第一コリントNO25「幾人かでも救うために」9章19~23節 仁井田義政牧師
先週お話しました聖書の箇所には「私はお金のために伝道をしているのではなく、この退廃してしまっているコリントの町の人々がキリストの福音を知り、救われることを願って伝道したのである。」という意味のパウロの言葉がありました。パウロにとって福音を伝えることが全てのことに勝ったのです。
★パウロはローマの市民権をもつ自由人でしたが、今日の聖書の箇所では「私は全ての人の奴隷となりました。多くの人を救うためです。」と記しました。パウロのクリスチャン人生は伝道に全てを捧げたのです。そのためにパウロは「私はユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように、弱い人には弱い人のようになりました」と記しました。八方美人のように、相手によって付き合い方を変えたのです。
★上記のパウロの行動は、一貫性が無いように見えます。あっちに行って良いことを言い、こっちの人に合わせてまたその人に良いことを言う。ユダヤ人が「ブタ肉を食べたらいけない」と言うとその通り。異邦人が偶像の肉を食べても問題ないと言うとその通りと。同じ異邦人でも躓きやすい弱い人が「偶像の肉を食べてはいけませんよね」と言うとその通り。一貫性が無く八方美人のコウモリ男と批判されても仕方がないように見えます。パウロは一貫性のない人だったのでしょうか。そうではなく、全てを許容したのです。
★それではパウロの一貫性は何処にあるのでしょうか。それは「より多くの人々を獲得するため」(19節)という所にあるのです。そこにパウロの偉大さがあります。パウロは私利私欲のために生きたのではなく、福音のために生きたのです。福音とは何でしょうか。それは父なる神様が、一人でも多くの人々を罪から救おうとして、独り子イエス様を人類の身代わりに十字架に着けた事実です。パウロはその一点に目を止めて、その一点を自分の宣教によって実現しようと神の僕になったのです。僕になったからには給料が出ようが出まいが、当時の奴隷がそうであったように働いたのです。
★目的は「より多くの人を獲得するため」でした。しかし、それを実現するためには「何とかして幾人かでも救うため」という伝道に徹したのです。私達もパウロの伝道生涯に習おうではありませんか。