じようにダビデを食い物にしようと探し回っていたのです。しかしダビデの心が変わったのです。私が祈ったように、神様は私を「わたしに立ち向かう者が届かぬほど、私を高く上げてくださった」と確信したのです。

★環境が変わるのを待っていたのでは、ダビデに希望の朝は来ませんでした。しかしダビデは「朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。」と希望の朝を迎えることができました。今あなたは悩みの中にありますか。何かに恐れ、怯えてはいませんか。もしそうなら「私をその問題から高く引き上げ救ってください」と祈りましょう。私は神の子なのだと告白し、感謝しましょう。主に信頼して「私を高く上げてください」と祈りましょう。

6月18日礼拝「裁く神が地におられる」

詩篇講解NO58「裁く神が地におられる」58篇1~11節

仁井田義政 牧師

 今日の詩篇は「裁く神」です。悪者が欲望のままに生きているのを見る時、神様は悪を見逃しておられるのではないかと思うことがあるのではないでしょうか。正しく生きていることが馬鹿らしく思ってしまう危険があります。そのような考えに、今日の詩篇は鉄槌を下すような御言です。

★今日の詩篇では、悪者を「力ある者」と言っています。王や権力者のことを言っていると考えられます。表面的には正しい裁きに見せても、その裁きは不正と暴虐に満ちている、悪者は「母の胎にいる時から」悪の芽があるだと言っています。これは聖書の人間理解なのです。幼い子供達を見ると、このまま悪い大人にならないようにと祈るばかりですが、大人になるにつれて悪くなることが多いのが現実です。

★ダビデは「神よ、悪者を滅ぼしてください」と祈りました。悪いサウル王に命を狙われて、辛い思いをしているダビデの祈りです。「滅ぼしてください」などと程度の低い祈りをしたものだと一言で決めつけることは出来ません。私達も人から悪事をされれば、「どうしてあの人をそのままにしておくのですか」と、神様に訴えるのではないでしょうか。しかし神様は、罪人をも愛されるお方なのです。エゼキエル18章23節には「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか・・・悔い改めて生きることを喜ばないだろうか」言われています。ですから、私達もイエス様によって罪赦されて救われているのです。

★しかし神様は、罪をそのままにしておかれる御方ではありません。罪を裁かない神ならば、そこに神の義はなく、義を失った神は神でさえなくなるのです。神様は、ひとつの罪も見逃さず完璧に裁かれます。「復讐は私のすることである」とロマ書12章19節にはっきりと書かれています。その「裁く神が地におられる」と、ダビデはこの詩篇の最後に記しています。それは、私達の生活の只中におられて、一部始終を見ておられるということです。

★その私達の全ての罪を、イエス様が身代わりとなり十字架で裁きを受けて下さいました。神様は裁かない神ではなく、ひとつの罪も赦すことなく裁きを行なわれ、神の義を打ち立てられるお方です。私達人間の罪をイエス様に背負わせて、徹底的に裁かれました。そのことを心にとめ、罪を犯すことのないように、イエス様の十字架を見上げ、神の愛に感謝して生きましょう。

6月11日礼拝「人生の暗闇に暁を呼び込む」

詩篇講解NO58「人生の暗闇に暁を呼び込む」57篇1~11節

仁井田義政 牧師

 今日の御言も、表題に「ダビデがサウル王から逃れて洞窟にいた時に」と記されています。ダビデにとって、神様の救いが強烈な体験となり、生涯にわたる信仰体験となったのです。このような生涯を貫くような体験は、信仰を強めます。

★洞窟のような体験とは何でしょうか。洞窟は、入り口からしか光が入って来ません。その入り口に人が立つと、大きく見えるのです。そして入り口に立ちふさがれると、もはや逃げ場がない状態になります。逃げ場のない体験それが洞窟体験であると言えるでしょう。

★その中で、ダビデは「滅びが過ぎ去るまで神の御翼の陰に身を避ける」(1節)しかありませんでした。洞窟の中にあっても、信仰者ダビデは「いと高き方、神に呼ばわります」(2節)と言っています。いと高きはこれ以上ない方の意であり、「呼ばわる」は祈りのことです。ダビデは「ライオンの穴に入れられているようだ」と言っています。ライオンは、情け容赦なく獲物をむさぼり食うのです。何一つ守るものがない状態、声に出して祈れない状態です。しかし神様は「天から救いを送ってくださった」(3節)のです。「神は恵みとまこととを送られるのです」と3節後半に記されています。神様の「恵みとまこと」は、ヨハネ1章14節にも出てきます。

★真っ暗な洞窟の中で、ダビデは「私の心は揺るぎません」と2回繰り返しています。それは絶対的確信です。ダビデはついに「私は歌い、ほめ歌を歌います」と神様に感謝しています。そして「私は暁を呼び起こしたい」と言いました。それは朝日の光を待つ姿です。どんなに暗い夜にも朝が来ることを意味し、真っ暗な中であっても希望を失わないことを意味しています。

★ダビデは、9~11節の中で、神様を心からほめたたえています。神様が、必ず洞窟の真っ暗な中から救い出してくださると確信しているからです。神様は、神様を信じ信頼する者の祈りを聞いて下さいます。その人が真っ暗な洞窟に追い込まれていようとも、朝日のように希望を与えてくださるのです。

あなたは、今、光の見えない洞窟のような悩みの中にいませんか。もしそうなら、主に祈って朝の光(暁)をあなたの人生に呼び込みましょう。

6月4日礼拝「神の力の内に生きよう」

主日礼拝「神の力の内に生きよう」使徒の働き9章36~42節

                                       吉原博克師

先週は祝されたペンテコステの礼拝でした。今週は先週の続編、応用編のお話となります。ペンテコステの日、エルサレムには当時のギリシア・ローマ世界にして「世界中」からの人々が集まっており、その日だけで三千人の人々が主イエスを信じる者とされました。

★主イエスの教えは、聖霊のバプテスマを受けると「力を受け」、「エルサレムからユダヤ、サマリヤの全土まで」主の証人と」なる、というものでした。エルサレムとユダヤとは、いわばなじみの町と地域、サマリヤとは、文化的に似ていながらも少し違う地域、地の果てとは大きな違いのある地域、という意味でもあります。地理的な意味に加え、文化的・社会的な意味を含んでいるわけです。あなたも、出身の地域・文化と現時点の地域・文化、そして遣わされ(てい)る先の地域・文化というものについて、少し思い巡らし、祈ってみましょう。

★今日はさらに「力」というものについて考えてみます。「力」という言葉は、聖書の原語では「デュナミス」といいます。英語の「ダイナマイト」という言葉はここから作られました。しかし、聖書の語る「デュナミス」には、様々な意味が含まれています。代表的なものは、言葉で証しする力であり、「しるしと不思議」なる奇跡を行う力です。主イエスの福音は私たちを罪から解放し、死から命に移してくれる力です。

★一方、今日のテキストのドルカス(タビタ)は、ある特技で豊かに用いられたとあります。裁縫です。彼女は一針一針、縫いものをし、下着や上着を作ることで他の女性たちを励まし、支えていたのです。ルカは、このドルカスを生き返らせた神の究極の力について証しつつも、この「女の弟子」がこつこつと積み上げてきた「良いわざと施し」についても少し詳細に紹介し、さらに豊かな証しとしているのです。

★この章の前半に出てくるアナニアは、主の語りかけを受け、回心したといわれる迫害者サウロを、恐れを乗り越えて訪問し、主の務めを全うしました(9:10-19)。神の「力」は派手なものばかりではありません。日々の努力や忍耐、忠実な歩みの中に顕れる静かな力でもあるのです。あなたに必要な「力」を祈り求め、いただいていきましょう。

ペンテコステ礼拝「聖霊のバプテスマ、神の力」

ペンテコステ礼拝「聖霊のバプテスマ、神の力」使徒の働き2章1~4節

     吉原博克師

今日は教会暦で「五旬節/ペンテコステ」と呼ばれる日です。これは、ユダヤ教の「初穂の祭」キリスト教の「復活節」から50日目で、ユダヤ教では「七週の祭」とも呼ばれます。旧約聖書ではレビ記23:15-16などに定められています。

★「使徒の働き」では2章全般にわたり、神の霊である聖霊が弟子達に、人々にわかる形で注がれた様子とその結果が記されています。私達ペンテコステ派を含む諸教派の中には、ヨハネ19:20-23から、弟子達には既に復活の日の晩に聖霊が与えられており(内住)、使徒2章ではさらに、誰にもわかる顕著な奇跡として注がれたのだ(バプテスマ)、と考える立場もあります。使徒2章の日に主を信じた三千人(の多く)には、この「内住」と「バプテスマ」の二つが同時に起こったのだ、というわけです。

★いずれにせよ、現代を生きる私達の場合、イエス様を信じているならば聖霊は既に与えられています。ご安心ください。パウロはこれを「証印を押され」「御国を受け継ぐことの保証」(エペソ1:13, 14)と呼び、これにより私達は神の子どもとされているのだと教えています(ガラテヤ4:6)。

★その上で、私達ペンテコステ派は、加えてこの使徒2章の異言を伴う「聖霊のバプテスマ」が、今の時代にも頂けると信じる教派であり、多くの兄姉がこれを体験しています。そして、これを初めて体験した日を、通例「受霊日」と呼んでいます。ただし、上の「内住」の教えとの関連で、特にこの「バプテスマ」を信じない人々との対話では注意が必要です。

★異言は、「御霊が語らせるままに」(4節)とあるように、不思議な音のつながりとして顕れますが、怖がったり、不審に思うことはありません。「他国の」(同)いわゆる「○○語」であることは、事例としては報告されているものの稀です。体験の形も様々です。この午後の待望会のような特別な場で頂けることも多いですが、日々の祈りや讃美の中で頂く人もいます。リラックスし、主に悔い改めと感謝を捧げつつ、委ねて求めてみましょう。

★異言で祈れることは、ただただ恵み、賜物です。信仰の大小優劣とは無関係です。そしてイエス様がおっしゃったように、「力」(使徒1:8)です。信仰生活、奉仕、証の力です。期待しつつ、求め続けていきましょう。

5月21日礼拝「苦難の中のみことば」

詩篇講解NO56「苦難の中のみことば」詩篇56篇1~13節

                              仁井田義政牧師

ダビデの苦難の詩篇が続きます。ダビデの命を狙うサウル王は、非常にしつこい人でした。ダビデの逃亡生活の中で、最悪の事態に陥ったことがありました。それが表題に記されている「ペリシテ人がガテでダビデを捕らえた時」のことです。

★それは、第一サムエル21章10~15節にあります。ダビデはサウル王から逃げて、ペリシテ領ガテの王アキシュの所に行ってしまいました。その時ダビデは、かつて倒したペリシテの英雄ゴリアテの剣を持っていたのです。ダビデが来たことが、アキシュ王に伝わったことを聞いて、ダビデは、殺されると思って非常に恐れました。その時ダビデは、精神病のふりをしてよだれを流し、その町を脱出するのです。

★この詩篇には、恐れと信仰が交互に記されています。つまり恐れが来るごとに、祈っていたということです。祈る相手は、聖書の神です。まだ旧約聖書が完成していなかった時です。そのような時にもかかわらず、ダビデは祈りの中で、御言により頼みました。

★そうすると、いつも不安が消え去っていきました。神様の御言に目を留めると、どんな苦難の中でも神様は私を守って下さるとの約束があるのを見たのです。ダビデは、ゆえに「神様の御言をほめたたえた」のです。そうすると、あれほど恐れていたアキシュ王を、単なる「人」と言えるようになったのです。

★私達が苦難の中で恐れおののく時、ダビデのようにその苦しみを祈りによって、神様に知って頂くことが大切なのです。そして知って頂くだけではなく、御言に目を向けるのです。御言には、私達への神様の約束が満ちているのです。苦難の中で、初めて御言が自分のものとなり、自分への神様の約束として聞こえて来るのです。まさに御言によって、ダビデのように挫折から立ち上がることが出来るのです。

苦難の時に、あなたを愛しておられる神様に祈り、あなたへの御言の約束をつかみましょう。