第一コリントNO24 「人間の考えか、聖書の考えか」9章1~18節 仁井田義政牧師
9章に入ると、パウロは8章の偶像問題から突然、使徒と使徒の権利について記し始めます。一見脈絡のない挿入文のように見えますが、実はそうではなく8章13節の「ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。」と言う言葉に繋がっています。パウロは人々の救いのために、自分にある自由と権利を制限しました。それが使徒としての偉大さでした。
★コリント教会には、「パウロには使徒権が無いのではないか」との疑いを持つ人がいたようです。使徒の資格は、ペテロのように直接イエス様に会った人に認められていましたが、パウロは地上のイエス様に会ってはいませんでした。そのために疑いが起こったのです。しかしパウロは「私は復活の主に会って、復活の主から宣教命令を与えられた」と使徒権を主張しました。そして、コリントに一年半以上滞在し、多くの信徒達を起こしたことが、使徒であることの「証印」であると主張しています。(2節)
★パウロに起ったもう一面からの使徒権の疑義がありました。それは、パウロが意識的にコリント教会から活動費を貰わなかったことから起こりました。「パウロは使徒ではないから貰わないのではないか」との疑義でした。パウロは「神の福音を伝えるために働く者は、生活のための他の仕事を止めて、教会からの支給を受ける権利があります」と主張しました。使徒ペテロは、伝道の為の費用を受けていました。しかしパウロとバルナバは、受けていなかったのです。その為ある人々は「使徒ではないから受ける権利が無いのでは」と考えたのです。パウロは「私にも受ける権利はあります」と聖書の例を上げて主張しました。パウロは自分の考えではなく、聖書の考えを示しました。
★しかし聖書に記されている正統な理由があっても「あえて私はその正統な権利を用いなかった」とパウロは説明しました。なぜ受けなかったのでしょう。コリント教会の「信仰」が未熟であったからかもしれません。お金のために伝道していると言う誤解を嫌ったのでしよう。求めても当然な権利をコリント教会には行使しなかったと言っているのです。溝の口教会は、聖書に基づいた成熟した教会になりましょう。それが、牧師を招く教会の失ってはならない聖書的モラルなのです。