4月23日「私は神の家にあるオリーブの木」

詩篇講解NO52「私は神の家にあるオリーブの木」詩篇52篇1~9節

 仁井田義政牧師

私達クリスチャンにとって、自分をどのように見ているかは大切なことです。私には主の愛と祝福が豊かに注がれていると見ることの出来る人は幸いです。それと反対に自分がみじめに見えてしまう人がいるならば、今日の御言によって、自分の本当の姿に気付いてほしいと思います。

★表題は、ダビデの置かれた最悪な状況を表わしています。そのことは、第一サムエル記21章にあります。ダビデはサウル王に命を狙われて、ノブの祭司アビメレクの所に逃げてきました。その時ダビデには食べ物もなく、祭司から神様に供えたパンのお下がりを頂いて食べました。ダビデは、サウル王が死ぬまでの9~10年間の逃亡生活を送りました。

★何もなかった逃亡者のダビデの目には、サウル王は巨大な富と権力を持った人としてうつりました。祭司アビメレクから、パンとゴリアテの剣をもらったダビデが、次にペリシテの町ガテに逃げて行きましたが、ダビデと闘って戦死したペリシテ人のゴリアテの剣を持っていたので、そこで殺されると思い、よだれを流すという演技までして、その場を逃れました。

★ダビデは、神様を信じない「悪の勇者」(1節)達を羨ましいとは思いませんでした。神様が「根こぎにされる」(5節)からです。ダビデは自分を「神の家にあるオリーブの木のようだ」(8節)と言っています。オリーブは、冬も夏も常に葉の繁る常緑樹なのです。しかも神様の家の庭にある木なので、神様が毎日愛し世話をしてくださるのです。

★この詩を書いた時、ダビデは生涯中最も困難な時期にありました。命の危険すら感じる毎日だったのです。しかしダビデのセルフイメージは、神様に可愛がられ、神様の庭で大切に育てられているオリーブの木のイメージだったのです。ダビデは「私は神様を信じてきたのに、サウル王から汚名を着せられ、命まで狙われている。さらにイスラエルの宿敵ペリシテの町に入り込んでしまった。最悪だ」とは言わなかったのです。それどころか「私は、神の家にあるオリーブの木のようだ、世々に限りなく神の恵みにより頼む」と言ったのです。あなたはいま困難の中にあるかもしれません。たとえ困難の中にあっても、ダビデのようなセルフイメージを持ちましょう。「私は神の家にあるオリーブの木ようだ」と信仰の告白をして心を明るくしましょう。

復活祭後の主日礼拝「人を恐れてはならない」

復活祭後の主日礼拝「人を恐れてはならない」マタイ10章28~33節

 仁井田義政 牧師

受難週、復活祭、復活祭後の本日の三回ほど、詩篇の連続メッセージを中断しております。来週からはまた詩篇へ戻ります。さて今日の御言を復活祭後のメッセージとして選んだ理由は、イエス様の十字架とご復活に見る勇敢な生き方に感動したからです。人からどんな評価を受けようとも恐れない、揺るぐことのない生き方という意味での勇敢さです。

★イエス様は弱い人たちばかりを相手にし、罪の問題「神様との関係」ばかりを教えて回られました。人々は、そのようなイエス様に失望しました。人々は、イエス様に戦争で手柄を立てる人のような勇敢さを求めていたのです。イエス様の十字架の上には、ローマ総督ピラトの命令で「ヘブル語・ラテン語・ギリシャ語」で罪状が書いてありました。ローマの総督ピラトも「十字架につけよ」と叫ぶ大衆を恐れて、無罪と知りつつイエス様を処刑しました。

★しかしイエス様は、人の目を気にされませんでした。もしイエス様が人々の目を恐れる方であれば、「私はイスラエル人の王となります」と言って大衆の力を手中に収めることが出来たのです。しかしイエス様は、人の目を恐れるような御方ではありませんでした。神様を裏切って命を永らえようとはされませんでした。人の目よりも、神様の目を畏れ敬う御方だったのです。

★イエス様は「体を殺しても、魂を殺せない者を恐れてはなりません・・魂も体も、ともにゲヘナで殺すことのできる方を恐れなさい」と教えられました。内村鑑三は、第一高等中学校の教師だった時(明治24年)1月9日に教育勅語に敬礼をしなかったという事で、教師の職を追われました。イエス様は「魂を殺すことができないものを恐れてはなりません」と言われました。

★また「人の前で、私を認める者は、私も天におられる父の前で、その人を認めます。しかし人の前で私を知らないというような者なら、わたしも天の父の前で、そんな者は知らないといいます」と私達に迫られます。人々の前で、私達は信仰に誇りをもって生きているでしょうか。「私はクリスチャンです」と証言して生きているでしょうか。それとも人々の目や、批判を恐れて、クリスチャンであることを隠して生きてはいないでしょうか。人を恐れず「私はクリスチャンです」と、キリストを表わしていきましょう

4月9日復活祭「立ちはだかった大きな石」

復活祭「立ちはだかった大きな石」マルコ16章1~8節

 仁井田義政 牧師

今日は復活祭イースターです。もう一つ特別なことは、第二礼拝の中で吉原博克先生の就任式があります。まずイースターのメッセージをお届けしたいと思います。今日の聖書には、イエス様の墓に向かう女性達と、墓の「大きな石」が出てきます。

★なぜ女性達は墓に向かったのでしょう。それは、イエス様を愛していたからに他なりません。その女性達の一人は、イエス様に7つの悪霊から解放して頂いたというマグダラのマリヤでした。女性達はその生前のイエス様に感謝し、そのお体に香油を塗ろうとして墓に向かったのです。

★しかし女性達は、その墓が大きな石の戸でふさがれていることに気が付き、自分達の力ではその石の戸を開けることが出来ず、途方に暮れてしまいました。数トンもあったからです。そして「あの石を転がしてくれる人が誰かいるでしょうか」と言いました。この言葉に目を向けましょう。この女性達のように、イエス様の教えや力に感動したクリスチャンでも、復活の主を信じないうちは、自分の前に立ちはだかる大きな石に途方にくれるのです。そればかりかその解決を「あの石を転がしてくれる人が誰かいるでしょうか」と人に頼るのです。そこに解決などありませんでした。

★しかし、女性達の前に立ちはだかっていた大きな石は、復活されたイエス様ご自身が転がして下さったのです。人に頼る必要などありませんでした。そのことによって女性達は、亡くなられたけれど復活され、生きておられるイエス様をキリスト(救い主の意味)と信じるのです。それが、初代教会から現代のクリスチャンの信仰なのです。女性達は、「復活の事実を弟子達に伝えよ」と宣教命令を受けました。昨年の統計で、クリスチャンは25億6千万人となりました。そこに宣教の希望があります。復活のキリストを信じる本当のクリスチャンによって、人々の救いは力を増すのです。

★私達、溝の口教会のクリスチャンも、自分や人に頼るのではなく、復活のキリストが私達の人生に立ちはだかる大きな石を取り除いてくださると信じましょう。復活の主に感謝し祈りましょう。

受難週「わが神、わが神。なぜ私を捨てられたのですか」

受難週「わが神、わが神。なぜ私を捨てられたのですか」

マルコ15章33~34節  仁井田義政 牧師

今日は受難週の始まりの日です。マルコによる福音書は、福音書の中で最初に書かれた原福音書と言われています。今日は、その15章33節にあるイエス様の十字架上の御言を受難週礼拝のメッセージとしてお話し致します。

★そこには、12時から3時までの間「全地が暗くなった」と記されています。キリストの十字架を中心に、その地域一帯が暗くなったのです。その時の雲は、分厚く不気味でした。その不気味な暗闇は、父なる神と御子との断絶を意味しています。3時間にもわたる暗闇。その時、キリストは「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。

★キリストが十字架につけられた時は、イスラエルの最大の「過ぎ越しの祭」でした。過ぎ越しとは、イスラエル人達がエジプトで奴隷であった時の羊の犠牲に由来します。キリストは罪がなかったけれども、羊のように人の罪の為に犠牲となってくださったのです。

★キリストは、人々の罪のために身代わりとなって十字架につかれたのに、そこにいる人々にはそれが分かりませんでした。人々との断絶があったのです。さらに12時から午後3時までは、神との断絶が記されています。人と神とから捨てられた断絶の狭間で、キリストが叫ばれたのが「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉です。

★確かにこの言葉は、詩篇22篇にそのまま出てきます。多くの学者は、この時にイエス様の心の中には詩篇22篇があって、それを朗読するように叫んだのだと説明していますが、今日の御言葉に出てくる「大声」といい、「叫ばれた」という言葉は、朗読したとは違うのです。しかも死が近づき、肉体が弱り、声も出にくくなるそのような時に、なぜ大声で叫ばなければならなかったのかということです。

★それは罪を持ったままで死ぬならば、私達が暗闇である地獄へと捨てられるということです。これは、私達が死後に叫ばなければならない言葉でした。聖霊が私達にそのことを示して下さいます。聖霊は私達が拒まなければ、私達に働かれます。イエス様の十字架上の「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになられるのですか」の御苦しみは、私の罪の為であったと深く知り、イエス様に感謝しましょう。

3月26日礼拝「雪よりも白く」

詩篇NO51「雪よりも白く」51篇5~13節       

仁井田義政 牧師                              

 この詩は、ダビデ王の生涯中で最も他人には知られたくない事が記されています。それは表題に記されているように、ウリヤの妻バテシェバとのことです。ダビデ王は、サウル王に命が狙われる苦労の時代が終わり、富も地位も手にした時、傲慢になって大きな罪を犯してしまったのです。51篇はその罪の悔い改めの詩篇です。

★ダビデが51歳頃のことです。バテシェバとのことは、第二サムエル記11章に記されています。ある日の夕暮れ、ダビデが王宮の屋上を歩いていると、一人の美しい女性が水浴しているのが見えました。その人は、家来の妻バテシェバでしたが、王宮に招き身ごもらせてしまったのです。ダビデはその罪を隠すために、バテシェバの夫ウリヤを激戦地に送って戦死させ、彼女を妻として迎えるのです。それは完全犯罪のはずでした。

★しかしダビデの所に預言者ナタンが来て、ダビデが隠していた罪を指摘したのです。そのことは第二サムエル12章に記されています。罪を隠しているダビデは、人々には良い人に見えました。夫を失って経済的基盤を失った女性を妻としたからです。しかし、人には隠せても神様の目には隠すことはできませんでした。預言者ナタンが激しくその罪を指摘すると、ダビデは全ての罪を神様に告白したのです。

★ダビデは「自分の背きの罪を知っている」(3節)と告白しています。そして神様からどんな罰を与えられても、神様が正しい(4節)とその罪の大きさを認めています。しかしダビデは、神様に赦しを請いました。それが「ヒソプをもって私の罪をきよめて下さい。そうすれば雪よりも白くなりましょう」(7節)です。ヒソプは出エジプト記12章22節に、「ヒソプの一束を取って、・・かもいと門柱に羊の血を塗りなさい。」と記されています。またイエス様の十字架の時にも、ヨハネ19章28節に出てきます。つまりヒソプは、罪の赦しと関係があるのです。ダビデは「そうすれば、私はきよくなります。雪よりも白くなります」と信仰告白をしたのです。

★罪のない人などいるでしょうか。「私にはひとつの罪もありません」という人がいるとすれば、それは偽りです。私達も罪を告白し、不信仰を悔い改め、主から雪よりも白くして頂きましょう。

3月19日礼拝「主に感謝を捧げよ」

詩篇NO50「主に感謝を捧げよ」50篇7~15節       

仁井田義政 牧師                              

この詩篇は、感謝の奨めです。主は、何にもまして感謝を喜ばれるのです。しかし私達は主の最も喜ばれる感謝を忘れがちなのです。

★前の49篇は、お金や富に執着して神様を忘れて生きる人間の愚かさに対する警告でした。今日の50篇は、献金をしていればそれで良しとしてしまう私達への警告なのです。神様が私達に望まれている最高の捧げものは、感謝なのです。

★7節の「聞け」は、へブル語の「シェマ」です。それは強い言葉で、聞くことの命令です。8節に、捧げもののことであなたを責めるのではないと記されています。つまりすべての物は神様の所有物なのです。厳密には全ての物は神の物なので、人間から捧げてもらう必要がないと言っておられるのです。神様は「雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか」と言っておられます。

★それらは、神様への感謝を現わす為にするのです。ですから「感謝のいけにえを神に捧げよ」(14節,23節)と言われているのです。神様は私達の罪の身代わりとして、御子イエス様を十字架につけて下さいました。その御方を賛美することを忘れた生活をしているとすれば、それは異常なことなのです。

★神様は、感謝を捧げることを最も喜んでくださいます。私達もそうでしょう。子供達に「お父さん!お母さん!ありがとう。お父さんとお母さんの子供で良かった!」等と感謝されたら、すべての苦労がその一言で吹っ飛んでしまうのではないでしょうか。私達人間も神様に似せて造られているので、感謝を必要としているのです。猫や犬を飼うのも、そのためなのです。もし猫が飼い主の顔を見る度に、背中を山のようにして「シャー」と威嚇したり、犬が飼い主の帰宅する度に、凄い声をあげて吠えたり、嚙みついたりするようだったら、飼い主の心に喜びも安らぎもありません。扉を開けると、犬がしっぽをちぎれるほど振って迎えてくれたら、私達は嬉しいのです。その行動を通して、感謝を受け取っているのです。

ですから私達も、心から神様に感謝のいけにえを捧げる人になりましょう。

3月12日礼拝「悟りがなければ獣に等しい」

詩篇NO49「悟りがなければ獣に等しい」49篇16~20節       

仁井田義政 牧師                              

 詩篇49篇は、1節に記されているように全人類への勧めです。国や民族が違い、考え方が違っても、人間は49篇に示されている3つの錯覚に陥って生きている人が大半なのです。それはどのような錯覚なでしょうか。

★第一の錯覚は、「富が、幸せの一番の保証となる」という錯覚です。創世記の3章17~19節を見て下さい。そこには、世界の資源の乏しさが記されています。そこで砂漠の旅人が水の乏しさに幻覚を見てしまうように、富が幸せに至ると錯覚してしまうのです。その錯覚を利用して、詐欺師が横行します。

★第二の錯覚は「自分が死ぬべき存在である」ということを見ないようにして生きる人生の錯覚です。自分が死ぬべき存在であることは誰もが知っていますが、それを見ないようにして生きているのです。それは特に日本人に多い特色です。それは日本人が死を「穢れ」と見ているからです。死の話などすると「縁起でもない」と叱られてしまうようなことが起きるのは、そのような日本の文化的な要素があるのです。しかし自分が死ぬべき存在であるということを悟って初めて、それではどう生きるかということを考えることが出来るのです。

★第三の錯覚は「聖書の真理などを知らなくても私は幸せになれる」(20節)という錯覚です。聖書の真理によって見えてくる人間の本当の姿を「そのとおりです」という確信がなければ、「富が幸せの全て」と思い込み「自分が死ぬ存在である」ことからも目を背けて生きる人生になってしまうのです。死から目をそむければ、当然死後のことも考えなくなります。それが「悟りがなければ」という意味なのです。

★もちろん神様は、私達人間が全て貧しくあるべきで豊かになることは罪であると言っておられるのではありません。「人はその栄華の中にあっても滅びうる獣に等しい」(20節)と言っておられるのです。貧しくあっても豊かであっても、悟りがなければまさに獣に等しいのです。詩篇49篇は全人類に向けて「悟りを得よ。悟りがなければすべてが虚しい」と叫び、宣言し、宣告しているのです。私達は聖書の言葉によって、ますます真理を悟っていく者になりましょう。真理の神様への信仰を強くしましょう。

3月5日礼拝「宮の中で神の恵みを思う」

詩篇NO48「宮の中で神の恵みを思う」48篇9~14節       

仁井田義政 牧師                              

 今日の詩篇は、神の家であるエルサレムの神殿賛歌です。今日は、メッセージ題となった「神よ。私たちは、あなたの宮の中で、あなたの恵みを思い巡らしました」という御言を中心に、お話ししたいと思います。

★「シオン」と言う名は、ダビデが「エルサレム」と呼び名を変更する以前の地名です。シオンは清いという意味で、エルサレムは平和という意味だと考えられています。その神の都に、他国の王達が攻めてきても、恐怖のあまり逃げ去ったと記しました。タルシシュはスペインのことで、スペインが攻めて来た時には、嵐でその船団が海に沈んでしまったと記しています。

★12~14節には、シオンを巡り歩きそのやぐらを数えよと言っています。エルサレムに行ってみると、その大きさよりもその小さなことに驚きます。エルサレムは、周囲がわずか5キロしかありません。「シオンを巡り歩け。そのやぐらを数えよ」と命じられています。それは、神様の守りを語り継ぐためにです。今の壁は、オスマントルコ、つまりイスラム教徒が作りました。かろうじて神殿の壁として残っているのが、現在の「嘆きの壁」と言われている所なのです。教会の始まりは、エルサレム教会から始まりました。

★イエス様の弟子達が、神殿の素晴らしさをほめたたえた時、イエス様はエルサレムの崩壊を預言しました。(マルコ13:1~2) その預言のように、今エルサレムに神殿はありません。しかしイエス様によって、新しい神殿がたてられました。それが教会です。イエス様は「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまでわたしの証人となるであろう」(使徒1:8)と言われました。

★現代のエルサレム神殿は、キリスト教会です。聖書の神を信じる人は、教会において神様の「恵みを思い巡らすべき」です。私達人間は、お金に思いを巡らし、健康に思いを巡らし、不安に満ちてしまうのです。そうではなく「神様の宮」である教会で、神様の恵みに思いを巡らし、恵みでいっぱいに満たされることが大切なのです。

私達も、教会で神様の恵みを深く思いめぐらすことを大切にするクリスチャンになりましょう。

2月26日礼拝「神にほめうたを歌え」

詩篇NO47神にほめうたを歌え」47篇1~10節       

仁井田義政 牧師                              

 今日の御言には「神にほめ歌を歌え」と何度も繰り返されています。キリスト教会と賛美歌は、切り離せないものです。今日は、神様をほめたたえる素晴らしさをお話しいたしましょう。

★大々的に主を賛美する姿は、紅海の奇跡の直後(出エジプト15章1~21節)に出てきます。賛美歌を一般大衆と結びつけたのは、ダビデ王でした。そして詩篇は、旧約時代の礼拝賛美集なのです。新約時代も賛美は一般の人々のものでした。イエス様と弟子達は、最後の晩餐の後に賛美をしました。またパウロとシラスがピリピの牢獄(使徒16章24~25節)で賛美した時に、奇跡が起こったことが記されています。コロサイ3章16節、エペソ5章18~19節には、「詩と賛美と霊の歌」による賛美が推奨されています。

★しかし先週も話しましたが、教会の賛美はローマ皇帝の迫害によって禁止されてしまいました。約300年間です。ローマが313年にキリスト教を公認すると、今度は367年のラオデキヤの教会会議で、一般大衆が賛美することが禁じられてしまいました。教会の礼拝で賛美できるのは、聖職者と音楽の専門家だけと決められてしまったのです。聖書も賛美も教会で聞くだけになってしまいました。しかも賛美はラテン語(ローマ語)だったのです。人々は教会で賛美歌を聞いても、歌詞の意味も分からない状態でした。

★そのような賛美の暗黒時代は、1517年のルターによる宗教改革まで続きました。実に約1200年間も、教会に会衆賛美はなかったのです。それに異議を唱えて宗教改革者のルターは、自ら賛美歌を作り自国語で歌うことを推奨しました。ルターの約200年後に、現代音楽の父と言われるセバスチャン・バッハがプロテスタントから出ました。その後、イギリスで多くの賛美歌が作られました。その後アメリカで黒人霊歌、ゴスペルが生まれました。今では、誰でも賛美歌を作り、歌うことの出来る時代になったのです。

★今日の詩篇47篇6~7節には「ほめ歌を歌え」が5回も繰り返し奨められています。私達は、コロナ禍で礼拝賛美の面でもだいぶ圧迫された数年を過ごしました。コロナも世界的に収束に向かっているようです。私達も「手を叩き喜びの声を上げて神に向かって叫ぶ」賛美の回復を目指しましょう。

2月19日礼拝「主は苦しむ時の助け」

詩篇NO46主は苦しむ時の助け46篇1~11節       

仁井田義政 牧師                              

 この46篇は、宗教改革者として有名なマルチン・ルターがこよなく愛した詩篇です。彼はこの詩篇をもとに聖歌233番「御神は城なり」を作曲しました。この歌を作曲した時は宗教改革の激務の中にあり、痛風、不眠症、痔、便秘、結石、激しい耳鳴り等の病気に苦しんでいました。ルターは多くの苦しみの中で、この曲を生涯の愛唱歌としていたと言われています。この詩の表題には「アラモナに合わせて」という言葉があります。それは高い声でと大きな声でという意味があるそうです。

★1~3節は、天変地変のことです。最近もトルコやシリアに地震が起きました。死者数は3万人を超えています。東日本大震災の死者数と行方不明者を合わせると、20,960人ですから、既にその数を超えています。

★4~7節には、人災の戦争のことが記されています。6節の「国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ」とはそのことです。現代も、独裁主義の国家と民主主義の国家が多数衝突しています。民主主義国家も、指導者が憲法をいじり始めると独裁国家となっていくこと多いのです。

★人間が戦争を止める日は、いつ来るのでしょうか。9節の「弓をへしおり、槍を断ち切り、戦車は火で焼かれ、地の果てまでも戦争をやめさせる」日は、いつ来るのでしょうか。残念なことに、それはキリストの再臨の時まで続くでしょう。それまで人間の愚かさが、戦争を起こし軍備に次ぐ軍備を続けるのです。日本も決して例外ではありません。聖書によると、キリストの再臨の日まで戦争はなくなりません。

★人間の愚かさが最高点に達した時、キリストは人間を裁くために再臨されます。その時イエス様は、神様を信じる者達を救ってくださいます。4~5節の「川の流れがある神の都」で表わされています。この神の都は、礼拝所のあるエルサレムでした。しかしエルサレムは、神の御子イエス様を信じることなく、十字架に付けて殺してしまったのです。ルカ19章41~44節を見て下さい。オリーブ山からエルサレムの町が見えた時、号泣されたことが記されています。現代のエルサレムは、神様を礼拝する教会と考えられます。ですから10~11節にあるように、「私こそ神であることを知れ。万軍の主はわれらと共におられる」という確信に満ちることが出来るのです。礼拝者にとって、神様は「私達が苦しむ時にそこにある助け」なのです。