礼拝マタイNO85「曲がった時代に真っすぐな信仰」マタイ17章14節~21節 仁井田義政 牧師
今日の御言には、私達のねじれた信仰のよりを戻して、真っすぐに神様に向かわせる力があります。
★イエス様は、三人の弟子のペテロ・ヨハネ・ヤコブを連れて山に登りました。九人の弟子が山の下に残されました。イエス様と一緒に山に登ることを許されなかった九人の弟子達は、信仰の差別・区別をされたと思ったことでしょう。その九人の弟子達に、病いの子を持つ父親が祈りを求めて来ました。
★父親も、イエス様と偉い三人の弟子達がいないと聞いて、がっかりしたのではないでしょうか。それでも仕方なく九人の弟子達に祈ってもらいました。しかし癒されませんでした。そのような時にイエス様が山から降りて来られ「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ」と、世の中全体が曲がっており、弟子達もそれに影響されていると言われたのです。そして「いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか、いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」と言われました。それはイエス様が見えても見えなくても、偉大な弟子がいてもいなくても、真っすぐな祈りは聞かれるからです。
★「曲がった不信仰な世」の特徴は、有名なあの癒しの賜物のある先生に祈ってもらえればなどと、人間に期待するところにあります。「癒しの賜物」については聖書に記されていますので、信じこそすれ否定するものではありません。しかし「あの人に祈ってもらわなければ神の御業が現れない」と考えるのは信仰が曲がった時代の、薄い信仰なのです。イエス様が見えないことや、父親が「残された弟子達しかいない」から祈りが聞かれないと、人のせいにしている間は、イエス様の祝福は現わされないのです。
★イエス様にそのことを指摘されて、父親は「主よ、あわれみ給え」と言いました。これはギリシャ語で「キリエ・エレイソン」です。その信仰の祈りの他にこの人は何をしたというのでしょうか。イエス様は私達に「辛子種のような小さな信仰でも、山をも動かすことができる」と言われました。私達は小さくても、イエス様は偉大です。そのイエス様に、まっすぐな信仰を持ちましょう。それが生きた信仰なのです。